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2013年8月11日 (日)

先週読んだ経済書・専門書などから

先週読んだ経済書や専門書のたぐいのレビューです。夏休みの参考図書というわけでもないんですが、私は今週後半に夏休みを取る予定にしており、その時には経済書をパスして小説ばかり読むかもしれません。

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まず、高橋洋一『アベノミクスで日本経済大躍進がやってくる』(講談社) です。著者は財務省出身で安倍政権の経済ブレーンのひとりと目される、あるいは、自称するエコノミストです。第1部が「俗説を正す」とあり、黒い日銀になる前の白い時代の日銀理論など16の俗説について論破しています。ことごとく正しいと私は受け止めています。第2部が自慢話の「アベノミクスに歴史あり」で、著者の大蔵省のころからの経験などが語られます。第3部が面白くて「アベノミクスの死角」と題されています。4点あって、面従腹背の日銀リスク、麻生副総理のサポートを失う政治リスク、税金の無駄使いの財政リスク、そして、役所が成長産業を知っているというあり得ない前提に基づいた官僚リスクです。その他についても、主張はとっても明快です。第1に、小泉政権の経済政策が成功したのは構造改革ではなくて、日銀が量的緩和を実施した金融政策の功績であり、第2に、アベノミクスの核心はインフレ目標に基づく金融政策であると指摘しています。さらに、第3に、メディアや経済界などで重視されているように見える成長戦略については、成長分野について官僚が十分な見識や情報を有しているとはとても考えられない、ということで、この3点が理解できれば十分といえます。インプリシットに、小泉政権の郵政民営化にどれだけの意味を見出すかに疑問符を付けているような気がしないでもありません。なお、ついでながら、本書でも引用されている IGM Forum におけるエコノミスト・ポールに従えば、世界最先端のエコノミストたちは、日銀が正しい金融政策を取っていれば日本のデフレは防げた、と考えているようです。ただし、最後に、先進国の中でデフレに陥っているのは日本だけではなく、スイス国立銀行の Monthly Statistical Bulletin に従えば、スイスも2年近く消費者物価の前年比マイナスを続けています。7月12日付けのエントリーで指摘した通りです。デフレという現象とリフレ政策について理解を深めるためには、このあたりはさらなる分析が必要と私は考えています。

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次に、諸富徹『私たちはなぜ税金を収めるのか』(新潮選書) です。我が母校の京都大学経済学部の財政学、すなわち、島恭彦先生、池上惇先生を継ぐラインに位置する先生です。私の在学中の財政学の担当教授は池上先生でした。現在はともかく、その昔は、財政学や金融論は官学の方がレベルが高い、などといわれていたこともありました。それはさて置き、ホッブズやロックのころの英国までさかのぼって租税を納める先としての国家を論じ、19世紀から米国に目を転じて20世紀初頭に米国が所得税制を確立する過程を考察し、現在の21世紀におけるグローバル税制としての欧州の金融取引税を取り上げています。私は経済政策とは市場の均衡が好ましくない場合にズラすことである、と常々考えていて、税制そのものによって資源配分や所得分配、あるいはマクロ経済の安定性に何らかの影響を及ぼす政策には意味があると認識していますが、本書では何ら支出先に言及がないため、少し戸惑う読者もいるかもしれません。すなわち、租税の徴収制度を維持するための租税にどれだけ意味があるか、については否定的に考える論者もいる可能性があります。例えば、トービン税は国際間の金融取引を何らかの必要に応じてブレーキをかける税制であって、金融取引に課税すること自体に意味があるんですが、その税収をどのように使うのかと考えるのも頭の体操として必要な気がします。なお、私はマルクスの『資本論』全3巻を読んでいて、役所の採用面接でも自慢したくらいですから、何ら気にならないんですが、京都大学経済学部の財政学はマルクス主義経済学に基づいています。このあたりは、いわゆる帝大の経済学部の伝統であって、一橋大学や神戸大学などの高商の経済学部とは伝統が異なります。何ら、ご参考まで。

