今週の読書も経済書をはじめ10冊!
今週も10冊を読み切ってしまいました。新書が3冊含まれているのが多読の原因ではないかと想像しています。来週こそペースダウンしたいと思います。
まず、ベンジャミン・パウエル[編]『移民の経済学』(東洋経済) です。編者はテキサス工科大学の経済学教授であり、移民に関する研究の第1人者です。英語の原題は The Economics of Immigration ですので、邦訳のタイトルはそのままです。基本は、チャプターごとに専門の著者が執筆している学術書です。しかし、必ずしも経済学的な観点からの分析ばかりでもなく、加えて、なぜか、移民に対する賛否も分かれていて、必ずしも移民に賛成とか反対とかの統一性はありません。国際労働移動の経済効果から始まって、財政への影響、市民的・文化的な同化政策の評価、米国を念頭に置いた移民政策の改革に関する議論、国境開放=オープン・ボーダーの議論などが収録されています。最終章で編者自身がいくつかの議論を取りまとめていますが、米国のボルハス教授や英国のコリア教授などの慎重論、カード教授やハンソン教授などの積極論が紹介されています。私自身の見方は慎重論の中でも慎重であり、第7章の意見に近く、第6章の移民政策への市場原理主義的な政策の導入には真っ向から反対です。そもそも、エコノミストの間には移民に関する極めて大雑把なコンセンサスがあるものと私は受け止めており、移民の受け入れ国の経済効果はプラスで、移民の供給国の経済効果はもっとプラスです。でも、財政効果は年金や医療などの社会保障を含めてほぼネグリジブルであり、問題は経済以外の移民のあり方であろう、というものです。そして、私は移民の経済効果がプラスであることを認めつつも、文化的あるいは社会的な観点から移民には反対に近い慎重な立場を取っています。そもそも、経済に限らない移民の全般的な効果、というか、評価関数についてはいろんな議論があり、受け入れ国だけで考えるか、供給国も含めた世界的な評価を視野に入れるべきか、もちろん、経済だけでなく文化や社会その他の観点をどう入れるか、などで議論が絶えません。現状ではほぼ米国への移民流入の経済効果に限られた議論が進んでおり、例えば、トランプ次期米国大統領のような議論です。でも、少なくとも私が日本について考える限り、かつてのマルサス的な過剰人口論は過去のお話となり、現在では日本は移民を受け入れる側でしょうから、中国という人口超大国しかも華僑などの人口流出(ディアスポラ)超大国が隣国に控える限り、移民受け入れはヤメか制限的にしておいた方が賢明であると考えます。移民が過疎地域で農林水産業に従事してくれる保証はまったくなく、都市部でスラムを形成する可能性もあり、本書の第7章で議論しているようにギャング化する可能性すら排除できません。定量的ではなく直感的な私の理解ですが、企業が経済的なチープレーバーの恩恵を受ける以上のマイナスが広く市民社会一般にありそうな気がします。
次に、ロベール・ボワイエ『作られた不平等』(藤原書店) です。著者はフランス独特のレギュラシオン学派の重鎮です。翻訳者による解説を読んでもイマイチ理解がはかどらなかたんですが、どうも、この邦訳書に対応する形で原書が出版されたものではないようです。すなわち、5章構成のうち、4章までが既出の論文のコンピレーションであり、最後の第5章が新稿となっています。翻訳者の方で編集して1冊の本にまとめ上げたというもののようです。ですから、必ずしも書籍としての統一性はないんですが、第1章で米国における経営者報酬の高騰を取り上げ、第2章は我が国でも話題をさらったピケティ教授の『21世紀の資本』の書評、第3章では中国、米欧や中南米における不平等レジームの世界的多様性と相互依存性について論じ、第4章では欧州福祉国家の典型としてデンマーク型フレキシキュリティからの教訓を汲み取り、最後の5章では日本型不平等レジームの変容と独自性にスポットを当てています。第5章の体系的かつ歴史的な我が国の不平等については、戦前期の不平等について主として土地所有という資産の不平等に基づいた所得というフローの不平等が生み出されたと正確に分析しています。終戦直後はこの土地資産については農地解放という形で占領軍が強権的に不平等を解消し、かつ、インフレという形で実物資産意外の金融資産を無価値にして金利生活者の安楽死を招来したわけです。そして、レギュラシオン学派独特の用語ながら、蓄積レジームというのがあり、人口に膾炙しているのはフォーディズムなる製造業をテコとした資本蓄積のレジームなんですが、21世紀に入って米国では金融資本による蓄積レジームが開始されたと指摘します。そして、経営者のメチャクチャな高収入やそれに基づく不平等はフォーディズムの蓄積レジームとは明らかに異なると指摘されています。というものの、私はよく理解していなかったりします。他方で、中南米では1990年代以降に明らかに不平等が緩和されてきており、また、日本の不平等はフラクタルだそうです。要するに、不平等レジームは国ごとに様相が異なっており、一様ではないということだそうです。ある意味では当然です。でも、一様に経済学的な解釈を下そうと試みているエコノミストも少くなさそうな気もします。
