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2016年10月29日 (土)

今週の読書は相変わらず経済書など計9冊!

今週も経済書や小説など9冊読みました。特に、小説は話題の書や好きな作家でしたので3冊に上りました。来週は土曜日に米国雇用統計が割って入りますので、読書感想文のブログのアップが日曜日となり読書日が1日多いため、ひょっとしたら10冊の大台に乗りそうな予感もあります。これから自転車で図書館に行って予約しておいた本を収集します。

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まず、ハリー G. フランクファート『不平等論』(筑摩書房) です。著者はプリンストン大学の目お伊代教授で、専門は道徳哲学です。私は本書を読むまでよく知りませんでした。英語の原題は On Inequality ですから、邦訳はそのまま訳されたカンジです。基になっているのは1987年と1997年に学術雑誌に掲載された2つの論文、"Equality as a Moral Idea" と "Equality and Respect" です。短い学術論文2編が基になっている2部構成ですので、本書も決して長くなく、訳者の解説がページ数的には3割超を占めます。本書の主張は、現代の米国の経済社会におけるもっとも基本的な課題のひとつは格差や不平等ではなく貧困や欠乏である、という点に尽きます。格差や不平等を問題にするのは、他人との比較という観点が入ることから、自己自身の問題を考える場合にむしろ有害ですらある、と結論し、加えて、平等主義への代替案として「充足ドクトリン」を提唱し、お金について道徳的に重要なのは不平等ではなく、各人が十分にお金を持つということである、と指摘しています。経済学的な視点にも目配りがなされていて、限界効用逓減法則はかなり強く疑問視され、やや牽強付会ながら反例もいくつかあげられています。また、行動経済学的な観点で、プラスの効用をゲットすることよりも、マイナスを避けようとするカーネマン・ツベルスキー的なプロスペクト理論への言及もあります。それはそれとして、議論の場ではこういった道徳哲学が成立する余地があるかもしれないんですが、翻訳者の解説にもある通り、実践の場ではなかなか国民一般の理解を得にくいのが難点かという気はします。哲学者の机上の空論といえばそれまでですが、こういった議論は成り立たないわけではありませんから、例えば、経済政策を考えたり、道徳を論じたりする際、頭の片隅に置いておく必要があるのかもしれません。もちろん、まったく無視して実践論を進める論者もいるかもしれません。

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次に、早川英男『金融政策の「誤解」』(慶應義塾大学出版会) です。著者は日銀の調査統計局長から理事も務めたエコノミストです。当然、リフレ派を目の敵にしていて、かなりエゲツナイ批判を繰り返している日銀旧習派といえます。ただ、いくつかのポイントで主張はもっともで、耳を傾けるべき点もあります。まず、岩田ほか[編]の『マイナス金利政策』の後追いですが、現在の黒田総裁の下での日銀の量的緩和政策、マイナス金利がつく前の量的緩和政策ですが、これは短期決戦であった、という主張です。基本は、日銀が国債を買い切ってしまうから、という極めて単純な理由なんですが、それはその通りです。そして、もうひとつの批判で私が許容すべきと考えるのは、2014年10月のハロウィン緩和に典型的に見られるように、市場との対話よりもサプライズを狙った緩和が見受けられることです。この点に関しては、最近の日銀も反省が見られる、というか、市場との対話を積極的に展開しているような気がします。でも、ほかの批判はとても恣意的な設定の下に、あり得ない敵に向かって弾を撃っているような気もします。第3章のリフレ派への批判については、特にそういう気がします。大昔の福井総裁が就任した際、「魔法の杖はない」と発言し、私はこりゃダメだと感じたことがありました。誰も魔法の杖を要求していないにもかかわらず、批判をすり替えて反論するのはどうかという気がします。特に、リフレ派が政策実行の際の気合いを強調しているという謎の見方が示されていますが、速水総裁時代に量的緩和は効果ないとたびたび総裁自身が発言して、政策効果を大きく減殺した点は忘却の彼方なのかもしれません。また、第4章のデフレ・マインドの形成についても、「失われた20年」における「学習された悲観主義」、特に、エレクトロニクス産業の苦境に関して、一部なりとも、日銀のデフレ志向の金融政策による円高がもたらした、との認識は全く欠如しているらしく、これくらいの鉄面皮でないと大きな組織では出世しないんだろうという気がします。他方で、旧日銀の作り出したデフレについては、▲0.3%くらいのデフレは何でもない、決して「失われた20年」の主因ではない、との見方がたびたび示され、コチラには反省の態度は見られません。いずれにせよ、黒田総裁就任から3年半を経て、「失われた20年」のころから攻守所を代えた批判が生じる素地が出来上がっていることも確かですし、市場との対話よりもサプライズを狙った政策運営がその批判の対象になっていることも事実です。黒い日銀と白い日銀のどちらのトラック・レコードがよかったのか、現在の内閣支持率に反映されている部分が少なくないような気がするのは私だけでしょうか。加えて、現在の黒田総裁の日銀やリフレ派に対する批判で、例えば、2014年10月のハロウィン緩和を戦時中のミッドウェイ海戦になぞらえるなど、旧日本軍を引き合いに出す方法は、ネット上の論争に関するゴドウィンの法則の日本版かもしれないと感じてしまいました。最後に、日経ビジネス誌の10月17日号p.103で、第一生命経済研の永濱氏による本書の書評が取り上げられており、「白川方明日銀総裁以前の日銀の伝統的な考え方が理解しやすくなる」と結論されています。今さらという気もしないでもありませんが、ご参考まで。