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そして、小島明『日本経済はどこへ行くのか』 1-2 (平凡社) です。著者は日本経済新聞出身のジャーナリストです。第1部の副題が「危機の20年』、第2部が「再生へのシナリオ」となっています。第1部では1998年からデフレが始まったと同定し、ジャーナリストらしく総花的なデフレ論を展開しています。タイトルは「複合デフレ」です。国家公務員として作文する時、わけが分からないとか、そこまでいわないまでも、十分に解明し切れていない時に、「構造xx」とか「複合xx」と称しておけば便利であると先輩から聞いた記憶があり、ジャーナリストの世界でもそうなのかもしれないと勝手に想像しています。第2部では我が国経済の潜在力と称して、いかにも出来の悪い生徒を擁護して先生や環境のせいにするような論調には少し違和感を覚えます。しかしながら、長い経験に裏打ちされた主張には耳を傾けるべきものも多く、第1部の p.216 から始まる高齢者優遇に関する批判については、私も大いに同意できます。私もよく用いる「シルバー・デモクラシー」、また、「高齢者ポピュリズム」、さらに、「世代の品格」という言葉まで動員して世代間不公平を論じます。圧巻です。ただし、メディアの論客として、やっぱり、アベノミクスの成長戦略に対して過剰な期待をにじませており、霞が関の官僚たちが日本の成長分野に関して大いなる情報を有しているとの誤解を読み取れます。また、日本再生のためには貯蓄主体となり資金リッチになった企業が、いかなる方法でその資金を生産的な用途に振り向けるかにかかっていることを忘れるべきではありません。私が考えるに2つの方法があり、第1に資本蓄積、すなわち、設備投資を行うことです。第2に賃金支払、すなわち、国民の所得へのトランスファーです。いずれも税制で対処するのが効率的であり、投資減税は現在でも議論されていますが、賃金支払の損金控除の拡大などで賃上げに振り向けるように誘導することも可能でしょう。後者の議論はとても不足していると私は受け止めています。

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続いて、小幡績『ハイブリッド・バブル』(ダイヤモンド社) です。著者は大蔵省出身の慶応大学のエコノミストです。前著の『リフレはヤバい』(ディスカヴァー携書) は3月14日付けの記事で取り上げ、その際に、モデルが理解できなくて、「全体として整合的なモデルの中での理論分析になっているかどうかはやや怪しい」と書いたんですが、そのせいかどうか、第8章の補論で理論モデルを提示しています。従って、このモデルはよく分かりました。要するに、市場参加者を3つのタイプに分け、テールリスクを無視する限定合理的な投資家の存在により国債バブルが安定的であると主張し、従って、国債暴落の可能性は小さい一方で安楽死に至る可能性が高いが、これを回避するためには国債償還という財政再建を実行するのが王道、ということになります。特に面白みのない議論というのが私の受止めです。まあ、有り体にいえば、「だからどうした」ということなのかもしれません。疑問を簡単に2点だけ提示すると、第1に、この「ハイブリッド・バブル」の理論モデルはホントに1980年代末の日本型バブルや米国のサブプライム・バブル、あるいは、ほかのバブルを整合的に同じ理論モデル内で定式化できるかどうかです。リンゴが落ちるのに星が落ちないのを見て、ニュートンは万有引力を発見しましたが、リンゴと星に個別それぞれの引力の法則を当てはめたとしたら、トンデモ理論と見なされかねませんが、同様に、それぞれ個別のバブルに別個の理論モデルを用意しなければならないのであれば、もしそうならば、その理論モデルには何らかの疑問が残るといわざるを得ません。第2に、バブルは国債ではなく、貨幣としての、あるいは、もっといえば、fiat money としての円に対して生じていた可能性があります。すなわち、流動性の罠の下では国債は貨幣と無差別となりますから、円という貨幣に対するバブルが国債に対するバブルに見えた可能性を指摘しておきたいと思います。円は通貨として外為などの資産市場で取引される金融資産であることを思い出すべきです。

