もう何も申し上げることはありません。今週も経済書を中心に9冊です。
まず、アマルティア・セン『インドから考える』(NTT出版) です。著者はインド出身の経済学者であり、厚生経済学や開発経済学の功績によりノーベル経済学賞を受賞しています。本書は最近十数年のエッセイを取りまとめたもので、英語の原題は The Country of First Boys ということで、同じタイトルのエッセイは「1位の男の子たちの国」と訳出されています。反対側にいるのは Last Girls であり、格差や不平等を象徴しています。いろんなエッセイから編まれており、やや取りとめないんですが、p.109 からの自由論「自由について語る」に着目すると、当然といえば当然ながら、セン教授は自由なき経済発展を否定します。私がどうしてこの点に着目したかというと、1990年代前半に私が大使館の経済アタッシェの外交官として滞在したチリのピノチェット政権の時代が、まさに自由なき経済発展の象徴であると私が考えているからです。いわゆるシカゴ学派的な新自由主義経済の「実験」がチリで実践されたといわれており、お隣のアルゼンティンが低迷していたこともあって、それなりに経済発展は感じられて国民の支持も得られたようなんですが、セン教授的なケイパビリティの観点からはまったく評価できない経済成長であった、と私は受け止めています。本書でも指摘されている通り、「開発というのは単に、都合のいい命のない物体を増やすプロセスだと見ることは本当はできない」(p.115)という点に尽きます。有名なニーティとニヤーヤを展開した「本当に憂慮すべきものとは」も収録されています。セン教授は形式的なニーティよりも、生活に根ざすニヤーヤを重視するのはよく知られた通りです。私のような開発経済学を専門とするエコノミストはもちろん、多くの途上国経済の力になりたいと考えている日本人に手に取って読んで欲しいと願っています。また、セン教授の系列に連なるバスー教授の『見えざる手をこえて』も話題になっています。私も図書館に予約を申し込んであり、今から楽しみです。
次に、ケヴィン・ケリー『<インターネット>の次に来るもの』(NHK出版) です。著者は雑誌の編集者などのジャーナリズムの世界の経験を基に、著述業などをしているようです。英語の原題は The Inevitable 避けられない流れ、とでも訳すんでしょうか、今年2016年の出版です。ということで、この先30年ですから、2045年ともいわれるシンギュラリティ=特異点の時期に向けての潮流を探っています。ロボット、人工知能(AI)、仮想現実(VR)、拡張現実(AR)、ロボット、ブロックチェーン、 IoT、などなど、この先のテクノロジーの進歩にはさまざまな用語が使われるんでしょうが、本書でもキーワードは何と12もあり、becoming, cognifying, flowing, screening, accessing, sharing, filtering, remixing, interacting, tracking, questioning, and beginning と邦訳書では整理されています。というのは、英語版の本書のサイトでは、確かに副題の通り、12 Technological Forces なんですが、interacting, cognifying, flowing, screening, accessing, sharing, filtering, remixing, tracking, and questioning の10に取りまとめられていたりします。特に、訳者あとがきにも解説はないので、私にはよく判りませんが、大きな違いはないということなんだろうと理解しています。この先2045年のシンギュラリティまで、モノからコトへの非物質化、リアルタイム化、クラウド化などの流れがあり、著者はこれらの傾向をデジタル社会主義(p.181)と呼んでいますが、1月23日付けの読書感想文で取り上げたジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』にとても近い考え方なんではないかと私は理解しています。そして、そういった限界費用がゼロに近くてモノが潤沢に供給される社会にあって、もっとも希少なのは人間のアテンションかもしれないと本書では結論しています。そして、社会はプライベート=一般からパーソナル=透明に移行する可能性を示唆しています(p.347)。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界に近いかもしれません。最後に蛇足ながら、こういった流れにもっとも鈍感でトンチンカンなことをやっているのが、我が役所や学校・病院などなんですが、一所懸命に個人情報保護に取り組んでいるのは、後の時代から見ればバカげたことだった、ということになるのかもしれません。
