先週の読書は経済書を中心に教養書や小説や新書も含めて計8冊!
先週は、経済書を始めとして、教養書や小説や新書も含めて、以下の通りの計8冊です。まだまだ多いように見えますが、米国雇用統計で1日読書感想文がずれて、しかも、新書が2冊含まれていますので、何となく少しペースダウンしたような気になっています。この3連休で図書館を回って、来週も大量に読みそうな予感がしています。
まず、クライド・プレストウィッツ『近未来シミュレーション2050日本復活』(東洋経済) です。英語の原題は邦訳そのままで Japan Restored です。著者は米国のコンサルタントですが、長らく国務省や商務省などの米国政府で勤務しており、いわゆる日米貿易摩擦の際には対日本交渉担当官を務めたこともあります。その著者が、35年くらい先の日本について近未来シミュレーションを行い、日本復活の可能性を示唆しています。現時点から考えると来年の2017年に、パクス・アメリカーナの終焉やアベノミクスの失敗から、日本は大きな危機に陥り、特命日本再生委員会が組織され大改革が始まる、というストーリーです。現実とシミュレーション結果が書き分けられておらず、なかなか、戸惑う部分も少なくないんですが、その改革キーポイントは何点かあり章別に書き連ねると、まず、パクス・パシフィカとして米国のプレゼンスなき後に安全保障政策が転換されます。ここは私の専門外ですのでパスします。そして、第4章では女性の活躍をクローズアップし、第5章では英語習得による日本のバイリンガル化、第6章でイノベーションの活発化、特に破壊的イノベーションの隆盛、第7章で再生可能エネルギーを含め送配電部門の改革によるエネルギー面での独立、第8章でコーポレート・ガバナンスや労使関係などで日本株式会社のリニューアル、第9章でインサイダー重視の旧来の体制から農業や医療分野で自由な競争を展開する社会への脱皮、最後に中央集権的な官尊民卑の現地方自治制度の分権化などなど、縦横無尽に日本活性化のためのシーズが展開されています。とても興味深く、どこまで実現可能か疑問に思わないでもありませんが、こういった改革が出来なかったからこそ現在の日本になっている気もしますし、ひとつの参考意見としては目を見張るアイデアではなく、普通にどこかで誰かがいっているような改革案ばっかりを並べていますので、それが実行されるかされないかが問題なのだろうという気もします。
次に、白井さゆり『超金融緩和からの脱却』(日本経済新聞出版社) です。著者は今春まで日銀審議委員を務めていたエコノミストです。でも、ホントは金融論のご専門ではなく、開発経済学を専門として国際通貨基金(IMF)に勤務していたりしたエコノミストで、私も政府開発援助(ODA)に関する会合でお見かけしたことがあったりしました。私は本書はタイトルが少しおかしいと考えているんですが、少なくともタイトルに合致した内容ではありませんから、それほど気にする必要はないのかもしれません。むしろ、売れそうなタイトルにしたというのがホントのところなのかもしれません。まず、タイトルについて、私は超金融緩和からの脱却、ということになれば、米国や欧州はともかく、我が国についてはデフレからの脱却と、少しタイムラグはある可能性は否定しないものの、ほぼほぼ同義だと感じています。ということで、本書はとてもバランスよく著者の勤務時の日銀金融政策について取りまとめています。ひょとしたら、日銀事務局からの説明メモをそのまま編集すれば、こんなカンジなのではないかと思ってみたりしないでもないんですが、ここまできちんと編集して取りまとめることが出来るのも立派な能力だろうという気がします。日銀公式見解通りとはいえ、そのまま標準的な経済学の理解に基づいていますので、人口動態の物価への影響を疑問視したり(p.48)、日銀が目標としているのは生鮮食品を除くコアCPIではなく、ヘッドラインCPIであると確認したり(p.54)、我が国のMRFや米国のMMFなどについても低金利化での元本割れのリスクを指摘したり(p.154)、とても目配りが行き届いています。特に、最近話題のヘリコプターマネーについては、フリードマン教授の議論を引いて、p.254からていねいに、1回限り、中銀バランスシートの拡大は永続的、中銀による無利子に永久債の買いオペ、の3点を指摘し、需要創造の可能性を示唆しています。ただ、それだけに、惜しむらくは著者自身の主張がまったくではないにしても、あまり見られません。繰り返しになりますが、事務局から日銀審議委員への説明メモをていねいに編集すれば本書が出来上がる、ということなのかもしれません。
