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2016年11月 6日 (日)

先週の読書は経済書も専門書も小説もいろいろあって計10冊!

今週はやっぱり10冊の大台に達してしまいました。以下の通りです。

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まず、井堀利宏・小西秀樹『政治経済学で読み解く政府の行動』(木鐸社) です。著者は財政学や公共経済学を専門とする研究者です。本書では基本的にモデル分析に終始していて、第4章のサーベイを別にすれば、数学的な解を求める研究書・学術書といえます。ですから、数式を解いたり、第8章の前半だけながら、グラフで示したりしています。もちろん、数学付録はそれなりに充実していますが、それほど親切ではなく、特に第7章の数学付録は私ですらついて行くのが少し難しかった感があります。というころで、本書は狭義の政府、すなわち地方政府は含むが中央銀行は対象としない政府の政治経済的な行動分析を主としてモデルを用いて行っています。ゲーム理論の応用もいくつかの章でなされています。単に、財政支出と税収だけでなく、最初の第2章は財政支出の物価理論から始まっていますし、社会保障や中央政府と地方政府の関係はいうに及ばず、自由貿易協定や資本移動に関する政府の行動、あるいは、選挙や選挙の際の献金活動までカバーしています。公共投資についてはかつての高度成長期から生産誘発効果が落ちているのはその通りでしょうし、消費税が引退世代の消費も捕捉して社会保障財源として好ましいのも事実です。ただ、井堀先生、あるいは、井堀先生のお弟子さんである慶応大学の土居先生なんかのバイアスがあって、政府の財政赤字に対して厳しい態度を持って臨んでいるような気がします。私のようなユルいエコノミストからすれば、少なくともマーケットが考える政府の予算制約式は財政支出と税収の均衡ではなく、財政支出と潜在的な課税可能性や徴税能力の均衡ではないかという気もします。TPPやアベノミクスの新たな3本の矢についてはかなり最新の情報まで盛り込まれているものの、地方政府に関する議論では「三位一体改革」で止まっていて、平成の大合併に触れていないのも不思議な気がします。ただし、法人税率の引き下げなどのグローバルな底辺への競争に関する危惧については私も共有します。いずれにせよ、一般のビジネスパーソン向けではなく、学術書で数式の展開がいっぱい盛り込まれているのは覚悟してから読み始めるべきだという気がします。

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次に、ダヨ・オロパデ『アフリカ 希望の大陸』(英治出版) です。著者はナイジェリア系米国人ジャーナリストです。英語の原題は The Bright Continent であり、2014年の出版となっており、かつては先進国から「暗黒大陸」と称されたアフリカの現在を明らかにし、「暗黒」とは反対になっている様子をタイトルに象徴させています。ということで、アフリカ大陸は民族紛争による内戦、政治や官僚の腐敗、気候の厳しさや広範に残る貧困などから、ビジネスをするにしても、国際機関やNGOが援助などの活動をするにしても、難しい場所という印象は依然として強いものの、最近では、豊富な資源と今後の発展の可能性から、特に、2000年国連ミレニアム目標の策定や2005年のグレンイーグルズ・サミットでも最後のフロンティアとして、それなりに注目を受けています。加えて、ここ数年ではよきにつけ悪しきにつけ、中国の進出が世界の目に止まっているのも事実です。さらに、本書では著者が先進IT起業家からごく普通の村人や農家、あるいは、政治家まで、ジャーナリストとしての豊富なインタビューと最新の知見を基に、これまでのネガティブな印象を覆すような、新しいアフリカの見方を提示しています。本書の章別構成に見る通り、家族、テクノロジー、商業、自然、そして若さという5つの切り口から現在のアフリカとその未来を集約しています。ただ、太った国と痩せた国の表現はともかく、冒頭に出てくる「カンジュ」の精神は、まあ、あるとしても、こういった生命力の強さのような要素はアフリカだけでなく、アジアでも中南米でも、途上国ではどこでも見られるという点で、少し私の見方は異なります。従来から、日本がアジアに、欧州がアフリカに、米国が中南米に、それぞれ援助の中心を置くという政策的な方向性が大きく変わったわけではありませんし、中国をはじめとするアジアがここ20-30年で大きく経済発展を遂げただけに、アフリカがやや取り残された感があって、それだけにアフリカに対する援助政策やビジネスの眼が向きがちであることも事実です。私のような開発や援助に興味あるエコノミストだけでなく、ビジネスマンも含めて広くアフリカへの関心が高まることを期待しています。

