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2014年10月 5日 (日)

先週の読書は『銀行は裸の王様である』ほか

先週の読書は経済書や教養書などを中心に、やや小説は少なく、『銀行は裸の王様である』ほか、以下の通りです。

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まず、アナト・アドマティ/マルティン・ヘルビッヒ『銀行は裸の王様である』(東洋経済) です。著者2人は金融論や銀行規制論に関する研究者であり、本書では借入れ全般に対するキリスト教的な禁欲的姿勢をにじませ、事業会社のアップルやトヨタなどの無借金経営の会社に触れつつ、銀行が過剰貸出しを行って金融危機を招かないための方策として自己資本比率の大幅な引上げ、具体的には20-30%の自己資本比率規制の導入を提言しています。そして、この提案に同意しない銀行業界の経営者たちの反論に対して根拠をもって、本書の提言の正当性や効果を展開しています。単純に考えれば、自己資本比率はレバレッジの逆数であり、高率の自己資本比率規制を行えばレバレッジが低下して、上下両方、すなわち、利益率も損失率も低下することになりますから、金融危機の防止策としてはそれなりの有効性がありますが、同時に、銀行業界の利益率を低下させる可能性もあります。ですから、銀行の経営者は反対するわけです。20-30%の自己資本比率規制というのは、現行の10%程度からかなり高く、サブプライム・バブル崩壊後の金融危機を目の当たりにして、やや「羹に懲りてなますを吹く」感がありますが、キチンとした根拠が示されれば、オッカム法則にも即した極めて単純な政策であり、効果は期待できると私も考えます。もちろん、本書でも指摘されているように、スティグラー的な「規制の虜」と化した政府の役割を確立する必要についてはいうまでもありません。

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次に、ニコラス・フィリップソン『アダム・スミスとその時代』(白水社) です。著者は英国の、というか、スコットランドの歴史家であり、本書はタイトルから明らかな通り、近代的な経済学を確立させた『国富論』の著者であるアダム・スミスの伝記です。一応、念のためですが、1723年に誕生し1776年に『国富論』を出版しているスミスの活躍の舞台18世紀スコットランドは、1707年のイングランド・スコットランド・ウェールズによるグレート・ブリテン成立の直後の時期であり、1801年の北部アイルランドを含む連合王国成立の前ですから、ちょうど時期的に先月にスコットランド独立の国民投票が否決されたタイミングでもあり、その意味でも興味深い部分が見かけられました。最初に、スミスについて『国富論』の著者と書きましたが、経済学を専門とするエコノミストの中でも、スミスの業績については『国富論』とともに『道徳感情論』を重視する向きもあり、本書ではこの両者はほぼ対等に扱われていると私は受け止めています。ただ、私自身の興味の範囲に従って『国富論』や近代的な経済学の成立に関してウェイトを付けて読み進んだことは確かです。このため、スコットランド人であるヒュームとの交流に比べて、バクルー公の家庭教師としてグランドツアーに赴いた途中パリでのケネーなどとの交流が少し軽く扱われているような恨みもなくはない気がします。スミスの教育者としての姿勢にいくつか興味深い点を私は見出したりしました。例えば、修辞学についてはユークリッド幾何学に基づく数学的な方法論に依拠したり (p.130)、どうでもいいことながら、教授の弁論よりもノートを取ることに懸命な学生を「写字生」と称して嫌ったり (p.180)、といった点です。もちろん、いわゆる重商主義が幅を利かせる時代にあって近代的な経済学を確立した業績はあまりにも大きく、労働を基礎として成長を重視し、従って、生産力拡大のための分業を社会の原理として、余剰生産物を他者との取引に提供することから近代的な市場が成立するとした卓見は今でも輝いていると私は受け止めています。

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次に、五島綾子『<科学ブーム>の構造』(みすず書房) です。著者は実験化学出身の研究者であり、ジャーナリストやライターではないんですが、とてもよく下調べが行き届いており、文章も読みやすく仕上がっています。科学ブームのエピソードとして殺虫剤のDDTとナノテクノロジーを取り上げており、前者については当然ながらレイチェル・カーソン『沈黙の春』とケネディ・リポートにも触れています。前者・後者とも米国における科学ブームが中心なんですが、後者については日本におけるブームの構造についても検討を加えており、最終的な結論である「ごく一部の大学や公的研究機関の研究者と大企業の技術者が研究開発をおこなうことが、ほんとうに成功への一番の近道なのだろうか。」(p.237) と疑問を呈しています。著者が正面から取り上げている言葉ではありませんが、2013年10月5日付けのエントリーで取り上げたアセモグル & ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』におけるキーワードだった「包括的 inclusive」が研究開発でも重要である可能性を示唆しています。逆の視点から批判されているのが、「原子力ムラ」と称されることもあるような形での科学技術開発の姿であり、「国策による推進と莫大な予算投入、その状態の維持のためにある種の専門的神秘性をはらんだ神話が一定の役割を果たしたこと、利害関係をもつアクターたちが閉じた議論によって不確実性を見えにくくしていたことなど」(p.245) と指摘しています。もちろん、科学技術がブームになるのは経済的な利益のためなんですが、いちじるしい情報の非対称性のために市場では評価できかねますから、そのための専門家の存在は必要ですが、クローズな場での説明責任を果たさない議論は避けたいものです。これも正面切って取り上げているわけではありませんが、原子力とともに、理研のSTAP細胞のブーム、というか、むしろ「事件」にも目配りしているような印象がありました。最後に、ひとつだけ科学ブームへの批判たる本書への批判として科学ブームを擁護すれば、中世の錬金術のように、本来の意図に沿った成果は全くもたらさなかったものの、それなりに科学の進歩に貢献したブームも歴史的には存在したように私は受け止めています。従って、科学ブームにも一定の評価すべき効用がなくもない気がします。