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次に、フィリップ・ボール『ヒトラーと物理学者たち』(岩波書店) です。著者は英国のサイエンスライターであり、ネイチャー誌のエディターも務めています。英語の原題は SERVING THE REICH: The Struggle for the Soul of Physics Under Hitler となっており、邦訳副題の「科学が国家に仕えるとき」を含めて、ほぼ邦訳タイトルと同じです。そして、タイトルから理解できるように、ヒトラー支配下のドイツ第3帝国における物理学者の活動を追っています。もちろん、ついでながら、第3帝国を追放したり、逃げ延びたりしたアインシュタインなどのユダヤ人をはじめとする物理学者の動向の把握も忘れられているわけではありません。でも、特に、スポットを当てられているのは、デバイ、ハイゼンベルク、プランクの3人のノーベル賞受賞者です。でも、タイトルに反して、というか、何というか、デバイはノーベル化学賞受賞者だったりします。それはさておき、物理学者と化学者両方の科学者たちがナチスにどう抵抗しようとし、あるいは、受け入れられようとし、そのリソースを利用しようとし、長いものにまかれる状態をどう正当化しようとしたのか、という古くて新しい科学倫理の問題を、いかにもジャーナリストらしく、あらゆる証拠を提示・吟味しながら執拗に論じています。特に、デバイについては、2006年に出身地オランダで『オランダのアインシュタイン』と題された本が出版されて評価が一変したという歴史的事実があります。というか、ノーベル賞受賞の輝かしい評価は根底から覆され、唾棄すべき「ナチスのスパイ」だったという評価が下されたりします。『アンネの日記』ではないですが、ユダヤ人をはじめとして世界中の多くの民族人種に寛容なオランダらしい対応かもしれませんが、逆から見て、米国に逃れたアインシュタインが徹底して反ナチスの態度を貫き通したわけですから、それを基準に考えると許容範囲が大きくシフトするような気もします。最初の疑問に戻って、化学者を含む「科学者」というタイトルではなく、英語の原題もあくまで「物理学者」となっていますので、焦点は化学兵器ではなく、当然、核兵器です。第10章から12章が該当します。本書の読ませどころでしょう。

