先週から今週にかけて、図書館の予約の都合にもよりますが、かなり大量に回って来て、私の方でも着実にたくさん読みました。先週よりは今週の方がハズレが少なかった気がします。でも、読んだボリュームが大きいので、なるべく簡単に紹介しておきたいと思います。でも、書き進んでいるうちに、やや気分が高まって持論を展開し長くなったのもあります。反省です。
まず、福田慎一『「失われた20年」を超えて』(NTT出版) です。著者は東大経済学部の教授です。マクロ経済学がご専門だと記憶しています。タイトルとなっている「失われた20年」を1990年代の10年と2000年代の10年の前後に分割し、その上で、クルーグマン教授の説のような需要サイドの需要不足とともにプレスコット教授と林教授の論文のような供給サイドの生産性にスポットを当てて、「少なすぎて遅すぎる」 too little, too late をキーワードに政府と企業の経済主体の行動を分析しています。ただし、さすがに1冊の経済書で20年に及ぶ日本経済の停滞を分析し尽くすのはムリがあり、やや中途半端に終わっているきらいは否めません。特に、政策、中でも金融政策の分析については不十分ではないかと私は考えています。思い起こせば、私は1991年春に日本を発って南米チリの大使館に赴任し、そのころはまだバブルが弾けたという認識はなく、遠く地球の反対側から実感なく日本のバブル崩壊を眺めていたんですが、3年を経て1994年に帰国してまるで焼け野原みたいな日本経済を見てびっくりした記憶があります。私の周囲の研究職公務員にはバブル経済のころでも何のいい目も見なかった、という人が少なくないんですが、私の場合、バブルのころが20代後半から30過ぎくらいの遊び盛りに当たっていて、それなりに楽しく過ごした記憶があり、そのために結婚が遅れたと自覚していたりします。帰国して経済対策などの仕事をしていましたが、「山高ければ、谷深し、さらに、谷長し」を実感してしまいました。いまだにバブル崩壊後の日本経済の低迷を解明する決定打がないのは不思議な気もしますが、逆に、それだけ多くの複雑な要因が絡んでいるのだろうと理解しています。
次に、エリック・ブリニョルフソン/アンドリュー・マカフィー『ザ・セカンド・マシン・エイジ』(日経BP社) です。著者の2人はマサチューセッツ工科大学(MIT)の経営学やビジネスに関する研究者です。現在のコンピュータやインターネットなどのデジタル技術の大きな進歩の状態を本書のタイトルとして「セカンド・マシン・エイジ」が始まったと定義しており、では、「ファースト・マシン・エイジ」はというと、私の従来からの歴史観にピッタリなんですが、18世紀の産業革命から始まるとしています。そして、産業革命の開始期と現在のデジタル技術革新の始まりの2時点を変曲点と位置付けて、人類史のグラフの傾きが急速に変化する点と本書では考えています。これも私の進歩史観にピッタリで、私は基本的に歴史は微分方程式に沿って進んでおり、初期値が決まればアカシック・レコードのように遠い未来まで決定されかねないものの、時折、確率論的なシフトが生ずる、と考えています。そして、歴史が進む方向は経済学的に考えれば、いろんな財貨やサービスのうちで希少性の高いものの希少性が減ずる方向だと私は考えています。マイクロにはこの見方はかなり正しいんですが、マクロには必ずしもそうなっていません。ということで、本書の中身は5月30日付けの読書感想文で取り上げたマーティン・フォード『テクノロジーが雇用の75%を奪う』をもっと楽観的にしたようなカンジです。もちろん、悲観論も展開しており、『テクノロジーが雇用の75%を奪う』では雇用そのものが機械に取って代わられる、という観点だったんですが、本書では「セカンド・マシン」を使いこなせたり、あるいは、「セカンド・マシン」では不可能なスキルを持った人、あるいは、スーパースターとそうでないその他大勢の一般ピープルとの間で格差が広がる、という観点で悲観論を展開しています。私がいつも不思議に思うのは、マルクス的あるいはケインズ的な観点で、生産性が高まれば労働時間が短縮される、という論点は誰も支持しないんでしょうか?