次に、アリエル・ルービンシュタイン『ルービンシュタイン ゲーム理論の力』(東洋経済) です。著者はイスラエルの経済学者であり、容易に想像される通り、専門は経済理論のほかゲーム理論などです。英語の原題は Economic Fables、すなわち、経済学的な寓話、という意味でしょうか。経済学、特にゲーム論の学術書というよりは、著者の半生を振り返った自伝的な記述とともに、ゲーム理論、交渉、合理性、ナッシュ均衡、解概念、経済実験、学際研究、経済政策、富、協調の原理などの基礎概念が明らかにされるエッセイとして受け止めるべきではないかと私は考えています。印象に残ったのは2点あり、第1に、第1章では経済理論における合理性の前提を強く推奨しつつも、非合理性や限定合理性に基づく行動経済学についても幅広い理解を共有している点です。私も基本的には同様で、完全合理的なホモ・エコノミカスを前提にしたモデル構築と理論解明は、第1次アプローチとしてはとても有用だと考えています。その上で、限定合理性などの行動経済学の成果を取り入れつつ、現実に即したモデルの変更が考えられるべきであり、行動経済学的な非合理性を前提したモデルが第1次接近になるとは考えられません。第2に、現実に役立つかどうかは、経済学を評価する重要な基準ではないという点がとても強調されています。確かに、知的好奇心の対象として現実社会、というか、経済を見て、今年のノーベル賞を受賞した大隅先生のように基礎的研究の重要性を指摘するのは、理論研究の必要性を強調する上で大切な点だと思うんですが、経済学については、特に、私のように政府の経済政策セクションで官庁エコノミストをしている身としては、もう少し表現を何とかして欲しいという気もします。まあ、「ただちに政策運営につながることを重視するのは…」とかにならないものだろうか、という気がします。最後に、どうでもいいことながら、このエコノミストのひとつの特徴なんですが、無宗教に近い日本人としては、かなりユダヤ色が強く、拒否反応を示す人がいるかもしれません。もちろん、私が懸念するほどはいないかもしれません。
次に、 スティーブ・ケース『サードウェーブ』(ハーパーコリンズ・ジャパン) です。著者は米国の起業家であり、AOLのCEOなどを務めた実業家です。英語の原題も日本語と同じであり、本書の中でもアルビン・トフラーの『第3の波』へのオマージュと明記していたりします。ということで、本書はハワイ生まれの著者の少年時代からの人生も振り返りつつ、インターネット黎明期からのビジネスを回顧して、パソコンがインターネットに接続する「第1の波」、スマートフォンの普及によるソーシャルメディアやアプリが台頭した現在の「第2の波」、すなわち、グーグルやファイスブックなどが全盛の現時点からさらに、単なるモノのインターネット(IoT)を超えて、あらゆるものがインターネットにつながる(Internet of Everything)「第3の波」の時代を迎えようとしている、との前提で、さまざまなビジネスや社会の変容を解き明かしています。すなわち、インターネット接続は電気の接続とおなじように日常生活に不可欠になり、いくつかの産業が根本から変貌するわけです。「第三の波」の時代には、米国のイノベーション中心地以外の地域が台頭する、という意味で、Rise-of-the-Rest が生じ、従来型のビジネスとフィランソロピー、さらに、投資収益とソーシャル・グッドをつなぐインパクト投資が重要な役割を果たし、最後に、市場の見えざる手ではなく、政府の見える手による産業育成や規制、あるいは、産業と政府のパートナーシップが重要となる、と主張しています。特に、米国のビジネスシーンでは既存の大企業などよりもいわゆるスタートアップ企業がイノベーションや雇用の創造などで重要な役割を果たす時代が到来しつつあることを指摘しています。長らく官庁エコノミストとして経済を見てきただけの私にはいわゆる起業家の心理や経済に果たす役割などは適正に判断できない可能性もありますが、それなりに心に響くものがありました。日本にそのまま応用できる部分は少なそうな気がしますが、「第2の波」で米国企業のみならず韓国企業などからも後塵を拝して来た日本企業にとって、「第3の波」の時代の到来は大きなチャンスなのでしょうか、それとも、差が大きくなる可能性の方が高いんでしょうか?