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次に、バスティアン・オーバーマイヤー/フレデリック・オーバーマイヤー『パナマ文書』(角川書店) です。著者は2人とも南ドイツ新聞のジャーナリストです。パナマ文書解明のために南ドイツ新聞で始められたプロメテウスなるプロジェクトの中心となるジャーナリストです。同じ姓なので何か姻戚関係があるのかという気もしましたが、上の表紙画像を見れば明らかな通り、スペルが違っていますので赤の他人なんだろうと理解しています。ただ、本書の中では「オーバーマイヤー・ブラザーズ」として2人1組でのご案内があったりもします。原題はそのままに Panama Papers で、副題はドイツ語ですので私は理解できず割愛します。今年2016年の出版です。ということで、話題の書です。オフショアのタックスヘイブンとしても有名なパナマにある大手の法律事務所であるモサック=フォンセカ(モスフォン)からのリークを受けたジャーナリスト本人によるドキュメンタリーです。匿名のリークは、最終的には、2.6テラバイトに及ぶそうで、画像や動画が入っていればともかく、もしもテキストだけでこの容量ならば、とてつもない文書量だという気がします。リークを受けた南ドイツ新聞のジャーナリストは、米国首都のワシントンに本部を置く非営利団体である国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)の協力を求め、最終的には70か国、400人にも及ぶジャーナリスト達が調査活動に加わることとなったそうです。214,000の架空会社が関係する1,150万件にも上るデータに多数のジャーナリストが格闘し、今年2016年4月に明らかにされたのはまだ記憶に新しいところです。この4月にさかのぼること3か月ほどの前にアイスランド首相が辞任に追い込まれニュースも記憶にある人は少なくないことと思います。やや民主主義の怪しげなロシアや中南米や中国、特にアフリカなどの途上国の独裁者はもちろん、トップに近い政界や官界、スポーツ界のスーパースター、その他、あらゆるスーパーリッチ、ハイパーリッチがこのパナマ文書に名を連ねています。特に、アフリカを取り上げた第18章が私には印象的でした。それから、第29章で著者自身が認めている通り、本書では個人だけが対象として取り上げられており、アマゾンやアップルやスターバックスなどの法人企業の租税回避活動については触れられていません。それから、アジアの極東に住むものとして、北朝鮮がまったく登場しないのは、結局、裏が取れなかったのか、あるいは、あまりにも数字が小さいので重要性が低いと判断されたのか、やや残念な気もします。また、同じ第29章では解決策らしき提言がないでもないんですが、国境を超える金融取引に課税するトービン税についても言及が欲しかったところです。でも、話題の書ですし、とても面白いです。読んでおいてソンはありません。