次に、宮崎康二『シェアリング・エコノミー』(日本経済新聞出版社) です。著者は驚くべきことに、この4月に大学を卒業したばかりの章啓会社の新入社員だそうです。深尾先生のゼミだったんでしょうか。それはともかく、P2P宿泊サービスのAirbnbやライドシェアのUberなどを題材にして、所有してあるいは占有してサービスの提供を受けるのではなく、タイトル通りにシェアしつつサービスの提供を受ける新たな形態について紹介しています。ほかにも、カーシェアとか、クラウド・ソーシングなどもこういった範疇に入ります。遊休しているリソースを活用して稼働率を上げることにより、経済社会全体の生産力を向上させるということにつながる可能性が大いにあり、インターネットの普及や認証制度の発達などのテクノロジーの進化により、こういったサービス提供が可能になり、新たなビジネス・チャンスが生まれているものと私は受け止めていますが、あえて、あえてなんですが、批判的なポイントを2つだけ上げると、ひとつは未熟練労働への脅威となる可能性、もうひとつはサービス提供者と受給者双方の質の確認の問題です。まず、シェアされるのは、ありていにいえば、シロートでも容易に提供可能なサービスであり、弁護士活動とか医療の提供などではあり得ません。ですから、低スキル雇用への何らかの否定的な影響が生じる可能性、すなわち、低スキル雇用における失業の増加、あるいは、賃金低下の圧力となる可能性が、あくまで可能性ながら、あり得るんではないかと私は憂慮しています。そうであれば格差の拡大につながりかねません。また、提供されるサービスの質、あるいは逆から見て、サービスを受ける購入者の質については、著者はあくまで市場による規律付けを重視しているようですが、かなりナイーブに過ぎる気がします。保険でカバーされる部分もあるでしょうが、生命の危険が及ぶ場合をどう考えるかなど、我が国経済社会を前提にすれば、解決すべき課題はまだまだ多いと覚悟すべきでしょう。
次に、NHKスペシャル取材班『老後破産』(新潮社) です。昨年2014年9月に放送された番組の取材結果を取りまとめており、タイトル通り、老齢世代の生活不安を取り上げています。全体のトーンとして、年金の増額や生活保護の拡充などを訴えようとしているようです。高齢世代の人口や投票率の高さなどを基礎とするシルバー・デモクラシーとともに、こういったマディアの活用により着実に高齢者に偏った社会保障政策への方向付けがなされんとしているように見えますが、私には大いに疑問です。逆に、子供達、就学前や義務教育段階の子供達への社会保障こそ充実させるべきと私は考えています。まず第1に、子供と老齢者ではいわゆる「自己責任」の重さが違います。子供には何の自己責任も問えませんが、高齢者はそれなりの自己責任を負うべきと私は考えます。本書でも、勤務先の会社が年金保険料の支払いを怠っていたために無年金となった例が散見されますが、最初の取材先では「多くを語ろうとしない」で済ませているように、パーソナル・ヒストリーの中で解決できる部分まで公的な援助に頼ろうとしているのであれば、もしそうなのであれば、決して好ましくないと考えるべきです。現在の日本の高齢者は、特に、高度成長期という日本の歴史上でも希な黄金時代を生きて来たんですから、そういった高齢者に対して、バブル崩壊後の「失われた20年」しか知らない世代に負担を求めて、あるいは、さらにその先の世代に負担を先送りして、高齢者に財政リソースを分配するのが、果たして社会的に許容されるかどうかは疑問が残り、少なくとも、国民的な議論がなされるべきではないかとも思います。本書でも、昔の良かった時代を懐かしむ高齢者の声が収録されていますが、そんな時代の再現が可能だとは私にはとても思えません。また、米国では行動経済分析のセイラー教授などを典型として貯蓄推進に関する研究が少なくないんですが、日本では少し前までマクロの貯蓄率が桁外れに高かったためか、貯蓄に関する経済学的な研究の蓄積が決して厚くなく、老後に必要な資金を貯蓄する観点をまったく取材で追っていないにもかかわらず、あとがきでチラリと触れるだけというのは不自然に映ります。最後に、組織化されていないので目に見えにくいながら、高齢者世代は最大の圧力団体と化しており、シルバー・デモクラシーはとても強力なパワーとなっていなすから、メディアはこのような強者の提灯持ちをするべきではありません。本当に光を当てるべき弱者は誰かを冷静に見極める視点が必要です。