次に、ポール・オイヤー『オンラインデートで学ぶ経済学』(NTT出版) です。英語の原題は邦訳に近くて、Everything I ever Needed to Know about Economics I Learned from Online Dating となっています。著者はスタンフォード大学の研究者ですが、エコノミストというよりも、ビジネス・スクールの教授ですので、経営学系の研究が中心ではないかと私は想像しています。その著者がオンラインデートのサイトに登録して実際にデートしたり、いろいろと経済学的な考察をめぐらしています。すなわち、雇用研究でノーベル経済学賞受賞者も出たサーチ理論から、オンラインデート市場におけるサーチ・コストの問題を論じ、オンラインデートに限らず、ついつい身長は高めに体重は低めに申告するバイアスを含めて、軽く自己を偽るチープトークを取り上げ、フェイスブックなどのSNSに典型的に見られるようなネットワーク外部性がオンラインデートにも観察される点を解説し、チープトークではなく行動や属性で自己を表現するシグナリングの例を示し、特定の人物的な属性において、いわゆるステレオ・タイプとして統計的差別が生じる場合を考察し、厚い市場の利点と薄い市場の長所短所について論じ、情報の非対称性によるレモンの市場の出現や逆選択による市場の不成立を考え、同僚や交際範囲に同じタイプの人物が多い正の同類交配を提示し、教育の結果とルックスのよさは報われるという能力や属性の観点を説いています。オンラインデートといえば、米国では男女のマッチングのひとつのあり方として一定の地歩を占めているように聞き及んでいますが、我が国ではまだまだ「出会い系」や「援助交際」との連想に基づいて、一定の胡散臭い目で見られているサービスですから、こういった経済学的な分析がどこまで可能なのか、あるいは、受け入れられるのか、については疑問が残りますが、本書の冒頭のサーチ理論から始まって労働経済学的なマイクロ経済学の理論がある程度は当てはまりそうな気もします。でも、行動経済学的な非合理性も多く観察されそうな気もします。強くします。
次に、ニコラス・ウェイド『人類のやっかいな遺産』(晶文社) です。著者は科学ライター・科学ジャーナリストであり、「ネイチャー」や「サイエインス」の科学記者や編集者の経験もあるようです。英語の原題は邦訳にほぼ近くて A Troublesome Inheritance であり、2014年に一度出版された後、専門外の私でも知っているほどのものすごい批判が集中し、昨年2015年に改定版が出版されています。訳者解説に改定版での変更についてやや詳しく取り上げてあるものの、どこがどう変更されたのかは私は知りませんが、批判が生じるのは、本書が過去5万年くらいの人類の進化の歴史をかえりみて、人種や民族に関して進化上のもしくは遺伝子上の違いがあるのではないかと指摘していて、人種差別、場合によっては、ナチスばりの特定人種・民族の優位性の主張とその裏側での別の人種や民族の排斥につながりかねない主張ではないか、と受け止められたからです。この邦訳を読んでもその恐れを払拭することが出来ない気がします。ひとつのキーワードは、攻撃性に関するMAO-A酵素の制御に関する遺伝システムであり、この遺伝システムの上に構築される社会制度を考え、後は、ノーベル経済学賞を受賞したノース教授などの制度学派の経済史の理論が展開されています。そして、MAO-A遺伝子は人種や民族によって大きく異なっていると本書では主張しています。また、従来から、私は経済史の理解について、西洋ないし西欧が経済的に台頭して現在の地位を占めたのは産業革命に起因し、どうして産業革命が18世紀のイングランドで生じたかは不明である、と指摘して来ましたが、本書では、人口増加の圧力によるとの説を取っていて、私には到底納得のできる議論ではありません。私は本書でいうところの「学界左派」に当たるのかもしれませんが、「やっかい」Troublesome なのは遺伝子ではなく、その遺伝子の違いを受け入れるに際しての人類の未熟さではないか、という気がしています。ナチスのユダヤ人ホロコーストを引くまでもなく、ホンの数十年前まで我が国や西欧先進国で優生学なる「科学的根拠」に基づく「断種」のような行為が容認されており、さらに100年さかのぼれば、米国では黒人を奴隷として使役するのが当然と考えられていたわけです。私は進化論や遺伝子における人種や民族の違いを研究することは学問の自由の観点から、当然に許容されるべきであり、研究そのものを禁止するのは、逆に、批判的に考えているんですが、その研究成果の取り扱い、というか、実務的な活用については慎重であるべき、と考えています。しかし、現在時点での人類の寛容さは、例えば、今年の米国大統領選挙の論戦を見ていたりすると、まだそのレベルに達していないんではないか、とも危惧しています。
