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2008年9月21日 (日)

ミシュラン騒動から見た京都の文化と歴史

昨年東京版が出たミシュランのガイドブックが話題になりました。私のこのブログでも昨年2007年11月20日付けのエントリーで紹介しました。この発表時に、東京版を皮切りに毎年アジアから1都市を選んで新版を出す予定とミシュランから公表されており、次のターゲットは京都であるとの説がもっぱらでした。まあ、当然といえば当然でしょう。失礼ながら、長崎がトップテンに入らないことは、長崎在住の私が保証します。それはさておき、昨年から今年の年初にかけて覆面調査員による調査は終えて、すでにお店と交渉に入っているらしいとのことで、私が最初に見た報道はローカルの京都新聞でしたが、3月半ばの記事に出ていました。最近、これが全国的にも注目されるようになり、先日の朝日新聞にも取り上げられていました。ミシュランに協力するしないで決して論争になっているわけではないと思いますが、それなりの騒動の雰囲気をメディアは醸し出そうとしているのかもしれません。まず、長くなるので引用はしませんが、出現順に京都新聞と朝日新聞のそれぞれの記事にリンクを張っておきます。

考えようによって、賛否は分かれるんでしょうが、ミシュランのガイドブックを離れて、私は京都の文化とは老舗の店主の人たちが言うような京都固有の古くからの文化だけではなく、好むと好まざるとにかかわらず、いろんなものを吸収してきた文化だととらえています。しかし、吸収した上で、水と油のように決して混じり合うことなく、京都固有の文化と外来の文化を併存両立させるのが近代京都の文化ではないかと考えています。ですから、結論を先に書くと、ミシュランの評価を受け入れるところと拒否するところと両方があっていいような気がします。その両方が併存するのが近代京都の文化だろうという気がします。
ただし、何度も「近代京都」と書きましたが、この吸収して混じり合わない京都の文化はせいぜいが最近100年くらい、大雑把に昭和初期以降のものだという気もしますから、平安京に遷都してからの1200年余りを見ると、外来のものを峻拒する文化も根強いことは言うまでもありません。武家の幕府を関東に追いやったのもひとつの拒絶の表れです。というと、室町幕府は京都にあったではないか、との反論がありそうですので先に答えておくと、室町幕府は鎌倉幕府や江戸幕府とはやや異質で、京都に位置しなければならない3つの要因があったと私は考えています。第1に、吉野に南朝があったことです。新幹線も飛行機もない時代で、京都と吉野の間の距離よりも遠い関東に幕府を開く選択肢はなかったように思います。第2に、南北朝が統一された第3代足利義満将軍の時代には義満自身が天皇になる野望を持っていたことです。これは歴史家の一致した見解ではないんですが、私はそう思っています。第3に、義満以降の時代には応仁の乱があって京都を離れられなくなってしまったことです。
話が大きく脱線しましたが、おそらく、明治維新期から昭和初期くらいまでが移行期・過渡期で、それ以前は武家をはじめとする外来のものを峻拒する傾向が京都にはあったんではないかと思いますが、この過渡期からこちらはさすがに外来の文化を受け入れて、決して混じり合うことなく共存並立する文化が育ったように私は考えています。特に戦後はそうだと思います。というのは、昭和9-11年ころまで経済規模としては関西圏が東京を中心とする首都圏を凌駕していたことは経済史家の間では定説になっていて、関ヶ原の戦いの1600年以降は江戸=東京が政治的にも経済的にも日本の中心であったは決して言えないからです。例えば、「くだらない」という表現がありますが、これは関東近郊の産物を指していて、関西=上方から下って来た物品ではないというのが語源になっています。上方から江戸に「くだってきた」ものはいいもので、関東近郊のものは「くだらない」ということを意味していました。
さすがに、近代化の過程とともに第2次世界大戦の国家総動員体制下で、昭和9-11年以降に東京が文字通りの日本の政治経済の中心になります。しかし、すぐに戦争で負けて、京都は近代京都独自の文化や経済を持つようになります。ニッチ産業ではありますが、任天堂やワコールは世界のエクセレント・カンパニーになりましたし、日本を代表する主力産業では立石電機のオムロン、村田製作所、堀場製作所などが興ります。文化的にも、京都古来の文化を残し、まさに、ミシュランが東京に次いでガイドブックの対象になりそうな食文化もあります。また、あらゆる方面で関西の地盤沈下が激しい中で、我が母校の京都大学はいろんな意味で東京大学に次ぐ日本のナンバーツーの大学の位置をいまだに占めていることは万人の認めるところで、これはノーベル賞受賞者数にも表れています。もちろん、前世紀初頭までに人口的にも経済的にもそれなりの集積がなされたスケール・メリットはありましたが、単に、昔からの固有の文化を汲々と守り続けているだけの古典芸能的な観光都市ではないことは確かだと思います。

最初の方で書いたように、古い文化と新しい文化が決して混じり合うことのない水と油のように併存両立しているのが近代における京都の文化ですから、ミシュランのガイドブックに協力するお店と拒否する老舗も併存できるのではないかと私は考えています。先にリンクを張った朝日新聞の記事にあるんですが、ある料理評論家が「東京版では和食の三ツ星は3店だったが、京都なら15店はいくだろう」と発言しています。果たして、ミシュランからガイドブックが出版された暁には何店掲載されるのか、そもそも、出版できるのか。とっても興味深いと思っています。

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