今週の読書は経済書からミステリまで計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、宮川努『社会的共通資本の経済学』(東京大学出版会)では、宇沢弘文教授が提唱した社会的共通資本の議論を基礎に議論を展開させて、後半第6章では格差を取り上げ、ナイーブな逆U字仮説を批判し、やや物足りないながら、最低賃金制やベーシックインカムなどに関して議論しています。中林真幸『経済史で学ぶ社会・経済のしくみ』(日本評論社)は、タイトル通りに、経済史から現在の経済社会について学ぶ、という目的らしいのですが、それほどバランスのいい記述になっているとは言い難く、初学者にオススメするのは少し厳しいかも、と感じました。丹羽宇一郎『Z世代は戦後初めて銃をとる世代になるかもしれない』(東洋経済)では、戦争に進む原因のひとつとして、テゥキュディデスの罠を上げ、同時に、簡単に国民意志は戦争に向かってしまう恐ろしさも指摘しつつ、メディアが政府や権力者のプロパガンダ機関と化している現実を憂慮しています。大山悠輔『常に前へ』(ベースボール・マガジン社)では、阪神タイガースのクリンナップの一角を担うスラッガーである著者が、アマチュア時代の大学まで、さらに、阪神タイガースにドラフト1位で指名されて入団し、現在までの野球歴を語るとともに、野球や人生に対しての考えを綴っています。市塔承『女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処』(講談社)は、メフィスト賞受賞作品であり、非常に複雑なメタ構造を取り、いくつもの作中作品を作中の登場人物が読む、という構成の長い序の後、化学を専攻する大学院生の主人公エリメが意識と記憶を失って郷里で療養を必要とした原因を明らかにします。フリーダ・マクファデン『ハウスメイド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)では、前科持ちのハウスメイドであるミリーが雇われたウィンチェスター家は、ハンサムで完璧な亭主と奇妙な言動・行動の女主人とわがまま放題の娘の家族で、一家の裏側にある真実を感じ取っているエンツォから忠告を受けます。
今年2026年の新刊書読書は、1~5月に合わせて126冊、6月に入ってから今週の6冊を加えて合計132冊となります。たぶん、今年2026年も250冊から300冊くらいレビューするのではないかと思います。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。
まず、宮川努『社会的共通資本の経済学』(東京大学出版会)を読みました。著者は、学習院大学経済学部教授です。本書は、タイトルから容易に想像されるように、宇沢弘文教授が提唱した社会的共通資本について論じています。2部構成であり、前半で社会的共通資本の基本的構成、広範で社会的共通資本の展開を考えています。前半ではまず、ヴェブレンから説き起こしています。その上で、宇沢教授の示した社会的共通資本の構成として、自然資本、社会インフラ、制度資本を上げ(p.2)、サステイナビリティや気候変動問題にも着目しつつ、さらに、社会インフラについても、いわゆるハコモノではなく無形のインフラを考えています。ひとつの例として、全国総合開発計画(全総)が資源再配分機能を持った可能性が示唆されています。私が役所で公務員をしていたころに "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" という論文を役所の同僚とともに取りまとめましたが、高度成長期には経済企画庁の長期経済計画についても同様の役割が期待されていたような気がします。後半の社会的共通資本の展開では、まず、人的資本がどうして宇沢教授のスコープに入っていないかについて議論し、シカゴ大学のベッカー教授のような人的資本に関する議論を嫌ったためではないか、と示唆しています。私もその昔に長崎大学に在籍していたころ、「九州7県における人的資本の推計」と題する論文で人的資本に関する推計を試みたことがありますが、まさに、宇沢教授の目指す市場原理主義的な経済学からの脱却からはほど遠いものであったと反省しています。資本ストックなどと同じように生産を拡大し付加価値を生み出す観点からの人的資本論については、社会的共通資本とは方向性が違う、というのは明らかです。後半第6章では格差を取り上げています。とてもナイーブなクズネッツ的な逆U字仮説はピケティ教授らも批判していますし、本書でも宇沢教授の観点から同様の見方を示しています。格差是正の観点からの最低賃金制やベーシックインカムに関する本書の議論については、私は少し物足りなく感じました。