先週の読書は本格的な経済の学術書などはナシで、教養書っぽい読書はありましたが、中身はそれほどでもなく、最近亡くなったウンベルト・エーコ『プラハの墓地』や朝井リョウ『ままならないから私とあなた』など小説が中心の以下の7冊でした。今週からはペースダウンします。
まず、カビール・セガール『貨幣の「新」世界史』(早川書房) です。経済書と思って読み始めたんですが、ほとんど経済のお話ではなく貨幣にまつわる社会風俗的な教養書だという気がします。著者は長らく英国のJPモルガンに勤務した投資銀行家のようです。人的関係はよく判らないものの、冒頭にグラミン銀行でノーベル平和賞を受けたユスフ氏が巻頭言を寄せています。なお、英語の原題は Coined ですから、「貨幣」というよりは「硬貨」なのかもしれません。ということで、まず、生物界における共生関係から説き起こして、人間が社会生活を送るうえで貨幣流通が経済の動学的な移り変わりをスムーズにするという、余りにも当然な指摘から始まり、貨幣の起源としては債務説を取っているようです。すなわち、バーターの物々交換が不便なので社会的な発明品として貨幣が使われ出したわけではなく、債務の証文、すなわち、借用証が交換の場で通貨の役割を始めた、とする説です。歴史的な考証に委ねられるべきテーマですが、歴史を専門分野とするエコノミストの間でも決して少数派ではないような気がします。後は、南海バブルや19世紀末からの金本位制の成立、そして、第2次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制下の固定為替制度などの国際通貨制度の記述が続き、特に目新しさは読み取ることが出来ませんでした。ビット・コインも取り上げられていますが、ほとんど「ご紹介」程度の扱いですし、金融危機やバブルの発生と崩壊などは歴史的な事実としてのみ取り扱われている、という印象です。高校生とか大学の教養部生とかの読書にはいいかもしれませんが、経済を専門とするエコノミストには少し物足りないかもしれません。ただし、キチンと原典が注として提示されており、著者の勝手な思い込みだけで成り立っている本ではないことは確認できます。その点は立派だと考えるべきでしょう。
次に、横江久美『崩壊するアメリカ』(ビジネス社) です。トランプ候補が共和党の大統領予備選で過半数の代議士を生死、事実上、共和党の大統領候補となった中で、これらの現象を日本人としてどのように受け止めたり考えるべきかについての本といえますが、著者は私はよく知らないんですが、本書での肩書は元ヘリテージ財団の研究員となっていて、本書でも自分自身を称して、外国人として唯一ナントカ会議に出席していた、などと、完全に上から目線で、無知な日本人に対して教えを垂れる、というスタイルを取っています。中身がそれほどあるとは思えず、特に論拠も示さずに、著者が誰かからアクネドータルに聞いたお話なんだという気もしますが、とても大雑把です。最後の方は米国の政治外交姿勢の変化を世代論で論じようとしており、確かに、ベビーブーマーからX世代、さらにミレニアル世代への米国民の中心が移行していることは事実ですが、エコノミストの私から見て、世界的な分業体制の進化の中で、米国の占める位置が従来から大きく変化した点などが、まったく視野にも入っていないようです。トーマス・フリードマンなんか読まないんですかね。テレビドラマや音楽界や映画の嗜好の変化と、政治が以降の方向性の変化を同列に考えるのは、私としてはとても新鮮だったんですが、ややキワモノです。米国外交の方向として、ユーラシア・グループのブレマーの定義した「マネーボール」的な採算性を重視した方向に動くような指摘が本書で随所にありましたが、ブレマー的な孤立する米国については、本書の著者はどのように考えているんでしょうか。ご自分の考えを押し通そうとして他人の論評を広く把握することはしていないようです。どうも、本書というか、本書の著者について、情報を得るソースがとても狭そうな気がして、やや心配になります。でも、トランプ候補もそう情報収集のソースが限定的な気配があるので、そういった限られた情報で断定するのが流行りなのかもしれません。
次に、小島道裕『洛中洛外図屏風』(吉川弘文館) です。16世紀半ばの戦国末期から織豊政権を経て、17世紀前半の江戸時代初期くらいにかけて描き続けられた洛中洛外図屏風について、作者の言い方を借りれば、芸術品として見るのではなく、歴史資料として読んだ結果を解説してくれています。まず、洛中洛外図屏風について、私も10や20くらいはあるんだろうと想像じていましたが、何と百数十も伝えられているとのことで、ややその数の多さにびっくりさせられました。そして、多くの作品は大雑把に京の南西から北東を見る角度で描かれており、当然ながら、細かくびっしりというわけにも行かないので、重要な部分は大きく描いて、その他の部分は金雲で覆ってしまう、という構成になっています。