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次に、レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』(文藝春秋) です。著者はイスラム教徒で、ナザレのイエスを歴史的かつ宗教的に考察しています。前の2冊の翻訳書は邦訳タイトルがほぼそのままだったんですが、本書の原題は Zealot: The Life and Times of Jesus of Nazareth ですから、Zealot は本書の訳者にして「革命家」と邦訳せしめています。すなわち、ナザレのイエスの実在を問うのではなく、イエスがキリスト=救世主だったのかどうかを作者は本書で問うています。そして、作者の結論では「革命家」としてのナザレのイエスが実在し、ローマ帝国の支配層やこれと結託したユダヤ人の中の上層部に反抗した一方で、宗教家として後世に伝えられるようなイエスについては疑問視しています。本書の著者がイスラム教徒であることから、本書が米国で一気に有名になったのは、保守系のフォックス・ニュースのインタビューであり、イスラム教徒の作者による本書に対する偏見を見事に克服し、リベラル系のアトランティック誌やニューヨーク・タイムズ紙に注目されたのが、ベストセラーに名を連ねるひとつのきっかけになっています。ローマ帝国に反逆する「革命家」たるイエスが始めたキリスト教が、土着のユダヤ人ではなくギリシャ語やラテン語を理解する教養あるディアスポラのユダヤ人によって世界に広められたあたりから変容を来し、さらにローマ帝国の国教とされるに及んで世界宗教として成立したわけですが、その過程で創始者たるナザレのイエスの「美化」が特にキリスト教徒の間で生じ、左の頬を打たれたら右の頬を差し出すような平和主義者で穏やかな人格者「イエス・キリスト」像が世界に広まって、過激で破壊的な「革命家のナザレのイエス」が後景に退いたことが示唆されています。どんな宗教でも宗祖さまは美化されるものだとはいえ、現実の歴史的に残されている人格との乖離を描き出そうとしています。
なお、ほかにもいっぱいあるんでしょうが、以下のリンクはユーチューブにアップされているフォックス・ニュースのローレン・グリーンから著者へのインタビュー動画です。本書の訳者あとがきで指摘されているものです。とても分かりやすい英語で10分ほどかけても、イスラム教徒の著者がキリスト教の宗祖であるイエスを取り上げる資格があるかどうかで延々とやり取りがあって、話がまったく進んでいないのが理解できるでしょう。メディアとしてのフォックス・ニュースの質の低さを物語るひとつの証拠ではないかと思います。何らご参考まで。

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最後に、有栖川有栖『論理爆弾』(講談社ノベルス) です。空閑純シリーズの3冊目です。2012年12月に単行本として出版されたんですが、先月9月にノベルズ化されています。ついでながら、このシリーズの1冊目の『闇の喇叭』と『真夜中の探偵』も今年になって相次いで講談社文庫から文庫化されています。当然ながら、私は3冊とも読んでいます。その昔の高校生くらいの時に読んだ半村良『軍靴の響き』のように、このシリーズでは、歴史の分岐点で別れてしまったパラレル・ワールドのような架空の世界、そこでは第2次世界大戦後に北海道だけがソ連=ロシアに占領されたため、現実の朝鮮半島のように日本が南北で分断国家になった世界で、「北」に対する警戒感からナショナリズムが賞揚されて私的な探偵行為が禁止されている風変わりな世界を舞台にしています。シリーズ第1作『闇の喇叭』ではすでに主役の空閑純の母親は行方不明になっており、父親と2人で母親の消息を待ちながら福島県の母親の出身地での生活が描かれ、そこで起こった不思議な殺人事件を父親が解決しながらも、私的探偵行為のかどで父親が逮捕されるところで終わります。第2作の『真夜中の探偵』では1人ぼっちになった空閑純が大阪に移り住み、両親に探偵の仕事を依頼し応援していた人物達と出会います。やっぱり、風変わりな殺人事件が起こります。そして、本作『論理爆弾』では空閑純が母親の消息をたどって九州に渡りますが、そこでは北の工作員が発見・追尾されるととともに、純の滞在先の寒村がトンネル事故で外界から孤立する中で、またまた不可解な殺人事件が起こります。明るくてコミカルに展開する印象のあるこの作者の作品なんですが、このシリーズだけは設定が重くて暗いのが特徴です。「母を訪ねて三千里」のように延々と続きそうなシリーズです。

さて、来週末は体育の日がお休みになり、またまた3連休になるわけですが、明日からノーベル賞の発表も始まりますし、私の読書やいかに?

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