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次に、ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』(みすず書房) です。著者はブルガリア生まれでフランス在住の研究者であり、文学の構造批評や一般人類学などの専門だそうです。私はよく知りません。フランス構造主義ですから、フォーディズムを資本主義のあり方の一部と解釈し、マルクス主義の影響を強く受けています。ソーカル事件のような難解かつあまり意味を汲み取れない文章ではなく、それなりに私なんかにはスラスラ読めましたが、まあ、難しい文章と感じる読書子も少なくないかもしれません。ただ、それほどの中身はありません。フランス語の原題は Les ennemis intimes de la démocratie ですから邦訳のタイトルは直訳そのままです。2012年の出版ですから、米国大統領選挙のトランプ候補のお話はまったく出て来ません。ということで、本書の立場は王権神授説に基づく絶対王政からフランス革命などを経た民主主義の特徴を平等と自由と捉えつつ、その民主主義下での個人の自由意思が暴走して民主主義を脅かす、という見方をしています。私はこれがまったく誤った見方だと受け止めていますので、それ以降は論評にならないかもしれませんが、著者はその防法の一形態としてポピュリズムを捉えています。しかも、ポピュリズムが排外主義的な外国人排斥を伴って現れている、として、そこらあたりまでは米国のトランプ候補などの前触れとして予見的な意見かもしれませんし、第6章などで、現在のポピュリズムはファシズムの再出現ではなく(p.173)、右派だとも左派だともいえず、「下に」属している(p.178)、と喝破する分には爽快でいいような気もしますが、第7章で、民主主義はその行き過ぎによって病んでいて、自由が暴政と化し、人民は操作可能な群衆となってしまっている(p.220)というあたりは、まったくの謬見としか思えません。結論として、こうした一連の「行き過ぎ」を戒め、「中庸」の徳を説くということになるわけですが、民主主義とはひとつの統治システムという観点が抜けているような気がします。そして、民主主義は統治システムとして、歴史上で初めてそのシステム自身を否定する思想を内部に許容するシステムなわけで、それを行き過ぎとか暴走というのは、私には見識不足としか見えません。民主主義そのものを否定しかねない思想の自由を許容するのが民主主義のひとつの特徴ですから、それを弱点としてとらえて主権を有する国民の良識で修正しようとするのが著者の立場といえますが、私には、それは弱点ではなくひとつの特徴に過ぎず、そういった著者が「行き過ぎ」と呼ぶ変動を経て何が正しいかを主権を有する国民が選択するのが正しい民主主義のあり方だと理解しています。長らく国家公務員をしてきた者として、主権を有する国民は長期的には正しい選択をするのであるから、その選択や当地のシステムとして民意が反映される民主主義を活用すべき、というのが私の考えです。ワイマール憲法下の授権法などの特異な冷害や現在のポピュリズムに対して、これらを民主主義の弱点と捉えて「中庸」の必要性を主権者に要請し、修正の必要を議論するべきではありません。それが出来ないならば、ワイマール時代のドイツではありませんが、何らかのきっかけにより主権者でなくなる可能性があるのが民主主義だと考えるべきです。

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次に、小川忠『インドネシア イスラーム大国の変貌』(新潮選書) です。著者は国際交流基金職員として、2度に渡ってインドネシア勤務の経験があります。私自身は2000年から3年間、家族を伴ってインドネシアの首都ジャカルタで暮らした経験を持っています。そのインドネシアは、いうまでもなく、世界で最もイスラム教徒人口が多いという意味でイスラムの大国となっています。ただ、中東などでイスラム教徒の自爆テロなどの報道がなされ、我が家がジャカルタにいたころでさえ、2002年10月にはバリ島で爆弾テロが起こったりしていました。私は経済モデルの専門家として、バリ島のテロの経済的な影響について、"Preliminary Estimation of Impact of Bali Tragedy on Indonesian Economy" として簡単なりポートに取りまとめたりしました。ということで、本書の著者はインドネシアの現状について分かれ目と捉え、欧米や日本などと協調しつつイスラーム国家の模範となるか、あるいは、テロの温床と化すか、と論じています。もちろん、インドネシアが国家を上げてテロの温床となる可能性はほぼほぼないんですが、なにせ、人口規模が大きいだけに、国民に占める比率は小さくとも、人数では一定数のテロリストを生み出してしまう可能性があるわけです。私の個人的な記憶からしても、インドネシアは飛び切りの親日国であるとともに、資源も豊富で経済成長も著しい東南アジアの一員として、スハルト後の民主化も進み、地政学的な位置取りからも、我が国にとってばかりでなく、地域的にも世界的にも重要な国であることはいうまでもありません。そのインドネシアについて、経済面ではやや物足りないものの、政治、文化、宗教、教育などの面から東南アジアのイスラム大国の現状に本書は鋭く迫ります。私の少し前にジャカルタに駐在していた同僚のエコノミストが読んでいたので、私も強い興味を持って借りてみました。

