今週の読書は経済書をはじめとして専門書・教養書など計8冊!
今週は経済書をはじめとして、専門書・教養書とミステリの短編を収録したアンソロジーや野球に関する新書まで、計8冊を読みました。まあ、先週の読書感想文は早めにアップして営業日が1日多いので、こんなもんかという気もします。来週からはかなり確度高くペースダウンする予定です。今週の読書8冊は以下の通りです。
まず、宮尾龍蔵『非伝統的金融政策』(有斐閣) です。著者は東大教授の研究者であり、昨年まで5年間に渡って日銀審議委員を務めていました。本書では、白川総裁とともに日銀にあった3年間と黒田総裁の下での2年間に及ぶ非伝統的な金融政策手段を分析しています。なお、どうでもいいことかもしれませんが、タイトルにより誤解を生じるといけないので、あくまで念のためにお断りしておくと、非伝統的なのは金融政策ではなく、金融政策の手段にかかる形容詞であり、金融政策で非伝統的な政策目標を目指すわけではなく、非伝統的な政策手段により伝統的な政策目標を目指すわけですので、大丈夫とは思いますが、念のために確認しておきます。ということで、まず、非伝統的な金融政策の政策手段として、著者が直接的に挙げているのとは別に私なりの解釈で分類すると、時間軸政策とも呼ばれるフォーワードガイダンス、これには金利と資産購入の2つのフォーワードガイダンスが含まれており、加えて、非伝統的な資産、すなわち、短期国債以外の長期国債とか株式とかの買い入れとバランスシート全体の拡大、そして、昨年から始まったマイナス金利について本書では分析を進めています。そして、各種の非伝統的金融政策の政策手段について、第2章で理論的なモデル分析を、第3章で実証的な数量分析を試み、非伝統的な金融政策手段は理論的に株価や為替のチャンネルを通じて効果があるとのモデル分析を明らかにするとともに、実証的にもGDPを引き上げたり物価を上昇させたりする効果があったと結論しています。まあ、当然、自然体で曇りのない目で日本経済を見ている限り常識的な結果であろうと私は受け止めています。その上で、第4章では2%物価目標は妥当であると結論し、第5章で懸念すべき副作用として、いわゆる「岩石理論」的なインフレ高騰、資産価格バブル、財政ファイナンスの3つのリスクを否定しています。第5章では副作用を軽く否定した後で、いわゆる長期停滞論を引き合いに出して、当時のセントルイス連銀ブラード総裁の2つの均衡論を考察し、現状では日本経済はデフレ均衡を脱しつつある、と結論しています。そして、第6章ではマイナス金利を俎上に載せています。最後の第7章では、日銀審議委員としての5年間を回顧しています。要するに、、極めて真っ当で、常識的かつ当然の結果が示されています。昨年2016年12月29日付けで取り上げた「戦うリフレ派」の岩石理論批判もよかったんですが、こういった真っ当な金融政策の解説書もいいもんだという気がします。
次に、清田耕造『日本の比較優位』(慶應義塾大学出版会) です。著者は慶応大学の研究者であり、国際経済学を専門としているようです。本書ではタイトルの通り、いくつかバージョンのある貿易モデルのうち、主としてヘクシャー・オリーン型の比較優位について論じています。ただ単にモデルを論じているだけでなく、主として経済産業省の工業統計やJIPデータベースを用いた実証的な研究成果も示されています。既発表の論文と書き下ろしが半々くらいでしょうか。最近では経済学のジャーナルの査読を通ろうと思えば、何らかの実証が必要不可欠になっていますので、既発表論文を含む本書で実証結果が示されているのは当然かもしれません。ということで、比較優位という経済理論はリカードの昔にさかのぼり、とても理論的には評価されているモデルなんですが、実証的に正しいかかどうかについては疑問を呈されることもあります。特に、現実世界では経済学的に疑問の余地なく正しいとされている自由貿易すら実現されていないわけですから、比較優位についてもご同様です。本書では比較優位に産業構造を結び付けて、いくつかの実証研究成果を示しています。すなわち、「疑問の余地なく」ではないとしても、比較優位説は机上の空論ではなく妥当性が支持されると、既存研究ながら、何と、幕末明治維新前後の実証研究を紹介し、ほとんど貿易のなかった鎖国時代の日本と、貿易を開始し、しかも、関税自主権がなく自由貿易に近かった明治期の日本の貿易から比較優位説の妥当性を確認しています。