今週の読書は重厚な経済書をはじめとして計8冊!
今週の読書はかなり重厚な経済書をはじめとして計8冊です。まったくペースダウンできません。8冊ということになれば、1日1冊を少し上回るペースで読んでいることになり、土日なんぞがそうなっているわけですが、いくらなんでも、もう少しペースダウンしたいと思いますし、特に今週は経済書、それもボリュームもあれば、内容も高度で専門性高く重厚な経済書が何冊かあり、それ以外にも一般教養書とかで、とうとう図書館の予約の巡りのせいで小説が1冊もありません。この連休には少し小説を読みたいと予定しています。
まず、岩田一政ほか[編著]『マイナス金利政策』(日本経済新聞出版社) です。著者は日経センター理事長で前の日銀副総裁です。きちんとした金融政策の解説書です。サンフランシスコ連銀のLaubach-Williamsモデルに基づく自然利子率の計測も示されています。日銀のマイナス金利につては、日銀のサイトの「5分で読めるマイナス金利」がそれなりによく出来ているんですが、さすがに、多くのビジネスパーソンやエコノミスト向けには本書の方がむしろ判りやすい気がします。上の本書の表紙画像にある通り、3次元で量と質とマイナス金利なんですが、私自身はマイナス金利は量的緩和が必ずしも想定通りに物価目標を達成できなかったためであると、やや厳し目に見ています。というのは、現在の日銀執行部が国会での質疑を受けた際に、現在の岩田副総裁が2年で目標を達成できなければ辞任すると大見得を切りましたが、まさに、兵力の逐次投入をヤメにして一気に短期間で勝負を決めるべきだったにもかかわらず、言葉の綾ですが、量的緩和での物価目標達成に「失敗」したわけで、もちろん、国際商品市況における石油価格の大幅下落という想定外の海外ショックが大きな要因ではあるものの、2年間の期間が量的緩和としてはいっぱいいっぱいだったような気がします。というのは、現在は年間80兆円で国債を買い上げているんですが、これだけのペースでオペを進めると、かなり短い期間で支柱の国債ストックが大きく減少するからです。そして、量的緩和で「失敗」すれば、後はマイナス金利しか残らないのは欧州の経験から明らかです。国債ストックがなくなりそうだという議論との関係で、量的緩和の国債買い入れペースをスピードアップするのはムリですので、来週に開催される日銀の金融政策決定会合で追加緩和措置がとられるとすれば、マイナス金利の深掘りであろうと私は予想しています。それから、長期停滞論 secular stagnation との関係で自然利子率が推計されています。状態空間モデルを組んでカルマン・フィルターで解くようです。私も何度かカルマン・フィルターは用いたことがあり、それなりにプログラミングも出来たりします。何かやってみようかという気にならないでもなく、いくつか基礎的なペーパーを読み始めたりしています。出足の遅い研究者であることは自覚しています。
次に、 スティーヴン D. レヴィット/スティーヴン J. ダブナー『ヤバすぎる経済学』(東洋経済) です。著者は『ヤバい経済学』Freakonomics で一躍有名になった経済学者とジャーナリストです。シリーズとして同様の書籍が何冊か出版されているようですが、本書は2人が運営しているブログの記事をテーマ別に編集し直して章立てしてあります。英語の原題は When to Rob a Bank であり、本書の第9章と同じとなっています。ブログ記事そのままですから学術論文とは違って定量分析はなく、社会経済的な出来事、特にマイクロな分野の経済学的な解釈を行おうとするもので、いくつか仮説を立てて理論的な説明を試みようとしています。それが伝統的なマーケット分析だけではなく、というか、マーケット分析では決してなく、環境問題への対応などはまだしも、テロやタイトルにも取っている銀行強盗を含む犯罪行為の原因やその応用たる防止策の考察、また、その他の幅広い社会経済現象に対して、いわゆるインセンティブへの反応を合理的な人間行動の原理として解き明かそうと試みています。しかしながら、本書でもセイラー教授やカーネマン教授などの行動経済学者の説も取り入れつつ、レヴィット教授の勤務するシカゴ大学の合理学派一辺倒ではなく、それなりの広がりを見せた仕上がりとなっています。まあ、そろそろこのシリーズも、少なくとも経済学の専門家でない一般読者には飽きられつつあるような印象もあり、このラインで10年はよくもった気もします。経済学そのものが、『ヤバい経済学』が出版された以降のこの10年でかなり進歩したと私自身は実感していますので、このシリーズもおそらく何らかの進歩を取り入れるんだろうという気がします。行動経済学の要素なのかもしれません。