次に、スティーヴン・ウィット『誰が音楽をタダにした?』(早川書房) です。著者はジャーナリストで、本書の英語の原題は How Music Got Free ですから、ほぼそのまま邦訳された、というカンジです。今年のノーベル文学賞は、意表をついてボブ・ディランに授賞されたんですが、その彼の本来の活躍の場である音楽業界の内幕を取材したルポルタージュです。訳者あとがきにもある通り、主要な登場人物のカテゴリーは主として3つあり、音楽などのファイル形式のデファクト・スタンダードであるmp3を作ったドイツ人のオタク技術者、そして、音楽業界で大企業を渡り歩きいくつかの大音楽企業のCEOを歴任した経営者、最後に、インターネット上の海賊版のウラ世界をほぼ支配した違法な音楽リーク・グループ、おまけで、最初のカテゴリーに属するのかもしれませんが、ビットトレントの開発者にも軽く触れられています。最後の音楽リークの海賊界で本書に取り上げられている中心人物は、まあ、米国の田舎の工場で発売前のCDを盗んでいた労働者だったりします。というのは、組織の頂点に立っていたと思われる人物は著作権侵害にかかる裁判で無罪になっているからです。いや、とても面白いストーリーです。よく、「事実は小説よりも奇なり」といわれますが、まったくその通りで、音楽産業を牛耳る大企業や著作権団体がいろいろと考えを進めて来た中で、海賊版製作者やアップローダーたちはこういった脱法行為を繰り返して来たのか、ということが明らかにされています。すでに有罪判決を受けて解散したナップスターのあたりから、音楽にとどまらず動画、というか、映画も含めて、大量にネット上に著作権侵害と思しきファイルがアップされているのは事実で、それを支える形でmp3のファイル形式が開発されたり、あるいは、P2Pの技術としてビットトレントが実用化されたりしたのは、もちろん、その通りなんですが、何らかのソースがあるわけでしょうから、そのソースを裁判記録などから明らかにしたジャーナリストの慧眼は素晴らしいと思います。何度か、米国連邦準備制度理事会(FED)の議長を務めたグリースパンが登場し、コンサルタントのころに音楽の不正コピーに対する価格戦略を考えた挙句に、結論として適正価格は産出されず違法コピーを取り締まるしかない、と主張し、資本主義的な成功の裏には政府の積極的な市場介入が必要だと認めている、と引用されていたりします。最後の最後に、本書を原作として、そのうちに音楽業界と違法コピーのイタチごっこの裏幕が映画化されるような気がしてなりません。
次に、クリスチャン・ラダー『ビッグデータの残酷な現実』(ダイヤモンド社) です。著者は米国ハーバード大学の数学科を卒業後、4人の仲間といっしょに出会いサイトを創業した起業家です。そして10年後、世界最大級の出会いサイトとなったOkキューピッドにおいて明らかにされている膨大なデータの分析に取り組み本書に取りまとめられています。従って、本書は男女関係のビッグデータを基に、普段は目にすることができない人間の本質をあぶり出しています。最初はいわゆるウッダーソンの法則から始まります。すなわち、女性の恋愛対象は30歳くらいを境にして、若いころはやや年上を、30歳くらいを超えてからはやや年下も含めて、自分自身と似通った年齢層の男性を恋愛対象としているのに対して、男性は何歳になっても20歳くらいか、それを少し超えたくらいの年齢の女性に魅力を感じます。よく判ります。数年前に深田恭子が30歳になったとの報道に接して、私はとても大きなショックを覚えた記憶があります。そして、年齢とともに米国ですから人種の関する偏見もほの見えてきます。すなわち、黒人、特に黒人女性は人気がないと本書では分析しています。根深い潜在意識を感じさせます。ただ、本書で分析されているLGBTに関しては、現在でもかなり流動的な分野であって、統計的に何らかの有意な結果が出て分析したとしても、現時点で確定的な結論を引き出すのは困難ではないかと私は受け止めています。当然ながら、出会いサイトだけでなく、雇用などにおいても見た目がそれなりに重要であることは暗黙の了解とすら考えるべきです。ただ、出会い系のデータの最大の弱点は、本書で著者も認めている通り、出会ってからリアルで交わされる会話やインタラクティブなコミュニケーションを追跡できない点です。そここそ知りたい、とは思いませんか?
