今週の読書は経済史の大家による『ダグラス・ノース制度原論』ほかの計7冊!
今週の読書は、ノーベル賞授賞の経済史の大家による『ダグラス・ノース制度原論』ほか、教養書や小説まで含めて計7冊です。来週こそペースダウンしたいと思っています。なお、このペースが続くとゴールデン・ウィークの読書計画は期待できそうもありません。
まず、ダグラス C. ノース『ダグラス・ノース制度原論』(東洋経済) です。著者のノース教授は米国の経済学者であり、専門は経済史で1993年のノーベル賞受賞者です。基本は制度史学派で、コース教授やウィリアムソン教授などの取引費用の観点も取り入れています。1920年生まれ、昨年2015年に亡くなっています。本書は、英語の原題が Understanding the Process of Economic Change であり、2005年の出版です。本書では、非エルゴード的な過程の中で、不確実性を考慮しつつ、信念や認識の体系がどのように変化し、それが経済社会の変化にどのように結びついているかを考察しようとしています。すなわち、制度を生み出す認識や信念について、観察に基づく認識⇒信念の形成⇒制度として確立⇒政策の適用⇒認識対象の変化に伴う認識の変化⇒ … と続く流れです。非エルゴード的ですから、何らかの正常な状態の周辺を循環するわけではなく、基本は、マルクス主義史観と同じで、ほぼ一直線の進化をたどることとなります。訳者の解説にもある通り、ノース教授の出発点はマルクス主義史観ですから、かなり整合的な認識です。ただ、実際に適用する場合、私が何度も経済史で主張してきたところですが、産業革命の発生が説明できるかどうかが最大のポイントになります。私の見立てでは、経済史を含めた歴史の流れは、確率的な微分方程式に乗っており、従って、初期値が決まれば、その後のプロセスは決まってしまいます。別の表現をすれば、アカシック・レコードが存在する、ということになります。でも、微分方程式は確率的 stochastic ですから、特異点を含みます。私が考える範囲で、近代以降の大きな特異点はコロンブスの新大陸発見とイングランドで始まった産業革命です。本書では第10章が西洋世界の勃興と題されており、そのあたりの歴史を扱っているんですが、まったく説得的ではありません。私が考えるに、イングランドで産業革命が始まって西洋一般に普及したのが西洋の勃興の唯一最大の原因ですが、その要因は本書で解明されているとはとても考えられません。制度史学派でも何でも、この謎は今しばらく解明できそうもないのかもしれません。なお、どうでもいいことながら、日本史における特異点は明治維新と第2次大戦の終戦だと私は考えています。局地的にはもっとたくさんの特異点があるのかもしれません。最後に、翻訳については、イギリスとイングランドを混同しているではないかと受け止めています。というか、イングランドをイギリスと訳しているような気がします。経済史の翻訳の場合、致命的な場合がありますので注意が必要です。
次に、野口悠紀雄『円安待望論の罠』(日本経済新聞出版社) です。著者は著名なエコノミストで、最近はアベノミクスに対する批判を強めています。ということで、大雑把に半分の4章までが前半で、5章以降は何となく為替レートと経済との関係について、基礎的な概念や理論、さらに、、歴史を交えて解説する構成になっています。そういう意味で、論旨がスッキリしなくて、私のような頭の回転の鈍い人間には判りにくいんですが、要するに、為替で円安になると株価が上がるだけで実体経済に変化あるわけでもなく、金融緩和もよくないので、ひたすら構造改革で痛みに耐える努力を積み重ねるべきである、という信念を披瀝されているんだろうと受け止めています。私なんぞよりもうんと年長で、学識も深い大先輩ですから、経験からの信念だろうと認識しています。私の目から見て疑問に感じる部分も少なくないんんですが、タイトルに関連する部分が極めて少なく、残りの大部分は著者の信念の披瀝ですから、信念と信念のぶつかり合いでは私に分はありません。また、私の読解力不足だろうと思うんですが、為替の減価による景気の改善は広く経済書で指摘されているところで、著者は現在の日本の景気の回復、とても緩やかながら一応は回復とされている現状につき、この景気の回復が為替の減価によるものだから、構造改革によるものではないので何らかの不都合があると主張しているのか、それとも、為替の減価では景気への好影響はないと主張しているのか、あるいは、その両方なのか、よく理解できませんでした。お気楽に景気回復するのはよくなくて、血のにじむような痛みを伴う構造改革でなければ景気回復すべきではない、という主張のようにも、私のような読解力ない読者には読めてしまうんですが、それは違うと思います。ラクして景気回復できるのであれば、それに越したことはありません。
