今週の読書はマクロ経済統計に関する経済書をはじめとして計6冊
今週の読書感想文は、マクロ経済統計に関する経済書をはじめとして計6冊、以下の通りです。
まず、佐々木浩二『マクロ経済学の統計[第2版]』(三恵社)は、SNA統計に大きな中心を置いて4部構成となっており、フロー統計、ストック統計、制度部門別統計、政策評価のための統計それぞれの解説を試みています。稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル新論』(東京大学出版会)では、「日本社会の『理不尽』を分析する」ため、人脈に近い概念であるソーシャル・キャピタルに関して、著者なりの従来にない議論を展開しようと試みています。ナン・リン/カレン・クック/ロナルド S. バート[編]『ネットワークとしてのソーシャル・キャピタル』(ミネルヴァ書房)では、ソーシャル・キャピタルのひとつの側面として、バイラテラルな2人間の人間関係だけではなく、マルチラテラルなネットワークとして、信頼や規範に基づく人間関係を考えています。カート・ワグナー『TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日』(翔泳社)は、タイトル通り、Twitterが現CEOのイーロン・マスクに買収されてXとなるまでのドキュメンタリー、あるいは、迷走の過程のリポートです。翁邦雄『金利を考える』(ちくま新書)では、金利の理論的な側面を深く掘り下げる、というよりは、新書というメディアの特徴も活かしつつ、金利の決まり方は金利が経済活動ほかに及ぼす影響力を考え、家計の身近なところで消費者金融や住宅ローンの金利について議論しています。最後に、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書)は、NHK大河ドラマで話題の蔦屋重三郎とその時代背景を形成した幕府老中の田沼意次についての歴史書です。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに10冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて16冊となります。本日のブログのブックレビューについては、可能な範囲で、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、綾辻行人『殺人方程式』(講談社文庫)と櫻田智也『サーチライトと誘蛾灯』(東京創元社)も今週読んでいて、新刊書ではないので本日のブックレビューには含めていませんが、FacebookやmixiなどのSNSでレビューを明らかにしたいと予定しています。
まず、佐々木浩二『マクロ経済学の統計[第2版]』(三恵社)を読みました。著者は、専修大学経営学部教授です。本書は、タイトルこそ「マクロ統計」と銘打っているのですが、ほぼほぼSNA統計=GDP統計限定です。ですから、他のマクロ経済学の統計である失業率などの雇用とか、インフレを計測する物価指数とか、鉱工業生産とか、輸出入の貿易とかは、最後の第Ⅳ部でGDPと関連付けてまとめて言及されています。繰り返しになりますが、本書はSNA統計に大きな中心を置いて4部構成となっており、フロー統計、ストック統計、制度部門別統計、政策評価のための統計それぞれの解説を試みています。第Ⅰ部フロー統計としては、SNA統計はいわゆる加工統計であり、調査票や政府の業務資料などに基づく1次統計ではありませんから、その点をていねいに解説しています。利用している統計が多数多岐に渡る点も特徴です。そして、フロートしての日本のGDPが1990年代後半からほとんど成長していない点もp.9図表1-9などから明らかにされています。もちろん、国際比較の観点から国連などによるSNA統計マニュアルに基づいて作成されているという事実や、よく知られた支出・生産・分配(所得)のGDPの三面等価に加えて、三面不等価、はたまた、統計的不突合まで幅広い解説をしています。私が役所を定年退職するころに進められていた使用供給表(SUT)の利用についても、その裏側の事情まで明らかにしています。第Ⅱ部ストック統計としては、国富と災害による損失の関係が明確にされています。国富とは、一部の金融資産と生産資産と非生産資産の合計であり、逆からいって、国民資産と負債の差額です。極めて単純化して海外との取引を無視した民間経済を仮定すれば、金融資産は同額の金融負債が発生しているはずですから、単純なモデルの世界では生産資産と非生産資産の合計である実物資産と考えられます。ただし、流通段階を含めた在庫は別です。また、民間経済だけのモデルから拡張して、政府部門、さらに海外部門を考えることになれば、国債や現金通貨、対外純資産なども考慮する必要があります。