次に、野口真人『あれか、これか』(ダイヤモンド社) です。私はよく知らないんですが、著者は企業価値評価のスペシャリストだそうです。それを目的とした企業の経営者であり、同時に、いくつかの大学や大学院で講義もしているようです。ということで、本書は選択のためのファイナンス理論の解説書であり、副題は『「本当の値打ち」を見抜くファイナンス理論入門』となっています。前半の4章で基礎的な概念を解説しています。マルクスまで持ち出して、交換価値と使用価値の違いを説き、キャッシュフローの考えを明らかにし、時間とリスクと金利の関係から現在価値を見て、不確実性やリスクについては標準偏差、というかその二乗項である分散でバラツキを説明しようとしています。その上で、後半の3章ではそれぞれノーベル賞を受賞したファイナンス理論を取り上げています。すなわち、企業価値は資産そのものの価値で決まり、負債=資金調達には関係しないとしたモディリアーニ・ミラーのMM理論、分散投資により投資のリスクを軽減させるとするマーコウィッツの現代ポートフォリオ理論、市場の変動との関係で決まるβでマーケット・ポートフォリオとの相関で個別銘柄の収益率を求めようとするCAPMモデル、そして、オプション価格を導出するブラック・ショールズ式、の4点について取り上げつつ、その中にも、オークションの勝者の呪いとか、行動経済学のプロスペクト理論などを織り交ぜていたりもします。特に、投資とギャンブルを同一視する見方については、現代ポートフォリオ理論との対比で、ギャンブルはやればやるほど分散効果が仇となり確実に損をする構造になっていると指摘しています。まったく、その通りです。いわゆる投資指南書のたぐいではなく、かなり平易にファイナンス理論について、数値に基づく実例も取り混ぜつつ解説し、なかなか興味深い構成となっています。ただ、この種の本に求められる実用性については、逆に、十分ではないと判断する読者もいるかもしれません。私はむしろこういった理論的に難しい話題を平易に解説している本はそれなりに評価すべきだと考えています。私のように東京の端っこに住んでいたりすると、通勤電車の行き帰りで読んでしまえるくらいのボリュームです。
次に、高嶋哲夫『日本核武装』(幻冬舎) です。著者は天下国家の大きな問題、台風や津波などの天災、あるいは、富士山噴火、また、パンデミックなどのてーまで、私の解釈によればパニック小説の名手だと理解しています。この作品では我が国を取り巻く国際情勢の最近の大きな変化、例えば、中国との尖閣諸島の領有権紛争、北朝鮮の核開発、形骸化する日米安保のもとでの米国による抑止力の低下などなど、東アジアの国際情勢の変化を踏まえて、直接には尖閣諸島問題から日本が核武装に踏み切る、というストーリーです。ただし、ネタバレになりますが、実際に核兵器を保有して実戦配備するハズもなく、いろいろと諸事情あって、我が国が潜在的な核保有国であるという事実を秘密裏に米中両国首脳に理解させ抑止力として活用する、というオチになります。ですから、基本的なトーンとしては、ゴリゴリの右派路線で軍備拡大の末に核武装がある、というわけではなく、中国とベトナムの間で武力衝突を生じた南沙諸島の問題に鑑みて、尖閣諸島の問題で同様に我が国と中国が武力で衝突するのを避けるための抑止力、しかも、日米安保が形骸化してオバマ大統領が尖閣諸島も日米安保の範囲内と明言したにもかかわらず、中国の購買力に期待して米国第7艦隊が出動を控え、むしろ、日本よりも中国寄りの暗黙の姿勢を取り、しかもしかもで、中国の核ミサイルの照準が東京や大阪などの我が国の主要な都市に向けられる、という極めて切迫したシチュエーションで、東京サミットで中国首脳も招かれていることから、実際に組み立てた核兵器を米中首脳に見せて、日本の潜在的な核保有能力を明らかにするわけです。大きな疑問は、まったく専門外のエコノミストながら、私の知る限り、核兵器の製造はそれほど技術的なハードルが高くないんではないか、という点です。中学校か高校の科学の授業のレベルと聞いたこともあります。どこまでホントかウソか知りませんが、すでに我が国の潜在的な核兵器製造能力は先進各国や近隣諸国の間で認められているような気もします。よく判りません。いずれにせよ、防衛省の中もこの作品で描かれた通り、制服と背広だけでなく、それぞれの中でも一枚岩でも何でもなく、もちろん、与野党入り乱れて諸説飛び交う中で、何が国益なのかの見極めがとても難しそうな気がします。その部分は私の理解を超えているのかもしれません。
次に、長江俊和『東京23区女』(幻冬舎) です。著者はよく知りませんが、『出版禁止』という作品があるらしいです。本書は東京23区のパワースポットなどを巡るオカルト小説です。板橋区の縁切り榎、渋谷区の渋谷川の暗渠、港区のお台場、江東区の埋め立て地「夢の島」、品川区の大森貝塚を取り上げ、連作短編として5話を収録しています。舞台回しはフリーライターの原田璃々子であり、なぜか、先輩で民俗学の講師だった島野仁と東京23区を巡り取材をおこないます。しかも、彼女は霊感が強く、そういった異界の存在が出る場合には、それを感じ取ることが出来る一方で、島野は合理主義者でありオカルトを信じません。私の記憶が正しければ、イヤミス作家の真梨幸子のブログ記事「東京二十三区女」を見て、絶賛されているのでついついその気になって図書館で予約したんだと覚えています。