次に、ジョーダン・エレンバーグ『データを正しく見るための数学的思考』(日経BP社) です。英語の原題は How Not to Be Wrong: The Power of Mathematical Thinking となっており、2014年昨年の出版です。著者は米国ウィスコンシン大学の数学の研究者であるとともに、数学に関するサイエンス・ライターのような仕事もしているようです。表題からも理解できる通り、数学的な思考でデータを正しく理解する目的ですから、確率や統計に重点が置かれています。そして、そういった観点で数学的な思考が要求されるわけですから、実学としては経済学と医学が中心となります。統計的な数字を線形で見る誤りを正そうという議論から始まって、統計的な有意性の検定、あるいは、平均への回帰や世論の見方と社会的な選択理論、などなどです。ただ、私は第3部の期待値などで展開されている宝くじビジネスについては、誠に残念ながら、サッパリ理解できませんでした。なお、経済学的な観点から、第12章で展開されている貨幣と効用の関係は線形と考えていますので付け加えます。それから、本書との関係で経済学でも重要な観点として、カーネマン・トヴェルスキーのプロスペクト理論(p.436)、推移率がループするために社会的厚生関数が成立しないアローの不可能性定理(p.626)なども取り上げられており、エコノミストとしては十分と考えていますが、確率論のトピックとしてはモンティ・ホール問題を取り上げて欲しかった気がしないでもありません。
次に、マーク・マゾワー『国際協調の先駆者たち』(NTT出版) です。著者は英国出身でオックスフォード大学で博士号を取得し、現在はニューヨークにあるコロンビア大学の歴史学教授を務めています。本書の原書は2012年の出版であり、19世紀初めのナポレオン戦争終了後のウィーン体制から200年にわたる外交や国際協調の歴史を概観しています。戦争の防止と平和の構築、さらに国際秩序の維持などにおいて国際協調、本書の構成に従えば、第Ⅰ部では、宗教的=キリスト教に基づく協調、国際法の構築による協調、さらに、国際機関の創設による協調などを分析しています。その上で、第Ⅱ部では、世界の警察官たる米国による世界統治を論じています。第Ⅱ部の最後では狭義の安全保障や外交にとどまらず、私の専門分野である途上国の開発問題まで踏み込んでいます。
次に、八木久美子『慈悲深き神の食卓』(東京外国語大学出版会) です。著者は東京外語大学のイスラム教などの宗教学の研究者です。主としてエジプトのイスラム教の食について紹介しています。まあ、私がチリにいた20年前の感じたんですが、日本において情報の少ないカテゴリーだけに、事実を淡々と記述するだけでそれなりに受け入れられる素地がある気がするんですが、それにしても、やや偏った印象を持ちました。私も今世紀初頭の3年間にインドネシアの首都ジャカルタに3年間の現地生活を家族とともに送りましたが、本書ではあくまでエジプトのイスラム教徒の食を取り上げており、余りに当たり前かもしれませんが、すべてのイスラム教の食に普遍的に関して取り上げているわけではなく、著者の体験という極めて狭い範囲の事実に基づく記述である、という点は十分に留意して読み進むべきだという気がします。特に、ハラルについては中東とマレーシア・インドネシアといった東南アジアのイスラム教とではかなり大きな違いがあることは認識すべきかと考えます。宗教的な側面を取り上げており、私自身は宗教とは非合理的なものであると認識していますが、著者はそれをいかにして合理的に解釈すべきかと腐心している様子が目に浮かびます。非合理的な宗教はそのままに理解すべきではないでしょうか。また、豚肉や豚については、本書ではタイトル通りに食の観点からのみ取り上げられていますが、私の実感では豚肉を食べることはもちろんですが、豚や豚肉を手で触ったり、あるいは、極端な場合、視界に入ることさえ嫌うイスラム教徒が少なくないような印象を持っています。ご参考まで。
次に、上田岳弘『太陽・惑星』と『私の恋人』(新潮社) です。今週の読書ではこれらだけがフィクションの小説です。『太陽・惑星』には新潮社新人賞を受賞した「太陽」と芥川賞候補に上げられた「惑星」が収録されており、『私の恋人』も「太陽」と「惑星」とほぼ同じくらいのボリュームの中編といえ、三島賞を受賞しています。3篇とも『新潮』に収録されています。なお、単行本としては、『太陽・惑星』は昨年2014年11月の出版、『私の恋人』は今年2015年6月の出版です。私の友人の元文学少女は『太陽・惑星』を読んでとても感激し、とんでもない新人が出てきたと大騒ぎしていましたが、この夏に『私の恋人』が出版された段階で私も前作までさかのぼって読んでみました。「太陽」と「惑星」はほぼ対をなしているので、この単行本の出版は編集者が作品を正しく読めている証拠だと思います。でも、かなり難解な小説であることは確かです。私は3篇の中編の中では「太陽」をもっとも高く評価しています。他にもそういった読書子は多いと思います。例えば、日経新聞の書評で、「ひょっとしたら、いま読んでいる小説は傑作じゃないのか! と、読んでいる最中に興奮してくる作品にはめったにお目にかからない。」と言わしめただけの内容はあります。おそらく、これらの作品はそれほど多くの読者にはアピールしないでしょうから、図書館ですぐに借りられるんではないかと思います。今日のエントリーである今週の読書の中では一番のオススメです。