次に、中澤克佳・宮下量久『「平成の大合併」の政治経済学』(勁草書房) です。著者はともに公共経済学の分野を専門とする研究者であり、まえがきにある通り、本書の特徴は、「意思決定」、「合意形成」、「財政規律」という3つのキーワードに基づいて「平成の大合併」を定量的に分析している点にあります。そもそも、平成の大合併とは明治の大合併と昭和の大合併に続く第3の市町村合併を中央政府が促進したムーブメントであり、明治や昭和に比べて市町村数の減り方が少なかったのは強制性が大きく低下しているからであると分析されています。その上で、中央政府が目指したスケール・メリット、規模の経済が結果として得られたかどうか、また、合併に至る経緯で、どのような属性の市町村が合併に前向きだったのか、などを定量的に分析しています。分析結果は多岐に渡るんですが、少なくとも財政状態に関しては、フローの財政とストックの財政で整合性ない結果が示されているなど、現状で平成の大合併がどこまで定量的に評価できるのか、疑問に感じる点も存在します。他方で、上位政府出身者の市町村長、すなわち、国家公務員や県職員などが市町村長を務めている場合は合併を選択する確率が高かったり、合併前に地方債を発行して合併後の規模を大きくした自治体に返済をつけ回すフリーライダーの傾向が見られたりと、いくつかの点では世間一般の評価と一致する分析結果も定量的に得られています。また、格差の点では、本書で初出というわけではないものの、市町村ごとにジニ係数を算出した細かな評価も試みられており、それなりに政治経済学的な分析としては受け入れられる結果だという気がします。ただ、いかんともしがたいのは現時点でここまで焦り気味に早期の評価を下す必要があるかどうかです。本書では、書き下ろしの冒頭第1部に比べて、第2部からは学術雑誌などに投稿された本格的な論文の体裁となっていて、データやモデルの提示などが詳細に渡っているんですが、第4章からのモデル選択の赤池情報量基準(AIC)を見ても、不勉強にして、私はここまで大きなプラスのAICは経験ありません。いろいろな研究には諸事情あることと思いますが、やや研究としてはいわゆる「生煮え」の部分が残されているような気がしてなりません。もちろん、著者たちも「中間報告」的な研究成果との位置づけを受け入れているようで、今後の議論の土台としては貴重な分析結果と評価することは出来そうです。
次に、 ロバート F. ブルナー/ショーン D. カー『金融恐慌1907』(東洋経済) です。著者2人はともにバージニア大学ビジネススクールの研究者で、本書は英語の原題も邦訳そのままに2007年に我が国でも訳書が出版されています。その後、サブプライム金融危機のパートを書き加えて、今年新たに訳出されているようです。タイトルの通り、米国における1907年10月からの金融危機、ユナイテッド銅社に端を発する金融危機について、ジョン・ピアモント・モルガンを中心に、最後の貸し手たる中央銀行が存在しなかった米国金融界のパニック収拾についてドキュメンタリーを構成しています。英国の中央銀行であるイングランド銀行の創設が17世紀末で、バジョットが『ロンバート街』で中央銀行に関するルールを確立したのが19世紀後半ですから、米国の中央銀行たる連邦準備制度理事会(FED)が創設されてまだ100年ほどというのは意外ですが、その米国に中央銀行がない時代、しかも、製造業に加えて農業の収穫も金融に大きな影響を及ぼした時代の恐慌の歴史を明らかにしています。その際に、著者たちがモデルとして考えているのが「完璧な嵐」 perfect dtorm であり、以下の7点を要素として想定しています。すなわち、(1)複雑極まりない体系的構造、(2)バブル的な急速な経済成長ととの反動、(3)不十分な銀行資本バッファー、逆から見て、高いレバレッジ、(4)不確実性の高い政策を採用するリーダー、(5)金融システムを源とする実体経済へのダメージ、(6)過度の恐怖や極端な行動による負のスパイラル、(7)不十分な集団的アクション、あるいは、集団的アクションの失敗、ということになります。ただし、別のところで著者たちも認めている通り、1907年恐慌の最大の要因は流動性供給に融通が利かない金本位制に起因する部分も決して少なくないことから、2007-08年ノサブプライム金融危機とどこまで同じか、異なるかについては議論の別れるところだという気もします。もちろん、流動性供給に融通の利くフィアット・マネー・システムでもあれだけの金融危機が生じたわけですから、金融システムというものの脆弱性は筋金入りで折り紙つきかもしれません。
