今週の読書感想文は以下の通り計7冊です。
まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『不平等・所得格差の経済学』(明石書店)では、スミス、リカード、マルクスなど、経済的不平等や所得格差の思想について過去2世紀以上にわたる進化をたどり、最近の研究業績として、ピケティ教授の『21世紀の資本』の役割をきわめて高く評価しています。ジョン・ローマー『機会の平等』(勁草書房)では、機会の平等については「競技場を平準にする」ために、社会はなしうることをすべきであり、特に、不遇な社会的背景を持つ子供達は補償の教育により、ジョブをめぐる競争で必要とされるスキルを獲得できる、と結論しています。モーリッツ・アルテンリート『AI・機械の手足となる労働者』(白揚社)では、現代の工場、広い意味での工場における労働者の実態を明らかにしようと試みており、Eコマースにおける労働者、ゲーム労働者、クラウドワークやオンデマンドの労働者、そして、SNSの労働者などを取り上げています。伊坂幸太郎『楽園の楽園』(中央公論新社)は、作家のデビュー25年を記念した書下ろしの短編であり、強力な免疫を持った3人が世界の混乱を解決するために<天軸>の制作者である先生の行方を探し、その手がかりとなる「楽園」と名付けられた絵画を頼りに「楽園」を目指します。田中将人『平等とは何か』(中公新書)では、ロールズやスキャンロンの平等観を発展させて、実証研究ではなく規範研究の方法を取りつつ、政治哲学と思想史の知見から世界を覆う不平等について議論を展開し、「財産所有のデモクラシー」をひとつのヴィジョンとして提示しています。C.S. ルイス『ナルニア国物語4 銀の椅子と地底の国』(新潮文庫)では、ペペンシー4きょうだいのいとこであるユースティス・スクラブが学校の仲間と2人でナルニア国を訪れ、カスピアン王の息子であり、行方不明になっているリリアン王子を探しに、巨人国や地底国を冒険します。森見登美彦[訳]『竹取物語』(河出文庫)は、竹取の翁が竹から見つけ出したかぐや姫が絶世の美女となりながら、いい寄る求婚者たちに無理難題を課して退散させた後、月に帰ってゆく、という古典に現代訳をほどこし、森見ワールドを展開しています。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月に入って先週までの6冊と合わせて105冊、さらに今週の7冊を加えて112冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の7冊のほかに、ロバート・ロプレスティ『休日はコーヒーショップで謎解きを』(創元推理文庫)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『不平等・所得格差の経済学』(明石書店)を読みました。著者は、所得格差研究で有名なルクセンブルク所得研究センター(LIS)の研究員です。本書の英語の原題は Visions of Inequality であり、2023年の出版です。本書では、経済的不平等や所得格差の思想について、過去2世紀以上にわたる進化をたどっています。7章構成のうちの6章までが歴史上の偉大なエコノミスト個々人を取り上げ、最後の章で冷戦期という不平等研究の暗黒期をタイトルにして、全体を総括している印象です。1~6章で焦点を当てているのは、重農主義のケネー、経済学の創設者とも目されるスミス、古典派経済学を完成させたリカード、そして、マルクス、ここまでが古典的な経済学に属するエコノミストであり、限界革命以降の新古典派経済学からパレートとクズネットが取り上げられています。まず、古典的な経済学の4人に関しては、本書でも指摘しているように、個人間や家計間の不平等ではなく階級間の不平等、すなわち、生産手段としての土地所有者である地主、資本設備の所有者である資本家、そして、生産手段を持たない労働者の3大階級の間の不平等に着目しています。もちろん、マルクスが少し例外的な視点を提供していますが、本書では冒頭に「規範的な見方を扱うことはしない」として、同時に、マルクスの価値理論が階級間の所得分配の不平等に影響するという分析はスコープ外として扱わないとしています。少し残念です。でもまあ、マルクス主義的な見方をすれば資本制が停止されない限り、不平等削減の方策は不徹底な「日和見主義」でしかない、とするものですから、まあ、理解できる気はします。