そのように拡張したモデルに基づき第Ⅲ部で制度部門を考えていて、家計、非金融法人企業、金融法人企業、一般政府、海外などの経済主体が、経常勘定と資本勘定と金融勘定をやり取りしていることになります。企業に法人を付したのは、個人企業がしばしば家計と同じグループにされることがあるからです。それから、SNA統計だけではなく、経済学では政府とは中央政府だけではなく、中央政府に地方政府と社会保障基金をグループにした概念を使います。最後の第Ⅳ部では、政策評価のため、SNA統計だけではなく、GDPと関連付けて物価、雇用・賃金などが取り上げられています。最後のコメントながら、私が勤務していた経済企画庁とその中央省庁再編後の内閣府では、このSNA統計を作成・発表していました。ですので、SNA統計だけではなく、その元となる1次統計の実務に詳しいエコノミストがいっぱいいて、その能力を持って研究機関や大学に再就職している人も少なくありません。私はそういった方面の能力がサッパリありませんので、こういった参考文献を手元において、今回こそ通読しましたが、コンパクトなボリュームでもあり、辞書的な使い方をするのが有益ではないかという気がしています。
次に、稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル新論』(東京大学出版会)を読みました。著者は、日本大学法学部政治経済学科教授を2020年に退職し、現在は日本大学の非常勤講師であり、日本社会関係学会の初代会長も務めています。ですので、出版社から考えても、本書は純粋に学術書と見なすべきです。本書のタイトルとなっている、ソーシャル・キャピタル=社会資本とは信頼や規範に基づく人的関係を指しており、あくまで学術用語と考えるべきながら、専門外の私は日本語であれば「人脈」という一般用語が近いんではないかと考えています。本書は、サブタイトルである「日本社会の『理不尽』を分析する」ため、人脈に近い概念であるソーシャル・キャピタルに関して、著者なりの従来にない議論を展開しようと試みています。ソーシャル・キャピタルに関しては、私はエコノミストですので詳しくもないながら、ハビトゥス理論のブルデューとか、『孤独なボウリング』のパットナムとか、本書にはそれほど登場しないグラノベッターなんかの名前を思い出します。というが付されています。1990年代初頭のバブル経済の崩壊から始まって、1990年代後半にはデフレに突入し、「失われた30年」とも称される長期の経済停滞の中で、企業不祥事や政治の腐敗といったレベルの社会的問題だけでなく、自己責任論が蔓延して日本社会全体の分断が強まっています。通常、ソーシャル・キャピタルは正の外部経済効果、すなわち、社会全体にプラスのよき効果をもたらすと考えられていますが、現在の日本では逆に負の外部効果を持って「理不尽」をもたらしているのが、著者の考えであるわけです。本書では「ダークサイド」と呼んでいます。私はエコノミストですので、取りあえずは、経済活動が上向けば下部構造から上部構造の社会問題の解決にもつながる、という点は理解しつつも、下部構造の経済からは独立した社会問題を社会関係資本=ソーシャル・キャピタルの観点から考えるべく、専門外で十分な理解が進んだとはいえませんが、一応、学術書として読んでみた次第です。まず、経済学の観点から、本書でも言及されているように、世銀リポート Social Capital: A Multifaceted Perspective の冒頭の Introduction において、いずれもノーベル賞経済学者であるアロー教授とソロー教授から、生産活動への寄与の観点からソーシャル・キャピタルは経済学的な「資本」と考えるべきではない、という趣旨の批判があります。批判の一部は定義のあいまいさや計測にも向けられています。したがって、本書では冒頭の1-3章くらいまで、いわゆるコールマンのボート(ダイアグラム)をp.31図2-2で示した上で、ミクロとマクロの間の関連や相互の因果関係などの議論を展開しています。すなわち、p.56表3-1において、ミクロとマクロの間のインタラクティブな関係に基づくコールマンの定義、マクロ中心のパットナムの定義、、ミクロからマクロにも拡張可能なオストロムの定義に加えて、ややオストロムに近いながらも本書の定義を示しています。そして、もうひとつの批判に関しては、少なくとも日本では滋賀大学と内閣府の共同研究の成果報告書「ソーシャル・キャピタルの豊かさを生かした地域活性化」において、いくつかの要素が示されています。でも、もっ最近の研究ではSNSなどのビッグデータからの計測を試みている例もあると本書では言及されています。最後に、本書冒頭のp.2からサブタイトル「違和感」の例がいくつか上げられており、私が興味を持ったものとして「なぜ賃金が目減りするのに経営者報酬だけ上がるのか」、「なぜ日本の経営者は内部留保を積み上げるのか」、「なぜ忖度した官僚は記憶を失うのか」といったものがあります。ソーシャル・キャピタルの観点だけで解明できる「なぜ」ではありませんが、日本の経済社会をよりよくする上で必要な問いかけであろうと私は受け止めています。