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また、下田淳『ヨーロッパ文明の正体』(筑摩選書) です。少し専門から外れるんですが、経済史も経済学のうちで大学で授業を取ったりしていましたし、出向した地方大学では経済学部長は日本経済史の先生だったりしました。本書は棲み分け論に基づくユダヤ人虐殺からひも解き初めて、最終章は欧州における資本主義の誕生で締め括られています。なお、補論で日本における資本主義化の成功を解き明かしています。経済史の場合、マルクス主義的な史観を用いることが決して少なくないんですが、本書もそういった傾向は見られます。それはさて置き、本書のテーマは「なぜヨーロッパで資本主義が発生したのか」を解明するという、今まで散々取り組まれて来て、その上で決定的な答えの見つかっていないテーマとなっています。私も読み始めた段階からムリがあることを承知の上で、それほど期待せずに読み進んだりしました。本書のキーワードは京都大学における霊長類研究で著名な今西錦司教授の用いた「棲み分け」となっていますが、結果的に私の目から見てやっぱり失敗しています。まず、「資本主義」の定義から始めるべきですが、資本主義が定義されていません。さらに、気候決定論や地理決定論を廃して、棲み分け論や貨幣のネットワークに資本主義の起源を求めようとしていますが、資本主義の定義をしていないために、トートロジーに陥っているような気がします。「資本主義が存在したから資本主義が勃興したのである」と結論しているように私には見えます。分業の発生についても説得的ではありません。最初から期待は高くなかったものの、やっぱり残念です。

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さらに、やや経済からも外れて、グッドマンほか『若者問題の社会学』(明石書店) です。かなり専門外なんですが、著者や編者は社会構築主義に立脚する社会学者であり、日本の若者論を解明しています。社会構築主義は本質主義に対立する概念であると私は理解していますが、違っているかもしれません。はなはだ自信のないことで申し訳ありません。序文は『絶望の国の幸福な若者たち』の著者の古市憲寿氏です。私も読みました。本書では、帰国子女、援助交際、体罰、児童虐待、ひきこもり、ニートなどを取り上げており、おそらく、ニートに関する分析の結論があまねく当てはまるんでしょうが、p.276 にいう通り、「日本の文脈におけるニート出現の事例は、一握りのキーアクターが協調して行ったクレイムメーキングの成果であった」ということになります。これではみもふたもないので、少しだけ体罰や虐待について、暴力という観点から私なりに補足します。本書の主張ではなく、私の理解では、近代的な法治国家においては暴力は国家だけに認められたカギカッコ付きの「特別な行為」ということになります。ですから、教育的な観点からの体罰や躾を目的とした虐待については否定されるべきです。逆にいえば、合法的な暴力はただ一種類であり、それは、主権を持つ国民から選出された議員からなる議会により法律が制定され、その法律に基づいて裁判所が認定し、かつ、裁判所の判決に基づいて執行機関として政府が暴力を執行する、ということになります。それ以外は、家庭の虐待はいうまでもなく、学校やスポーツ指導の場などにおける体罰も、近代的な法治国家では暴力として許容されない、というのが私の基本的な考えです。もちろん、現実にはクリアに暴力かどうかの認定が難しいのは理解しますが、原則は守られるべきです。

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最後に、もっと経済から外れて、ゲーリー・トーベス『ヒトはなぜ太るのか?』(メディカルトリビューン) です。とても興味ある話題なんですが、さらに私の専門から外れます。ヒトが太る原因について本書は明快であって、食べるカロリーと消費するカロリーの差で決まるのではなく、炭水化物の摂取によってヒトは太るのであり、脂肪やタンパク質はいくら摂取しても太らない、と延々と主張しています。確かに、肥満や過体重の問題については、せいぜいが人類においては数百年の歴史しかない問題でしょうから、著者の主張には納得できる部分が少なくありません。ただし、私は専門外なので何とも判断はつきかねます。

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