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2006年9月26日 (火)

ラマダンが始まる

今日は昼前から雨が降り出しました。かなり冷たい雨で、明日まで降り続くとの天気予報です。お彼岸の中日も過ぎたことですし、これで一気にになるのかもしれません。クールビズもカレンダー上で今週で終わりですし、実質上ももうすぐ終わりそうな気がします。
ということで、お話を天気に持って行って、先週末に新月を終えて、イスラム教徒はラマダンに入ったのではないかと思います。ラマダンは太陰暦に基づいていますので、新月から新月までです。ここで、脱線すると、日本で新月を新月と呼ぶのはモロに中国の影響なんだと思うんですが、これは西欧語圏でも新月をnew moonと呼ぶのと合致しています。言語圏が違っても、新月は満月に向かう生まれたばかりの月である、ということについては同じ認識を持っていたんだろうと思います。
ラマダンに戻ると、イスラム教徒はラマダン期間中は太陽の出ている時間帯には断食をします。食べ物を取ることを控えるだけでなく、水を飲むこともしません。厳格なイスラム教徒であれば、唾を飲み込むことすらしないといいます。もっとも、断食は太陽が出ている間だけですから、太陽が出る前の早朝とか、太陽が沈んだ後の夜間なんかは断食はしません。当然です。1ヶ月もの間に渡って断食を続ければ、普通の人間は死んでしまいます。それから、断食により精神的な強さを身に付けることが目的とされているようですから、断食をするだけでなく、ラマダン期間中はそれなりに享楽的な行為も規制されます。ですから、歓楽街は閑古鳥が鳴きます。
我が家がジャカルタに住んでいた時にもラマダンはありました。これも当然です。でも、私の記憶が正しければ、ラマダンはアラビア語で、ヒジュラ暦の第9月を指す普通名詞です。インドネシア語では断食のことをプアサといいます。ヒジュラ暦は太陰暦ですから、我々の使っている太陽暦でカウントすれば、毎年移動して行きます。我が家がジャカルタに着いた2000年は11月終わりからでしたし、少しずつ早まって、今年は9月下旬からラマダンが始まります。
ダビンチ・コード」にも自分自身を肉体的に痛めつけるキリスト教の一派が出て来ますが、先ほども書きましたように、ラマダンも断食などにより自分自身を律して、ある種の肉体的な苦痛を与えることにより精神面を鍛えることを目的としているようです。私は仏教徒一向宗の門徒ですから、南無阿弥陀仏念仏を唱えれば、死んだ時に極楽浄土成仏できる、とする極めて安直な宗教観を持っています。南無阿弥陀仏と念仏を唱えること以外には、生きている時に何の苦痛や修行も必要としないわけです。私の性格や人生観・世界観にとてもよくフィットしているとしかいいようがありません。

3年間家族で住んだジャカルタの生活を思い出しつつ、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。

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