次に、ブライアン・フェイガン『人類と家畜の世界史』(河出書房新社) です。著者は英国生まれで、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の名誉教授です。専門は考古学と人類学だそうです。英語の原題は The Intimate Bond であり、昨年2015年の出版です。表紙の意匠はとてもよく似せてあります。ということで、中身は邦訳本のタイトル通りであり、人類が定住・農耕生活に入る前の狩猟生活時代にオオカミを飼いならして犬として狩りなどで共同生活を始めたところから始まって、農耕生活に入ってからのいわゆる牧畜、すなわち、ブタ、ヒツジ、ヤギなどの馴化、家畜化を進め、さらに大型哺乳類のウシやウマの家畜化、その間をぬって、ロバやラクダの家畜化、最後に、現在では動力源としての家畜が経済的な要因から解放され、食肉やミルクといったタンパク源やペットなどになった壮大な歴史を説き起こしています。学術的な記述方法ではなく、むしろ歴史物語として人々の生活や生産現場の描写をていねいにして親しみを持たせています。もちろん、作者の専門分野からして、動物や家畜の生物学的な変化ではなく、人間側の生産や生活の変化の方に重点が置かれています。その分、私のような専門外の読者でも理解は進みやすいような気もします。だからどうだというわけでもないんですし、ものすごくタメになるとはいえないような気もしますが、読んでおけばそれなりに教養が深まりそうな期待もあります。
次に、ジャレド・ダイアモンド『若い読者のための第3のチンパンジー』(草思社) です。著者は『銃・病原菌・鉄』でピュリツァー賞を受賞した著名なカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の進化生物学者であす。何年か前のGWに、私は『文明崩壊』と『昨日までの世界』とともに、この著者の作品を何冊か読んだ記憶があります。本書は1991年に出版された『人間はどこまでチンパンジーか?』を基にしているらしいんですが、旧著の新訳と考えてよさそうです。編者がクレジットされているんですが、私にはよく判りません。また、タイトル通りであれば、私は年齢的に本書の読者には想定されていないのかもしれませんが、まあ、そこは無視します。最後に、政策研究大学院大学(GRIPS)の長谷川教授が解説を書いてくれています。チンパンジー、というか、本書でいうコモンチンパンジーとボノボと人間はわずかにDNAの違いは2%足らずであり、本書のタイトルは人間はコモンチンパンジーとボノボに続く第3のチンパンジーである、という視点から付けられているようです。社会学的あるいはて哲学的な人間の特徴はさておいて、ダイアモンド教授の専門分野である進化生物学から見た人間の特徴として2点上げられており、ジェノサイドと環境破壊です。ただ、後者の環境破壊については、主としての人間の勝手で、ということですから、私の考えでは、他の主も同じことをやりかねませんので、ハッキリいって、環境破壊する人間がそれだけのパワー、というか、行動力というか、影響力青持っているんだということになろうかという気もします。それほど認めたくはないんですが、少なくとも、進歩や進化や技術革新を信じているという意味において、私はパングロシアンかもしれませんが、他方で、ダイアモンド教授は私の目から見て保守的というか、ややパレオ・ファンタジスト的な部分も散見されます。歴史はノース教授の喝破したように非エルゴード的であり、昔を懐かしむのは生産的な態度ではありません。このように、人間という生物に対する見方にかなり差があるんですが、そんな私でも、それなりに参考になる本かも知れません。
次に、ジリアン・テット『サイロ・エフェクト』(文藝春秋) です。著者は日経新聞が買収した「ファイナンシャル・タイムズ」の米国版編集長となっています。英語の原題は邦訳そのままで、2015年の出版です。最初に、プルデュー『ディスタンクシオン』を援用しつつ、サイロに閉じこもった専門性高い集団の閉鎖性を指摘しています。私は専門外ですので、ホントにどこまで「サイロ」という表現が使われるのかは不明なんですが、ソニーの会長だったストリンガー卿が英語で「サイロ」と表現したのを通訳は日本語で「タコツボ」と翻訳した、と本書にありますので、要するにそういうことです。「サイロ化」して失敗したソニーやUSBのケース・スタディの後、逆に、「サイロ化」を克服したり回避したりした成功例としてファイスブックやクリーブランド・クリニックを上げています。しkし、専門外の私でも判る本書の欠陥があり、それは、「サイロ化」が問題なのではなく、「サイロ」の内外の開放性や包括性や透明性が問題なのであって、逆に、サイロの中に閉じこもる閉鎖性や排他性や不透明性が問題なわけです。ですから、本書が「サイロ化」の前提として問題視している分類の問題ではないと私は受け止めています。その意味で、後半のクリーブランド・クリニックで内科や外科の専門を廃止した、というのは、おそらく、臓器や症状などの別の分類に、患者に判りやすく医者の間での協力体制が取りやすい分類にし直しただけなんだろうと私は考えています。その意味で、分類が問題なのではありません。分類が固定化され、実情に合致しなくなっても旧来の分類を墨守するのがダメ、ということなんだろうと考えています。それでも、おそらく、20-30年前のビジネス・スクールでは事業の一定の分類が重要と教えていましたし、その点は本書でもに認めているところです。