私は不勉強にして、マルクスも含めた古典的経済学の範囲では、それほど大きな現代的含意を汲み取ることは出来ませんでした。その意味で、クズネッツは注目されます。いわゆるクズネッツの逆U字仮説、すなわち、経済成長の初期段階では不平等が拡大し、その後、不平等は縮小に転じる、という仮説を提示したことで不平等研究に大きな貢献をなしています。ただし、1980年くらいから現在までの新自由主義的な経済政策の下で、逆U字仮説ではなく、N字に近い歴史的経過をたどる、すなわち、不平等は再び拡大する可能性が認識されている点は指摘しておきたいと思います。それを明らかにしたのは、章として独立に取り上げられてはいませんがピケティ教授の功績です。最終章で連戦機が不平等研究の暗黒期だったというのは、東西の両陣営でイデオロギー的な経済学の支配があったからであると指摘しています。すなわち、資本主義では市場による資源配分と所有権の尊重、共産主義では生産手段の社会的所有が、それぞれもっとも重視され、いわゆる制度学派的な見地も含めて、こういった制度が重要であり、格差や不平等の問題が片隅に追いやられた、というわけです。共産主義体制下では統計に基づく経験主義ではなくイデオロギー的に考えられたフシがあります。例えば、私がJICAから統計の短期専門家としてポーランドに派遣された際には、共産主義政権下では定義的に失業は発生しないとして、経験的な統計を取らずに失業率はゼロとカウントしていたらしいです。逆に、資本主義世界では、不平等研究は思想的に望ましくないものとみなされて、研究資金の配分が少なかったり、ジャーナルにおける査読で不利に扱われたりしたと指摘しています。その観点も含めて、不平等研究の最近における画期としてピケティ教授の『21世紀の資本』の役割をきわめて高く評価しています。

次に、ジョン・ローマー『機会の平等』(勁草書房)を読みました。著者は、米国イェール大学の政治学・経済学名誉教授であり、ご専門は数理マルクス主義経済学だそうです。立命館大学の吉原直毅特任教授と帝京大学経済学部の後藤玲子教授が巻末に解説を付しています。本書の英語の原題は Equality of Opportunity であり、1998年の出版です。冒頭では本書のよって立つ前提として、いくつかの点が強調されています。すなわち、著者は、結果の平等を志向するものではなく、機会の平等を支持していると明記されています。その上で、機会の平等については「競技場を平準にする」ために、社会はなしうることをすべきであり、特に、不遇な社会的背景を持つ子供達は補償の教育を受けることにより、より有利な子供時代を送った人々とのジョブをめぐる競争で必要とされるスキルを獲得できる、という結論です。ただし、教育を財政の観点からだけ見て、教育設備の平等を達成しても、そういったリソースを有効・効率的に用いる能力に差があることから、不十分である可能性を示唆しています。その上で、機会平等化を目指す政策(EOp)の下で、等しく努力している諸個人は最終的に等しい帰結に至るべきである、と結論しています。「等しい帰結」を求めているからといって、これは結果の平等を目指すものではありません。スタートラインを調整した上で、あくまで等しい努力をすれば等しい帰結を得るわけですから、努力水準に帰結は依存します。努力水準に依存せず等しい帰結に至るのであれば、結果の平等かもしれませんが、等しい努力水準が等しい帰結をもたらす、という点は忘れるべきではありません。ということで、第4章あたりから数理マルクス主義的な議論の展開が始まり、基本的に、平等性に関しては100分位の分布に沿う議論が展開され、数式を解くことにより結論が得られます。数式の展開を省略して結論だけを一部取り出すと、分析の結果、機会の平等政策(EOp)は、才能の分散が小さい場合は功利主義に接近し、才能の差が大きい場合はロールズ主義に近くなります。これは直感的にも理解できるところではないかと思います。ですので、成人になった後の収入と消費の有利性=アドバンテージに関する機会の平等をもたらすためには、子供のころに教育的資源をどのように配分するか、という機会の平等化政策(EOp)の結論は、教育的資源を将来の生産性に転換する能力の低い子供により厚く配分されるべきである、ということになります。おそらく、従来の、というか、新自由主義的な政策の観点からは、将来の生産性に転換する能力の高低にかかわらず教育資源は1人当たりで等しく配分されるのが機会の平等化政策(EOp)である、ということになるような気がしますが、本書では異なる結論が導かれています。これを一般化すれば、教育資源は同一の努力をする子供が、成人となった際に同一の稼得能力を有することになるように配分=投資されるべき(p.78)ということになります。結果の平等はあくまで努力水準を無視していますが、同一の努力であれば同一の結果を得られる、というところが重要なポイントです。その後、子供や教育を離れて、失業保険の議論などが展開されますが、それは読んでみてのお楽しみです。

