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2009年10月28日 (水)

量ではなくリスクの観点から「大きな政府」と「小さな政府」を考える

昨年9月22日付けのエントリーで、「麻生総理大臣の財政政策上のインプリケーションは何か?」と出して、この時期に政府の財政政策を考えましたが、今夜も新政権の財政政策を社会保障政策ととともに、「大きな政府」と「小さな政府」をリスクの観点から少し私なりに解釈してみたいと思います。

まず、すでに死語となった感のある「大きな政府」と「小さな政府」について考えます。よく知られた通り、死語にしたのは今年1月の米国オバマ大統領の就任演説ですが、この概念は量的な観点からはともかく、リスクの観点からはまだ有効ではないかと私は考えています。頭の体操ですから、極端な2ケースを私なりに考えると、「大きな政府」の社会保障では全国民一律の所得を保証もしくは強制します。政府が国民の意思に基づいて一定の所得、世帯当たりか個人当たりかは問わず、また、地域別や年齢別に細かく規定するかどうかも考慮の範囲外とし、何らかの一定の所得を定め、その所得を超える部分はすべて徴税し、逆に、その所得に満たない場合は負の所得税として給付されるようなケースがもっとも極端な「大きな政府」と言えます。医療費・介護費や教育費などの無料化が加わることも考えられます。この極端な「大きな政府」の場合、個人や家計では貯蓄はゼロとなります。リタイア後はすべて年金で生活することになるのは言うまでもありません。国民の自己責任はいっさい問われず、「大きな政府」ではすべての国民生活上のリスクは政府の責任となります。もちろん、リスクを取る観点から政府の規模は大きくなります。財政収支が黒字となるか赤字となるかは国民の意思に基づいて定める所得額次第で決まります。もちろん、逆に、財政収支から逆算することも可能です。反対に、極端な「小さな政府」を考えると、治安維持や外交などの極めて純粋な公共財を供給するための何らかの課税を除き、医療費・介護費や年金などはすべて国民の自己責任となり、政府は一切タッチしません。年金はありませんから、国民は就労期間中に貯蓄して老後に備え、老後は貯蓄を取り崩して生活することになります。もちろん、民間の保険会社の提供する私的年金に加入することはあり得ます。現在でも公的な健康保険や年金の他に、付加的に生命保険や入院特約付きのなど保険があります。「小さな政府」ではすべての国民生活上のリスクは国民の自己責任であり、国家は生活上のリスクの観点からは国民を放置します。政府の規模は当然に小さくなります。
繰返しになりますが、以上の「大きな政府」と「小さな政府」はどちらも私がリスクの観点から仕分けしたものであるとともに極めて極端なケースであり、現実的には、世界各国はこの両者の間に位置するいずれかの制度を採用していると言えます。ということで、我が国の現政権の社会保障政策や財政政策を考えると、一見して、10月17日付けのエントリーで取り上げた概算要求などからして、量的には「大きな政府」を目指しているように見えなくもありませんが、かなりの程度に国民の選択に任せている部分もあり、リスクの観点からは「小さな政府」の傾向も読み取れます。例えば、農家への個別所得保障であったり、子ども手当などもそうです。以前、私が世間で評判の悪かった麻生政権下での定額給付金を擁護したひとつのポイントは、経済効果の大きい公共事業を政府が選択するのではなく、使途を国民の判断に委ねた点でした。この点は農家の個別所得保障や子ども手当も同様で、例えば、受け取った親がギャンブルに使ってしまって子供に役立たない使われ方をする危惧などは大いにありますが、それも含めた判断を国民に任せてリスクとともに財政資金を国民に分配するというのは、十分に筋の通った考え方と評価できます。年金についても同様の考え方が成り立ちます。ですから、現政権の社会保障政策や財政政策を量的な観点だけで「大きな政府」と判断することは私には抵抗があります。もっとも、量的な観点を無視するつもりはなく、今日の読売新聞の記事にあるように、量的に拡大した政府財政が金融政策の独立性を損なう事態もあり得ますが、今夜のエントリーでは割愛します。

財政資金が政策手段としてかなりの程度に希少性の高いリソースとなっている現在では、私は以前から「観光立国」など、特定の産業分野や特定の地域などに対して政府の判断で支援するのは極めて疑問の大きい財政資金の使い方だと考えて来ましたが、量的に大量の財政資金を必要とするという批判はあるものの、農家も含めた家計に財政資金を回す現政権の財政資金の使い方は、国民に使途を委ねるという観点から決して悪くないと受け止めています。量的な大きさとともに、より熟慮されるべきは、投票率の高さなどに惑わされることなく、子供を持つ家族に対してより厚く配分されることが必要だということです。

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コメント

不勉強で恐縮ですが、ご教示いただければ幸いです。

このエントリーでは、小さな政府では国民が背負うリスクが大きい、ということだと理解しておりますが、具体的には、農家への個別所得保障、子供手当ての実現によって、新たにどのようなリスクが農家や子供を抱える世帯に移転されて、どのようなリスクから政府が解放されるのでしょうか?

定額給付金にしても、生活が苦しい人が増えたからカネを配るというのでは、生活苦というリスクを政府が負っているということへの証左ではないかと思ったのですが・・・。

たとえば、社会保障給付の削減とセットで社会保障負担を減らす、というのは、家計のリスクを高め、国のリスクを減らすことだと思いますが、単に家計の負担を減らすだけで、リスクは移転するのでしょうか?
(家計の選択肢を増やす、という意味では、そのとおりだと思います。ご指摘の希少な財政資源について、まさに「親がギャンブルに使ってしまう」というリスクを政府が冒すことの是非は、別の問題として存在すると思いますが・・・)

「過去、主計局にいながらそんなことも分からないのか」、と思われてしまいそうですが、お時間のおありの折に、ご教示いただければ幸いに存じます。

投稿: TOMOHIKO SENGE | 2009年10月29日 (木) 04時00分

確かに、「リスク」という言葉は適当ではないかもしれません。むしろ、「選択する権利」の方がいいような気がしないでもありません。あえて言うなら、「失敗する可能性のリスク」といったところかもしれませんが、カッコ悪い言い訳なのでやめておきます。

投稿: 官庁エコノミスト | 2009年10月29日 (木) 07時21分

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