今週の読書は経済書・教養書に小説や新書とバランスよく7冊!
今週は、経済書・教養書に小説や新書と、バランスよく以下の通りの7冊です。
まず、フィリップ・コトラー『資本主義に希望はある』(ダイヤモンド社) です。著者は私ごときがいうまでもないくらいに有名で、マーケティングを専門とする経営学者です。著者紹介を見て1931年生まれと知り、私の父親と1歳違いですが、まだご存命のようです。専門外ながら私ですら知っている経営学者も何人かいて、現役で有名なのはマイケル・ポーター教授、もう引退したものの大御所として有名なのは経営史のチャンドラー教授とマーケティングのコトラー教授、すなわち、本書の著者です。そのコトラー教授がシーマン・ショックに続く金融危機や大景気後退 Great Recession を経た現在の資本主義について論じています。学術書に近いんですが、さすがに引用などは雑で、原著論文を示すんではなく、論文を紹介した新聞や雑誌の記事を明記して済ませているものも少なくありません。本書はとてもリベラルな経済の見方を示しており、ピケティ教授的な格差の問題から始まって、環境破壊の問題、市場の暴走の問題、ロビー活動に先導される政治に歪められる経済、最後は幸福論や生活充足論、すなわち、ハピネスやウェル・ビーイングに光を当てる見方を示してい締めくくっています。本書などで示された資本主義に対する改良主義的な見方、あるいは、我が国の講座派マルクス主義の観点からすれば2段階革命のうちの社会主義革命に先立つ第1段階の革命ということになるのかもしれませんが、こういった何らかの民主主義的な市場への政府規制が必要な段階に達したと私なんかは理解しています。スミス的な初期資本主義の「見えざる手」が経済社会全体の調和をもたらした時代とは異なり、本書でも論じられているような外部経済や公共財供給や独占の発生など、古典的な資本主義からは離れた現代的な問題が発生している現段階の市場には政府による民主的な関与が必要です。すなわち、このブログでもかねてより主張している通り、1人1票の原則で運営される民主主義は購買力で計られる資本主義経済における影響力とは、親和性あるものの必ずしも同じ尺度で論じることは出来ず、資本主義経済よりも民主主義が優先するとすれば、市場経済に対して政府から民主的な規制が及ぶべきであると私は考えています。しかしながら、現状ではその逆になっていて、超リッチ層が金に物を言わせて民主主義を歪めていると私は考えています。その意味で、本書とも講座派とも私の考えの根本的な発想は同じであると理解しています。もっとも、先方からは異論あるかもしれません。
次に、キシニョール・マブバニ『大収斂』(中央公論新社) です。著者はインド系のシンガポール人であり、長らくシンガポールを代表する職業外交官として国連大使も務めています。前著は邦訳2010年発行の『「アジア半球」が世界を動かす』です。本書は原題もそのままで、原書は2013年の発行です。前著も本書も、徹底的にアジアに軸足を置いて欧米批判の先頭に立っています。本書では、現在のグローバル化はインターネットやICT機器などの技術面で進行しており、もはや止めることの出来ない時代の流れとして捉え、その上で、内戦や国家間の戦争・戦闘行為が過去に比べて大きく減少したのはアジアをはじめとする途上国や新興国で中産階級が激増した結果であると結論しています。中産階級とはブルッキングス研究所のホミ・カラスの研究結果を引いて、購買力平価で均した1日1人当り支出で10-100ドルと定義しています。そして、収斂の柱は環境、経済、テクノロジー、熱望を上げています。途上国における法の支配、特に所有権の保障を重視しているのはいいんですが、収斂の障壁のひとつとしてイースタリーの研究などを根拠として、途上国への開発援助を先進国の国益に基づく途上国の利益にならない阻害要因としているのには、少なくとも一定の事実を含んでいることは、私もジャカルタで援助の現場を経験して理解したものの、開発経済学の立場から反論がないわけでもありません。また、私は専門外ながら、著者が長らくシンガポールを代表して国連大使を務めた経験から、国連というマルチの機能や機構の重要性とか、国連改革についても、傾聴すべき見方が示されていそうな気がします。でも、グラフが多いからなのかどうか、3200円は少し高いような気がします。