次に、ナン・リン/カレン・クック/ロナルド S. バート[編]『ネットワークとしてのソーシャル・キャピタル』(ミネルヴァ書房)を読みました。編者は、順に、米国デューク大学トリニティ・カレッジ名誉教授、同じく米国スタンフォード大学教授、やっぱり米国シカゴ大学教授です。出版社からしても、明らかな学術書であり、専門外の私にはややハードルが高かった気がします。ということで、本書では、ソーシャル・キャピタルのひとつの側面として、バイラテラルな2人間の人間関係だけではなく、マルチラテラルなネットワークとして、信頼や規範に基づく人間関係を考えています。すなわち、マクロのソーシャル・キャピタルを主として考えているパットナム教授の Making Democracy Work では社会的信頼と互酬性の規範とネットワークの3つのコンポーネントを上げて社会的な効率性を高める人間関係や組織の特徴としています。繰り返しになりますが、本書ではタイトルから明らかなように、ネットワークとしてのソーシャル・キャピタルの分析を試みています。ソーシャル・キャピタル=社会資本とは信頼や規範に基づく人的関係を指しており、あくまで学術用語と考えるべきながら、平たくいえば「人脈」という一般用語が近いんではないかと考えています。そのうえで、ネットワークですから、単なる2人間のバイラテラルな直線的な人間関係だけではなく、マルチラテラルに人脈が平面的に、あるいは、立体的に広がっていくというイメージでよいかと思います。本書は3部構成であり、第Ⅰ部ではソーシャル・キャピタルの理論構築、構造的な空隙、地位想起法などの理論的な側面を明らかにした後、第Ⅱ部では労働市場におけるソーシャル・キャピタルを対象に分析を進めています。そして、第Ⅲ部では、組織やコミュニティにとどまらない制度的環境も含めたソーシャル・キャピタルまで拡張しています。ということで、私は主として第Ⅱ部の労働市場におけるソーシャル・キャピタルに注目しました。通常は労働市場では外部労働市場からの参入、すなわち、雇用される際の採用と雇用された直後の配属などに人的関係としてのソーシャル・キャピタルが作用すると考えられます。もちろん、いわゆる人事異動や配置転換といった内部労働市場においてもソーシャル・キャピタルは重要な役割を果たしますが、本書では採用と配置の段階を主として分析対象としています。日本では就職の際に「コネ」と呼ばれている人間関係です。例えば、家族内のメンバーとして親子や兄弟姉妹で同じ会社に勤める場合があるわけですし、ほかにも当然に、何らかのグループ属性を持ち、そういったソーシャル・キャピタルを活用できる人材、特定の資格を持ったメンバーを有するソーシャル・キャピタル、あるいは、シグナリング機能も果たす出身校の人的つながりのあるソーシャル・キャピタルなども労働市場で活用の可能性が十分あります。もちろん、本書ではそれほど重視していませんが、マイナスのソーシャル・キャピタルもある可能性が示唆されています。本書では、数量的なデータも含めて、コールセンターの対応職員、さらに、警備員についての紹介プログラムなどを分析しています。もちろん、日本的にいっても「コネ」による就職がやや否定的な印象を持っているように、逆に、公平性への圧力という点も重視される、という分析結果も示されています。すなわち、ネットワークとしてのソーシャル・キャピタルの場合、専門外ながら、私は弊害も指摘しておく必要があると考えます。例えば、典型的にはクラブ財の場合で、クラブのメンバーになっていない人が負の影響を受けることは明らかですし、クラブのメンバーは正の効用を得ますが、社会全体としてのソーシャル・キャピタルの符号は確定しません。第Ⅳ部では、日本でも「いっしょにメシを食う」とか、「同じ釜のメシを食う」といった表現があるように、会食=social eating、あるいは、宴会=banquetsなどといった食事に現れるソーシャル・キャピタル、それをかなり制度的に確立した中国の「関係」(guanxi)、また、セーフティネットとしても活用できるソーシャル・キャピタルの分析に興味を持ちました。本書では明示的に取り上げてはいませんが、災害発生時のソーシャル・キャピタル活用などについても可能性が広がる気がしました。