次に、モーリッツ・アルテンリート『AI・機械の手足となる労働者』(白揚社)を読みました。著者は、ドイツにあるフンボルト大学の研究員です。私が読んだ印象ではマルクス主義経済学の専門家ではないかと思います。邦訳書の底本となる原書の言語は明記されていませんが、米国のシカゴ大学出版局から2022年に出ている The Degital Factory に基づいて訳出されています。タイトルだけを見ると英語で書かれているように見えます。ということで、本書では、現代の工場、広い意味での工場における労働者の実態を明らかにしようと試みています。イントロダクションの第1章から始まって、第2章ではアマゾンなどのEコマースにおける労働者、第3章ではゲーム労働者、第4章ではクラウドワークやオンデマンド労働者、第5章ではSNSの労働者、第6章で結論を示すように広く工場としてのプラットフォーム労働を議論し、最終第7章がエピローグとなっている構成です。英語版はシカゴ大学出版局から出ているのですが、決してバリバリの学術書ではありません。まず、AI登場前の段階で、労働者が機械の手足となって働いているのは、それほど新しい現象ではありません。チャプリンの『モダン・タイムス』のころから、工場の主役は機械であって労働者ではありません。せいぜい、タイトル的にいえば「AI」が新たに加わっているだけです。全体を通じていえば、AIなども導入された現代の工場では、労働者はさまざまなデジタル技術で管理され、仕事内容は多くが熟練不要の単純労働で、フルタイムで働いてもパートタイムで働いても同じという意味で短時間労働と同等といえますし、日本でも指摘されている通り、「柔軟な労働」が可能となっています。したがって、必要とされる熟練の程度が低下し、労働の柔軟性が増すに従って雇用の安定は失われます。デジタルに基づいたフォード主義(フォーディズム)と科学的管理(テイラー主義)が生産の現場で専制的な指揮権を揮って労働者の管理に当たっていると考えるべきです。本書では、フレキシブル・ネオテイラー主義と呼んでいる例を紹介しています。しかも、「柔軟的」とされる働き方は雇用ですらない場合があって、デジタルなプラットフォームに集まるUberの運転手はUberに雇われているわけではありません。ほかのフリーランスに関しても同様です。Airbnbの部屋のオーナーが労働者でないのは判らなくもないのですが、Uberの運転手については、少なくとも、運転手とプラットフォーム企業が対等平等な役務提供に関する契約を持てるのかどうか、疑問が残ります。Uberの運転手やクラウド・ソーシングについては空間的にも労働者がオフィスや工場にとどまらずに分散している点もひとつの特徴です。我が国でも、連休谷間の2025年5月2日に厚生労働省で労働基準法における「労働者」に関する研究会の初会合が持たれています。労働基準法における最後の労働者の定義の改定は1980年ですから、50年近くを経て雇用と労働について大きく変化が見られるのは当然です。その上、コロナのパンデミックを経て、デジタルワークはますます広がりを見せています。日本と世界の今後の動向に注目するためにも基礎的な情報を提供してくれる良書だとオススメできます。

