先週の読書感想文はアンガス・マディソン『世界経済史概観』ほか
先週の読書は、アンガス・マディソン『世界経済史概観』ほか、期待外れに終わった『検証 日本の「失われた20年」』も含めて以下の通りです。
まず、アンガス・マディソン『世界経済史概観』(岩波書店) です。先週の読書は経済書か、一般教養書かの分類に苦しむ本が多かったんですが、これは明らかに経済史を中心に据えた経済書です。第1部は紀元1年から2000年を超える最近までの歴史を記述し、第2部ではマクロ計測の歴史、特に計測を始めたペティ以降の学者の人物像を明らかにするととともに、計測の科学について論じ、最後の第3部で2030年までの方向を議論しています。なお、マディソン教授は2010年に亡くなっていますので、現時点2015年とは少し発射台が異なっている可能性はありますが無視できる範囲と私は考えています。なお、本書では、必要に応じて箇条書きで整理するなど、読みやすく工夫しているところもポイントです。例えば、我が国の高度成長については pp.199-200 に5つのポイントが箇条書されています。それから、いつも経済史について私が論じているのは、現時点で欧米が高所得の先進国であるのは、英国、というか、イングランドから産業革命が始まったからであり、どうしてイングランドで産業革命が始まったかについての説得力ある仮説はまだ提出されていません。でも、包括的かつテキスト的な出来上がりを目指した本書にこれを求めるにはムリがあります。最近、ポメランツ教授の『大分岐』が邦訳されていますので期待したいと思います。
次に、ケン・ビンモア『正義のゲーム理論的基礎』(NTT出版) です。まさに、タイトルとおりの内容ですが、英語の原題は Natural Justice であり、自然主義的な正義についてゲーム論からアプローチしています。極めて広範な文献を渉猟しているんですが、評価基準は安定性、効率性、公平性の3点で、主としてロールズとハーサニを対置して論じています。ロールズはサンデル教授の議論により、私のような専門外の一般人にも名を知られていますし、ハーサニはまさにゲーム論でノーベル経済学賞を受賞しており、その方面の専門家といえます。そして、結論としては決して一義的ではありません。すなわち、ベンサム的な功利主義に基本を置く正義とロールズ的なマキシミン原理に基づく正義の2種類を導いています。このどちらが導かれるかは、ゲーム論的な合意形成の後に合意を執行する際の執行機関の強制力によります。強力な執行機関があればベンサム的な功利主義が正義の基礎となる一方で、ゲームのプレイヤーが合意に従う可能性が低ければロールズ的な平等主義的社会契約が正義の基礎となる、ということだと私は専門外ながら理解しました。ただ、ゲーム論で私がいつも感じる疑問があり、それは時間の流れに対する感覚です。すなわち、ゲーム論ではシークェンシャルな順番は論じますが、絶対的な時間の流れはやや苦手ではないでしょうか。すなわち、市場での調整速度の問題があって、地球環境問題のように時間的な余裕がないために政府が介入すべき問題があったりするんですから、正義についても調整速度は気にかかります。それから、ベンサム的な功利主義を論ずると、必ず、社会的な推移律が成り立たないので、個人の効用関数は設定できても社会的なマクロの効用関数は設定できないとの反論が生じます。私はビンモア教授の議論に賛成で、何らかの評価関数を設定して社会的なマクロ効用関数は、あくまで暫定的な形にせよ、設定しないことには政策を立案したり、評価したり出来ない、と考えていますが、この手の推移律に基づく社会的効用関数を否定して、結局、個人の効用関数を最大化する不平等な格差理論は必ず出るものと覚悟したほうがよさそうです。
次に、船橋洋一[編著]『検証 日本の「失われた20年」』(東洋経済) です。本書はタイトルからして経済書と考えて借りたんですが、経済書は全15章プラス終章のうち、初めの方の3章まででした。基本的には、経済書というよりも教養書と考えるべきで、内容を適確に表現しようとすれば、タイトルは「1990年以降の我が国経済社会の現状」くらいになるような気がします。章ごとに著者が異なり、相互に参照しあって、いかにも一体的な編集がなされているかのような印象がありますが、いくつかの章では正反対の主張がなされており、やや散漫な印象です。例えば、1990年代のバブル経済崩壊後の経済停滞は、第2章では需要不足が原因としているのに対して、第3章では供給サイドの構造改革が必要と結論しています。第2章の分析は極めて適確であり、現在のリフレ派の処方箋とも整合的です。その意味で、第3章まで読めば十分で、せっかく手に取ったんだからという意味でもう少し読みたいなら、それでもせいぜい第5章まで、バナナの叩き売りのように、もっと積み上げても第6章までと第15章、という感じではないでしょうか。