次に、小野俊太郎『ウルトラQの精神史』(彩流社) です。著者は1959年生まれのアラ還で、私とほぼほぼ同世代の文芸評論家だそうで、同じ出版社の同じフィギュール彩のシリーズで一昨年2014年に『ゴジラの精神史』を出版し、別の講談社現代新書で『モスラの精神史』という著書もあるようですが、なぜか、「ガメラの精神史」はないようです。いずれにせよ、私は読んでいませんし、それなりに限られた範囲の「オタク文化」ではないかという気がします。私は『ゴジラの精神史』だけは少し興味がないでもなく、三島由紀夫がどうしてゴジラに感激したかは知りたい気もしますが、今後の課題としておきます。ということで、本書では1966年に放送されたテレビ番組である「ウルトラQ」全28話について、戦後社会を破壊する力、日本にやってくる怪獣たち、見慣れぬ怪物へと変貌する、の3部9章に分類し直して論じています。なお、全タイトルはpp.18-19のリストに網羅されています。いうまでもなく、本書にもある通り、「ウルトラQ」は「オバQ」とともに午後7時台のゴールデンアワーにTBSが放送し、子供達を主たる視聴者層としていました。私はさすがにもうほとんど記憶にないんですが、いくつかの印象的な放送は断片的に覚えています。それほど熱心に見ていたわけではないように思います。戦後直後から高度成長期まっただ中の日本を時代背景とし、直前の1964年には東京オリンピックを成功させ、その準備として新幹線や首都高などが整備され、名実ともに日本が先進国の仲間入りを果たしたころです。放送では現実からかけ離れた超近代的な装いの鉄道や道路や建築物が流される一方で、まだ都市と地方の格差は大きく、農閑期には東北から東京に出稼ぎがあったりした時代背景も取り込まれており、そこに、UFOや宇宙人といったSF的な要素、ほかにはホラーの要素や伝統的な怪物や伝承の要素などを織り込んだ番組作りに加えて、円谷プロの特撮が生かされた動画、さらに、ゴジラ・モスラなどが映画であったのに対して、テレビで毎週放映されるという高頻度なインパクト、などなど、目新しい要素が満載だったテレビ番組であり、いうまでもなく、その後はウルトラマンのシリーズに引き継がれることとなるテイクオフのころの番組でもありました。単に懐かしがるノスタルジーだけでなく、そうかといって、当時の時代背景や技術的限界だけを考えるのではなく、本書を読めば現代に通ずる何かを見出すことが出来るかもしれません。画像がまったく掲載されていないのは、著作権の関係か、あるいは、鑑賞に耐える画像がないのか、仕方ない気もしますが、東京MXで昨年2015年1-3月に放送された「ネオ・ウルトラQ」にまったく言及がないのはやや不思議な気がします。単に、著者が知らないだけ?
次に、石川智健『エウレカの確率 経済学捜査員VS.談合捜査』(講談社) です。今週の読書の中で、これだけが小説です。著者は若手の作家であり、医療系企業勤務の傍ら執筆活動を続けている、と紹介されています。このシリーズは3冊目であり、すべて『エウレカの確率』をタイトルにし、サブタイトルを付して、1話目が『経済学捜査官 伏見真守』、2話目が『経済学捜査員とナッシュ均衡の殺人』、この3話目が『経済学捜査員VS.談合捜査』となっています。私はすべて読んでいたりします。経済学捜査官を称する伏見真守をシャーロック・ホームズたる探偵役の主人公にして、面白いことに、語り手のワトソン博士役は毎回異なっています。第1話はいっしょに捜査に加わった神奈川県警の女性捜査官、第2話は事件の場である製薬会社のコンプライアンス課長、そして、この第3話では中国から短期で派遣された女性捜査官、ということになっています。そして、毎回登場するのは科学警察研究所勤務の関西弁丸出しのプロファイラー、主人公と同じ警視庁捜査2課の捜査官となります。主人公自身が、殺人事件の70%はプロファイリングで解決の糸口を見つけることが出来るが、残りの30%は合理的な殺人事件であり、経済学の視点で解決できる可能性がある、と何度も繰り返して発言している通りです。ということで、本書ではサブタイトル通りに、建設業界での談合事件を主たるモチーフにしつつ、実は、建設業界のもうひとつの汚点を捜査してあばく、ということになります。上の画像で見る通り、表紙は数式でいっぱいなんですが、私の直感では、小説版ではなくテレビのドラマ化された東野圭吾の「ガリレオ」シリーズで、湯川准教授を演じる福山雅治が事件解決の直前に数式を展開しまくるのが基になっているような気がします。なお、前作の第2話では製薬会社が舞台でしたので、その表紙では亀の子のベンゼン環がいっぱいあったように記憶しています。
