楊逸『時が滲む朝』は薄いスープみたいな味わい
いつものペースよりかなり遅くなり、9月のアップになってしまいましたが、ようやく、第139回芥川賞受賞作の楊逸さんの『時が滲む朝』を先月8月10日発売の「文藝春秋」9月号で選考委員の選評とともに読みました。前回、第138回の川上未映子さんの「乳と卵」が受賞した時から始まったように記憶しているんですが、今回も選評と授賞作の間に作者に対するインタビューが掲載されていました。なお、この作品は「文學界」2008年6月号に収録されたんですが、左の写真は単行本から取っています。また、今夜のエントリーはそれと特に意識せずにネタバレがあると思われますので、未読の方が読み進む場合は自己責任でご注意下さい。
まず、今回受賞した『時が滲む朝』はある程度の長さのある中編といえます。また、作品が対象としている期間も、天安門事件前後から始まって、香港の中国返還反対運動やオリンピック北京招致反対運動などを取り上げていて、約10年間とかなり長いです。「乳と卵」のように数日で終わっているわけではありません。しかし、その期間の長さや対象とした天安門事件以降の中国民主化運動といったテーマの重さに比べて、あるいは、村上龍さんのいう「大きな物語」であるにもかかわらず、いかにも表面をなぞっただけで、薄いスープのような印象でした。私は天安門事件などの中国民主化運動は全くの専門外でサッパリ分かりませんが、少なくとも、選評で村上龍さんは自分で天安門事件を調べたことがあると明言した上で、低い評価を下していたりしました。対比を申し上げると、今年2008年2月1日のこのブログのエントリーで磯﨑憲一郎さんの『肝心の子供』を取り上げたんですが、この作品は『時が滲む朝』よりもずっと長い期間を対象に書かれているにもかかわらず、凝縮という評価が当てはまるような気がする一方で、『時が滲む朝』は間引いた気がします。なお、ついでながら、今回第139回の芥川賞でも磯﨑憲一郎さんは『眼と太陽』で候補になっています。
どうして薄っぺらに感じるのかといえば、ストーリが飛んでいることと、おそらく、作者の実体験でないと強く感じられるため、また、登場人物の内面描写がほとんどないために、感情移入が難しくなっているからだと思います。章のタイトルはないものの、全部で10章から成っており、詳細は忘れましたが、前半の半分くらいの章が天安門事件まで、その後が香港の中国返還反対運動やオリンピック北京招致反対運動などに充てられています。前半と後半とで物語が飛ぶのは致し方ないにしても、前半部分では2人の二狼と呼ばれる大学生の心理描写は極めて少ないですし、天安門事件にしてもすぐに装甲車が入って来ます。後半では、章の中のパラグラフの終わりを示す1行空けでさっさとエピソードが終わったり、1人目の子どもが主人公の妻のお腹の中にいたのですが、次のパラで後に「民生・たみお」と名付けられる2人目の子を妻が妊娠していたりしました。後半は特に物語の拡散がひどい気がします。繰返しになりますが、ストーリーとしては間引いた感じがあります。
私がいつも参考にしている文学賞メッタ斬りのサイトでも、大森望さんも豊崎由美さんも、なぜか、『時が滲む朝』の作品評価は決して高くないのに、特に大森望さんは最低の評価だったにもかかわらず、当落予想の本命にこの作品を推しています。直木賞の方は伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』にアクシデントがあったので仕方ないにしても、芥川賞という新人の登竜門として権威ある賞にしてはやや不可解な気もします。選考会終了後に、大森さんは「文壇からも北京オリンピックを盛り立てようではありませんか!」と書き、豊崎さんは何人かの選考委員の名を上げて「身を挺して授賞を阻止してほしかった」とうそぶいていました。私はほかの候補作を読んでいないので何とも言えませんが、分かるような気がします。
ここ数年、ほぼ毎回のように芥川賞は読んでいますが、3年前の第133回芥川賞の中村文則さんの『土の中の子供』以下の作品だったと私は考えています。選考委員の中にはこのテーマであれば長編を期待するような選評もありましたが、この作者の筆力では長編はムリそうな気がしないでもありません。ひょっとしたら、私の読解能力が低いためではないかとも考えましたが、次の芥川賞は読解能力が低い可能性のある私でも感動するような作品を期待しています。
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