大学教授と役所の課長についてツラツラ考える
私が奉職していた長崎大学は、少なくとも長崎市内ではガリバー大学です。以前にも書いた通り、私が母校の京都大学に通学し始めたころには細々とまだ市電が走っていましたが、「京都大学前」という電停はありませんでした。でも、長崎には「長崎大学前」という電停が存在します。この地域における存在の重みを表していると私は受け止めています。逆に、存在が重いということは規模が大きいということに通じる部分があって、私を含めて長崎大学教授というのはいっぱいいます。経済学部だけで30人近くいますから、全学で軽く100人は超えそうな気がします。ある意味で、希少性に欠けるのかもしれません。例えば、経済学部キャンパスから歩いて10分ほどのところに日銀長崎支店がありますが、支店長は長崎県内にたったお一人ですから、長崎大学教授、あるいは大学を限定せずに大学教授よりも希少性が高いと私は考えています。
人数的には希少性に欠ける部分があるので、逆に言えば、競争が激しいとも言えます。ローカルな範囲では、メディアの取材を受けても記事にならなかった場合もありますし、日本全国や世界ではもっと人数がいるわけですから、学術論文の審査で落とされることもめずらしくありません。基本的には、発信した情報を評価するのは、一般的な論評の場合は受け取り手というか、経済学的な用語でいえば市場と言ってもいいんだろうと思いますが、学術的な情報については情報の非対称性がありますからピアで評価するということになります。査読付きの学術雑誌とか、学会報告とかです。学士や修士は教師が学生や院生を評価する面が強いんですが、博士の学位についてはピアの評価になる場合があります。例えば、私が在学していたころの京都大学経済学部の教授が他の京都市内の大学で博士の学位を取得したことがあり、私なんかの素朴な学生はどうして京都大学で取らないんだろうかと疑問に感じたところ、その人くらいのレベルになったら、すでに京都大学の学内でトップに達しているので、逆に、研究業績を評価できる人がいない、と聞いたことがあります。他方、大学の教員の授業の評価の方法がまだ確立していないように私は感じています。一応、本学では学生による評価を実施していますが、それだけでいいんだろうかという疑問は残ります。
でも、公務員に戻って、大学教授の発言における自由度というものは大いに評価されるべきであると改めて感じています。官庁エコノミストの発言は制約が大きいと私は考えいます。他方、融通無碍なる公務員のシステムも評価すべきかもしれません。外交官とか、大学教授とかは、プロ野球選手やサッカーの選手には敵わないかもしれませんが、それなりに評価されている職業であろうと私は受け止めています。なりたい人はかなりいそうです。カギカッコ付きの「憧れの職業」なんですが、公務員の枠内でいずれも経験することが出来たのはとっても幸運でした。
でも、公務員として役所という組織の課長と大学の教授とでは求められるものが違うのも事実です。服装やヒゲを剃るか伸ばすかなんて、大学教授のクオリティには何の関係もないと考えて気にもしませんでしたが、役所の課長になれば毎日せっせとヒゲを剃っていたりします。そのうちに季節が進めばネクタイをしてスーツを着用に及ぶのかもしれません。役所という巨大な組織の中間管理職たる課長のクオリティには必要なんだろうと諦めています。
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