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次に、楊海英『逆転の大中国史』(文藝春秋) です。著者は南モンゴル生まれで、現在は静岡大学勤務の文化人類学の研究者です。タイトル通り、中国の首都北京から視点を逆転させてユーラシアに着目すれば、東アジアの歴史がどう見えるかを検証しています。序章を一通り読めば、著者の考えは明らかで、第1章以降はそれを補強するような材料を取り上げているに過ぎないんですが、要するに、中国史というのは漢人の王朝史では決してなく、典型的には元や清のように漢人ではないという意味で征服王朝が少なくなく、地球規模で最初のグローバル化が進んだは唐の時代でしょうが、唐王朝も漢人ではない可能性を示唆しています。時に、第1章で展開されるんですが、著者は「漢民族」という言葉は使わず、「漢人」と称していて、どう定義するかといえば、漢字を使う人々という意味だそうです。なかなか秀逸な定義だという気がします。その意味で、本書に貼りませんが、私の趣味の書道の知識として、役所の公用語として漢字の中の楷書が成立したのが北魏から隋の初頭くらいで、漢字文化をもっとも強烈に感じさせる人物が唐初頭の王羲之です。著者の主張は私の直観にも合致するといえます。また、中国は人口が多いので合議制には向かない可能性が高く、皇帝専制政治になるとの著者の示唆にも、なるほどと感じさせられました。ですから、中国の王朝史では辺境から入り込んだ戦闘にだけ長けた匈奴やモンゴル人に対比して、戦闘には向かないが文化のレベルが段違いに高い漢人、という歴史観を否定されると、それはそういう見方もあるかもしれないと思わないでもありません。特に、明初頭の大航海時代を先取りするような海外遠征の放棄については、漢人の大きな弱点を露呈した可能性はあると思います。ただ、さすがに、本書で展開されるのはモンゴル人の著者の歴史観であって我田引水ははなはだしく、例えば、匈奴に送られた王昭君が不幸ではなくそれなりに幸福だったかどうかは疑問です。現在の共産党政府が中国の王朝市の伝統に立って正当性を主張しているのか、あるいは、先行きの易姓革命の発生を恐れて否定しているのか、私は詳細には知りませんが、東アジア史の中で中国、著者のいうシナの占める位置は圧倒的であり、モンゴルや日本、他の漢字文化圏と考えられる朝鮮半島やベトナムなどはいうに及ばず、ユーラシア大陸中央部に占める遊牧の民の重要性は、中国中原には及ばない、と私のように常識的に考えるのが普通ではないかという気がします。

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次に、吉田修一『橋を渡る』(文藝春秋) です。人気作家の最新作です。ようやく図書館の予約が回って来ました。春夏秋冬の4章構成と非常にシンプルながら、特に最終の第4章を含めると、とても複雑なストーリー展開で、私のような頭の回転の鈍い読書家は最終章はよく読まないとついて行けません。第1章の春ではビール会社の営業課長と絵画ギャラリー経営の夫婦が、親戚の商社マンの海外赴任で日本に残された甥っ子の高校生を預かったのはいいんですが、恋人の女子高生を妊娠させてしまいます。第2章の夏では都議会議員の家族を中心にストーリーが進み、都議会議員がワイロを受け取ることをその妻が知ってしまいます。第3章の秋では香港の雨傘革命や生殖医療を取材するTV会社のディレクターが、短くいうと、痴情のもつれから2か月先に迫った結婚式を前に婚約者を絞殺してしまいます。そして、第4章の冬では一気に70年後の2085年に舞台が飛びます。その未来では、「サイン」と呼ばれる生殖医療の発展により生み出された新しい生殖方法により誕生した人類が差別を受けていたり、第3章の殺人犯がワームホールを通ってタイム・スリップして来たりします。私もこの作者の作品はかなり好きですのでそれなりに読んでいるつもりなんですが、何だか、今までになかったパターンです。SFといってもいいのかもしれません。違和感がないといえば嘘になるんですが、さすがの表現力と筆力でキチンと書き切ってありますので、よく読めばそれなりに70年前の出来事との関連は理解できます。そして、70年後にタイム・スリップする登場人物にも同じことをいわせているんですが、70年後の未来は決してユートピアではない一方で、ディストピアでもありません。私自身はこの作者の作品でもっとも高く評価しているのは『横道世之介』であり、割合とノホホンとしたストーリーだったりするんですが、ここ10年ほどのこの作者の作品、特に、映画でもヒットした『悪人』以降の、『平成猿蟹合戦図』、『太陽は動かない』など、特に最近作の『怒り』なんかでは、少し暴力的な要素が入って来たような気もします。そして、村上春樹にもこういった暴力的な要素を含む作品を発表していた時期があったようにも記憶しています。大作家とはこういうものなのかもしれません。最後に、作者がこの作品を通して一貫して訴えたいのは、自分を信じることの大切さ、そして、自分を信じて行動する意味です。幾つかの新聞で書評を見ましたが、その中では読売新聞の青山七恵の書評がもっとも私の感想に近かった気がします。以下の通りです。