次に、中田安彦『ネット世論が日本を滅ぼす』(ベスト新書) です。いろいろと書いていますが、著者が訴えんとしてているのは、ネット世論は自分が得するようなポジショントークが多くて、しかも、右翼にせよ左翼にせよ極端に走るので、決して日本をよくするとは思えない、ということなんだろうと思います。私も半分賛成で半分疑問です。疑問点のみ記すと、まず、著者は明記していませんが、極端に走る前提であるネットの匿名性については、前の『シェアリング・エコノミー』でも論じられていましたが、まじめなネット・コンテンツでは崩れつつあると考えるべきです。さらに、本書のタイトル自身が「日本を滅ぼす」という極端でキャッチーな表現をしていますし、本書の中でもこの本はポジション・トークではないことを強調しているほどであり、本書の主張はそのまま著者に跳ね返りかねないという意味で、いわゆる「天に唾する」と称される極めて怪しげな内容であることは自覚しつつ読み進むべきです。もちろん、それ相応に正しい見方を示している部分も少なくありません。
最後に、藤田孝典『下流老人』(朝日新書) です。本書も基本ラインは『老後破産』と同じで、高齢者の老後の生活を金銭面で分析して、老後の資金が足りないことを強調しています。同じような内容なんですが、『老後破産』よりも数段出来がいいと感じました。統計として押さえておくべき数字は把握しているし、制度上の問題点もよく理解されていると感じます。その上で、結局、同じ疑問なんですが、現在の日本の高齢者は、特に、高度成長期という日本の歴史上でも希な黄金時代を生きて来たんですから、そういった高齢者に対して、バブル崩壊後の「失われた20年」しか知らない世代に負担を求めて、あるいは、さらにその先の世代に負担を先送りして、高齢者に財政リソースを分配するのが、果たして社会的に許容されるかどうかは疑問が残り、少なくとも、国民的な議論がなされるべきではないかと思います。また、第4章 「努力論」「自己責任論」があたなを殺す日、は十分に説得力があります。ただ、この第4章は著者のポジション・トークなんでしょうが、社会保障の対象となる人々にはすべて当てはまることを忘れるべきではありません。高齢者だけがこの第4章の議論の対象となっているわけではなく、子供やワーキング・プアの若者も同じく社会保障の網から漏らされるべきではありません。その上で、『老後破産』と同じことを書いても仕方がないので、別の観点から3点だけ指摘すると、第1に、社会保障の緊急性としては、私は子供や若者に軍配を上げるべきではないかと考えています。もちろん、余命の問題はありますが、高齢者は10年後も高齢者である一方で、小学生は10年後は義務教育期間を過ぎているおそれが高く、適切な時期に教育や訓練を受ける必要があります。第2に、年金額の不満はあるのかもしれませんが、議論が不透明です。頭の体操で、仮定的な議論かもしれませんが、例えば、年金がどれくらいあれば老後の生活に十分なのか、誰か試算でもしている人の例はないんでしょうか。そうでなければ、いくら年金を増額しても一定の不満は残る可能性があり不毛の議論に陥るかもしれません。第3に、社会保障制度には我が国の財政制度の問題が凝縮されています。すなわち、北欧諸国のように、徴税で集めた資金を社会保障で国民に還元する「福祉国家」ではなく、我が国は公共事業で還元する「土建国家」となっていますので、社会保障の機能に不満が残ることとなります。その上、本書で見指摘されているように、企業が賃上げをせずにキャッシュを溜め込めばどうしようもありません。この根本的な部分にメスを入れなければ、年金を増額するだけでは問題の解決にならないような気もします。最後に、『老後破産』ではNHKという天下のメディアが強者たる高齢者の提灯持ちをするべきではないと指摘しましたが、本書では著者のポジションが明確であり、その点では好感が持てます。でも、繰り返しになりますが、著者が指摘する我が国社会保障制度の問題点、さらに社会的な雰囲気とでもいうべき第4章の議論は、高齢者向けの社会保障だけに当てはまるわけではありません。子供や母子家庭、ワーキング・プアの若者など、すべての社会保障対象者に恩恵が及ぶことを私は願っています。
本日取り上げた本のうち、最後の『下流老人』以外はいつもの通り図書館で借りて読んでいますが、『下流老人』だけはもらい受けました。今までも、何冊かご著者からご寄贈いただいた経験はあるんですが、私独特の「買う本」と「借りる本」のカテゴリ分けに加えて、極めて数は限られるながら、「もらう本」というのもあるのかもしれません。
最近のコメント