次に、竹中平蔵[編著]『バブル後25年の検証』(東京書籍) です。一応、今年3月だか、4月だかの出版ですが、2013年に慶応大学で連続セミナーを実施した折のメモを起こしたものであり、章により最新情報にアップデートされているものと、まったくそうでないものがあります。アップデートされているかどうかは別にして、特に読んでためになるのは第2章の金融政策と第10章の消費者行動ではないかと思っています。おそらく、短期的には景気循環への影響がもっとも大きいのは金融政策であり、バブル崩壊後に日銀が金融政策を誤って不況を大きく長くした「罪と罰」は、こういったタイトルに関して議論する場合に大いに考えておくべきポイントです。バブル経済やバブル崩壊と関連する金融政策の選択肢はいくつかあるわけですが、当時の日銀のように、ともかくバブル経済を招かないという点に最優先のプライオリティを置くのは、政策運営としては簡単で、金融政策を引き締め気味にして、ギューギューに経済を下押ししておけばいいわけです。まさに、そのために長期不況が続き、日本経済はデフレにまで陥ったわけです。ですから、私の考えるバブル対応の要諦としては、バブルを招かないギリギリまで成長率を引き上げるか、あるいは、本書でも何人か主張している通り、バブルがステルスで認識されないとすれば、バブル崩壊が認識されると時を置かずに大規模な金融緩和に踏み切る、ということだと認識しています。それから、バブル経済の時点あたりから消費のあり方が変化したという主張も興味深く読みました。それまでの「三種の神器」とか、「3C」などの大衆消費社会の横並び的な少品種大量の消費ではなく、個性化した消費に移行したのがバブル経済のころである、という主張はそうかもしれないと納得させられるものがありました。さらに現在では、消費のサービス化やソーシャル化が進み、従来の感覚では「消費」とはみなされない消費がそれなりの割合を占めている、というのもなるほどと思わせるものがありました。最後に、慶応大学での連続セミナーの取りまとめペーパーは以下のリンクの通りです。それほどよく確認したわけではありませんが、勝手ながら本書と中身は大きな違いがないんではないかと想像しています。
次に、米澤潤一『日本財政を斬る』(蒼天社出版) です。著者は大蔵省・財務省のOBで、本書は、よく判らないんですが、少なくとも出版社は自費出版の取り扱いで有名な出版社だと私は認識しています。国債や財政についての歴史を中心とするエッセイであり、それほどボリュームはないので、国債発行を国民感情一般とも通じる見方で「うしろめたい」と表現しています。マクロ経済学に関する知識はバックグラウンドにあるんだろうと思いますが、主として予算平成上の実務の面から、いわゆる「財政の硬直化」として解説を加えています。統計を基にした定量的な解説ではなく、歴代大蔵大臣の発言などを中心に構成するエピソード分析ですから、まあ、それなりのバイアスはあるものと考えるべきです。ただし、そもそも1965年度の本格的な国債発行の原因として、経常収支で大きな黒字を上げていた当時の我が国に対する国際的な内需拡大要求の一環として捉えており、それはそれなりに正しい面を含む認識だと私は受け止めています。加えて、ここまで公債依存が膨らんだのは、予算や財政の制度に欠陥があったからではなく、問題は運用にあったと指摘しており、これもおそらくそうなんだろうと思います。もっとも、読み進むうちに、どうしてうさん臭さはぬぐい切れず、本書の最後にある「財政はだれのものか」に対する回答について、著者は国民のものと明記していますが、「財務官僚のもの」と読み取りかねない読者がいそうな気もします。でも、国際的にも見ても、ここまで公債残高を積み上げた国は21世紀の平和な現代ではほぼなく、それにもかかわらず、政府にも国民の間でもそれほどの危機感は見られず、公債依存が常態化しているのは少し怖い気がしなくもありません。ところで、アマゾンのレビューで3人ともフルマークの5ツ星なのは、偶然でしょうか、ホントにそうなのでしょうか、それとも何かウラがあるんでしょうか。
