マイケル・サンデル『それをお金で買いますか - 市場主義の限界』(早川書房) を読む
サンデル教授の『それをお金で買いますか』(早川書房) を読みました。同じ出版社から出された前作『これからの「正義」の話をしよう』や「ハーバード白熱教室」などが話題になったのが2010年で、私が遅ればせながら読書感想文のブログを書いたのが2010年9月11日ですから、ほぼ2年振りの話題の書ということになるかもしれません。しかも、今回はタイトルを見ても明らかな通り、エコノミストにダイレクトに関係するテーマを取り上げています。副題は「市場主義の限界」だったりします。なお、原題は What Money Can't Buy なんですが、邦訳のタイトルの方がふさわしいと私は感じています。ということで、まず、出版社のサイトから本の紹介を引用すると以下の通りです。
マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』
ハヤカワ・ノンフィクション <来日決定!> 医療、教育、政治……あらゆるものが売買されるこの時代。市場主義の暴走から「善き生」を守るために私たちは何をすべきか? 現代最重要テーマに挑む、サンデル教授待望の最新刊
結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。 (本文より)
私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引になんら問題はない。売り手と買い手が合意のうえで、双方がメリットを得ているからだ。
だが、やはり何かがおかしい。
貧しい人が搾取されるという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論が欠けているのではないだろうか?
あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」をめぐる問題。この現代最重要テーマに、国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切りこむ、待望の最新刊。
第1章 行列に割り込む、から始まって、第2章 インセンティブ、第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか、第4章 生と死を扱う市場、第5章 命名権、まで、市場で、というか、交換の対象として道徳的に相応しくない財があるのではないか、という問題意識から、さまざまな実例が取り上げられ、いくつかの見方が説き起こされています。対比されているのは、リバタリアン的な見解とリベラル的な見方なんですが、サンデル教授は米国人ですから、当然にようにマルクス主義的な見方は提供されません。といっても、マルクス主義的な見方からすれば、資本制社会で当然に起こる疎外の概念で、一瞬にして議論が終わりそうな気がします。『資本論』が商品の記述から始まっており、現在の資本制社会を規定するもっとも根源的なものは商品であるとマルクスが考えていたことはよく知られてる通りです。
市場取引が拡大したというか、ここ10年ほどで人間の社会生活の多くの部分で市場が利用されるようになったのには、私の考えで、2つの理由があると言えます。第1に、インターネットをはじめとする情報化の進展により、需要と供給のマッチング・コストがはなはだしく低廉化したことです。少し前までは、どこに行けば手に入るか、あるいは、誰に対して売れるか、まったく情報がなくて市場が成立しなかったような財まで市場が成立してしまったことが背景にあります。第2に、リバタリアン的なバイアスがあり、政策課題の解決を公的な部門や規制された市場より自由な市場取引に委ねる傾向のある政権が一定の影響力を持ったことです。米国では今世紀初頭に2期務めたブッシュ大統領、我が国では5年続いた小泉内閣などです。
私の読み方が偏っているのかもしれませんが、ある財について市場化が進んで規範的に好ましくないと多くの人が考える理由としてサンデル教授は2点上げており、第1に不平等の問題です。お金持ちだけが入手できる場合が少なくなく、逆に、貧困であるがゆえに売買に好ましくない財を売らねばならない可能性が生じることは否定できません。基本的人権のレベルでは人間は法の下に平等ですが、市場に対する場合、処分可能な貨幣量に応じての自由しか与えられないわけです。株主総会で所有株数に応じた議決権が与えられるのと基本的には同じです。第2に腐敗の問題です。これはエコノミストたる私の直感的な理解でしかなく、やや自信がないんですが、第1の不平等や不公正を超えて、本来は市場で売買すべきでない財を市場に委ねてしまう倫理観の欠如、と私は捉えています。間違っているかもしれません。
途上国の事情にもそれなりに詳しいエコノミストとして考えると、少なくとも第2の腐敗に関する私の理解が正しければ、サンデル教授の指摘は誤っている可能性があります。すなわち、市場とは価格というシグナルに従って財の効率的な配分を行うメカニズムなんですが、特定の財を市場に委ねずに行政や何らかの権力による規制で配分しようとした場合、市場よりも大きな腐敗、というか、倫理観の欠如した配分が行われる可能性があるからです。発展途上国ではこういったケースがまま見受けられます。極端なケースですが、途上国で独裁者の意向に応じて市民が殺害されるのと市場で生命が売買されるのでは、どちらが倫理観という観点から好ましいかは疑問が残ります。ただし、こういった極端な事象が生じない先進民主主義国ではサンデル教授の議論が当てはまる可能性が高いことは私も認識しています。
順序が逆になりましたが、第1の点に関しては私も従来から市場に疑問を抱いている点です。最近では、故宮展を見に行った今年1月21日付けのエントリーでついでに議論を展開して、「市場原理主義的な解決方策には疑問」を持っていることを明らかにしています。サンデル教授が最初に取り上げている行列への割込みに関しては、この点で、すなわち、故宮展を見るという点で、国民が平等に扱われるべきであるとすれば行列に並ぶことにより、おそらく、機会費用が低いであろう所得の高くない層を結果的に優遇するのも一案ではないかと考えています。もちろん、私企業であるディズニー・リゾートにおけるファストパスを否定するものではありません。そちらはそちらで別の観点からの営業政策があるのかもしれません。いずれにせよ、軽々に結論の出る議論ではありませんが、何らかの折に議論を深めて国民の間で少しでもコンセンサスに近づく努力は必要と私も考えます。その意味でも、本書は注目に値すべき出版物だと思います。
サンデル教授の前著である『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ我が家のおにいちゃんには、この本も読ませてみたい気がします。最後に、私はこの本を丸の内オアゾにある丸善で買ったんですが、邦訳よりも安い1500円ほどで英語の原書を売っていました。とっても食指が動いたんですが、結局、英語の原書は買いませんでした。読み終わった今になってやや後悔しないでもありません。
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コメント
はじめまして。証券会社でリテール営業をしているものです。といってもまだ2年目ですが。
入社した当初はわけもわからず会社のレポートや日経新聞、経済誌などの言説を信じて熱心に顧客に「投資の魅力」を伝えていましたが、少し政治経済の動きがわかるようになってからは、今の世界は何かおかしい、という考えが頭から離れなくなりました。
財政危機→信用不安→株・商品下がる→景気悪化→金融緩和→株・商品上がる→効果切れる→株・商品下がる→市場が緩和要請
この自壊的な構図、どこかで歯止めをかけないとバランスシートがおかしくなって、いずれ本当に金融システムは崩壊してしまう。そのことを誰もがわかっていながら、誰もやめようとしない。それどころかますます加速するばかりです。それに疑問を持たずに与えられるノルマをこなす為ひたすら死にもの狂いで、顧客に電話をして調子のいいことを言って注文をとり、顧客資産をいたずらに毀損している上司を見ると、とても強く違和感を感じる日々です。
今日サンデル教授のこの本を読んでいて、自分が疑問に思っていたことが全部書いてありました。要は因果応報なのだと思います。やっていいことと悪いことについての道徳的議論を怠ってきた、そのツケが今まさに世界を覆っているのかな、と。
2008年の金融危機で市場勝利主義が終焉し、何もかもが変わってしまったことを早く認め、失敗を失敗で上塗りするのをやめて、次の世界での正義を考えるのでなければ、金融業界に未来はないと思います。
投稿: ROY | 2012年6月 3日 (日) 23時19分
いろんな読み方ができると思いますが、とても興味深い出版物です。
投稿: 官庁エコノミスト | 2012年6月 4日 (月) 07時10分