フィッツジェラルド『夜はやさし』を読む
フィッツジェラルドの『夜はやさし』を読みました。オリジナル版は1934年、エコノミスト的に言うと世界不況の真っ只中の出版です。なお、どうして読んだかと言うと、先週、「読書感想文の日記」としてアップした『村上春樹 雑文集』に「器量のある小説」というタイトルでこの本の「あとがき」だか、「解説」だかが収録されていて、ホーム社から2008年に森慎一郎先生の新訳が出版されていることを知ったからです。このあたりの小説に関しては、村上春樹さんの手になるものが多いんですが、ここ数年で新訳が出るたびに読んだりしています。例えば、その昔のサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、新訳の『グレート・ギャッツビー』、そして、買ってあるもののまだ読んでいないチャンドラーの『ロング・グッドバイ』などなどです。この『夜はやさし』もかなり前に文庫本の上下で読んだ記憶があります。今回は近くの図書館で借りました。
さて、私はごく一般的なフィッツジェラルドの作品のファンですので、これまた一般的な作品評価が当てはまります。すなわち、完成度の高さや文学作品としての質は圧倒的に『グレート・ギャッツビー』に指を屈するが、なぜか『夜はやさし』に心惹かれるものを感じる、と言ったところでしょうか。私が表現した「心惹かれる小説」というのを村上春樹さんが表現すると「器量のある小説」ということになるんだろうと、私なりに解釈しています。もちろん、読む人によっては、男女関係のもつれとか、堕落していく男、しか読み取れない場合もあるかもしれませんが、黄金の20年代から真っ逆さまに転落した時代背景を感じるべきです。
よく知られた通り、私が読んだオリジナル版は Book 1-3 から成る一方で、Book 1 と 2 の順番を入れ替えて、クロノロジカルに編集した別バージョンのカウリー版もあります。出版された1934年という時代背景、すでに忘れ去られたフィッツジェラルドの栄光などを主たる要因として、この小説は余り売れなかったことが歴史的な事実として残されています。だからこそ、作家自身がエディタになり代って別バージョンを試みたと考えられますが、出版された当時にあまり売れなかったからといって、その文学的な価値が低いと考えるべきではありません。80年近くたって新訳が出ることの意味を考えれば、その歴史的な存在感に圧倒されます。
邦訳の新訳がすでに3年前に出版されていることもあり、私は手軽に図書館で借りることが出来ました。私のように既読の方も含めて、多くの方が手に取って読むことをオススメしたいと思います。
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