次に、ジョン・マルコフ『人工知能は敵か味方か』(日経BP社) です。著者は米国ニューヨーク・タイムスをホームグラウンドとし、ビジネス部門でテクノロジーを追うジャーナリストです。1988年入社とありますので、かなりのベテランです。なお、英語の原題は The Quest for Common Ground between Humans and Robots であり、2015年の出版です。ということで、お決まりの枕詞なんですが、ここ数年で人工知能(AI)やロボットの技術はかなり進歩し、いわゆるシンギュラリティといわれる技術的な特異点が2045年、すなわち、AIが人間の能力を上回る当たりに来るんではないか、ともいわれていたりします。私のような文系の経済学部を卒業した専門外の人間でも、グーグルの自動運転車やアップルのiPhoneに搭載されたSiriなどは耳にする機会も少なくありません。ただ、英語の原題が「ロボット」となっていて、私の直観的な認識では、ハードがロボットでAIはそれに搭載するソフト、と考えているんですが、タイトル的には混乱があるようにも見えます。そのあたりをゴッチャにして、本書では、1950年代から米ソの技術開発競争、特にスプートニク・ショックなどを含めて、軍事的な分野も包含する形で米国の技術開発が進み、それくらいまで時代をさかのぼってAIやロボットの歴史をひも解いています。その意味で、どこかの新聞の書評でAIやロボットが神話だった時代からの超有名人が実名で次々と登場する点を特記していた評者がいましたが、誠に残念ながら、専門外の私にはノーバート・ウィーナとか、フォン・ノイマンとか、ごく限られた人しか判りませんでした。エコノミストとして念頭にあるのは雇用の問題であり、ロボットやAIは人間労働と補完的な関係にあるのか、それとも、代替的な関係にあってロボットやAIが人間の雇用を奪うのか、という極めてステレオタイプかつ単純な疑問なんですが、本書ではロボットやAIと人間の関係を雇用や労働との関係だけでなく、より幅広く、将来我々はマシンをコントロールするのか、それとも、マシンに我々はコントロールされるのか、という趣旨の問いを投げかけており、最終的に、その回答を決定するのは開発者や研究者ではなく、我々ユーザーであると本書は結論しているように見えます。私レベルではなく、もう少し専門的な基礎知識があれば、もっと面白く読めそうな気がします。
最後に、池内恵『サイクス=ピコ協定百年の呪縛』(新潮選書) です。今年5月にNHKが締結100年を記念して、報道特番を組んでいたらしいです。私は興味ないので見ていません。「サイクス=ピコ協定」とは英国とフランスが、第1次世界大戦後のオスマン帝国解体と勢力圏の確保をにらんで、秘密裏に合意した取り決めであり、現在の国境線に近いといわれていて、さらにバルフォア宣言とか、イスラエル建国に関する英国のいわゆる二枚舌外交なども含めて、このあたりまでは、まあ、高校とはいわないものの、大学の1-2年生の教養レベルのお話で、本書はほぼそのレベルといえます。西欧列強が自分たちの価値観や利害で勝手に植民地などの国境線を引いてしまう例はいくらでもあり、アフリカはほとんどそうですし、アジアでもニューギニア島なんぞは不自然な直線ラインの国境で分割されていたりします。私は3年間インドネシアに駐在しましたが、北部はボルネオと呼ばれるマレーシア領で、南部はカリマンタンと呼ばれるインドネシア領、という大きな島もあります。しかし、中東が注目され、紛争も多いのは、なんといっても石油が出るからです。本書は新潮選書の中東シリーズの劈頭を飾る1冊らしいので、今後石油に関する本も出るので本書では石油の「せ」の字も出て来ませんが、まさか見逃しているわけではないでしょう。さらに加えて、18-19世紀の帝国主義に時代の西欧列強的な国家観が、民族や地域を超えて世界的に普遍に成立するかどうかも問われるべきです。すなわち、国連では領土と国民と統治機構が国家の3要件となっていると聞き及んでいますが、中東あたりで砂漠の民がラクダなどの家畜とともにアチコチに移動する際に、その昔であれば、国境とか国籍は気にしていなかった可能性が高いんではないか、と私は想像しています。加えて、私の知っている範囲でも、過激派組織「イスラム国」(IS)は「サイクス=ピコ協定以前の状態に戻せ」との主張を繰り返していますが、本書ではまったく触れられていません。まあ、この1冊では最終章でアラビアのロレンスの映画に言及してお茶を濁すくらいですから、とてもモノになりそうな気はしません。
| 固定リンク
コメント