次に、橘木俊詔・参鍋篤司『世襲格差社会』(中公新書) です。経済的格差や成長不要の論陣を張る橘木先生と、あとがきによれば、そのお弟子さんによる共著のようです。内容はタイトル通りと考えてよさそうです。冒頭はアラン・クルーガーなどの提唱によるグレート・ギャッツビー曲線から始まります。親子の所得の相関と親世代の不平等度合いをプロットしたもので、右上がりの正の相関が示されていますので、結果の不平等が機会の不平等につながりやすいことが示されています。個人の努力よりもどの親の下に生まれたかで経済的な豊かさが決まりかねないわけです。個人の努力でコントロールできない要因により、経済的な豊かさや人生そのものが決まるとすれば、どこまで社会的に許容されるかは興味あるところです。ただ、「世襲」の意味にもよります。すなわち、本書にも国会議員のいわゆる「二世議員」が取り上げられていますし、3代に渡る外交官のコラムも見かけますが、選挙や採用試験という明確なハードルが設定されており、そのハードルが決して容易なものでないならば、親の職業を子が選択することをもって「世襲」と呼ぶべきかどうかは疑問が残ります。もちろん、私もそれなりの進学校に通っていましたので、医者の息子が医者になる例をいっぱい見て来ており、医師国家試験にパスする必要があるとはいえ、高額の私大医学部に通えるような家庭に私は育ちませんでしたから、たくさん医師という職業の「世襲」を見て来ました。それでも、むしろ、「世襲」かどうかを問うことなく世代を超えて不平等や格差が受け継がれる弊害を考えた方がスンナリと受け入れられるような気がします。また、どうでもいいことながら、本書冒頭p.12では「格差が拡大すると、国の経済成長率は低下していく」との格差観を著者は示しており、橘木先生はゼロ成長論者ではなかったのかと疑問を感じました。あくまで効率の面から格差を論じる限界を見た気がします。私は格差や不平等は、社会的に受け入れられるかどうかの一定の閾値を超えると正義の問題になるんだと認識しています。ご参考まで。
最後に、高木久史『通貨の日本史』(中公新書) です。著者は人文科学系の歴史学の研究者であり、社会科学系ないし経済学系のエコノミストではありません。ですから、市場における資源配分なんぞは関係なく、我が国の歴史上に通貨というものが現れて、交易に使用され始めたところから記述が始まります。すなわち、都の建設のため国産の銭が作られた古代、中国からの輸入銭に頼った中世、石見銀山の「シルバーラッシュ」が世界経済をも動かした戦国時代、財政難に苦しめられた江戸の改革者たち、植民地経営と深く関連した帝国日本の通貨政策、そして、戦後の通貨政策、でも、ブレトン・ウッズ体制という言葉は出てきません。また、現在の法律に基づく通貨=紙幣と補助通貨=コインの区別も関係ありません。いくつか興味深い写真もあります。銭高=デフレと、物価高=インフレに関して、フリードマン的な「いつでもどこでも貨幣的現象」というエコノミスト的な視点はありませんが、庶民の感覚も含めて、生産・流通と通貨の残高の関係が判る人には判るように、ほのかに浮かび上がるようになっているのかもしれません。中世以前にさかのぼると、エコノミストの私には理解がはかどりませんが、江戸時代の「上方の銀遣い、江戸の金遣い」は本書にも出てくるところ、世界的な銀本位制と金本位制、中国の銀本位制などなど、我が国の金銀と通貨の関係と世界とのつながりがあったのかなかったのか、そのあたりを知りたいと思いますが、どうも著者のスコープの外のようで残念です。特に、江戸開幕前後の京都の後藤家による金貨の大判の製造については、おそらく、貨幣というよりは戦国大名などが家臣への褒美的な用途だったんだろうと思いますが、世界的な金が貨幣になる動向と何か関係があるのか、それとも欧州と日本はそれぞれ独立に金を貨幣にしたのか、私はとても興味があります。
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