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次に、マイケル・ブルックス[編]『「偶然」と「運」の科学』(SBクリエイティブ) です。編者は量子力学で博士号を取得するとともに、サイエンス・ライターとして活躍しているそうで、本書は英国の一般向け科学雑誌「ニュー・サイエンティスト」に掲載された偶然や不確実性やランダム性に関する23人の27編のコラムを編んでいます。英語の原題は Chance となっています。確率論と竿の基礎となる統計学に関して、それなりの基礎知識あればかなり楽しめる気もしますが、量子物理学や進化生物学などの専門用語も少なくなく、私には半分も理解できなかった気がします。物理学と統計力学に限って考えれば、ニュートン的な力学の決定論から、アインシュタイ的な力学の確率論まで、物理学は進化した一方で、そのアインシュタイン自身が「神はサイコロを振らない」といったとかで、初期の時点では物理学においてすら確率的な振る舞いは受け入れにくかったんだろうと思います。私の専門分野である経済学における確率や不確実性やランダムネスは本書には一向に現れませんが、経済学でもデータ生成過程は確率的であると考えられており、特に、私の知る限りでは時系列データの生成過程は確率的です。他方で、昨日取り上げた雇用統計や物価上昇率やGDP成長率などは決定論的に幅のない統計で示されており、扱いが難しいところです。なお、量子物理学で確率を論ずる際に必ず出てくる「シュレーディンガーの猫」のお話は本書には取り上げられていません。私が理解できる数少ない量子力学の確率に関する有名なトピックですので、少し残念な気がします。最後に、単なる宣伝なんですが、私もエコノミストの端くれとして地方大学に出向していた際にランダム・ウォークについて簡単な紀要論文を取りまとめています。ご参考まで。

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次に、綿矢りさ『手のひらの京』(新潮社) です。作者はご存じの通りの芥川賞作家です。京都出身かと記憶していますが、私のように宇治出身で洛外もいいところではなく、紫野高校ご卒業ですから京都大学の私の同級生にも同じ高校卒業生がいたりしました。ということで、出版社のキャッチ・コピーでは、奥沢家三姉妹の日常に彩られた、京都の春夏秋冬があざやかに息づく、綿矢版『細雪』、だそうで、私でなくともそそられる宣伝文句ではないでしょうか。小説の出だしが北大路橋ですから、出雲路橋のひとつ北にかかる橋だと思うんですが、その近くに居を構える奥沢家の三姉妹が主人公となり、それぞれの視点から物語が進みます。どうでもいいことながら、出雲路橋の近くには、その昔は、京都市交響楽団の練習場があったりしました。北大路橋近くには広大な府立植物園があり、映画「オリヲン座からの招待状」では宮沢りえが自転車に乗っていました。近くには地下鉄が通っており、駅もあるようです。北山通りから地下鉄は大きく西に曲がります。京都市地下鉄は、私が大学を卒業して京都を離れてから開業しましたので、実はよく知りません。本題に戻って、三姉妹は、おっとりした30過ぎの長女の綾香、恋愛に生きる次女の羽依、羽依とは1つ違いで大学院に進んで東京での就職を目指す三女の凛です。どうでもいいんですが、何となく赤川次郎の三姉妹探偵団の三姉妹の相似形のような気がしなくもありません。またまた、脱線から本題に戻って、20代半ばからアラサーまでの人生のステージから、恋愛や就職といった人生の転機を迎えつつある三姉妹の考えや行動を軸に、もうひとつの軸が京都の鮮やかな四季=春夏秋冬として彩られています。もちろん、京都だけでなく夏のシーズンではお近くの琵琶湖が舞台になったりもします。もちろん、祇園祭や五山の送り火といった夏の京都の風物詩、秋の紅葉に春のサクラ、冬の嵐山の星空などなど、尽せぬ興趣とともに小説を色彩豊かにしています。気の強い次女の羽依の存在がやや京都らしくないような気もしますが、みごとな二重人格を演じていますし、p.140から羽依が凛に男性観を語っているのは、作者自身の思いなのかもしれませんが、一読の価値あると受け止めています。本屋さんでこの部分だけ立ち読みするのも一案です。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『煽動者』(文藝春秋) です。著者は売れっ子のミステリ作家であり、私はニュー・ヨークを舞台にしたリンカーン・ライムを主人公とするシリーズとカリフォルニアで繰り広げられるキャサリン・ダンスを主人公にしたシリーズの両方を愛読していますが、この作品は後者のキャサリン・ダンスのシリーズ最新刊です。英語の原題は Solitude Creek であり、パニック事故・事件は最初に起こるナイトクラブの名称です。ということで、ストーリーは、2つの事件が同時並行で進行します。すなわち、ひとつはギャングの追跡・殲滅作戦であり、もうひとつはパニックを人為的に起して混乱の中で事故死を誘う凶悪犯の事件です。まず、キネクシスの活用によりすべての嘘を検知するキャサリン・ダンス捜査官が「無実」の太鼓判を押して釈放した男が、実は、ギャング組織の殺し屋だとする情報が入り、殺し屋を取り逃がしたとして、ダンスは麻薬組織合同捜査班から外され、民間のトラブルを担当する民事部に異動させられて、捜査官バッジを取り上げられ、銃器の携行も禁止されてしまいます。しかたなく、事件性があるかどうかも未確定な事故扱いで、ナイトクラブでライブ中に火事らしいニセ情報から観客がパニックになり、しかも、非常口に大型トレーラーが駐車されていて死者や重症者まで出た事件が、同じような状況で、作家のサイン会兼朗読会でもパニックによる死者が出て、さらに、アミューズメント・パークでも同様の事件が起こり、パニックを人為的に起して事故を起こし死者・重症者を出す手口と判明し、その犯人をダンス捜査官が追います。ダンス捜査官のプライベートでは、上の男の子が暴力的なゲームの影響もあって無茶な行為に走ったり、下の女の子が小学校の発表会で歌を歌うのを嫌がったりと、さまざまな障害も生じます。でも、最後は読者も「エッ」と驚く解決がすべての事件・事故や出来事に示され、作者のプロットに見事に騙されます。私はかなり注意して読み進んだんですが、2度読みする愛読家もいそうなきがします。ダンス捜査官の勤務するCBIの同僚のチームワークも抜群で、キャサリン・ダンスのシリーズ4作目にしてシリーズの最高傑作と私は考えています。この作者の作品のファンであれば、何としてでも読んでおくべき1冊でしょう。でも、ひょっとしたら、次で終わるんじゃあないのか、という気にすらさせられます。なお、最後にネタバレに近いんですが、パニックを起こした大参事を誘発する手口は、動画を配信して売りさばくのが目的と判明するんですが、同様の動画の収録目的なのが貴志祐介『クリムゾンの迷宮』です。我が国の作家がジェフリー・ディーヴァーの先読みをしたような気がして、私は誇らしい気分になっています。まったくどうでもいいことながら、貴志祐介は京都大学経済学部の出身ですから、私の後輩ということになります。

