今週の読書は『経済学者、未来を語る』ほか以下の通りです。
まず、イグナシオ・パラシオス=ウエルタ[編]『経済学者、未来を語る』(NTT出版) です。著者はロンドン経済大学 (LSE) の教授であり、タイトルから理解できる通り、著名なエコノミスト10人が100年先、すなわち、2113年の経済や世界についての予測を寄稿して編集されています。ただし、その前提にあるのは1930年のケインズの講演録「わが孫たちの経済的可能性」です。10人のエコノミストの見方はそれぞれで、例えば、予測の仕方についても、「現在の傾向から推定する」(p.180) というエコノミストもいれば、「未来の予測においては新しいアイデアの提案が欠かせない。現在の傾向から未来を推測するだけでは不十分だ。」(p.199) という意見もあります。また、将来予測が自分の専門分野に集中するのは当然で、それが金融市場のリスクだったり、地球環境問題だったり、テクノロジーだったりします。要するに、寄稿したエコノミストによりバラバラなわけです。バラバラな中で、第1章のアセモグル教授の稀覯論文だけでも読んでおく値打ちがあると私は考えています。また、ほぼすべてのエコノミストに共通して、未来に対する楽観論が支配的だという印象を受けました。もちろん、手放しの楽観論ではなく、慎重な楽観論が主なんですが、少なくとも、マルサス的、というか、ローマ・クラブ的な悲観論は控えめにいっても少数派だと見受けました。ケインズは「わが孫たちの経済的可能性」で、国民生活の豊かさが4倍から8倍になると予想し、これは誤差を考慮すればほぼ的中に近いと評価されていますが、週労働時間を15時間と考えて、これは大ハズレと受け止められています。しかし、蛇足ながら、ケインズの講演の趣旨が、かなりマルクス・エンゲルス的な、逆から見て、レーニン・スターリン的ではない社会主義や共産主義の社会を念頭に置いていることは意識されていないようです。共産主義の前期段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会ですが、後期段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ようになります。生産性が極めて高くなり、労働の成果物としての製品が希少性を喪失して市場における価格付けに応じた配分が、ヘーゲル的な意味で止揚された世界をケインズは念頭に置いている可能性を意識すべきです。もっとも、そんな世界が100年先にやってくるとは、私も含めた大多数のエコノミストは考えていないと思います。それを考えていたのがケインズの偉大さなのかもしれません。
次に、佐藤滋・古市将人『租税抵抗の財政学』(岩波書店) です。財政学というよりも社会保障論に近い印象で、著者のお二人はどうも井出英策教授のお弟子さんらしいカンジです。井出教授の『財政赤字の淵源』については、このブログでも一昨年2013年1月12日付けの読書感想文のブログで取り上げています。ということで、とてもリベラルな社会保障論・財政学が展開されています。本書では「財政破綻」の言葉の意味が通常と異なって使われており、普通は歳入が歳出に追い付かずに財政赤字が膨らんで市場から政府のソルベンシーに疑いが生じ、財政資金のファイナンスが困難になったり、そのために国債価格が暴落したりする現象を指すんですが、本書では財政が本来のリスク・プールをはじめとする社会保障などの機能や役割を果たせなくなった状態をいっているような気がします。その上で、財政破綻の原因は、基本的には、高度成長期の減税政策にあるとし、米国はともかく、欧州諸国が戦後の経済成長期に税収を増大した結果として歳出を拡大して福祉国家の建設を目指したのに対して、我が国では税収が増加した一方で減税を実行して福祉政策の充実を目指さなかった点が強調されています。さらに、財政破綻に対する処方箋としては、勤労所得だけでなく資産所得などを含めた総合課税による課税ベースの拡大を志向しています。税収の増加と累進構造によって格差是正にも役立ち、財政の所得再分配機能と財政赤字削減の一石二鳥の気がしますが、やっぱり、後者の財政赤字にも目配りされているようです。その意味で、通常の理解になる「財政破綻」にも配慮されています。とても短くて、ポイントだけをかいつまんだ議論が展開されており、現在の我が国財政の問題点が浮き彫りになっています。