次に、藤田庄市『修行と信仰』(岩波現代全書) です。著者は国際宗教研究所の研究員にして、フォトジャーナリストとしても著名であり、本書ではタイトルの前半に重きがあって、神道、仏教各派、山岳修験道、江戸末期の天理教と同じころに成立した禊教、そして、日本では少数派のキリスト教カトリックの修行を取り上げています。神道の修行といえば、禊で滝に打たれたりするのを連想しがちですが、いわゆる荒行や苦行の修行は神道にはないようです。仏教では座禅と考案の禅宗と、二月堂のお水取りの東大寺、さらに、即身成仏の真言密教などが取り上げられています。我が家の進行する浄土真宗は他力本願で修行はありませんが、なぜか、浄土宗の念仏三昧は取り上げられていたりします。やっぱり、浄土宗と浄土真宗はビミョーに違うんだろうと思います。私自身が宗教的な修行に否定的なのは、そういった修行のない他力本願の浄土真宗の信者だから、というのもありますが、奈良時代や平安時代の国家護持仏教で、国家の平安のための修行ならともかく、利己的な目的で修行するのは少し違うんではないか、と思わないでもないからです。おそらく、仏教各派や修験道では、いわゆる悟りを開いて解脱する、すなわち、輪廻から抜けて仏になるのを目的とした修行がほとんどではないかと想像していますが、見方を変えれば利己的な目的による修行と見えなくもありません。それから、修行とはみなされませんが、お祈りや感謝もどこまで必要か、は私自身は疑問です。一神教ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教などが典型ですが、全知全能の神ですから、信者が祈ったり感謝したりする必要がどこまであるんでしょうか。信者の肉体的先進的な状態は神はすべてご存じのハズです。日本の神様のように分業制ならば、信者が何を望んでいるのかは明言する必要があるような気もしますが、一神教では信者の側からの神への何らかの働きかけは不遜なだけであって、何ら必要ないような気もします。私のような煩悩の塊のつまらない凡夫の出来ることには限りがあり、修行したところで得るものは少なそうな気がします。「南無阿弥陀仏」の念仏で極楽浄土に往生できる宗教を信じていてよかったと思う次第です。
次に、宮内悠介『スペース金融道』(河出書房新社) です。作者は日本SF界期待の新星で、短編「盤上の夜」で第1回創元SF短編賞山田正紀賞を受賞しデビューした後、デビュー作品『盤上の夜』で直木賞候補にノミネートされるとともに、第33回日本SF大賞を受賞し、さらに、第2作品集『ヨハネスブルグの天使たち』でも直木賞候補にノミネートされています。私もこういった作品はおおむね読んでいたりします。ということで、この作品はタイトルから理解できるように、宇宙における消費者金融をテーマにしています。すなわち、人類が最初に移住に成功した太陽系外の星、通称、二番街を舞台に、主人公は新生金融なる街金の二番街支社に所属する回収担当で、大手があまり相手にしないアンドロイドが主なお客になっています。直属の上司で相棒のバディであるユーセフはなぜかイスラム教徒で、飲酒しないとかいろいろと行動上の制約があったりします。とてもコメディの要素の多い作品です。長編ではなく連作短編集の趣きであり、次々と正体を変えて逃げ続けるアンドロイド債務者を追い続けて二番街の首相にたどり着いたり、仮想空間の人工生命を相手に取り立てたり、カジノ宇宙船に捕らわれ脱出するために主人公の臓器をかたに借金をして博打を始めはシャトルの船賃を稼ごうとしたり、タックスヘブンとなっている風光明媚なサンゴ礁で取り立てに向かいナノマシンの暴走でミトコンドリア病になったり、債務者が連続殺人鬼に消された事件を追う取り立て屋コンビだが、主人公が差別と排外主義を掲げる極右政党の党首に祭り上げられて、不自由な思いをするとか、いろいろと趣向に飛んだ連作短編集です。私もそうですが、この作者のファンなら読んでおいた方がいいような気がします。