また、米国に関するレオンティエフ・パラドックス、すなわち、世界でもっとも資本が豊富な米国がネットで資本集約財を輸入し、労働集約財を輸出しているとのパラドックスと同じように、戦後日本が非熟練労働力よりも熟練労働力の豊富な日本が、熟練労働集約財を輸入し非熟練労働集約財を輸出している、とか、エネルギーを産しない日本の輸出が必ずしもエネルギー節約的ではない、などを示しています。また、最後の第Ⅲ部ではアジアのいわゆる雁行形態発展論と日本国内の都道府県別の賃金と産業構造をそれぞれ実証しています。なお最後に、出版社からも明らかな通り、本書は学術書です。しかも、学部レベルではなく大学院博士前期課程くらいのレベルです。数式も少なくありませんし、データに基づくものではなく概念的なグラフもいくつか見受けられます。かなり専門分野に近い私でも、最後の第Ⅲ部を読みこなすのは骨が折れました。メモと鉛筆を持って数式をいっしょに解いて行くくらいでないと十分に読みこなせないかもしれません。読み進むには、脅かすわけではありませんが、それなりの覚悟が必要です。
次に、スティーブン・ピンカー/マルコム・グラッドウェル/マット・リドレーほか『人類は絶滅を逃れられるのか』(ダイヤモンド社) です。誰が見ても、ハチャメチャで意味不明なタイトルなんですが、ムンク財団の主催でカナダのトロントで開催された2015年のディベートを収録しています。ディベートのテーマは「人類の未来は明るいか」ということで、将来に対する見方が楽観的か悲観的かについてのディベートです。上の表紙画像には3名の著者しか現れませんが、ピンカー+リドレーが楽観派で、グラッドウェル+ ボトンが悲観派です。結論を先取りすると、トロントの会場の聴衆はディベートが始まる前は楽観派が71%、悲観派が29%だったところ、ディベート終了時には楽観派が73%で悲観派が27%となり、ディベートは楽観派の勝利で終了しました。まあ、ディベートの中でも出て来るんですが、過去に比べた現時点までの人類史の実績を考えると、寿命が伸び、戦争・戦乱が減少し、消費生活が豊かになり、それらのバックグラウンドで技術が大きく進歩しているわけですから、どこからどう見ても人類史は、特に、戦後の50-70年では大きく楽観派が強調するような方向に進んでいる気がします。将来を悲観する要素としては、このディベートでも悲観墓強調した地球環境問題とわけの判らない病気のパンデミックくらいで、戦争、特に核戦力による戦争はかつての冷戦時代よりは確率が大きく減じた気がします。ディベートで出なかったポイントは、特に日本の例を引くまでもなく、先進国における人口減少問題ではなかろうかという気がします。移民の受け入れが少ない場合、欧州でもアジアでも、1人当りGDPで見て豊かないくつかの国で人口減少が始まっており、その中でも日本は飛び抜けて人口減少が大きな問題といえます。日本はすでに世界経済におけるメジャー・プレイヤーでなくなったとはいえ、悲観派が人口減少を取り上げなかったのはやや不思議な気がします。それと、ローマ・クラブ的な資源制約も着目されていません。その意味で、やや物足りないディベートだったかもしれませんが、私の考えとほぼ一致する方向の議論が圧勝している気もします。当然の結果かもしれません。
次に、 御厨貴・芹川洋一『政治が危ない』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大で長らく政治学の研究者だった学者と日経新聞のジャーナリストです。ともに東大法学部の同じゼミの同窓生で対談の形を取っており、少し前に日経プレミアムから本書の前作となる『日本政治 ひざ打ち問答』を出版していて、本書はその対談集の第2段となるようです。昨年年央まで3年半続き、今も継続中の安倍内閣と安倍総理について論ずるところから始めて、回顧を含めて政治家について談じ、天皇退位も含めて憲法について断じ、最後に、メディアについて論じ、その4章構成となっています。まあ、ジョークで「時事放談」ならぬ「爺放談」という言い方もありますが、好き放題、勝手放題、縦横無尽に政治を断じていますが、タイトルになっている危なさは、現在の安倍総理・安倍内閣の後継者問題に尽きるようです。かつては与党自民党の派閥が後継者を育てるシステムを有していたものの、小選挙区制で党執行部の権力が絶大になった一方で派閥の衰退が激しく、総理総裁の後継者が育ちにくい構造になっている、というのがタイトルの背景にある考えのようです。