例えば、ボストン・コンサルティング・グループでは事業を4類型、すなわち、花形・問題児・負け犬・金のなる木、というカテゴリに分けたりして、こういった分類が流行っていたのも確かです。ですから、2点疑問があり、第1に、経営学、というわけでもないのかもしれませんが、学問やコンサルティングの流行り廃りの中で、少し前までは「サイロ化」なる高度専門家の囲い込みが流行っていて、ここ数年くらい前からは「サイロ化」が流行らなくなった、ということなんだろうと軽く考えるべきなのかもしれません。私は寿命が尽きているでしょうが、数十年後にはやっぱり「サイロ化」すべき、というのが流行する可能性もあるんではないかと想像しています。第2に、成功した組織は「サイロ化」を打破し、失敗したソニーアなどは「サイロ化」が原因だった、と本書ではされているわけですが、「サイロ化」との因果関係が不明です。まあ、美人の女優さんが使っている化粧品を買い求める女性がいたり、プロゴルファーと同じドライバーを使いたがる男性がいたりするのは十分理解できますが、同じ化粧品やゴルフ用品を使えばいいってもんでもないような気がします。
次に、伊東潤『天下人の茶』(文藝春秋) です。著者は私もファンで戦国時代を得意とする時代小説作家ですが、この作品はタイトルから容易に想像される通り、豊臣秀吉と千利休の物語です。第1部と第2部に分かれていて、第1部には「奇道なり兵部」、「奇道なり兵部」、「過ぎたる人」、「ひつみて候」、「利休形」の各賞が配されています。織田信長を継いで天下を統一し、関白として位人臣を極めた豊臣秀吉に対して、茶の湯により美の世界で頂点を極めた千利休が主人公と言えます。さらに、細川忠興、牧村兵部、古田織部、瀬田掃部ら、千利休を継ぐ弟子たちを通して、千利休の実態、というか、真の姿を明らかにしようと試みている作品です。そして、大きなネタバレになってしまうので書きませんが、豊臣秀吉と千利休の間の驚くべき関係が描き出されます。まさか、歴史的な真実とはとても思えませんが、明智光秀による本能寺の変、豊臣秀吉の朝鮮出兵、豊臣氏の滅亡と徳川による天下統一、こういった戦国末期から江戸初期にかけての歴史の流れを、著者は大胆に解釈して、まあ、単純にいえば、千利休を中心に据えた陰謀史観として物語を紡ぎ出しています。私はついついネタバレをブログに書いてしまうんですが、本書は決してミステリには分類されそうもないものの、これをブログに書いてしまうと書評にはならないような気がしますので、ここは筆が、というか、キーボードが滑るのは留意しておきます。ということで、本書のストーリーは歴史の荒唐無稽な解釈かもしれませんが、何でもありの戦国時代に詳しい著者らしい自由奔放な歴史観です。この作者が好きな読者は読んでおくべきかもしれません。少なくとも、私はその1人です。
最後に、上田早夕里『セント・イージス号の武勲』(文藝春秋) です。作者は人気SF作家で、私も『華竜の宮』や『深紅の碑文』などの Ocean Chronicle シリーズをはじめ、最近作の『薫香のカナピウム』などを愛読しています。ということで、この小説の舞台は主として英国であり、時代はナポレオン戦争の1800年前後です。もっとも、主人公は英国の海軍軍艦に乗り込んでいるものの、海洋民族出身だったりします。すなわち、英海軍に徴集された天涯孤独の少年トビーを主人公に、トビーの少年時代を振り返りつつ、海軍に志願して交戦中に遭難して見たことのない船に救出されるあたりから、本格的なストーリーが始まります。その軍艦こそ本書のタイトルであるセント・イージス号なんですが、そこで働くのは、主に、10代や20代の少女を含む子供や若者たちでした。このセント・イージス号は蒸気船の軍艦であり、世界に先駆けた新技術を搭載しつつデータ収集という極秘任務を帯びていました。そこで、トビーは別の海洋民族出身である謎の少女ファーダと出会います。ファーダは英国側で、ファーダの姉のベリーザはナポレオンのフランス・スペイン側で、それぞれ、ココと呼ばれる大海蛇を操って海戦に参加します。もちろん、ファーダも、ベリーザも戦争なんてまっぴらなんですが、主人公トビーの英国側のファーダがトラファルガー海戦のさなかにベリーザを救出しようと、トビーらとともに海戦の大混乱の中で、ファーダの操るココとともに奮闘します。最後は、生き延びた英国側の関係者が余生を過ごす時代を紹介するなど、とても長いスパンの小説です。歴史的にトラファルガー海戦がどちらの勝利に終わるかは明らかですし、主人公は死にませんので、それなりのハッピーエンドを楽しめるほのぼのの小説ともいえます。この作者の小説は、特に Ocean Chronicle シリーズなどはかなり暗い印象があるんですが、本書については少年少女の活躍する大活劇小説、しかも、作者の得意分野の海洋を舞台にした大活劇小説、なのかもしれません。これまた、この作者が好きな読者は読んでおくべきかもしれません。これまた、私はその1人です。
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