次に、高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』(筑摩書房) です。著者は私が知る限りでも我が国随一の美術史研究者であり、第一人者といえます。本書は最近時点までの講演をはじめ、雑誌やあメディアなどで収録された論文やエッセイを編集しています。言葉とイメージ、日本の美と西洋の美、日本人の美意識はどこから来るか、の3部構成であり、本書のタイトルからすれば第3部に重点がありそうな気もしますが、第3部は短いエッセイばかりで読み応えもなく、むしろ、第2部の西洋との対比における我が国の美についての解説に私は重点を置いて読んだ気がします。日本画と洋画の手法や構成の違いを基に、それなりの解説が加えられています。それほど新しい観点が提供されているわけではなく、学術的な解明が主眼となっているわけでもありませんが、現時点での日本と西洋の美の対比はそれなりの価値が有るような気もします。ただ、中国や朝鮮半島との比較の観点も欲しかった気がしますが、書き下ろしを避けて既発表の論考を中心としたエッセイ集ということになれば、こういう構成になったんだろうと思います。図版も少なくないのでやや高価な本ですし、私の分類からすれば買って読むほどではないんではないでしょうか。図書館には置いてある気がします。
次に、小針誠『<お受験>の歴史学』(講談社選書メチエ) です。著者は京都にある同志社女子大学で教育学を専門とする研究者です。私立学校に関する研究をライフワークにしているといった記述があったように記憶しています。ということで、本書のタイトル通りに、明治維新の直後までさかのぼって<お受験>の歴史についてひも解いています。当然ながら、近代に入って高給取りの勤め人が子弟を公立小学校ではなく、特に、いわゆるエスカレータ式に大学まで上がれる私立の小学校に入学させ始めたわけで、学校教育の多様化の一環ではないかと私は考えているんですが、教育学は専門ではないのでついつい実体験に傾いてしまいます。例えば、同じ業界のとても高給取りの金融機関勤務のエコノミストが少し前に「お受験」を目指していたんですが、その理由は、少子化が極まって近くの小学校がとうとう1クラスになったためだと聞き及びました。すなわち、本書でも出てくる親の立場からすれば「玉石混交」の極みということになります。ただ、「玉石混交」を持ち出す場合、持ち出した人は自分の子供が玉であって、その他大勢の子供が石だと考えている場合が少なくないような気もします。ただ、そのときに聞き及んだ話としては、その方はとても高給取りだったんですが、いわゆる年俸制でしたので、私立小学校の側としては、高給取りよりも年俸制の不安定性に目が行くようで、むしろ、私のような公務員の方が受け入れる私立小学校としては望ましい場合も少なくない、と聞かされた記憶があります。ホントかどうかは知りません。なお、我が家は<お受験>はしていません。というのは、上の倅が入学した小学校はジャカルタ日本人学校の初等部だったからです。すなわち、海外生活中に上の倅が学齢期に達してしまい、2歳しか違わない下の倅だけ<お受験>もあるまい、という結論に達したわけです。もっとも、倅達2人が卒業したのはそれなりの小学校であす。映画化もされた中島京子の直木賞受賞作『小さいおうち』で主人公の家政婦さんがお仕えする奥様時子夫人の姉が、時子夫人の子供である恭一の教育に関して東京の名門小学校を4-5校ほど上げるんですが、そこには入っていました。小説の舞台である昭和初期には存在していましたので、我が家の倅2人が在学中に設立100週年を迎えた記憶があります。最後に本書に戻って、著者のライフワークが私立学校の研究だそうですから仕方ありませんが、関西圏や首都圏のような大都市部はともかく、地方圏では名門小学校は教員養成大学の付属校だという場合が少なからずありそうな気がします。エスカレータ式になっていないものの、それなりに要件は満たしているような気もして、本書のスコープ外ながらやや気にかかります。