次に、伊坂幸太郎『楽園の楽園』(中央公論新社)を読みました。著者は、日本でも有数の人気作家の1人だと思います。本書は、作家のデビュー25年を記念した書下ろしの短編であり、100ページに満たないボリュームです。人気作家の25周年ですから、この本の出版に関しては出版社でも力を入れているようで、特設サイトが開設されたりしています。応募期間は終了しましたが、登場人物3人のアクスタやポストカードセットなどのプレゼントがあった模様です。まず、本書はSF、というよりか、ファンタジーであり、特に植物のパワーを強調しています。同様に植物のパワーに着目するテーマを持った作品が時を同じくして、荻原浩『我らが緑の大地』が角川書店から出ていて、加えて、同じ角川書店から私も読んだ鈴木光司『ユビキタス』もホラー小説として出版されています。ここまで植物のパワーに着目した小説が立て続けに出るのは、ちょっと、不思議な気がします。めずらしいかもしれません。ということで、本書の舞台は近未来であり、人工知能<天軸>が暴走し、所在不明になってしまいます。各国の都市部で大規模な停電が発生し強毒性ウイルスが蔓延し、大きな地震が頻発するなど、世界が大混乱に陥り、逃げ出した人の乗った飛行機まで墜落する始末となります。この中で、<天軸>の制作者である先生の行方を探し、その手がかりとなる「楽園」と名付けられた絵画を頼りに、五十九彦=ごじゅくひこ、三瑚嬢=さんごじょう、蝶八隗=ちょうはっかい、の3人が、絵画に描かれた「楽園」にいると推測される<天軸>と先生を探す旅に出ます。要するに、楽園を目指す旅に出るわけです。このあたりは、明らかに三蔵法師の天竺旅行をテーマとする『西遊記』を踏まえているわけです。ただ、3人はある意味でスーパーマンであり、あらゆる感染症の免疫を持っているとともに、個々人も、五十九彦はスポーツ万能な少年、三瑚嬢はおしゃべりで頭の回転もいい少女、蝶八隗は食べ物関係の情報豊富な大柄な少年、という設定です。3人の姿は挿し絵に出てきます。その目的地の楽園は大樹がシンボルとなっていて、まあ、要するに、表紙画像のようなところというわけなんだろうと思います。そこで植物パワーに注目する思想的背景が出てきます。<天軸>をはじめとする人工知能=AIではなく、自然知能=NIという考え方も登場したりします。3人の旅の結果などは読んでいただくしかありませんが、ただ1点だけ、ボリューム的にページ数は少ないものの、非常に壮大なスケールの物語です。最後の最後に、「物語」に「ストーリー」というルビが振ってあるのですが、「ナラティブ」の方がいいような気がしました。

次に、田中将人『平等とは何か』(中公新書)を読みました。著者は、岡山商科大学法学部の准教授です。ご専門は、政治哲学・政治思想史だそうです。ということで、その昔の「1億総中流」から、昨今の「親ガチャ」まで、平等・不平等や格差に関する流行語は大きく変化してきましたが、本書では、冒頭の第1章でそもそも不平等のどこが悪いのかを考えるとともに、日本の「失われた30年」を振り返り、政治哲学と思想史の知見から世界を覆う不平等について議論を展開しています。そして、本書は実証研究ではなく、規範研究の方法を取ります。これは、ミラノヴィッチ『不平等・所得格差の経済学』とは正反対の考え方です。そして、結論を先取りすれば、「財産所有のデモクラシー」をひとつのヴィジョンとして提示しています。ということで、まず、ロールズやスキャンロンの議論から不平等に反対する理由を4点上げています。すなわち、(1) 剥奪、(2) スティグマ化、(3) 不公平なゲーム、(4) 支配、となります。私はどちらかといえば、人間としての尊厳を重視するのですが、さすがに、政治学や政治思想史の視点からはこの4点に集約されるようです。ですから、その昔の自然がもたらす不運ではなく、社会に起因する不正義とみなされるようになってきているわけです。この4点の不平等への反対を反転させれば平等に対する支持理由となります。加えて、不平等を3種類に分類しています。もっとも大きな不平等は差別であり、許容されません。その次が格差であり、望ましくはないもののの、ゼロにすることは出来ず、一定の範囲で容認されます。最後の差異は承認される不平等で、これをなくそうとする試みは別の問題を生じることになります。私がもっとも注目したのは第4章の経済上の平等であり、ピケティ教授により世界的にも注目度が上昇しています。特に、日本では2010年代に入ると就職氷河期の世代がアンダークラスを形成するようになります。ベーシックインカムに関する本書の議論は、エコノミスト間の認識と少し違っている気が私にはしました。ベーシックインカムに関する議論に加えて、第5章の政治上の平等については、お読みいただくしかありませんが、一言だけ付け加えると、ここでもピケティ教授の用語が使われています。「バラモン左翼」です。能力競争に勝ち抜いて、リベラルな思想を持つビジネスパーソンなどです。ただ、私は、経済上の平等についてはフローとしての所得やストックの資産などが貨幣単位で計測できることから、不平等の是正はそれなりに可能であると考えるのですが、政治上の平等については影響力の差異をどのように計測するのか、というそもそものベースから不案内です。ですので、本書でも言及しているくじ引きによるロトクラシーに将来を見出しています。最後に、著者の言う「財産デモクラシー」については、財産が平等に行き渡るためにはフローの所得についても考える必要があります。その点は少し議論が不足している気がします。