最後に、本書のキーワードはもちろん、タイトル通りに社会的共通資本なのですが、もうひとつ隠れたキーワードとして「ゆたかさ」というのを指摘することができると思います。通常の経済学ではきわめて単純に1人当たりGDPをゆたかさの代理変数にする場合が多いのですが、本書ではどのように「ゆたかさ」を捉えているのかが少し気になりました。例えば、ガルブレイス教授の著書に『ゆたかな社会』というのがあり、市場で供給される私的財への消費が肥大化している中、教育や医療をはじめとする公共サービスがむしろ貧困化しているアンバランスを鋭く批判しています。宇沢教授の社会的共通資本とも視点を同じくする部分が少なくありませんが、その『ゆたかな社会』の英語の原題は The Affluent Society です。ゆたかな=affluent であり、形容詞なのですが名詞で考えると、おそらく、経済学的には scarcity=希少性の対極をなす言葉ではないかと私は考えています。加えて、斎藤幸平准教授なんかが批判の対象としている左派的な進歩主義を私はまだ信じており、何度か指摘したように、生産力が増大して商品の希少性が低下して、最終的に希少性が失われた先が共産主義経済に近いのではないか、と考えていたりします。
次に、中林真幸『経済史で学ぶ社会・経済のしくみ』(日本評論社)を読みました。著者は、東大社研教授です。本書では、タイトル通りに、経済史から現在の経済社会について学ぶ、というのが目的らしいのですが、序章と終章を除いた全5章を読んで、経済史を題材にしているのは前半3章だけで、第4章と第5章は経済史とはそれほど関係深くありません。序章で比較制度史的な視点を示した後、第1章では経済の思想を知るという、それほど経済学のメインストリームにはないテーマに挑戦しており、資本主義や共産主義について考えています。ただ、社会主義や共産主義について、生産関係からではなく制度史的に残余制御権と残余請求権で説明しようとするのは、ムリがあるような気がします。分配の制度だけではなく、経済学的な視点であれば生産を念頭に置きたいところです。第2章と第3章が本書の中核となる部分ではないかと私は考えていて、経済社会の変化と現在の経済社会の成立ちを経済史からひも解こうと試みています。ただ、かなり記述が一面的で、例えば、貨幣に関する考え方なんかは諸説あるところ、かなりご自分の見方だけを披露しているように見えます。すなわち、貨幣としての受容性だけを考えていて、負債の側面をまったく無視しているような気がします。ですので、この第2章と第3章の中核部分はもちろん、他の部分でも、それほどバランスのいい記述になっているとは言い難く、初学者にオススメするのは少し厳しいと私は受け止めました。むしろ、基礎的な経済学を学んだ後に、ややバランスに欠ける部分を含んでいる可能性を考えつつ本書を読むのがいいような気もします。江戸幕府と現在の令和の時代の政府の財政を比べるのは、決して不可能ではないかもしれませんが、どこまで意味があるか、あるいは、意味がないかを理解できるレベルがあればともかく、そういった点を明示するような初学者への配慮も欲しいところです。最後に、繰返しになりますが、第4章と第5章は経済史の題材が尽きたのか、歴史とはそれほど関係なく議論を進めています。日本経済の成長には生産性向上一本足打法なのですが、賃金引上げにはサービスの価格付けも引合いに出しています。こういったいろんな見方が示されている部分は参考にすべきかもしれませんが、一本足打法で決め打ちしている部分は、「読者によって」とはいいつつも、少し眉に唾つけて読んだ方がいい可能性もあります。
次に、丹羽宇一郎『Z世代は戦後初めて銃をとる世代になるかもしれない』(東洋経済)を読みました。著者は、伊藤忠商事社長、政府の経済財政諮問会議の民間委員、在中国大使などを歴任しています。タイトル通りの本です。2年半ほど前の2023年暮れに「新しい戦前」というバズワードが出て、その後、昨年に現在の高市内閣が成立して、どんどんと右傾化が進んで「戦争ができる国」の準備が進んでいると感じているのは、たぶん、私だけではないと思います。そして、戦争に進む方向については、あくまで私の想像ながら、賛成しているのはごく一部であり、大多数の国民が反対していることと思います。戦争に進む原因のひとつとして、本書ではテゥキュディデスの罠を上げていますが、同時に、国民の反戦の意見は熱狂によってかき消され、簡単に国民意志は戦争に向かってしまう恐ろしさも過去の経験から明らかにしています。そして、安倍内閣による集団的自衛権の閣議決定などから始まって、岸田内閣の敵基地攻撃能力の整備、さらに現在の高市内閣のいくつかの安全保障政策はもちろん、昨今の方向を突き詰めれば戦争に行き着きます。したがって、第3章のタイトルは本書のタイトルと同じで、Z世代が銃を取って戦争に参加させられる可能性を論じています。