今週の読書はチャールズ・ファーガソン『強欲の帝国』ほか
今週の読書はチャールズ・ファーガソン『強欲の帝国』ほか、専門書や教養書が中心に新書も含めて以下の通りです。この連休には小説も読みたいと考えています。
まず、チャールズ・ファーガソン『強欲の帝国』(早川書房) です。紙幣が燃えている表紙なんですが、テーマはサプブライム・バブルの崩壊とその後の金融危機です。著者はマサチューセッツ工科大学(MIT)で政治学の博士号を取得し、しばらく社会科学分野の研究者をした後、現在ではドキュメンタリ映画の監督をしています。リーマン・ショックの真実に迫った映画『インサイド・ジョブ』でアカデミー賞のうちの長編ドキュメンタリー映画賞を授賞されています。原題は Predator Nation で、昨年2013年5月の刊行です。何せ、延々とサブプライム・バブル崩壊後の金融危機を招いた「犯人」を数え上げ、どうして何の責任も取らずに、のうのうと引き続き億万長者の生活が送れているのか、を問うています。システムとしての政策だけでなく、その政策の背後の決定責任者はもちろん、投資銀行の経営者やトレーダー、あるいは、金融業界に好意的な姿勢を示した経済学者など、バブルでどれくらい儲けたのか、バブル崩壊後の金融危機に対する責任をどう考えるのか、などなどについて、特に、刑事責任を問われなかった「戦犯」を糾弾します。第7章を別にすれば個人攻撃ばかりと見えなくもなく、また、罪人を特定するのは日本人的な組織論の心情に合わないかもしれませんが、事実を事実として受け止めるには最適のノンフィクションです。私自身は何かの折に書いた通り、この手に事実関係については『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』にとどめを刺すと考えており、やや遅れてやって来た本だと受け止めています。新聞の書評のうち、私が目にしたのは以下の通りです。
次に、グレゴリー J. カザ『国際比較でみる日本の福祉国家』(ミネルヴァ書房) です。著者は社会科学者ですが、専門分野は社会保障や福祉ではなく、日本という地域そのものだったりします。とても面白い観点で、社会保障、というか、福祉について、日本の特殊性というものを認めつつ、特殊性よりも普遍性の方を重視し、将来にわたって福祉国家は日本だけでなく欧米やアジアも含めて収斂する方向にあることを論証しようとしています。なお、日本で社会保障という場合、医療・年金・介護が大きなカテゴリーなんですが、この本で福祉国家という場合、著者は医療と年金に加えて雇用をコンポーネントに考えています。それはともかく、福祉国家のレジームとしてはエスピン-アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』による分類が確立されており、英米やアングロ・サクソン的な自由主義、独仏をはじめとする大陸欧州の保守主義/コーポラティズム、そして、北欧諸国に見られる社会民主主義の3レジームであり、日本はこのどれにも属さない独自の中間的なレジームであると『福祉資本主義の三つの世界』では分類されています。専門外ながら、私が今まで見たところ、このエスピン-アンデルセンのレジーム論に挑戦して成功した例はなく、誠に残念ながら、この本の著者の議論もまったく同様に、エスピン-アンデルセンのレジームへの挑戦は失敗しています。特に、福祉国家に雇用を含めるのであれば、日本は社会保障を通じて国民に税金を還元する「福祉国家」というよりは、農業補助金や公共事業による還元を選択した「土建国家」であり、特に、失業給付や職業訓練などによる社会保障的な雇用の流動化ではなく、雇用調整金などによって労働の要素移動を阻害する形で、社会保障的な雇用政策を避けて来ており、それが「岩盤規制」とまで呼ばれるようになった雇用制度を生み出している点については、もっと掘り下げた分析をして欲しかった気がします。でも、著者自身の信ずるところと異なっているので、気がついていながらも軽視した跡が見られました。どうでもいいことながら、同じミネルヴァ書房の同じMINERVA福祉ライブラリーのシリーズだからしょうがないんですが、四方から四色の色が迫り出してきて、エスピン-アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』などの同じシリーズの他の本と見分けのつきにくい表紙デザインとなっています。もちろん、新書などでまったく同じデザインの表紙が並んでいる場合も少なくないわけですが、識別性を持たせるために、何かもう少し工夫はできなかったんでしょうか。
次に、ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(左右社) です。著者は社会人類学を専門とするアバディーン大学教授です。一応、通して読んだんですが、誠に残念ながら、私にこの本を評価することは難しいと感じました。ただ、2点だけコメントしておきたいと思います。まず、第1章に関して、音楽は歌であると著者は前提しているようですが、私は疑わしいと考えています。何せ、クリスチャンは「初めに言葉ありき」ですから、音楽に歌詞は絶対に必要と考えているフシがあるんですが、音楽の構成要素を著者に倣って3つ、すなわち、歌詞とメロディとリズムと仮定すれば、原始的な音楽はリズムから始まったんだろうと思います。それにメロディが乗っかって最後に歌詞を付けて歌われるようになったんではないでしょうか。すなわち、「初めに言葉ありき」ではなく、言語が成立する前から音楽は何らかの形であった可能性を考慮すべきです。次に、第5章の p.204 以下の書に関する考察について、書を舞踏になぞらえて動学的な作成過程を連想させる芸術、すなわち、筆の運びを感じ取れるような芸術と考えるのは、私は初めてこのような議論に接しましたが、やや違和感を感じざるを得ません。書は石川九楊先生の説の通り、筆蝕を見る芸術であり、水彩画と同じで2次元的な芸術と私は考えています。