次に、有川浩『アンマーとぼくら』(講談社) です。タイトルの「ぼくら」は主人公のぼく=リョウとその父親です。作者は売れっ子のライト・ノベルないしエンタメ小説の作家で、私は放送を見たわけではありませんが、この作品は8月6日放送のTBS「王様のブランチ」のブックコーナーに出演した作者自らが「現時点での最高傑作」と発言したといわれています。それから、かりゆし58の名曲「アンマ―」に着想を得たともいわれていますが、誠に不勉強ながら、私は沖縄には馴染みがなく、この曲も知りませんでした。ということで、相変わらず、私はこの作家の作品はそれほど評価しないんですが、人気作家でもありますし、一応、新作が出るとかなり遅れつつもフォローしていたりします。この作品は32歳の主人公リョウが郷里の沖縄に帰省して母親と3日間を過ごす、その際に過去を振り返る、という形式になっています。その主人公は小学校高学年まで札幌で過ごし、母親の死の後で父親が沖縄の人と再婚したため沖縄に引っ越し、大学入学とともに東京に上京する、という人生を送っています。ですから、3日間を過ごす母親とは生さぬ仲であり、古い言葉で表現すれば継母ということになります。しかし、実の父親が独特の人物であり、自然風景を題材とする写真家として、それ相応に有名なフォトグラファーであったものの、精神的には小学生のような幼さ、というか、メンタリティの持ち主で、それはそれなりに可愛げがあります。むしろ、この作品の隠れた主人公ということになります。タイトルのアンマーとは沖縄言葉で母親を意味するらしいんですが、もうかなりの古語に近いと見なされているようです。ラノベに近いエンタメ小説ですから、読み方によるんでしょうが、修行の足りない私の目からは、作者が何を訴えようとしているのか、読者に何を伝えたいのか、ややピンボケに読めてしまいました。私は登場人物があざといのは大いに評価しますが、作者があざといのはそうでもありません。まあ、森絵都が直木賞を受賞した際には、「文学賞メッタ斬り!」のサイトで、「直木賞対策も万全」と陰口をたたかれていた記憶があるんですが、この作家もそのうちに直木賞を受賞するのかもしれません。最後の最後に、アマゾンのレビューの評価が大きく割れているのも、この作者の作品の特徴かもしれません。
次に、佐藤伸行『ドナルド・トランプ』(文春新書) です。今夏の出版で、米国大統領選挙前の情報に基づいていますが、まずまず参考になるような気がします。著者はジャーナリストのキャリアが長いようです。冒頭で、トランプ次期米国大統領を政治経験や共和党の予備選での下馬評などから、レーガン元大統領になぞらえていて、やや極端ではないかという印象もありましたが、実際に大統領選挙の結果を見ると、それなりの相似性も期待できるような気がしてきたわけで、私の政治観のいい加減さを示しているのかもしれません。冒頭から第4章くらいまでは祖先をドイツにまでさかのぼったり、3度の結婚について概観したりと、やや個人的な側面が強くて私は適当に読み飛ばしたんですが、第5章のビジネス、第6章の政治家、第7-9章の宗教観などは、本書のオリジナルではなくて別のリファレンスから取り入れているとはいうものの、なかなか参考になる気がします。ビジネスでは男性的なフェロモンも含めて、人間としてのそれなりのオーラを発しているのは明らかでしょうし、メディアには無視されるよりも悪評を流される方がビジネスにはプラス、というのも理解できるような内容です。というのも、私が若いころには、私のような若いキャリアの官僚が事務次官候補と確実にメディアに流れるのは、例えばハレンチ罪を犯した時ではないか、といわれていました。具体的には、電車で痴漢をして逮捕されると、「将来は事務次官候補といわれたエリート官僚だった」なんぞと報じられたりする可能性があるわけで、実際にアラ還に達してみると、事務次官ポストは遠い彼方に消えてしまった気がします。ただ、さすがに政治家としては未知数としかいいようがなく、先日の動画にあったTPP脱退はともかく、排外的、反移民や反イスラムなどは、米国の現状、すなわち、左右に人心が両極化するワイマール現象の中で、新たな移民や新規参入者に対する反感や恐怖に対して、米国人の喪失感や白人の反乱によって特徴つけられると指摘しています。もう一方で、米国は political correctness 大国となっていて、その行き過ぎを指摘する意見もあります。私は喫煙しませんが、かつての日本における「禁煙ファシズム」の論調も思い起こしてしまいました。私はキリスト教原理主義的な宗教的側面はよく判りませんが、いろいろとコンパクトな新書版でそれなりの情報は得られるような気がします。