村上春樹『1Q84』ではチェーホフを引いて、小説に銃が出てくれば発射されねばならないと登場人物に言わしめています。同様に、戦争準備が整えば戦争を始める可能性が高くなるのは当然です。引用元を明示できませんが、核兵器をこれだけ積み上げておいて、核兵器を戦争で使わなかったのは歴史的に見てきわめて異例である、といった主張も見かけたことがあります。本書の主張で、もっとも私が注目した点のひとつは、第5章のメディアとの関係です。現在、さまざまな要因・原因があるのでしょうが、テレビや新聞といった伝統的なメディアがことごとく政府や権力者のプロパガンダ機関と化している現実に、私はとても大きな危惧を持っています。もっともはなはだしいのが、いうまでもなく、NHKであり、政府の広報機関となっています。今でも「大本営発表」といえば、真実からかけ離れた政府や権威筋の公式見解、という意味で使われますし、メディアが「大本営発表」を垂れ流すのではなく、政府や権力との適切な緊張関係にあることを願う意見は無視できないと私は考えています。ただ、最後に、本書の見方を2点批判しておきたいと思います。第1に、戦争が始まるのはさまざまな要因があるとはいえ、突き詰めて考えれば、戦争で何らかの利益を上げる集団が権力を握るからです。おそらく、国民主権の見方からすれば、圧倒的多数の国民は戦争からネガな影響を受けるのですが、ごく一部といえどもポジな結果を受け取る集団があるわけで、それが決定権を握る可能性を排除できなければ戦争に向かいかねません。第2に、反戦を貫くためには、本書では「戦争に近づかない」と表現していますが、受け身でその方向も重要かもしれませんが、数は少なくても一定規模の集団が積極的に反戦を訴える必要があり、そういった勢力への国民の支持が不可欠です。
次に、大山悠輔『常に前へ』(ベースボール・マガジン社)を読みました。著者は、たぶん、口述筆記か何かで録音してAIか誰かが文章に起こしたんだとは思いますが、大山悠輔であり、私が熱烈に応援する阪神タイガースのクリンナップの一角を担うスラッガーです。2023年にタイガースがリーグ優勝と日本一を成し遂げた際には、レギュラーシーズンすべての試合でスターティングメンバーの4番打者を務めています。リーグ優勝を決めたゲーム後に大泣きしていた姿は今でも目に浮かぶようです。その作者が、小学校1年生で野球を始めてから、アマチュア時代の高校や大学まで、さらに、阪神タイガースにドラフト1位で指名されて入団し、現在までの野球歴を語るとともに、野球や人生に対しての考えを綴っています。10年前のドラフトで阪神タイガースから1位指名された際の阪神ファンのブーイングや失望感をバネに、さまざまな監督やコーチらとともに自分を鍛え上げ、2023年のリーグ優勝と日本一、さらに、2024年オフのFA宣言の末に阪神タイガースに残留した経緯などを明らかにしています。FA宣言と残留については、私のような情報に疎い者が接した以上の特ダネ的な情報はありませんが、人柄がよく出ている気がしました。著者については、もちろん、立派なスラッガーである点はいうまでもありませんが、著者自身では言いにくいところで、野球の技術や体力やといった面もさることながら、阪神タイガースのファンである私がいくつかの報道などに接する限り、人格的な面、すなわち、人柄の良さというものが強調されているように見受けます。もちろん、プロスポーツの選手なのですから、人柄に少々難あっても、技量や体力に優れて良好な結果を残し、プロ野球であればチームの勝利に貢献する選手が尊ばれるのはいうまでもありません。でも、超トップクラスではないとしても、大山選手は十分チームのクリンナップを務め、優勝や日本一に貢献できる上に人柄が良い、ということで多くのファンに愛されているのだろうと私は感じています。そして、本書でも明らかにされているように、いうまでもなく阪神タイガースはプロ野球球団の中でもトップの人気球団であり、注目度は高いことこの上ありません。ですから、私がチラチラと見ている限りの推測ですが、実力ありながら、例えば、ドラフトで上位指名されながら、それほど活躍できずに去っていく選手は、チームの人気に溺れているケースが少なからずあるのではないか、という気がしています。ちょっと活躍すると周囲からチヤホヤされ自分を見失う選手も、ひょっとしたら、いそうな気がしてなりません。著者の大山選手は人柄だけでなく、そういったメンタルも良好であったのだろうと想像しています。