ランガー教授のように、芸術を4つのカテゴリー、すなわち、文学、美術、音楽、舞踏に分類した場合、テキスト・ベースの文学と書は異なりますが、基本的に、書は美術に分類されると私は考えています。美術は2次元的な水彩画と版画、絵の具の厚みまで感じるとすれば3次元的な油彩画と彫刻、などに分類できますが、書は基本的に前者だろうと私は考えています。ただし、私の書道の師匠故飯塚竹径先生の説の受売りなんですが、書については単なる筆蝕ではなく、字として認識される必要がある、という点は忘れるべきではありません。私の師匠の上げた例ですが、字として認識されるために、例えば、点のあるなし、あるいは、点の場所で、「大」と「犬」と「太」は当然に区別されなければなりません。さらにもう1点の留保で、書を動学的な作成過程を連想させる議論については、おそらく、中国的な漢字の書ではなく日本的な和様の仮名の書に当てはまる可能性があります。小野道風のような分かち書きや重ね書きなどで、上から下に運筆されるのは当然としても、必ずしも右から左に運筆されるのではなく、左端まで書いてしまうと右に飛んだり、あるいは、その名のごとく重ねて書いたりするのは、あるいはこの本の著者の言う舞踏のように動学的な書の分類に通ずる何かがあるかもしれません。書を作成する過程といえば、私のような初心者が連想するのは髪を振り乱して立膝のようなお行儀の悪い姿勢で一心不乱に取り組む小野道風の姿だったりします。
次に、大喜直彦『神や仏に出会う時』(吉川弘文館) です。著者の専門は信仰社会史と自ら称する分野で、本願寺史料研究所に所属する研究者です。学位も取得しているようです。当然に、浄土真宗関係の記述が多くなりますが、私自身が一向門徒ですので違和感はありませんでした。もっとも、一般化は出来ないような気もします。中世から江戸中期の近世における我が国の宗教、仏教やましてや浄土真宗に限らず、神々に対する素朴な信仰まで含めて、当時の人々の生活と宗教への信仰が明らかにされています。学術書並みに史料を駆使して深く掘り下げた部分もあれば、最終章で取り上げられている真宗寺院性応寺の了尊の門徒との絆を深める旅の解説まで、悪く言えば精粗区々かもしれませんが、幅広く記述の対象にしているとも受け取れます。特に、一向宗の祖師親鸞聖人の木像や御影が、現在のような通信・伝達手段やコピー手段を持たない時代に面授の役割を果たしていたというのは、専門家ならざる私には未得の知識でした。イスラム教徒のように偶像を強く忌避する宗教もありますが、高僧の御影や「南無阿弥陀仏」の名号の文字を有り難く拝見する私のような俗物には、目に見えて、あるいは、手で触れる何かは信仰にとって重要だという気がしました。
次に、工藤啓/西田亮介『無業社会』(朝日新書) です。私くらいまでの世代では高校や大学を卒業して、当たり前に正社員として働くことが出来ていたんですが、現在ではフリーターやニートになる可能性もかなりあります。この本の読ませどころは若年就労支援NPOの活動実績から、典型的な無業青年の履歴書的な属性を明らかにする第2章、無業青年に関する誤解を集めた第3章などなんだろうと思うんですが、逆に第4章以下は物足りない印象です。でも、働いていないことや就業しない点について無業青年自身の自己責任に帰そうとする議論は、私のこのブログでも従来から指摘している通り、まったくの誤解です。ただ、若年就労支援NPOの行っているようなマイクロな支援とともに、マクロの成長政策が重要なんですが、後者のマクロ政策についてはこの本のスコープには入っていません。私自身はニートやフリーターの就業を阻害しているのは、日銀のデフレ政策の役割も小さくなかったんではないかと考えています。また、ほぼ100パーセント投票で政治的に決まる社会保障だけでなく、かなり規制の大きな労働市場でも世代間の不平等が観察されると私は認識しているんですが、その点についてもスコープからは外れているようです。加えて、伝統的な経済学の議論のように、労働をレジャーとの代替関係で捉えるのではなく、すなわち、余暇を犠牲にして所得を獲得する手段としての労働ではなく、何らかのスキルを向上させて人生を豊かにする労働というものについて考えさせる本です。とてもオススメです。
最後に、石川幹人『「超常現象」を本気で科学する』(新潮新書) です。約2か月前の5月17日付けのエントリーでNHK取材班『超常現象』を取り上げましたが、その同じラインにある本で、特に幽霊に重点を置いて、「幽霊がいるか、いないか」ではなく、「幽霊は役に立つか」、あるいは、「幽霊は意義があるか」を考察しています。以前にも書いたかもしれませんが、観察される事実のうち現在の科学で解明できている部分は100パーセントではなく、その欠けた部分が超常現象ということになります。もっとも、これは自然科学における超常現象であり、社会科学については、例えば、私の専門である経済学で説明し切れない経済現象の方が、説明できる部分よりも多いくらいなんではないかと思ったりします。景気が不況になるのも、不況から回復するのも、すべて超常現象ということになりかねません。そうなれば、経済に関しては超常現象ばかりということにもなりかねません。しかし、私自身の歴史観、あるいは、もっと絞って科学史観は西欧的な一直線の進歩史観に近いと言え、そのうちに、100パーセントに達することはないかもしれませんが、超常現象に分類される部分は徐々に小さくなる可能性が高いと思っています。そして、それは科学の、あるいは、社会の進歩なんだろうと考えています。その意味で、こういった本が出るのは科学の発展段階がまだ不十分なのであろうと思います。あるいは、いつまでたってもそうなのかもしれません。
今週は教養書ばかりで、フィクションの小説を取り上げることが出来ませんでした。来週は何とかしたいと考えています。
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