やっぱり書道はすばらしい
今日もまずまずいいお天気でしたが、雲が広がったりして、ここ2-3日ほどは気温が上がりませんでした。夜になって雨が降り出しました。少しだけですが、暑さも一服したような気がします。
先週5月2日のエントリーで趣味の話を取り上げた際、古いのは書道、新しいのはパソコン、と書きましたが、後半のパソコンのパワーポイントのテンプレートの作り方なんかを披露した後、そのままゴールデンウィークに入ってしまったものですから、前半の書道を忘れてしまっていました。そこで、今夜は書道に限らず、伝統的な習い事について芸術とも関係させつつ、書道のすばらしさについて考えてみたいと思います。
昔は伝統的に子供の習い事と言えば、読み書き計算のうち、前半の読み書きが書道・習字で、後半の計算はソロバンだったように思います。もっとも、私はソロバンの6級の試験に落ちて止めてしまいましたし、今どきソロバンを習っているのお子さんはすごく少なそうな気がします。お子さんに限らず、もう少し対象年齢を引き上げると、新しい分野はさて置き、伝統的な習い事としては、性差別をするつもりはありませんが、男性では武道、女性では茶道と華道、それから、男女共通して芸術的なものが上げられると思います。
と言うことで、突然、芸術方面に話が飛ぶんですが、その昔に読んだ池上・矢野訳になる S.K. ランガー著の「芸術とは何か」(岩波新書)には、芸術として文学、美術、音楽、舞踏の4分野が示されていた記憶があります。この中で、私は舞踏が狭義の芸術かどうか、昔から疑問を持っていました。と言うのは、芸術である限りは100年とか500年とかの時の流れを超えた後世の批評に耐える必要があると考えられるからです。文学や美術の保存性は言うまでもありませんし、音楽の場合も、演奏はそれはそれとして芸術なのかもしれませんが、少なくともスコアに落とすことにより時の流れを超えて、後世の評価に耐えることが出来ます。しかし、舞踏にはこれが難しいのではないか、と考えられます。あるいは、舞踏の一類型であるお芝居についても同じことが言えます。しかし、しかし、で、お芝居は映画というイノベーションを受け入れることにより、後世の評価に耐えることが出来たりします。
再び、突然、習い事に戻るんですが、習い事は基本的に自己鍛錬と私は考えています。しかし、そこに実用性と芸術性の要素が加わるんではないかとも考えられます。武道なんかは護身術としての活用の要素を除けば、ほぼ自己鍛錬に尽きると思います。芸術の中の美術に分類されるような習い事、すなわち、書道・習字、絵画や陶芸、茶道や華道、あるいは、音楽に分類される器楽演奏なんかの4類型のうち、前2者は後世に残るという意味でより芸術性が高いような気がしないでもありません。さらに、前2者は割と実用性も高かったりもします。
ですから、私には茶道や華道は家元制度で世襲制を無理やりに守っているだけで、習い事本来の自己鍛錬を別にすれば、芸術性や実用性が低いような気がしてなりません。例えば、華道でもっとも広まっているのは草月流だと思うんですが、勅使河原蒼風氏がこの流派を創設したのは1927年であり、歴史的にとっても短い期間で商業的に広まった印象もないではないですし、何よりも、茶室に活ける花としての茶道との関係は崩れているような気がします。世襲の家元制度が諸悪の根源とは言いませんが、こういった点を含めて、私は大いに疑問を感じていたりします。
何だかんだと言いながら、今夜のエントリーでは、習い事という趣味の世界を無理やりに分析して、書道の優位を際立たせようとしたんですが、立論に無理があったような気がします。ですから、コメントやトラックバックは歓迎しません。最悪の場合、削除する可能性もありますので、念のため、申し添えます。
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