ある秘突然に日本の政治が崩壊するかもしれないとまで言い切っています。もちろん、繰り返しになりますが、それ以外にもワンサと山盛りの話題を詰め込んでいます。田中角栄ブームは昭和へのノスタルジーと同一視されているような気もしますし、鳩菅の民主党政権はボロクソです。私がもっとも共感したのは憲法論議の中で、天皇の退位を天皇自身が言い出したのは国政への関与に近く、憲法違反の疑いがある、との指摘です。私もまったく賛成で、そもそも、我が事ながら退位すら天皇は言い出すべきでなく、黙々と象徴の役割を果すべきであり、象徴の役割が出来ているかどうかは天皇自身ではなく内閣が判断すべき事項であると私は強く考えています。最後に、最近の政治家、主として総理大臣の演説で印象に残っているのは、私の場合、本書では取り上げられていませんが、2005年8月の郵政解散の際の当時の小泉総理のテレビ演説です。私は官房で大臣対応の職務にありましたから特にそう感じたのかもしれませんが、感銘を受けて記憶に強く残っています。
次に、 ポール J. ナーイン『確率で読み解く日常の不思議』(共立出版) です。著者は米国の数学研究者であり、ニュー・ハンプシャ大学の名誉教授です。数学に関する一般向けの解説書やパズル所などを何冊か出版しています。本書の英語の原題は Will you be alive 10 years from now? であり、2014年の刊行です。日本語のタイトル通り、本書は確率論に関する一般向けの解説書なんですが、それでも微分積分に行列式を合わせて数式はいっぱい出て来ます。ただ、本書のひとつの特徴は、解析的にエレガントに式を展開して解くだけでなく、リカーシブに解くためのMATLABのサンプル・プログラムを同時にいくつかのトピックで示している点です。本書は、古典的な確率論パズルを示した序章のほかに、個別の確率論に関するテーマを取り上げた25章から成っていて、その25勝すべてにMATLABのサンプル・プログラムが示されているわけではありませんし、MATLABがそもそもかなり専門性の高い高級言語ですから、それほど本書の理解の助けになるとも思えませんが、私のようにBASICしか理解しない初級者でも割りと簡単に移植できそうなシンプルなプログラムの作りにしてくれているように感じます。テーマごとにいくつかとても意外な結果が出て来るんですが、まず、第1章の棒を折る問題がそうです。2つの印を棒に付けて、その棒をn個に折るとして、等間隔に折る場合とランダムに折る場合で、同じ小片に印がある確率はランダムに折る後者の方が2倍近く大きい、というのは意外な気がします。第11章の伝言ゲームにおける嘘つきの存在についても、嘘つきの存在確率が0と1でないなら、ほかのいかなる確率であっても、伝言ゲームの人数が大きくなれば、最後に正しく伝えられる確率は漸近的に1/2に近づきます。逆から言っても同じことで、正しく伝えられない確率も1/2に近づきます。これも意外な気がします。最後に、どうでもいいことながら、確率論の数学研究者は『パレード』誌のコラムニストであるマリリン・ヴォス・サヴァントを常に目の敵にしていて、本書でも彼女の間違いをいくつか指摘しています。でも、モンティ・ホール問題でマリリンが正しい結果を示し、多くの数学研究者が間違っていた点にはまったく口をつぐんでいます。とても興味深い点です。日本語のWikiPediaのモンティ・ホール問題へのリンクは以下の通りです。
次に、ハリー G. フランクファート『ウンコな議論』(ちくま学芸文庫) です。2005年に出版された単行本が昨年ちくま文芸文庫として出されています。翻訳はクルーグマン教授の本でも有名な野村総研の山形浩生さんです。その長い長い訳者解説でも有名になった本ですが、その訳者解説では8-9割がタイトルにひかれたんではないかと想像していますが、私自身は昨年2016年10月29日付けで取り上げた『不平等論』の続きで読んでみました。ということで、翻訳ではすべてタイトル通りに「ウンコ」で統一しているんですが、私の決して上品でもない日常会話で使われる用語としては「クソ」とか「クソッタレ」に近い印象です。そして、訳者も認めているように、原文には「ウンコ」しかないのに訳者が「屁理屈」を勝手にくっつけている場合も少なくないように見受けられます。といのも、私はすべて読み切ったわけではありませんが、最後においてあるリンクからほぼ英語の原文がpdfで入手できます。