京は碁盤目状ですから、斜めから見れば、各ブロックは平行四辺形になります。ただ、本書では伝統的な日本の画法には触れられていません。すなわち、浮世絵なんかもそうなんですが、全体を俯瞰・鳥瞰する場合は斜め上からの視点を取り、しかし、人物の、例えば浮世絵の美人画なんかは真横からの角度を持った視点で描く、という手法です。洛中洛外図屏風もこの日本の伝統的な画法で描かれているように見受けました。本書では、単に描かれている建物だけでなく、京の風俗やかぶき者の乱暴狼藉などのバイオレンス、さらに、豊臣から徳川への権力の移行に伴ういろいろな変化を洛中洛外図屏風から読み取っています。そして、最後には粉本と呼ばれるお手本から書き写すだけで、写実的な意味を失ってアップデートされなくなるまでを追っています。本書の表現では、雛人形が誰がお内裏さまで誰がお雛様なのかを問わないように、洛中洛外図屏風もひとつの形式になった、ということなのかもしれません。それにしても、この豪華絢爛な屏風が嫁入り道具のひとつとして作成されたとは知りませんでした。私は洛中洛外図にすら入らないくらいの田舎の京都の片隅の出身ですが、大学時代に少し公爵めいたものを聞いた記憶はあるものの、それなりの勉強になった気がします。
次に、ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』(東京創元社) です。作者は今年2016年2月に亡くなっています。イタリアの記号論の研究者であり、数本のベストセラー小説の作家でもあります。本書の訳者あとがきには、本書が6作目の小説であるとともに、邦訳されたのは5冊目、と紹介されています。私は邦訳されている小説、すなわち、『薔薇の名前』、『フーコーの振り子』、『前日島』、『バウドリーノ』はすべて読んでいます。ついでながら、映画「薔薇の名前」もDVDで見ていたりします。それはともかく、本書は2010年の出版であり、イタリア語の原題は Il cimitero di Praga ですから、邦訳そのままです。本書では、ナチスのユダヤ人ホロコーストの根拠のひとつともされた『シオン賢者の議定書』を偽書として作成した架空のシモーネ・シモニーニを主人公に据え、パリのモベール広場から入るややうらぶれた小路にあるアパルタメントで、この主人公が1987年3月から4月にかけて日記を書く、という体裁を取っています。もっとも、主人公以外の関係者の日記というか、メモ書きも混入します。時代背景が19世紀の世紀末ですから、ユダヤ人に関係する世界史的な大事件としてドレフュス事件が取り上げられますし、パリ・コミューン革命も話題に上ります。そして、本書に限らず、ユダヤ人問題、というか、ユダヤ人に対する偏見に関連して、カトリックの中でもイエズス会、さらに、典型的に、フリーメイソンと共産主義がほぼユダヤ人の陰謀と同一視されます。イエズス会はその布教活動が世界に及ぶということなんでしょうが、同じコンテクストで、ユダヤ人とフリーメイソンと共産主義は世界を視野に入れたインターナショナリスト、あるいは、コスモポリタンであり、しかも、やや偏見なんでしょうが、少し陰謀じみた活動に勤しんでいるんではないか、という点が共通していると私は理解しています。それ以外に特に思想的な背景や組織や活動に共通性はないように感じています。シモニーニがいろんな筆跡を真似できるというのは、宮部みゆきの『桜ほうさら』を思い出してしまいました。また、どうでもいいことなんですが、本書に当時のフランスでは統計局が情報部の中のひとつの局であるような発言が登場人物から出ます。どこまでホントかウソか知りませんが、マーク・トウェインが "There are three kinds of lies: lies, damned lies and statistics." といったのは有名ですが、このあたりに要因があるのかもしれません。
次に、朝井リョウ『ままならないから私とあなた』(文藝春秋) です。著者はいうまでもなく、新進気鋭の直木賞作家です。この作品には、短編の「レンタル世界」と中編ないし長編の表題作「ままならないから私とあなた」の2編が、この順で収録されています。「レンタル世界」では、友人の少ない新婦の友人として結婚式に出席したり、別居中の妻の役割を演じたりするレンタル家族の仕事をする女性に対して、体育会系の営業担当社員が虚構の世界に対する違和感を感じるというストーリーであり、表題作の「ままならないから私とあなた」では、小学校からの友人の女性2人、すなわち、無駄なことに見向きもせずに、信じる道を突き進んで行く天才肌のプログラマ、そして、無駄なものにも人間としての暖かみが宿るとこともあると考える芸術家肌の作曲家を主人公に、2人の価値観が徐々に離れて行き、人生の大きな選択である結婚に際して、決定的に対立する瞬間を迎えます。両方の作品とも、決して交じり合うことのない2人の価値観が永遠に平行線をたどり、何となく私の直感では、年配の人が支持しそうな人間味のある方向性に対して、作者はバーチャルな世界もアリだという若い世代を代表する作家として、アンチテーゼを投げかけているような気がします。とても興味深い一方で、これまた永遠に結論の出そうもないテーマに取り組んだ作者の心意気を大いに評価したい反面、とても難しい問題を世間に投げかける問題作ではなかろうか、という気もしないでもありません。少なくとも、私は一方だけを無条件に肯定することが出来ませんでしたし、表題作で人間としての暖かさを選択する作曲家の心情に無条件で近いと考えたり、読後感がよろしくないと感じたりする人は、多分、精神的もしくは年齢的に人生の夕暮れ時に近づいているんではないか、という気もします。