1990年代のバブル経済崩壊以降を対象にしているようで、実は、原子力政策は福島原発の問題しか取り上げていませんし、安全保障や日米同盟などの章から9.11テロとその後のテロへの対処は何の言及もありません。また、日本の経済社会とユーロの導入は関係ないと編者は考えているようです。私はユーロ圏という欧州の大きな通貨同盟の成立には興味をもつべきではないかと思案したりします。第8章の政治改革の p.194 で、官民強調や日本株式会社の本質を政府主導の経済成長ではなく、非効率産業の保護と喝破するなど、極めて大胆かつ的確な指摘があるなど、部分的にはレベルの高さを示す一方で、第13章の歴史認識の p.329 では、1992年の天皇訪中の際に天皇の即興で心をこめた言葉が欲しかった、といった趣旨で、「内閣の助言と承認」という現憲法を否定し、天皇機関説ではなく天皇実在説のようなウルトラ右翼的な方法論で、中国の歓心を買おうと言わんが如き非常に左翼的な目的を達しようとするとの誤解を招きかねない、とてもレベルの低い論説もあります。ともかく、私の期待が間違っていたのかもしれませんが、 の本でした。
次に、ジェフ・ダイヤー『米中 世紀の競争』(日本経済新聞出版社) です。著者は英国、というか、日経に買収される予定のファイナンシャル・タイムズ紙の記者をしているジャーナリストです。ですから、学者のモデル分析なんぞとは違って、かなり現場に密着した現実感覚あふれる見方が提供されています。米中海軍力における空母の位置付けとか、アジアにおいては米中間の選択を各国に対して迫ってはいけないとか、中国のナショナリズムは日清戦争への敗北を持って始まっているとか、私のようなエコノミストの門外漢にもなるほどと思わせる内容です。現在の米中の競争は、もちろん、かつての米ソの冷戦に例えられるかもしれないんですが、本書では決定的に異なる点として、米国は世界において覇権を目指しているが、中国は世界を相手にしているわけではなく対象はアジアに限られる、と指摘しています。そうかもしれません。でも、石油や金属をはじめとする資源を原料として必要とする限り、中国が世界を相手にしてもおかしくなさそうな気もします。最後に、本書でも指摘されていますが、米ソ冷戦の終結は経済力の差がもたらし、非常に単純に図式化すれば、軍拡競争の財源が続かなかったソ連の方が音を上げて国として崩壊した、と私は受け止めているんですが、その点で、現時点の米中についてはストックでは、例えば航空母艦やミサイルなどの現有戦力としては米国に軍配が上がるものの、この先の軍拡を支える経済力ということになれば、ひょっとしたら、中国が米国を上回る可能性もあり得ます。経済的には市場によす資源配分に基づく資本主義であり、政治的には自由と民主主義という米国と同じ価値観を共有する日本としては、この競争の結果がとても気にかかるところです。
最後に、スティーヴン・ミズン『氷河期以後』上下(青土社) です。氷河期以降の紀元前20000年から同じく紀元前5000年までの、一応、翻訳者あとがきでは15000年間の「世界史」となっています。しかし、これはマディソン教授の『世界経済史概観』にも共通して、歴史書あるいは世界史であるからには、淡々と歴史的な事実を羅列するのではなく、「歴史を貫徹する進歩の法則」のようなもの、あくまで「ようなもの」なんですが、本書でも『世界経済史概観』そういった法則性の追求という科学的な見方が欲しい気もするんですが、それはありません。本書ではラボックというアバターが、西アジアから始まって、ヨーロッパ、アメリカ大陸、オーストラリアと東アジア、南アジア、アフリカ大陸を回り、本書の対象とする紀元前20000-5000年の世界だけでなく、遺跡などの発掘の現場に登場したりします。ただし、このアバターの試みは失敗しているように受け止めています。少なくとも私はかえって混乱してしまいました。高校の世界史の教科書のように、素直に通常の記述に徹してくれた方が分かりやすかったんではないかと想像しています。花粉や動物の骨、もちろん、我が人類の歯や骨から古代史をひも解こうとしています。もっとも、上巻 p.422 以降で展開されている言語学に基づく先史学については疑問が残ります。全体として、歴史的な事実、その発見者、その方法論がごっちゃに展開されて記述されていますので、私のような専門外で頭の回転が鈍い人間にはとても分かりにくいです。さらに、ついでながら、氷河期終了後の海面上昇が120メートルに上ったことと比較して、現在問題となっている地球温暖化を軽視するが如き記述が散見され、特にひどいのは下巻 p.388 なんですが、このあたりもどうかという気がします。最後に、アバターを「ラボクック」としたミスをはじめ、いくつか誤植も散見されます。人物名や地名などで、私には馴染みのない固有名詞がいっぱい出て来ますから、どれだけ誤植があるのかも不安です。
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