次に、カート・ワグナー『TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日』(翔泳社)を読みました。著者は、ビジネスおよびテクノロジー・ジャーナリストです。英語の原題は Battle for the Bird であり、2024年の出版です。本書は、タイトル通り、Twitterが現CEOのイーロン・マスクに買収されてXとなるまでのドキュメンタリー、あるいは、迷走の過程のリポートです。現CEOであるイーロン・マスクと比較対照されるのが表紙画像にもあるTwitter創業者の1人ジャック・ドーシーです。しかし、いずれにせよ、読後の感想としてはTwitterからXになったとしても、この運営体企業の迷走劇が中心となっている、というふうに私は読みました。すでに、トランプ大統領が米国の政権に返り咲いた現時点で、メディアとしてのTwitterないしXについては、ほかの米国テック企業、すなわち、GAFAMと一括して称されるGoogle、Apple、Facebook=META、Amazon、Microsoftの各社が、いっせいに政権への忠誠姿勢を示す前から、イーロン・マスクが経営権を握ったことに象徴されるように、トランプ政権成立とは独立に同じ動きが進められていたことは明らかです。というか、トランプ政権成立を一定の影響力で後押ししたとすらいえると考えるべきです。繰り返しになりますが、TwitterからXについてはの企業としての迷走が取り上げられています。登録者数はFacebookに大きく水を開けられ、GAFAMと並ぶようなビックテック企業にはなれず、メディアとして批判や場合によっては脅迫にすらさらされるという実態を明らかにしています。そのあたりが、延々と本書で記録として残されている、と覚悟して読んだ方がいいです。加えて、英語の原文のせいか、邦訳のせいなのか、はたまた、フォントが小さいせいなのか、ビッチリと各ページに字が埋まっていて文章が読み進みにくく、しかも400ページを超える本全体としてボリュームがありますので、読み通すのはかなり骨だと思います。最後に、TwitterやXをはじめとして、私の直観的なSNSメディアの感想を書き残しておくと、YouTubeがインフルエンサーから購読者へのややユニラテラルなメディアであるのに対して、FacebookとTwitter=XとInstagramは仲間内でのバイラテラルな情報の交換、ただし、Instagramがビジュアル中心に対して、文字情報中心のうち長文はFacebopokで、短文がTwitter=X、そして、私は馴染がなく詳しくないのですが、TikTokはインフルエンサーになりたい個人の情報発信の場、という極めて大雑把なカテゴライズをしています。まあ、私の独断と偏見でのカテゴライズですし、異見はありえます。ただし、こういったSNSが民主主義を歪めかねないリスクも認識されるべきです。特に、米国のトランプ政権成立とともにむき出しの自由、特にむき出しの表現の自由の方向に進みだしたおそれがあります。もっと行き着くところに行けば、表現だけでなく、上位者が下位者を奴隷のように使ったり、誹謗中傷したり、ひどい場合には事実上殺したり、そういった自由、特に表現の自由の時代が始まりかねない危うさを私は感じます。すでに、フェイク・ニュースや事実に基づかない誤った情報をSNSで流す「自由」が認められようとしています。そういった誤った情報を流す行為は、上位者や権力者に都合よければ何ら責任を問われることがない一方で、下位者や権力の地位にない者や団体に対しては認められない「自由」です。兵庫県やフジテレビで観察される事態がそういった将来の危うさを強く連想させると考えるのは私だけでしょうか?
次に、翁邦雄『金利を考える』(ちくま新書)を読みました。著者は、日銀エコノミストから現在は京都大学公共政策大学院名誉フェローを務めています。本書では、金利の理論的な側面を深く掘り下げる、というよりは、新書というメディアの特徴も活かしつつ、金利の決まり方は金利が経済活動ほかに及ぼす影響力を考え、家計の身近なところで消費者金融や住宅ローンの金利について議論しています。金利の決まり方に関する理論はいくつかあるのですが、極めてシンプルに、私も本書第2章で展開している借金のレンタル料、というのが判りやすいと考えています。実は、授業でも単純にそう教えています。すなわち、レンタカーとか貸衣装を借りると料金を支払う必要があるわけで、100万円を1年借りると、例えば、2万円のレンタル料が必要ということになれば、金利が2%と計算される、と教えるわけです。これが、中央銀行が操作する極超短期の金利、日本でいえば、銀行間で取引される無担保のオーバーナイトコールレートからタームと呼ばれる期間構造に従って、もちろん、借りる主体のリスクに従って、さまざまな金利が形成されることになります。そして、目下のところ、日本においては金利は為替を目標に操作されているように私には見えるのですが、第5章では金利が為替相場におよぼす影響を議論しています。