次に、日本財団子どもの貧困対策チーム『徹底調査 子供の貧困が日本を滅ぼす』(文春新書) です。今年1月13日付けのこの私のブログでも取り上げましたが、日本財団による「子どもの貧困の社会的損失推計」に関して、明解に推計方法を開示し、より詳細な結果を提示しているのが本書です。試算の推計に加えて、トピック的にいくつかのケース・スタディの結果も盛り込まれています。単なる数字だけでなく、より具体的な子どもの貧困の実態が理解しやすくなっています。さらに加えて、米国でのランダム化比較実験(RTC)の方法論に基づく研究成果の紹介もあります。ペリー就学前計画、アベセダリアン・プロジェクト、シカゴ・ハイツ幼児センターの3つの研究です。前2者は私もそれなりに概要くらいは把握していますが、最後のプロジェクトは知りませんでした。そして、こういった米国での先行研究も含めて、本書で何よりも重視しているのが教育の効果です。特に大学進学の効果は大きいと私も考えています。教育政策に関しては、学校が塾に負けているのはかなり前々からの現象でしたが、昨今ではセイフティ・ネットに関しては、福祉政策が風俗産業に負けているとの指摘も本書で見られますし、フィクションの小説では自衛隊が最後の雇用先としてセイフティ・ネットの役割を果たしているかの如き作品も私は読んだことがあります。そして、最後の最後の「おわりに」の6ページには極めて重要な指摘がいくつも盛り込まれています。すなわち、子どもの貧困は人々の心の持ちようとかの精神論や観念論で解決できることではなく、引退世代の高齢者ばかりを優遇する現在の日本のシルバー・デモクラシーを打破して、子どもの貧困や家族の問題に政府が積極的に取り組む必要があります。そして、本書で指摘されていない部分を私が付け加えると、引退世代の高齢者の貧困はかなりの程度に自己責任の部分がありますが、我が国には「親の因果が子に報い」という表現があるものの、子どもの貧困は自己責任を問えない、という点です。子供の貧困を考える上で、とても重要な指摘がいくつか詰まった良書です。多くの良識ある日本人が手にとって読むことを私は強く願っています。
最後に、エドワード・ルトワック『中国4.0』(文春新書) です。「中国」の漢字には、「チャイナ」のルビが振ってあります。著者は米国の軍事外交史や安全保障論の専門家です。本書は、訳者のインタビューに対する著者の口述記録を基に書籍化したものらしく、最後の第6章は訳者の解説となって構成されています。そして、タイトル通り、2000年代に入って以降の現在の国際社会における中国をいくつかのバージョンに分け、2000年以降の中国1.0は鄧小平の韜光養晦に基づく「平和的台頭」、2009年に大転換して中国2.0では「対外強硬」になり、我が国との尖閣諸島紛争を起こしたりもします。ただし、強硬路線をマイルド化させて2014年秋以降は中国3.0として「選択的攻撃」に転換したと主張しています。そして、来たる中国4.0に関する予言を試みようとしているのが本書なわけで、もちろん、それに対する我が国の対応も大きな眼目となっています。「大国は小国に勝てない」という逆説的論理をもっとも重要なキーワードのひとつとして、中国との外交や安全保障を読み解き、特に強調しているのは尖閣諸島を中国が占領する可能性であり、その場合は、日本は米国や国連に相談することなく自らの戦力で速やかに領土を回復する必要がる、としています。そうしなければ、クリミア半島の二の舞いになると警告されながらも、私のようなシロートからすれば、逆に、そんなことをすれば日中間の武力衝突、というか、戦争状態に近くなり、かえってマズいんではないかと思いますが、スピード感がもっとも重視されるべきという意見なんでしょう。また、本書で指摘されている通り、日本から見た外交政策や安全保障上、中国がとても不気味に感じるのは、意志決定のプロセスが極めて不透明であり、従って、方針が中国1.0から4.0まで、短期間に何度も変更される点です。加えて、これも本書の指摘通り、すでにほとんど独裁者となった習近平国家主席に正しい情報が伝えられているかどうか、とても不安です。本書では指摘されていませんが、習主席が進めている現在の反腐敗の動向は、それなりに格差に苦しむ民衆の精神的な鬱憤晴らしにはいいのかもしれませんが、所得の増加とか、お腹が膨れる方向にはつながりません。ですから、反腐敗が単なる権力闘争だと一般民衆に見透かされる可能性もあるような気がして、私はそれも気がかりです。
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