次に、市塔承『女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家なのでしょうが、本作品が第66回メフィスト賞を受賞してデビューしています。さらに、本書の巻末に第2長編を執筆中で、冬にも出版予定のような宣伝文句があります。ということで、一見したところ、ややいびつな構成で、470ページくらいのボリュームのうち、序が4部に分かれていて300ページ余りを占めます。その序の後に、第1章と第2章と最終章が置かれていて、序を除いて本編といえる部分は150ページに満たないボリュームです。というのも、非常に複雑なメタ構造になっていて、序だけで5話くらいからなる作中作品を作中の登場人物が読む、という構成になっているからです。まず、舞台は神聖ニアニ共和国、でも、200年ほど前までは君主をいただく神聖ニアニ王国でした。時代は、たぶん、現代に近い印象です。主人公は、おそらく、エリメであり、首都ルッリにある大学の大学院生でしたが、意識と記憶を失って郷里で療養しています。というか、療養して、意識を取り戻したところから序が始まります。そして、長々としたボリュームの序は、主人公のエリメが弟のキーとともに首都ルッリに戻る車中で作中作のズバリ「女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処」を読みます。そして、この作中作の「女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処」もさらに作中作があって、私は記憶力に難があるので順不同ながら、『ヒアニビレの業績録』、『砂漠に残された真実』、『本泥棒と少女』、『水神叙事詩』であろうと思いますが、見逃しているのがるかもしれません。そして、序を終えて、というか、何というか、エリメが首都ルッリに帰り着きます。エリメの専攻は化学なのですが、ルームメイトは3人いて、ギルロウが物理学、モアドレが生物学、とりわけ遺伝学、そして、イアポーレが電磁気学のそれぞれ専攻です。序を終えたという意味で、わずか150ページほどながら本編でエリメが郷里の両親のもとでの療養を必要とし、一部なりとも記憶を失った理由が明らかにされます。そこは読んでみてのお楽しみとしかいいようがありません。驚愕の事実、といえるかもしれません。ボリュームある序は読みこなすのに苦労する可能性がありますが、実は、序の中の第3部なんかは第1部と第2部のサマリを提供してくれていたりしますし、それほど難解であるわけではありません。ただ、日本人が必ずしも得意ではない宗教が国の大きな礎になっていますので、そのあたりは覚悟しておく必要がある、という気がします。最後に、私は第2長編は読まないかもしれません。ビミョーなところです。
次に、フリーダ・マクファデン『ハウスメイド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家なのですが、別に脳外科医という顔も持っています。私は、田舎の図書館の新刊書コーナーに無造作に置かれていた本書の続編『ハウスメイド2』を借りて先に読んでしまいましたので、本書に立ち戻って読んでみた次第です。英語の原題は The Housemaid であり、2022年の出版です。主人公はミリー・キャロウェイ、バーをクビになってハウスメイドをしています。大金持ちのウィンチェスター家に住み込んでいます。雇い主の女主人はニーナ、亭主はアンドリュー、子どもはセシリア(シシー)です。ウィンチェスター家の3人以外には、地域の庭仕事を請け負っているエンツォというイタリア人がいます。表紙裏の登場人物一覧にはエンツォはウィンチェスター家の庭師、とありますが、ウィンチェスター家だけではなく周囲十数軒の庭仕事を請け負っているようです。ある意味で、キーパーソンの1人です。ミリーは殺人による前科があり、当然に、勤め先を見つけるのが難しいのですが、何とか職にありついたわけです。しかし、完璧にハンサムで紳士に見えるアンドリューのほかには、その仕事場であるウィンチェスター家にはいろいろ問題があり、女主人であるミリーの奇妙な言動や行動、わがまま放題のセシリア、などなど、ミリーは料理や家事に悩まされます。エンツォはそれほど英語を理解できるようには見えませんので、ついつい、ミリーはスペイン語で会話しようとしたりします。そして、ハンサムで完璧な亭主と奇妙な言動・行動の女主人とわがまま放題の娘のウィンチェスター家の裏側にある真実をエンツォは感じ取っていたりします。はい、謎解きばかりではないのですが、3部構成のうちの第1部だけながら、ミステリですのであらすじはこれくらいにしておきます。米国の超がつくくらいの大金持ちって、これくらいの奇妙な家族がいたりするんでしょうか。一般ピープルの私にはまったく不明です。まあ、私はドラマの「家政婦は見た」シリーズは視聴していませんでしたが、日本でも家政婦を雇えるクラスのご家庭はそうなのかもしれません。続編のシリーズ3作目があるのかどうか知りませんが、3作目があった場合、私が読むかどうかはビミョーなところです。



最近のコメント