私が授業で教えているような通常の判りやすいモデルでは、短期には金利の影響力が大きく、すなわち、高金利通貨が増価し、低金利通貨が減価する一方で、長期には購買力平価仮説が成り立ち、高インフレ国の通貨が減価し、低インフレ国の通貨が増価する、と考えられています。対米ドルの円通貨の為替相場で見ると、目先は日本は低金利であり円安が進んでいますが、長期的に最近20-30年を見れば低インフレ国日本の通貨である円は増価している、ということになります。興味深かったのは、第3章の消費者金融の金利です。ほぼほぼ、多くの消費者金融の金利が法令の上限である18%に張り付いているのですが、本書ではその点は無視しています。逆に、現行のデフォルトである18%の金利を払える消費者であれば、流動性制約緩和策である、という立場のように見えます。その昔の「サラ金」と呼ばれていた時代のムチャクチャな高金利への言及はありません。私は国際派のエコノミストでしたので海外勤務の経験もあり、その昔の「サラ金」からふんだんに研究費を受けて学生を海外旅行に連れて来ていた大学のセンセイについてのお話も聞き及んでおり、まあ、そういったセンセイが流動性制約の解消策としての「サラ金」の役割を高く評価し、高金利容認説を持ち上げていたんだろうと想像しています。住宅ローンについては、私は住居向けに3回に渡って不動産を取得し、うち2回ほど住宅ローンを組んだ経験がありますが、かつては固定金利がそれなりのシェアあったことは知りませんでした。勉強になりました。
次に、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書)を読みました。著者は、歴史家だそうです。本書は、軽く想像される通り、NHK大河ドラマで話題の蔦屋重三郎とその時代背景を形成した幕府老中の田沼意次についての教養書です。昨年の今ごろは紫式部に関する新書を何冊か読んでいたような気がします。大河ドラマはほとんど見ないので、こういった読書で世間について行こうと努力しているわけです。ということで、蔦屋重三郎が活躍した時代背景は、厳しい財政引締めや綱紀粛正などを行った享保の改革と寛政の改革の間に挟まれた田沼時代に当たり、割合と自由闊達な雰囲気で経済は発展し、華やかで享楽的な文化が花開きます。そして、蔦屋重三郎のホームグラウンドとでもいうべき吉原がそういった文化や流行の発信地となるわけです。出版としては、遊女の評判を集めた『一目千本』や『吉原細見』が典型的なものと考えられます。これらは、当然ながら、吉原の宣伝活動ともなりますので、出版と遊郭はいわゆるwin-winの関係となります。それらのほかに、吉原独自の行事である夏の玉菊灯籠、秋の俄などの情報発信の出版もありました。もちろん、吉原以外にも浄瑠璃のお稽古テキストとか、寺子屋の教科書である往来物などを手がけたということです。本書では、こういった出版は、その後の蔦屋重三郎の印象からは少し異なり、手堅く安定的な収益の見込めるローリスクな活動であったと評価しています。というのも、蔦屋重三郎が養子に入った家のいわゆる家業は吉原の茶屋であり、出版事業はそもそも新規開拓の事業展開であったので、ハイリスクな方向性は目指さなかった、と解説しています。そして、今に残る出版関係では、草双紙の一種である黄表紙にも手を伸ばします。要するに現代的にいえば小説なわけです。さらに、浮世絵にも進出し、東洲斎写楽と喜多川歌麿を世に出しています。こういった蔦屋重三郎の出版活動とも相まって、吉原は女郎屋が軒を並べる単なる遊興の場から、文化や流行の発信地という意味で、いわば文化サロン的な地位を獲得していくわけです。そして、それを支えた時代背景、特に、エコノミストの私から見れば経済活動が気にかかるところですが、老中田沼意次は典型的なリフレ政策を果敢に実行したわけです。現在ではリフレ政策とは、物価が下落するデフレに対してマイルドなインフレを目指す政策なのですが、物価上昇という意味でのインフレは、逆から見れば貨幣価値の低下に相当します。徳川期は貨幣価値を低下させるのはそれほど難しいことではなく、小判の金の含有量を落とせばいいわけです。ただ、本書ではそういった貨幣改鋳については深入りしておらず、コメの年貢への偏りから商業活動に着目して、株仲間結成を促進した上で冥加金を取り立てる、などの農業から商業を重視する政策変更に着目しています。そういったマブ仲間などの利権政治でしたので、賄賂にまみれて凋落していき、さらには、米価高騰から米騒動も頻発し、田沼政治が終了して寛政の改革につながるわけです。蔦屋重三郎だけではなく政治経済的なバックグラウンドの動向もよく考えられた解説書でした。
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