マリオ・バルガス・リョサ『チボの狂宴』(作品社) を読む
マリオ・バルガス・リョサ『チボの狂宴』(作品社) を読みました。作者は言うまでもなく昨年のノーベル文学賞受賞者です。作品の発表は2000年、原題は La Fiesta del Chivo で、ほぼそのまま直訳されています。舞台はカリブ海に浮かぶドミニカ共和国、1930年から61年まで30年余りにわたって独裁政治を続けたトゥルヒーリョ総統の末期を描いています。ただし、ドキュメンタリーではなく、あくまでフィクションの小説です。なお、本書の解説によれば、表紙はアンブロージョ・ロレンツェッティ (Ambrogio Lorenzetti) 作のフレスコ画「悪政の寓意」を用いています。下の画像の通りで、wikipedia のサイトから引用しています。
まず、基礎的な地理と歴史のバックグラウンド知識ですが、「ドミニカ」と呼ばれる国は2国あります。ドミニカ島のドミニカ国 Commonwealth of Dominica は英語圏に属しています。他方、この小説の舞台となっているドミニカ共和国 República Dominicana はイスパニョーラ島東部を占め、スペイン語圏に属します。なお、ついでながら、イスパニョーラ島西部は昨年1月に大地震に見舞われたハイチとなっています。ハイチはフランス語圏です。そして、ドミニカ共和国は19世紀半ばまでハイチの植民地となっており、1845年に独立しています。大雑把にハイチは黒人国家と見なされており、ドミニカ共和国はメキシコなどと同じ現地先住民とスペイン人の混血が多くを占めています。さらに、政治的なバックグラウンドに話を進めると、1930年2月にクーデタをおこして実権を掌握し、1961年5月に暗殺されるまで独裁政権を続けたのがトゥルヒーリョ総統 Rafael Leónidas Trujillo Molina です。訳者の解説に従えば、「総統」の元のスペイン語は jefe だそうです。普通は、後述の caudillo が充てられるような気もします。ここで再び、スペイン語圏の名前の作りの基礎知識ですが、上にトゥルヒーリョ総統の例を掲げたように、4語から成ります。最初の2語はファーストネームです。次の2語が父方の姓、母方の姓の順で続きます。なお、女性は結婚しても姓は変わりません。結婚した女性の場合、最後に de + 夫の姓をつけるのが一般的です。本題に戻って、ラテンアメリカには19世紀末から、メキシコのディアス大統領、アルゼンティンのペロン将軍、パラグアイのストロスネル大統領、チリのピノチェット将軍など、さまざまな独裁者がいましたが、ラテンアメリカの歴史上ですらトゥルヒーリョ将軍が稀に見る独裁者であったのは、個人崇拝の徹底、過酷な弾圧、国家経済の私物化の3点で圧倒的で、さらに、米国との敵対姿勢も際立っていたからです。もともと、ラテンアメリカではカウディージョ caidillo と呼ばれる地方軍閥が群雄割拠していたことがあり、さらに、近代に入ってからは軍が大きな力を有したことから、独裁政治への傾向があるとされていましたが、特に、1950-70年代くらいまでは東西の冷戦の影響もあって、米国が「反共の防波堤」的な独裁政権を容認したこともありますが、ドミニカ共和国のトゥルヒーリョ総統の場合、繰返しになるものの、「反共の防波堤」どころか、米国との敵対姿勢、米州機構などからの制裁を受けていたにもかかわらず、第2次大戦をはさんで長らく独裁政治を続けたことはひとつの特徴と言えます。また、ラテンアメリカの独裁者の実態を描いた文学作品としては、ガルシア・マルケスの『族長の秋』が有名で、コチラは架空の国の独裁者を描いているのに対して、この『チボの狂宴』では実在した歴史上の著名な独裁者であるトゥルヒーリョをある程度まで史実に基づきつつ描き出しています。
『チボの狂宴』は縦糸に綿密な取材に基づくトゥルヒーリョ総統の独裁政治末期の姿を描くとともに、横糸に暗殺から35年後の1996年の時点からトゥルヒーリョ時代の高官の娘であった女性の目から見たトルヒーリョ個人を描いています。おそらく、前者はかなり史実に近く、後者はまったくのフィクションではなかろうかと受け止めています。前者については少し置いておいて、後者のストーリーを追うと、第1章と最終の第24章はこのウラニア・カブラルという女性の視点で語られます。彼女は14歳で米国に留学しハーバード大学を卒業して世銀に勤務した後、現在は法律事務所で働く弁護士であり、独身を通しています。14歳までの生まれと育ちはもちろんドミニカ共和国で、1961年のトゥルヒーリョ暗殺の少し前まで政権の重鎮としてドミニカ共和国の大臣や上院議長を歴任した父を持っていましたが、暗殺の少し前にこの父は政権中枢部から遠ざけられ、失脚したまま余生を送ることになります。このウラニアがドミニカ共和国に35年ぶりに帰国して、何の反応も示さず植物状態に近くなった入院中の父親を訪ねるところから第1章の物語が始まり、どうして、35年間に渡って電話や手紙などの音信を絶っていたかを父の妹である叔母や従姉妹に語ることによりストーリーが進み、第24章で完結します。先に置いておいた縦糸のトゥルヒーリョ暗殺の方は、暗殺前日から暗殺直後の秘密警察による犯人捜索や逮捕後の拷問までが克明に描かれます。その後の、カブラル新大統領による民主化の推進なども少し描かれています。
また、10年以上も前の2000年の作品とはいえ、昨年のノーベル賞作家の最新邦訳の出版ですので各方面から大いに注目されており、私もアチコチで書評を見かけました。全国紙については以下の通り、紙面に現れた順に、日経新聞、読売新聞、産経新聞、朝日新聞の4紙を引用しておきます。私のつたない読書感想文よりもすぐれた見識と迫力を備えていそうな気がします。ご参考まで。
- 日経新聞: チボの狂宴 マリオ・バルガス=リョサ著 複数の視点で描く権力の実態
- 読売新聞: 『チボの狂宴』 マリオ・バルガス=リョサ著 独裁者描く文学の力
- 産経新聞: 『チボの狂宴』マリオ・バルガス=リョサ著 独裁者の残酷さ、滑稽さ描く
- 朝日新聞: チボの狂宴 [著]マリオ・バルガス=リョサ 「かたり」の自在性で時代描く長編
マリオ・バルガス・リョサがノーベル賞を受賞して、昨年11月21日付けのエントリーで『緑の家』上下を取り上げてから2冊目の読書感想文です。おそらく、『緑の家』よりも『チボの狂宴』の方が日本人に数段親しみやすいのではないかと私は受け止めています。多くの方がノーベル賞作家の作品を手に取って読むことを願っています。
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コメント
翻訳者の八重樫です。ご紹介ありがとうございます。以前から嬉しく拝読していました。
遅ればせながら、ようやく直接お礼が言えるようになった次第です。つわもの読者の感想には唸らされます。今後ともよろしくお願いします。
今年は3年ぶりに小説を翻訳しました。ハビエル・シエラ『失われた天使』と『プラド美術館の師』。書店で見かけたら手に取ってみてください。
投稿: 八重樫克彦・由貴子 | 2015年12月14日 (月) 07時11分
コメント有り難うございました。
投稿: 官庁エコノミスト | 2015年12月14日 (月) 23時57分