オカルトというか、ホラーというか、それぞれの区の過去の因縁が現代の事件にリンクする形式のホラーなんですが、どちらにせよ、ホラー、あるいは、モダンホラーとしてもインパクトは望むべくもありませんでした。主人公の原田璃々子は取材に当たって、それほどの下調べはしていないんですが、さすがに、同行している島野仁は専門分野ですので、オカルトは信じないといいつつ、かなり民俗学的な見地からもパワースポットや過去の出来事などには詳しく、不要な事柄まで詳細にしゃべりまくりますので、読者が準備万端で臨んでしまって、ホラーのサプライズにはどうかという気もします。もっとも、島野のおしゃべりに限らないものの、「なぜお台場におをつけるか?」とか、「渋谷の地名に橋が多いのはなぜか?」とか、「なぜこの場所は深川と呼ばれるのか」などなど、各区の過去の蘊蓄の鋭さには感心しないでもありませんでした。いろいろとしゃべらせるのは、良し悪しかもしれません。何となく、あくまで私の直感ですが、ドラマには適している、あるいは、少なくとも「実際にあった怖い話」系の単発ドラマや深夜枠系の短いドラマには適している気がします。でも、最終話の結末が結末ですので、本書で取り上げられていない残りの区のストーリーから成る続編は出版されそうもない気がします。そういった残りの区の関係者には残念ですが、まず、無理だろうという気がします。とても強くします。
次に、吉田徹『「野党」論』(ちくま新書) です。著者は北海道大学在籍の政治学の研究者です。副題は「何のためにあるのか」となっており、特に、政治や政治家に対する信任の薄い我が国において、政府を構成しない野党のあり方や役割について考察を進めています。すなわち、私のようなシロートなどには、野党は無責任で声高に反対を唱えて対案も示せず党利党略ばかり、といたふうに感じる人も少なくないような気もします。でも、本書では、野党は民意の残余を政治的に表出するものであり、民主主義をよりよく運営する上で不可欠の存在である、と示されています。特に、かつての中選挙区制ではなく、現在の小選挙区制ではいわゆる死票が多くて、代議制民主主義で汲み取れない民意がかなり残されているわけですから、それらを何らかの意味で政治的な舞台に上げることも必要です。単純多数決ではなく、少数者の意見も政治の場に反映させるために野党の果たす役割はそれなりに重要かもしれません。株式会社などのシステムでは過半数を握ればOKなのかもしれませんが、政治の場ではできるだけ多くの国民の民意が反映されるシステムが求められるわけで、野党がそれをある意味で汲み取るシステムも悪くありません。特に、その昔の野党は、本書でも昔の社会党は衆議院の過半数に満たない候補者しか擁立せず、政権交代が視野に入っていなかった点を指摘していますが、現在では、当時の民主党がヘマをやったとしても、政権交代がありうるとの潜在的なプレッシャーは常に与党は感じているわけで、政権交代の潜在的可能性だけでも私は民主主義のあり方が改善されそうな気がします。タイトルの野党論にとどまらず、ちょっとした我が国の戦後政治史や欧米の政治システムの初歩的な理解にも役立つ良書だという気がします。
最後に、玉木俊明『<情報>帝国の興亡』(講談社現代新書) です。著者は京都産業大学の経済史の研究者です。といっても、文学部の出身ですので経済よりも歴史の方に重点があるような気もします。副題は「ソフトパワーの500年史」ということで、情報に関して、ちょうどグーテンベルクの活版印刷のころに覇権を握ったオランダ、というか低地地方、そして、電信のころに帝国を築いた英国、そして、特に情報とは関係ないような気もしますが、電話からインターネットのころの米国、の3国を対象にその経済史を、ウォーラーステインの近代世界システムを参考にしつつ、情報の観点から概観しています。なお、論者によっては覇権国と帝国を区別する向きもあるようですが、本書では区別されていません。要するに、世界のトップ国、というカンジで見ています。一つだけ、とても興味深かった視点は宗教と経済発展の関係です。著者は初期資本主義では遠隔地、もっといえば、世界の辺境=フロンティアとの商業や交易の果たす役割が重要と考え、その意味で、大航海時代なんかではカトリックのスペインやポルトガルが世界に覇を唱えたわけでプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神がマッチングがよかったというわけではない、と、ウェーバー的な見方を否定します。必ずしも、私も賛同するわけではありませんが、まあ。ひとつの見方かという気もします。また、市場とは情報の塊であって、その意味で、情報の流通とは実は市場の形成なんだという見方を私はしているんですが、著者はどうも違うようです。従って、私の情報=市場の観点からは流通の背景にある製造業が重要なんですが、本書の著者にはそういった「流通するモノ」の観点はないように感じています。あと、米国が戦後に国際機関を用いた経済発展を遂げたかの如き歴史観が示されていますが、まったく逆ではないでしょうか。米国がとてつもない帝国を形成し世界の覇権国となったため、米国に国連や世銀やIMFなどの国際機関本部が置かれている、という因果関係だと私は理解しています。
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