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次に、中山七里『ヒポクラテスの憂鬱』(祥伝社) です。著者は私も好きなミステリやエンタメ小説の作家で、実は、この作品はシリーズとなっていて、第2弾です。第1作目は『ヒポクラテスの誓い』とのタイトルで、この10月からWOWOWにおいて北川景子主演でドラマ化されています。最終話は10月31日(月)夜11時からだそうです。誠に残念ながら、私は原作の小説の方しか読んでいません。ということで、その昔に、海堂尊のチーム・バチスタのシリーズで、不審死した死体は解剖ではなくオートプシー・イメージング(Ai)=死亡時画像病理診断を行うべしという主張があったように記憶しているんですが、このシリーズは徹底して解剖を主張し、解剖により死因の究明と犯罪の立件に役立てようとの姿勢が鮮明です。例えば、前作の『ヒポクラテスの誓い』ではAiも話題になったんですが、クモ膜下出血などの場合には出血が引いてしまうとAiではダメと主任教授が主張したりします。ドラマでは北川景子演ずる主人公の新人女医が助教として勤務する医大に埼玉県警から次々と不審死、あるいは、不審死でなくても死体が持ち込まれて、口が悪くて横柄な態度のじいさんが主任教授で解剖をこなします。准教授はこの主任教授をしたって来日した紅毛碧眼の女医さんですが、さすがに、WOWOWのドラマでは人材を得られず日本人で代用しているようです。本書では、収集者ではなく「修正者」の方のコレクターが埼玉県警のホームページにある掲示板に次々と書き込みをした結果、不審死ではないと検視官が判断した遺体まで解剖することとなり、検視官の見立てと異なる犯罪性の高い事実が次々と明らかにされる、というストーリーです。もちろん、最後は「修正者」の方のコレクターの正体も極めて意外な形で明らかにされ、そのコレクター自身の犯罪も断罪されます。なかなか興味深く読めます。ミステリとしてもよくできています。『おやすみドビュッシー』以来、私はこの作者のファンなんですが、私と同じようにこの作者の作品のファンであれば読んでおくべきかという気がします。