次に、C.S. ルイス『ナルニア国物語4 銀の椅子と地底の国』(新潮文庫)を読みました。著者は、アイルランド系の英国の小説家であるとともに、長らく英国ケンブリッジ大学の英文学教授を務めています。英語の原題は The Silver Chair であり、日本語タイトルにある地底の国は含まれていません。1953年の出版です。本書は、小澤身和子さんの訳し下ろしにより新潮文庫で復刊されているナルニア国物語のシリーズ第4巻です。本書では、ペペンシー4きょうだいのいとこであるユースティス・スクラブが学校の仲間と2人でナルニア国を訪れます。ユースティスの友人とは、学校でのいじめられっ子のジル・ポールです。いじめっ子に追われて学校の体育館裏に逃げ、そこにある扉から2人はナルニア国へと飛び込みます。ナルニア国ではすでに長い時間が経過していて、カスピアン王は晩年を迎えています。しかし、カスピアン王の息子であるリリアン王子は何年も前に魔女にさらわれて行方知れずになっていました。アスランからリリアン王子を探し出してカスピアン老王の元に連れ戻すというミッションをユースティスとジルが受けて冒険に旅立ちます。その際、アスランは4つの道しるべを示します。すなわち、(1) ユースティスが出会う懐かしい友人に挨拶する、(2) いにしえの巨人たちの廃墟となった都を目指す、(3) そこで、石に刻まれた言葉を実行する、(4) アスランの名にかけて、なにかしてほしいと頼む最初の人物こそが王子である、というものです。そして、2人はヌマヒョロリン族のドロナゲキとともにリリアン王子を探しに出かけます。巨人国の都であったハルファンから地底国に向かいます。タイトルになっている「銀の椅子」はリリアン王子が囚われて座らされていたものです。なお、巨人は、このナルニア国シリーズに限らず、ハリー・ポッターの物語などでも、決して、いいようには描かれていません。我が日本でも、特に、私の住む関西地方では巨人を嫌う人が多い印象です。ヌマヒョロリン族のドロナゲキは、ムーミンに出てくるスナフキンのような姿の挿し絵が挿入されています。ここで英語のお勉強ですが、ヌマヒョロリン族は Marsh-wiggle、であり、陰キャで悲観的な発言を繰り返しているドロナゲキは Puddleglum という名前です。ハリー・ポッターのシリーズについては、私は7巻中5冊までを英語の原書で読みましたが、ナルニア国物語などの子供向けの本から英語を勉強するのもいいんではないかと思います。
![森見登美彦[訳]『竹取物語』(河出文庫) photo](http://economist.cocolog-nifty.com/dummy.gif)
次に、森見登美彦[訳]『竹取物語』(河出文庫)を読みました。現代訳者は、小説家であり、私は『有頂天家族』や『シャーロック・ホームズの凱旋』なんかを読んだ記憶があります。また、河出文庫のこの古典新訳コレクションのシリーズでは、酒井順子[訳]『枕草子』上下、円城塔[訳]『雨月物語』なんかを読んでいます。ということで、何分、「竹取物語」ですから、多くの日本人が見知っていることと思います。竹取の翁が光る竹を切ったら姫が現れ、家に連れ帰ればものすごいスピードで成長し、やがて絶世の美女に成長したかぐや姫は、いい寄る求婚者たちに無理難題を課して退散させた後、月に帰ってゆく、というストーリーは広く人口に膾炙しているところであり、本書でも何ら変更ありません。私は「竹取物語」を古語で読んだことはありませんが、例えば、2年ほど前に、あをにまる『今昔奈良物語集』に収録されている「ファンキー竹取物語」なんてのを読んだ記憶もあります。本書では、広く知られた「竹取物語」のストーリーを森見登美彦の小説の世界で表現しています。この訳者の小説のファンであれば押さえておくべきかと思います。
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