川上未映子『ヘヴン』(講談社)を読む
川上未映子さんの『ヘヴン』を読みました。なかなかいい出来の初長編だという気がします。従来から私はこの著者を高く評価していて、『乳と卵』などの大阪弁の会話のテンポを利用するだけでなく、もう一皮むければ世界レベルに達することも夢ではないと考えていました。でも、「新潮」7月号の「すばらしい骨格の持ち主は」を読んで、やっぱり大阪弁の会話に依存する文体に戻ったのかと、やや残念に思っていましたが、「群像」8月号に寄稿し9月1日に発売された単行本にもなったこの作品を読むと、私の望んでいた世界を視野に入れた方向に進んでいるのかと考え直さないでもありませんでした。
原稿用紙で420枚だとかで、単行本で250ページくらいの小説ですから、私だったらスラスラと一気に読まないでもないんですが、中身が非常に重く、私にしてはかなり時間をかけて読んだ気がします。私の読後の評価として、決して手放しで素晴らしいとは言いませんが、初の長編にしてはかなりの出来栄えだと受け止めています。私がここ数か月に読んでベストセラー・リストを賑わしている、例えば、村上春樹さんの『1Q84』には敵わないとしても、伊坂幸太郎さんの『あるキング』や短編集ながら柳広司さんの『ダブル・ジョーカー』なんかには決して引けを取りません。
小説のあらすじは広く報じられている通り、中学2年生の男子である「僕」を主人公にし、クラスメートの二ノ宮とその取巻きからの壮絶な苛めを受ける場面、同じようにクラスで女子に苛められている「コジマ」との交流、最後は斜視の手術で終わります。継母は極めて重要な存在です。最後の斜視の手術を終えて眼帯を取った後の場面、ホントに最後の1ページ半なんですが、作者の素晴らしい感受性と表現力を感じることが出来ます。ですから、読後感がとってもよくなっています。ただし、2つの年代設定に疑問を感じなくもないという気がしました。主人公が中学2年生というのは極めていいセンを行っているとしても、第1に、どうして時代背景を1991年にしたのか、私には理解できません。主人公は必然的に作者とほぼ同じ世代になるわけですが、それが理由だったのか、あるいは、「ノストラダムスの大予言」に基づく終末と言われていた1999年の数年前という設定なのか、他に何かあるのか、何らかの必然が欲しかったような気がします。第2に、第6章の主人公と百瀬との会話は中学2年生ではムリそうな気がしないでもありません。我が家のおにいちゃんは中学1年生ですが、来年にこのような会話を同級生と出来るかどうかは疑問です。いい出来の小説でありながら、この2点の年代設定は宝石に残るわずかな flaw だという気がします。でも、いくつか見た書評では、たとえば、毎日新聞のサイトにあるように、大胆にも村上春樹さんの『1Q84』と比較しているものもあり、そんなことは気にもしていません。私だけの視点かもしれません。
いずれにせよ、かなり出来のいい初長編小説で、ベストセラーに顔を出しているのも当然です。大阪弁の会話テンポに頼らないという意味で世界のレベルに近づいた作品です。このまま作家として成長を続けるようだと、大風呂敷を広げて構わなければ、今年来年の村上春樹さんに続いて、30年後のノーベル文学賞も夢ではないような気がします。
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