次に、ジョン・スウィーニー『ハリウッド・スターはなぜこの宗教にはまるのか』(亜紀書房) です。著者は戦場ジャーナリストから英国BBCのテレビ・ラジオに転じたジャーナリストです。そして、本書の現代は The Church of Fear すなわち、『恐怖の教会』です。そして、取り上げられているのはサイエントロジーです。トム・クルーズが信者として有名かもしれません。なかなかの際物ですので、私にも判断がつきかねる部分がいくつかあるものの、著者はサイエントロジーをカルト宗教であると見なして糾弾する立場を取っています。私は何でも正面突破を図る人間なんですが、ここは、ややナナメから論評して、我が家の上の倅がもうすぐ高校を卒業しますので、私が高校を卒業して京都大学経済学部に進学する際に私の父親から学生生活上の注意をいくつか受けた記憶があります。私の父は「京都大学で手を出してはいけない分野」という表現だった気がしますが、3点あり、カルト宗教、マルチ商法、学生運動、と列挙しました。現在の私であれば、上の倅に対して、もう1点付け加えて、薬物も手を出さない対象として入れそうな気がします。カルト宗教は言語道断で、我が家は親鸞聖人がお始めになった一向宗の門徒であり、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて極楽浄土への往生を願うだけでいい、というのが私の父親の宗教観でした。私もほぼこれを受け継いでいます。マルチ商法については、バブル経済と同じで逃げ切れる自信があれば別だが、普通は出来ないので最初から手を出さない方がいい、ということで、学生運動については京都大学の特徴のひとつであるので、心から正しいと思えば引き止めない、というスタンスでした。私が上の倅に示そうとしている第4の薬物は、カルト宗教と同じで問答無用でダメ、というつもりです。ということで、読書感想文の本筋に戻れば、海外ジャーナリストの著書にありがちなところながら、インタビューをはじめとして山のように事実を積み重ね、事実をして語らしめる手法を取りつつ、とても強く著者の主観的な意向も反映されている気がします。私はカルト宗教に対しては拒否感が強く、サイエントロジーについては詳しくないながら、著者の立場に近いかもしれないと受け止めています。
次に、有栖川有栖『怪しい店』(角川書店) です。作者の作品の中で作家アリスのシリーズ、すなわち、英都大学火村英生准教授のシリーズ最新作です。長編ではなく、表題作をはじめとして5編の短編が収録されています。私はこの作者の作品のファンですから、学生アリス、すなわち、江神二郎の活躍するシリーズも含めて、アリスのシリーズはすべて読んでいると思います。本書はタイトルの通りに店をテーマにしています。その昔に、同じ作者で2001年に出版された『暗い宿』が宿をテーマにしていたんですが、本書は店です。中でも理髪店を舞台にした作品は、火村英生らしいフィールド・ワークではなく、いわゆる安楽椅子探偵の趣きがあり、推理が当たっているのかどうかは確かめようもありません。ただ、この作家の作品らしく論理性を重視して、ほとんどがキチンと時間を遡行して犯人を明らかにする正統派のミステリであり、当然ながら、私のようなファンは必ず読んでおくべき本であるという気がします。ただ、3話目に収録されている「ショーウィンドウを砕く」だけは倒叙ミステリとなっています。いずれにせよ、ミステリの短篇集ですので、手短かに終えておきます。
最後に、南直哉『善の根拠』(講談社現代新書) です。著者は禅僧です。私のような一行門徒ではなく、幾分なりとも自力の修行により極楽往生を目指しているんではないかと想像しています。ということで本書ですが、タイトル通り「善」の根拠を著者らしく仏教の観点から解き明かそうとしています。その努力をどう評価するかは読者次第という気もしますが、わたしはややネガティブです。必ずしも学術書ではありませんから、現在までの学界の既存研究の到達点をもって出発点とする必要はないんでしょうが、せめて、我が国哲学界のひとつの到達点である西田幾多郎の『善の研究』について言及くらいはして欲しい気がします。著者がまだ読んでいないのであれば言語道断というほかなく、読んだ上であくまで無視したのであれば理由が知りたい気がします。もちろん、本書はあくまで「善」に関する根拠を問うものであり、「善」そのものを対象とし、「善」とは何かを解明しようとするものではありませんが、個人の「善」と集団の「掟」を区別する以上、その定義というか、社会的な役割のようなものを最初に明らかにしておく必要があるんではないでしょうか。その上で、人間としての行動原理にいくつかの根拠があり、ひとつが本書の立場である「善悪」、ほかに「正邪」や「損得」などもあり得る中で、おそらく、他人や自然に対峙する人間としての行動原理が「善悪」であり、カント的な定言法の世界が「正邪」、経済学的な市場における交換の世界が「損得」なんではないかと私は考えています。さらに、芸術における「美醜」もひとつの行動原理になる人がいる可能性も否定できません。いずれにせよ、人間存在ではなく行動原理としての「善悪」という観点が本書では抜けている気がして、やや物足りない気がしています。
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