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次に、平野啓一郎『マチネの終わりに』(毎日新聞出版) です。芥川賞作家の最新作品です。私がこの作者の作品を読むのは『決壊』以来かもしれません。でも、好きな作家のひとりであることはいうまでもありません。出版社を見ても理解できる通り、毎日新聞に連載されていた小説を単行本に取りまとめた作品です。なお、私自身のこれだけ大量に読む読書でも、久し振りの恋愛小説です。しかも、ほぼほぼプラトニックな純愛小説です。でも、時代背景を基に、20代男女の純愛ではなくアラサー男女の恋愛小説です。「大人の恋物語」と表現することも出来るのかもしれませんが、少子高齢化というか、人口減少というか、そういった社会現象の背景にある晩婚化を私は改めて認識させられました。ということで、序の冒頭にある通り、クラシック音楽の世界的なギタリストである蒔野聡史と著名なイタリア人映画監督と日本人妻の間に生まれ、国際的な場で活躍するジャーナリストの女性である小峰洋子の2人の人間の物語です。ひょんなことから知り合って恋に落ち、そして、結局は結ばれずに別の伴侶と結婚して、それぞれのカップルに子供も誕生しながら、分かれるハメになった偽メールの真相にたどり着いて、それでも、若い恋人のように駆けつけて元のように結ばれることもなく、マチネーの終わりに示唆されたニューヨークはセントラル・パークの池のほとりで再会して小説は幕を閉じます。繰り返しになりますが、20代男女の燃えるような恋物語ではありません。私の年齢のせいかもしれませんが、何とも切なく儚くも、とても充実した恋愛小説です。ただし、指摘しておかねばならないのは、普通のサラリーマンの恋愛ではありません。とても特殊な国際人、有名人の間の恋愛です。恋愛相手は音楽CDを出していたり、テレビや新聞などのメディアに出て来るような人物であり、一般ピープルとは異なります。加えて、とても政治経済社会的な動向を作品に反映させています。共産主義体制の崩壊、イラク戦争などの中東情勢、サブプライム・バブルの崩壊、東日本大震災などです。もちろん、こういった事象に関する見方が読者と作者で一致するかどうかは判りませんが、読み進む上でそれなりの注意点かもしれません。それから、私のようなアラ還の読者ではなく、40手前から40代の読者が想定されているような気がして、まさに作者自身の世代かもしれません。アラフォーの恋をどのように考えるか、人それぞれなんですが、とても示唆に富んだ小説です。なお、この作品内で蒔野が演奏するギター曲を収録したタイアップCD「マチネの終わりに」が発売されています。ギタリストは福田進一なんですが、私は不勉強にして演奏を聞いたことはなく、単に、村治佳織の師匠としてしか知りません。作品中に架空の映画で、小峰洋子の父親の監督作品として登場する「幸福の硬貨」のテーマ曲が林そよかによるオリジナル曲として再現されていたりします。今年、私が読んだ小説の中では文句なしのナンバーワンです。作者ご本人と毎日新聞の特設サイトはそれぞれ以下の通りです。