次に、青山七恵『繭』(新潮社) です。作者はご存じ芥川賞作家で、私のもっとも好きな作家のひとりです。もっとも、私のもっとも好きな作家は25人くらいいたりします。また、前作の『風』は昨年2014年6月14日の読書感想文で取り上げています。『風』は短篇から中編くらいの長さでしたが、本書は本格的な長編です。ただし、どう呼んでいいのか分かりませんが、前半と後半と言ってもいいんですが、あえて第1部と第2部と呼称すると、それぞれの主人公である「わたし」が異なっています。第2部は明らかにp.205から始まります。主人公は第1部・第2部ともいずれも女性で、しかも生年月日まで同じ30代半ばの女性であり、第1部の主人公の舞は美容師、第2部の希子は旅行代理店のキャリアウーマンで、しかもしかもで、2人は同じマンションに住んでいて、やや人為的に友人となります。というのは、舞の夫であるミスミも美容師なんですが、希子を結婚前から見知っており、ミスミから希子に依頼して舞の友人になってもらうわけです。舞は時折ミスミに対してDVに及びます。希子は得体の知れないテレビ業界の男性と恋に落ちます。決して、サスペンスフルではないんですが、息もつかせぬ展開で一気に読ませます。私は本書は恋愛小説だと受け止めているんですが、決して甘いだけのラブストーリではありません。p.286-88にかけて、付き合う男女が対等かどうか、舞の血の出るような質問が希子に訴えられかけます。マンションの部屋の鍵の交換も、とても暗示的であり、私のようなシロートにはどう解釈していいのか、少し迷うところがあります。ということで、私はこの作者の代表作は『かけら』であって、代表長編はまだない、と思っていたんですが、ひょっとしたら、本書が代表作なのかもしれません。ただ、メンタルが病んでいる系の女性が前半の主人公ですから、異論は大いにありそうな気がします。
次に、赤坂治績『江戸の経済事件簿』(集英社新書) です。江戸文化研究家、演劇研究家ということで、本書のタイトルは「事件簿」となっているんですが、幅広く江戸の経済事情や経済に関係のない文化まで含めて紹介されています。というか、経済事件だけではボリュームが不足したのかもしれないと、私は下衆の勘繰りをしていたりします。ということで、江戸の物価や庶民の暮らしについて、貨幣制度の金・銀・銭の換算や越後屋=三井の興隆などを解き明かしています。ただし、落語の「文七元結」や近松門左衛門とか井原西鶴とかの小説から当時の庶民の暮らしや経済的な考え方を引き出そうとするには、ホーガンのSF小説である『星を継ぐもの』から人類誕生の物語を紡ぎ出すとまではいいませんが、ややムリがあるような気がしないでもありません。それと、京都出身のエコノミストからすれば、政治の運びはともかく、経済や物流、さらに、文化の中心は江戸ではなく、京や大阪などの上方ではなかったのか、という気がしないでもありません。後の世代の後付の江戸遊異論のような気がします。まあ、華美を極めた商人の衣装比べなどを支配階級の武士が闕所・所払いして、ついでに借金も棒引きにしてしまったり、あるいは、近松門左衛門の『曽根崎心中』で徳兵衛が詐欺で金を騙し取られたのは経済事件だったかもしれません。それなりに面白い知識が身につきそうな本ではないかと思わないでもありません。
最後に、上杉和央『地図から読む江戸時代』(ちくま新書) です。著者は京都にある大学の研究者であり、歴史学、特に地図の歴史を専門としているようです。そして、本書は主として日本地図を題材に、著者のいう「日本像」を明らかにしようと試みたものであり、行基の時代から説き起こしていますが、タイトル通りに主たる時代背景は江戸時代にあります。江戸時代の地図といえば、高校の日本史で習った伊能忠敬を思い浮かべがちなんですが、本書では地図を正確さの観点からの科学性だけでなく、実用性、機能性、芸術性、思想性まで含めて、「日本像」の解明の手がかりとしていますので、伊能忠敬の名は最後の最後にしか出て来ません。むしろ、高校の社会科では出てこなさそうな石川流宣なる人物の「旅のお供」としての地図、というか、旅行ガイドブック的な指南書を中心に論じた第3章が本書の眼目とさえいえそうな気がします。第3章では科学的な正確性よりも意匠性や芸術性を重視し、旅のお供的な地図を広めた石川流宣に焦点を当て、第4章では科学的な正確性を追求した地図を紹介し、その極みとして第5章では長久保赤水の地図を取り上げ、この第5章の中で伊能忠敬の測量にもスポットが当てられています。琉球や当時の蝦夷地としての現在の北海道の位置づけをはじめ、また、江戸幕府の北方重視の地政学的な関心のあり方も含め、地図から得られる歴史観や日本像といった興味深い論点を著者は解き明かしています。
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