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2008年9月 8日 (月)

平野啓一郎『決壊』を読む

平野啓一郎さんの『決壊』を読みました。ひたすらスゴい小説でした。どうして読む気になったのかと言うと、先週月曜日のエントリーで芥川賞受賞作として取り上げた『時が滲む朝』がとっても気に入らなくて、薄いスープと表現しましたが、もっと濃厚な小説を読んでみたくなったからです。この作者の小説は、やっぱり芥川賞を受賞した『日蝕』以来です。「三島由紀夫の再来とでも言うべき神童」ともてはやされた受賞は1999年と記憶していますのでほぼ10年振りです。初期のロマンティックな作風から、私がジャカルタより帰国した当時は、『高瀬川』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『あなたが、いなかった、あなた』などの短編集が出ていたので、本格的な長編まで待ったと言えば語弊がありますが、「新潮」に連載されていた当時から話題になっていたこともあって、この『決壊』はぜひとも読みたいと考えていました。第1部と第2部に分かれた『葬送』以来の長編だという気がします。なお、今夜のエントリーにはネタバレがいっぱいあります、ネタバレなしには読書感想文を書けない私ですので、未読の方が読み進む場合は十分注意して自己責任でお願いします。

平野啓一郎『決壊』

まず、『日蝕』でも感じたんですが、この『決壊』もよく取材や下調べが行き届いている気がします。下巻の最後の15冊ほどの参考文献が上げられていますし、地方の方言指導についても記載がります。このあたりが薄っぺらに感じた『時が滲む朝』との差を生じせしめている一因ではないかと思います。私なんかが論文を書く時にも、20ページほどの分量でも20くらいの参考文献を上げます。現在の日銀白川総裁の『現代の金融政策』を読んだ際にも、前の職場の同僚から最後の参考文献が多いと聞いたんですが、私はさほどの量ではないし、引用元が偏っていると評したことがあります。まあ、エコノミストのペーパーと小説を比較してもしょうがないことではあります。
本題なんですが、主人公である沢野崇の弟の良介のバラバラ遺体が京都の三条大橋で発見され、被害者の妻である佳枝の思い込みから崇が容疑者として警察に取り調べられたり、鳥取で中学生が同級生を殺害したり、果ては、良介殺害の犯人である悪魔と名乗る篠原という男が、こともあろうにクリスマスイブにお台場のフジテレビで自爆自殺をしたり、渋谷のデパートで爆弾を爆発させたりと、いろいろ展開します。そこに、良介が殺害されるきっかけとなったインターネットの掲示板が複雑に絡んで来ます。最後の最後に、ここを私は読み進む勇気がなかったんですが、主人公の崇が電車に飛込み自殺を遂げて小説は終わります。
良介が殺されるのはネットに開設した「すぅのつぶやき」なる掲示板で知り合った悪魔こと篠原と、やっぱり、ネットで篠原がリクルートした鳥取の中学生の北崎友哉が共犯となり、殺害現場を克明に録画した DVD が所轄の警察と沢野崇に送られて来たりします。ネットでしか明らかに出来ない「心の闇」がクローズアップされ、我々もよく見かけるようなテレビのワイドショーもかなり批判的な視点から登場します。警察では崇が犯人と考えて、かなり強引な捜査が行われるんですが、警察や操作に対する批判にはなっていません。もちろん、その間で揺れ動く崇自身や周囲の人々の心理描写がすごいです。関西弁で言うとエゲツナイ気もします。結局、崇と良介の父親は崇の取調べ中に自殺しますし、母親は精神に変調を来たして、良介の骨壷を腹に抱いたまま少しおかしくなります。最後の最後の自殺の瞬間まで冷静沈着なスーパーヒーローは崇だけです。
最後の方を私が読み進む勇気がなかったのは、すでに、最後がハッピーエンドではないことを知っていたこともあって、下巻に入ったころからオチはデニス・ルヘイン『シャッターアイランド』と同じではないかと思うようになったためです。この小説は一人称で書かれているわけではありませんが、今の今まで正常と思わされていたスーパーヒーローの崇自身が実は異常で、ホントは警察の見方が正しくて崇が犯人だった、といういオチのような気がしてならなかったからです。でも、そうではなく、崇は被害者の遺族でしかありませんでした。自殺する直前には良介の妻だった佳枝に遺品を届けることまでしています。一瞬、私は崇が駅で通り魔殺人に遭遇するというオチもアリではないかと考えなくもなかったですが、そうすると、崇は最後までスーパーヒーローで終わってしまい、作者の意図はそうではないと思い当りました。自殺は必然の結末だったといえます。
2006年に連載が始まったこの小説を、作者が2002年に設定したのも興味深い点です。秋に北朝鮮から拉致被害者の帰国があり、その点も小説の中で触れられていますが、私が指摘しておきたい一番大きな要因は、当時のネットでの交流の大きなツールが、まさに「すぅのつぶやき」のような掲示板の日記サイトであって、現在の主流を成しているブログではないことです。私自身がこのブログを始めたのは2005年ですが、おそらく、2004年にはブログが主流になっていたと想像されますので、このタイミングの設定は絶妙と言えます。もちろん、現在でも2ちゃんねるのような巨大掲示板が存在して、大いに話題を集めていますが、顔見知りからのコメント投稿も多いブログに対して、篠原のような悪魔が忍び込みやすいのはブログではなく、掲示板であるとの作者の暗黙のメッセージを読み取るのは私だけでしょうか。秋葉原の事件を起こした犯人も書込みをしていたのはブログではなく掲示板の日記サイトだったような記憶があります。なお、言うまでもないことですが、私はブログが健全で、掲示板の日記サイトがアブナイと主張するつもりは毛頭ありません。
最後に、私は従来から自分を含めた京都人には裏表があると考えて来ましたが、この本を読んで気付いたことがあります。主人公の沢野崇が任意同行での取調べの最終盤、酒気帯び運転での別件逮捕の直前に、女友達にうそぶいた言葉なんですが、崇は相手によって情報をコントロールし、相手に従ってオーダー・メイドの自分を作り分けることが出来るといったようなことを独白します。これが弟である良介には全く出来なかったとも付け加えています。私の考えていた京都人のオモテの建前とウラの本音はこれなんだろうという気がします。アウター・サークルに対する建前とインナー・サークルに対する本音というディコトミーを取れば表裏となりますが、相手の数だけのオーダー・メイドの自分を出すべく情報コントロール出来るというのに拡張することも可能なんだろうと思います。私の考えていた単純なディコトミーの京都人の認識が膨らんだ気がします。いずれにせよ、私はネット上であろうとどこであろうと、私が発する情報にアウター・サークルの人が接する可能性があれば、ウラの自分を出さないようにコントロールするだけの自信めいたものはあります。自分でも少し怖いと感じる時がありますが、それが京都の人間の本質や本能の一部を成す要素だと思っています。それが出来ない場合、カギカッコ付きの「素朴」とか「要領が悪い」などの形容詞を付けるような気がしてなりません。

久し振りに、濃厚かつ重厚な「大きい物語」の小説を読んだ気がします。私はこの小説が映画化されるんではないかと予感しています。というよりも、映画化を望んでいるという方が正しいかもしれません。その際、KATSUZO の役は誰が演じるのかがとっても興味があります。

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