次に、白岩玄『ヒーロー!』(河出書房新社) です。作者は2004年に『野ブタ。をプロデュース』でデビューしたライト・ノベル作家です。『野ブタ。をプロデュース』はテレビでドラマ化され、それなりにヒットした記憶があります。私ですら、かなり遅れて読みました。もっとも、ドラマは見ていません。作者は12年前に二十歳そこそこだったように覚えていますので、まだ30代前半なんだろうと思います。ということで、本書は同じように高校を舞台にして、高校2年生の男女が主人公であり、イジメをテーマにしているところも共通しています。すなわち、高校でのイジメをなくす、もしくは、減らすため、ヒーローおたくの男子と演劇部の演出をしている女子が手を組み、さらに、何故か校長先生の理解も得て、休み時間にパフォーマンスを繰り広げ、それに、演劇部のシナリオ・ライターも乱入して、何と、パフォーマンス合戦となり、生徒たちの注意をパフォーマンスに引きつけてイジメに走る時間をなくそうというストーリーです。私はこのイジメ対策は、もちろん、根本的な対策にはまったくなっていませんが、少なくとも「臭いものにフタ」的な効果はあるんではないかというきはします。「元から絶たなきゃダメ」というのもひとつの見識ですが、例えば、いわゆる偏差値の高い進学校なんかでイジメが少ないのは、勉強に忙しくてイジメなんぞに走る時間が少ないのも、ひょっとしたら、多少なりとも効果があるかもしれない、くらいに考えています。小説に戻ると、『野ブタ。をプロデュース』では太った男子の転校生だったんですが、本書では超美少女の転校生がクラスに編入され、しかも、パフォーマーの側に立ってイジメ撲滅に立ち向かいます。私の記憶はかなり曖昧なものの、『野ブタ。をプロデュース』では、終わり方にやや不満が残ったんですが、本書では終わり方がそれなりに改善されています。でも、さらに一考の余地があるような気がします。終わり方で読後感にかなりの影響を及ぼしかねないので、今後の課題かもしれません。もっとも、私の場合、この作者は2作品しか読んでいないので、少し独断的な評価かもしれません。
最後に、百田尚樹『カエルの楽園』(新潮社) です。ソクラテスなるアマガエルが主人公の小説なんですが、右派の傾向の強い著者らしく、左派や平和憲法を強く揶揄する内容に仕上がっています。ソクラテスがたどり着いたナパージュの王国が日本で、そこに住むツチガエルが日本人、ナパージュの「三戒」は憲法9条で、ナパージュを守る老いたる巨大なワシであるスチームボートが米国あるいは米軍で、ハンニバル3兄弟が自衛隊、尖閣諸島になぞらえられた南の崖を侵略するウシガエルは中国人なのかもしれず、エンエンという国からナパージュに来たヌマガエルは在日朝鮮人の雰囲気があり、ウシガエルがナパージュを制圧した後にヌマガエルはウシガエルの手先となってツチガエルを支配したりします。ナパージュにいたツチガエルはウシガエルによる侵略の後、食用奴隷に成り下がりますが、「三戒」を守って戦争を回避する平和主義的な左翼、もっといえば、おそらく朝日新聞になぞらえられたデイブレイクは食用にされずに、ウシガエル側の御用メディアになったりします。まあ、左翼の側でもかなり強烈というか、真実からかけ離れたとはいわないまでも、かなり事実を歪めて無理やり「教訓的」なストーリーを作り出したりすることがないとはいいませんし、プロレタリア文学といったジャンルもあったりするわけですが、この小説は作者が作者だけに十分な予備的知識を持って読んだ私のような人間から見ても、とても論争を呼びそうな内容に仕上がっています。もちろん、そういう方向を意図して書かれた小説であることは間違いなく、その意味で、作者は確信犯的といえます。それで商品として本屋さんの書棚に並ぶわけですから、ある意味では、米国大統領選挙のトランプ候補の発言に似ている気がしないでもありません。私はこの作者の作品をすべて読んでいるわけではありませんが、映画化もされた『モンスター』などの良い小説もありながら、こういった一定の思想傾向を明らかにしたプロパガンダ的な内容を色濃く有する小説については、いかがなものかと思わないでもありません。
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