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次に、柴田哲孝『Mの暗号』(祥伝社) です。私は著者についてはよく知らないんですが、私と同じアラ還の世代の作家で、下山事件に関する論評でデビューしたような紹介が本書の奥付にあります。この作品でも下山事件に関する言及が何か所かあったりします。ということで、タイトルからも明白な通り、戦後の闇の世界で噂話のレベルながら謀略的なコンテクストで語られてきたM資金に関する暗号を解くという小説です。そして、ややネタバレに近いんですが、主人公たち4人はそのM資金そのものである金塊ほかを暗号を解いて入手します。主人公は4人いて、東京大学で講義を持っている歴史作家の浅野迦羅守のところに、弁護士の小笠原伊万里が訪ねて来て、殺害された父親がその父親、すなわち、祖父から預かっていた謎の地図と暗号文を解読して欲しいと依頼を受けます。そして、浅野迦羅守の2人の親友、数学の天才であるギャンブラーとCIAのエージェントも経験した情報通が加わって、4人で暗号を解きつつM資金の金塊へアプローチします。もちろん、何の障害も妨害もないというハズもなく、小笠原伊万里の父親を殺害したと思しきフリーメイソンの一派が執拗に主人公たちを追跡しつつ、さらに、殺人事件の捜査に当たる警察官も加わって、3つどもえの宝探しとなります。殺人事件の方の謎解きはほとんどなく、もっぱら暗号解読とM資金の金塊の在りかの解明、タイトル通りの暗号の解読に力点が注がれますが、何せ70年前のものですので、暗号そのものがさして高度な処理をなされているわけではなく、また、フリーメイソンとのバトルについても、さしたる見どころもなく、ミステリとしてはかなり凡庸な仕上がりとなっています。M資金や金塊の宝探しにワクワクする人向けかもしれませんが、ミステリとしてはあまりオススメできる作品ではありません。

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最後に、田中経一『ラストレシピ』(幻冬舎文庫) です。2年前に出版された『麒麟の舌を持つ男』を改題して文庫化しています。文庫の方の副題は『麒麟の舌の記憶』とビミョーに違えていたりします。作者はテレビのバラエティ番組「料理の鉄人」を手がけたディレクターであり、それだけに多くの一流料理人との接触があったものと想像しています。また、この作品は2017年夏に東宝配給による映画化が決まっており、監督は滝田洋二郎、主演は嵐の二宮和也だそうです。ストーリーは時代を隔てて2部構成が入り混じっており、昭和1ケタの満州国成立直後から終戦にかけてと大雑把に2014年、すなわち、この作品の単行本が発行された年です。昭和初期の主人公は山形直太朗、21世紀の主人公は佐々木充、ともに「麒麟の舌」を持つ料理人であり、実際に料理として完成した食べ物を味わうことなく、レシピを見ただけで音楽の絶対音感のように味や触感が判る、という設定です。そして、昭和初期の山形は満州国にて当時の天皇陛下の行幸を待ち、その際に提供する大日本帝国食菜全席のレシピを作り上げるべく満州軍から指示されます。大日本帝国食菜全席は、いわゆる満漢全席を超える204品から成るフルコース料理であり、春夏秋冬51品目ずつに分けられています。本書の最後にタイトルだけは収録されています。この料理が、実は、歴史を揺るがしかねない陰謀が込められていた、ということになっています。他方、21世紀の佐々木は中国の釣魚台国賓館の料理長からこの大日本帝国食菜全席のレシピを入手するように依頼され、山形の縁戚などを当たりながら以来事項を進めます。ということで、私は実はこういった料理や食通の小説とかノンフィクションが大好きで、基本的には食べることが好きなんだろうと自覚しているんですが、この作品も、ハッキリいって、ミステリとしてのプロットはまったく評価しませんが、料理についての詳しい薀蓄は素晴らしいと思います。同じような方向性として、高田郁のみをつくし料理帖のシリーズがありますし、今は、小説では松井今朝子の『料理通異聞』を、ノンフィクションでは『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』を、それぞれ図書館で予約待ちしているところです。私は麒麟の舌を持っていませんので、料理は文字で読むよりも画像で見た方が何倍も理解しやすいような気がしますから、映画が封切られた際には見に行くかもしれません。

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