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2014年5月 4日 (日)

アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(ビジネス社) を読む

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ゴールデンウィークの読書のひとつの目標にしていてたアイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(ビジネス社) を読み終えました。ほぼ1週間かかりました。通常の単行本200-300ページくらいであれば、1-2日で読み終えるんですが、私としては読み終えるのに異常に長くかかった印象です。この作品は言わずと知れたリバタリアンのバイブルのように見なされている本です。私はエコノミストとして、リバタリアンよりはむしろ極論すればマルキストに近いんではないかと、自分自身で思うくらいなんですが、米国人エコノミストと接していて本書に言及する場合がかなりあって、年に1-2回くらいですが、まあ、参考までにまとまった時間の取れるゴールデンウィークに公立図書館から借りて読んでみました。
あらすじは、日本アイン・ランド研究会なる組織があるようですから、そちらのサイトでもご覧いただくほうが適当なんですが、あえて記せば、米国の鉄道会社の業務副社長の女性と画期的な合金を発明した製鉄会社社長の男性を主人公にしつつ、米国が社会主義的な計画経済を始めてしまって活力を失っていく中で、主人公たちや "Who is John Galt?" と何度も繰り返されるジョン・ゴールトなどは、米国経済の第一線から退いてコロラド山中のゴールト峡谷に新しいコロニーを作り上げる、というものです。
この本の最後にある「訳者あとがき」に山形浩生氏に「アドバイスをいただいた」(p.1270) という表現があるので、評価する経済学の傾向からして、どう考えてもおかしいと思って山形氏の以下のサイトを見ると、確かに、翻訳のアドバイスはしたのかもしれませんが、小説の内容はコテンパンに評価してありました。当然、そうなんでしょうねという気がします。かなり私の評価と似通っていますので、ここでもリンクを張っておきます。ついでに、この本が出た時に朝日新聞の書評が、やっぱり、山形氏が書いていて、コチラのリンクもお示ししておきます。なお、山形氏はリンクを示した上の方のサイトで、翻訳者とのやり取りを示した上で、「こんな人がランドを翻訳するというのは、実に不安。」と書いています。もっとも、その直後に「送りつけてきたので、この大著をチェックするはめになっている。訳は思ったよりまとも。」とも書いています。ご参考まで。

さて、山形氏のサイトでは「すさまじい小説」と表現されていて、私も1200ページを超える量とともに、作者の考えを反映しているのであろう登場人物の考え方に驚いています。量が多い原因のひとつは、作中のリバタリアン的な傾向を持つ主要な登場人物が何度も大演説をぶつからで、特に、"Who is John Galt?" のゴールトがテレビとラジオを電波ジャックして、p.1088 から延々としゃべるシーンが印象的です。その中で、 p.1146 において政府に関する考え方が いかにもリバタリアン的に以下のように要約されています。なお、傍点による強調は太字に変更してあります。

唯一適切な政府の目的は人権の保護、すなわち人民を暴力から守ることだけだ。適切な政府は警察にすぎず、人民の自己防衛の代理として行動し、ゆえに、武力攻撃をしかけてきた相手に対してのみ武力にうったえることができる。適切な政府の機能とは、犯罪者から人民を守るための警察、外国の侵略者から人民を守るための軍隊、そして契約違反や詐欺から人民の財産や契約を保護し、客観的な法律にもとづく合理的な規則によって争いを解決する法廷だけだ。

リバタリアンの考え方は、かなり経済的な概念だと私は考えていたわけですし、この小説は経済小説なんではないかと想像していたんですが、上の引用の通り、「経済」という言葉はほとんど出て来ません。もっと出て来ないのが「金融」ですし、「米国大統領」に至ってはまったく登場しません。ひたすら、経済活動に対して規制をかけたり指令を出したりする政府当局者に対する憎悪で凝り固まった小説だという気がします。作者のバックグラウンドを考えるとうなずけるかもしれません。他方、「金融」や「銀行」はほとんど登場しませんから、自由な経済活動を求める産業資本家を褒め称える内容になっています。もっとも、すべての産業資本家が賞賛の対象になっているわけではありません。競争を回避しようとしたり、市場経済を否定するがごとき企業家はいつの世の中にもいますし、この小説でも憎悪と嘲笑の対象とされています。また、ケインズの有名な「長期には我々はみんな死んでいる」という言葉が、2度ほど違う形で引用されており、ケインズ経済学的な考え方にも否定的な姿勢を示していると私は受け止めました。
経済と政府の関係について、リバタリアン的に政府はいっさい経済に介入すべきではなく、すべてを市場に任せるべきである、とする極論と、逆に、経済活動のすべてに対して計画に基づく指令を発する社会主義という極論と、いずれの制度も現実には存在しません。この両極論の間のいずれかに現実の各国経済は位置しています。もっとも、現時点では、リーマン・ショック後の Great Recession を経て、特に金融分野で政府のプレゼンスを高めようとする方向にある時期なのかもしれません。いずれにせよ、政府と経済ないし市場との関係は唯一絶対の指針があるわけではないと私は考えています。同時に、私はリバタリアン的な経済学は科学としての経済学の体をなしていないと考えていますが、「眉に唾」しつつリバタリアンのバイブルを手に取るくらいの度量の広さは示せたかもしれないと自負しています。逆に、読めばその書物に心酔してしまうタイプの読者にはオススメできません。

昨日から始まったゴールデンウィーク後半はチンタラとした読書に明け暮れそうな予感が漂っています。取りあえず、『肩をすくめるアトラス』を読み終えた後、昨日今日と有栖川有栖の火村シリーズを文庫本で読んでいたりします。

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