それはともかく、本題に戻ると、「ウンコな議論」とは著者がいうに、お世辞やハッタリを含めて、ウソではないにしても誇張した表現ということになろうかという気がする。日本の仏教的な表現で言えば、いわゆる方便も含まれそうである。思い出すに、その昔の大学生だったころ、母校の京都大学経済学部の歴史的な大先生として河上肇教授が、その有名な言葉として「言うべくんば真実を語るべし、言うを得ざれば黙するに如かず」というのがあります。まあ、それとよく似た感慨かもしれません。ただ、訳者解説にもある通り、ウンコ議論のない簡潔な事実だけの議論は「身も蓋もない」と言われかねないだけに、世渡りの中では難しいところです。最後に、私はやや配慮なく本書をカフェで読もうとしてしまいました。かなり大きな活字で150ページ足らずの文庫本ですので、すぐに読めてしまうんですが、タイトルといい表紙画像といい、飲食店で読むのはややはばかられる気がしました。家でこっそりと読む本かもしれません。
次に、日本推理作家協会[編]『殺意の隘路』(光文社) です。昨年2016年12月30日付けで取り上げた『悪意の迷路』と対をなす姉妹編のミステリを集めたアンソロジーであり、最近3年間に刊行された短編を集めて編集しています。上の表紙画像を見ても理解できる通り、売れっ子ミステリ作家が並んでいます。コピペで済ませる収録作品は、青崎有吾「もう一色選べる丼」、赤川次郎「もういいかい」、有栖川有栖「線路の国のアリス」、伊坂幸太郎「ルックスライク」、石持浅海「九尾の狐」、乾ルカ「黒い瞳の内」、恩田陸「柊と太陽」、北村薫「幻の追伸」、今野敏「人事」、長岡弘樹「夏の終わりの時間割」、初野晴「理由ありの旧校舎 -学園密室?-」、東野圭吾「ルーキー登場」、円居挽「定跡外の誘拐」、麻耶雄嵩「旧友」、若竹七海「副島さんは言っている 十月」の15編です。さすがに秀作そろいですので、伊坂作品と東野作品は私は既読でした。でも、私の限りある記憶力からして、ほぼ初見と同じように楽しめたのはやや悲しかった気がします。赤川作品や長岡作品のように小学生くらいのかなり小さな子供を主人公にした作品もあれば、今野作品や若竹作品のようにオッサンばかりの登場人物の小説もあります。有栖川作品のように時間の観念が不明の作品もあれば、乾作品のようにとても長い時間を短編で取りまとめた作品もあります。必ずしも謎解きばかりではないんですが、とても楽しめる短編集でした。
最後に、小林信也『「野球」の真髄』(集英社新書) です。著者はスポーツライターであるとともに、中学生の硬式野球であるリトルシニアの野球チームの監督をしていたりするそうで、その野球に対する思い込みを一気に弾けさせたような本です。私より数歳年長であり、ジャイアンツの長島選手が活躍した時期の、どちらかと言えば後半を体感として知っている世代です。私もそれに近い世代なんですが、地域的な特徴から、私は特に長島選手に憧れを持ったりはしませんでした。もちろん、私も阪神タイガースには熱い愛情を注ぎ続けていますし、少なくとも観戦するスポーツとしては野球にもっとも重きを置いているのも確かです。念のため。とは言え、なかなか興味深い本でした。例えば、他の球技と違って、野球だけは生死観があって、アウトになる打者とセーフになる打者の違いがあって、セーフになって生き残る打者は塁上でランナーになる、とか、投手だけは試合と同列に勝ち負けがつく、といった指摘は新鮮でした。ただ、とても大きな誤解もいくつか散見されます。例えば、ほかの球技と違って野球では守備側がボールを支配する、としているんですが、野球の前身であるクリケットに対する無理解からの記述としか思えません。すなわち、誤解を恐れず単純化して言えば、クリケットとは野球の投手に当たるボウラーがボールを投げて、野球なら捕手のいる位置に置かれた木製のウィケットを壊しに行くという暴力的な競技であって、それを阻止すべくバットを振るのがバッツマン、つまり野球の打者なわけです。ですから、クリケットではボールを持ってウィケットを壊しに行くボウラーの方が攻撃なわけで、野球に取り入れられて攻撃と守備がなぜか逆転してしまったんですが、クリケットを判っていれば抱かざる疑問のような気もします。まあ、インチキのお話も古くて新しいところながら、なぜか歴史に残る八百長事件は取り上げられておらず、本書の中では第2章の古き佳き野球の時代が読みどころかもしれません。
| 固定リンク
コメント