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次に、日本推理作家協会[編]『ザ・ベストミステリーズ 2016』(講談社) です。2015年に発表されたすべての短編推理小説の中から、日本推理作家協会が選び抜いた至高の作品だけを収録しています。新鋭からベテランまでキャリアは関係なく、とにかく面白くて優れた短編ばかりを集めてあります。作家のアイディアと技とたくらみが詰まっている、との出版社と編者の宣伝文句なんですが、惜しむらくは本格や新本格が少ないです。殺人事件が少ないのは、私はいいと思うんですが、解決策、というか、方法論的にただひとつに論理的に決定されるというわけではありません。蓋然性が高い、たぶん、そうなんだろう、というレベルの解決策が多いような気がします。長くなりますが、収録短編は12作品であり、大石直紀「おばあちゃんといっしょ」、永嶋恵美「ババ抜き」、秋吉理香子「リケジョの婚活」、芦沢央「絵の中の男」、伊吹亜門「監獄舎の殺人」、大沢在昌「分かれ道」、小林由香「サイレン」、榊林銘「十五秒」、永瀬隼介「凄腕」、日野草「グラスタンク」、南大沢健「二番札」、若竹七海「静かな炎天」です。このうち、「監獄舎の殺人」は明らかに記憶に残っていて既読ですので、別のアンソロジーに収録されているんだろうと思います。それぞれに個性的で優れた作品ばかりですが、「グラスタンク」と「二番札」が私の印象に残りました。また、出版社ではミステリの入門書としても売り出すつもりのようです。そういった観点もいいかもしれません。

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最後に、松尾匡『自由のジレンマを解く』(PHP新書) です。著者は神戸大学の置塩先生のお弟子さんらしく、現在は立命館大学の研究者です。実は、それまでの不勉強を恥じていますが、今年2016年5月にこの著者の『この経済政策が民主主義を救う』を読んでとても感激して、おそらく、左派のエコノミストとしてはもっとも実学的に正しい主張をしているような気がして、最新刊の新書を読みました。ただ、本書の冒頭に同じPHP新書から出版されている『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』の続編である旨が明記されていましたので、誠に二度手間ながら同書を借りて先に読みました。ということで、前書ではリスクと決定と責任の3つが一致する必要を指摘し、ケインズ政策が行き詰った転換点を「転換X」と表現して、それでも、小さな政府が誤解だったとかの正論を基に、ベーシック・インカム論やインフレ・ターゲティングを論じています。本書では、固定的な人間関係を前提にした経済構造から、資本主義の爛熟によるグローバル化の進展などにより、流動的な人間関係に移行したのが「転換X」であると定義し直し、そのグローバル時代に関する論考を進めています。例えば、固定的な人間関係の時代には、雇用では日本的な雇用慣行として、終身雇用、年功賃金、企業内労働組合のシステムが有効だったわけですが、流動的な人間関係では非正規雇用がドッと増えたりするわけです。そして、流動的な人間関係の世界では、マルクス主義的な疎外により人間が普遍化されると結論します。私の考えに基づけば、労働力として資本に対して普遍化されるというべきです。そして、最後の方で、アマルティア・セン教授のニーティとニヤーヤが本書でも持ち出されるんですが、私は著者とは少し見方が異なります。すなわち、資本主義的な疎外の中では、おそらく、ニーティが正義になるんですが、セン教授の見方では資本主義を越えて、というか、克服して、というか、人によっては、社会主義革命で転覆させて、というかもしれませんが、それはともかく、資本主義の制約にとらわれないという意味で、ニヤーヤが重要になる世界を目指す、ということなんだろうと思います。タイトル通りの自由論なんですが、とても難しいです。リバタリアンの自己矛盾など、私は十分に理解したとは自信を持てません。覚悟して読み始める必要があるかもしれません。

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