今週の読書を早めにアップする!
今週の読書です。というよりも、年末年始休み後半のエンタメ小説を中心とした読書です。新書も何冊か読みました。通常、読書感想文は土曜日にアップするんですが、今週は米国の雇用統計が公表される週ですので、読書感想文は早めにアップしておきます。明日からは経済評論をはじめとして本格的に従来のブログ記事に復帰する予定です。
まず、高嶋哲夫『電王』(幻冬舎) です。著者は売れっ子のエンタメ作家であり、私はこの作者のすべてではないにしても、かなり多くの作品を読んでいるつもりです。台風の大雨や富士山噴火、さらに、感染症のパンデミックなどの自然災害を中心とするパニック小説の作品が多いような気がします。この作品は、将棋の奨励会でともに腕を磨いた小学生の同級生2人の天才を主人公とする小説です。裕福な企業経営者の一家に生まれ育った少年は将棋を離れて大学から数学やプログラミングに進み、人工知能(AI)の将来を担う若き学者として世界に令名が知れ渡る一方で、中卒からプロ棋士となった天才少年も2度に渡って将棋界のタイトルを総なめにした七冠を達成しています。そして、バックグラウンドでは企業経営を巡って疑心暗鬼の買収・資本提携・技術提携などの情報戦もが繰り広げられています。最後は2人の天災が将棋でぶつかり合います。すなわち、主人公の1人の学者の開発した電脳将棋プログラムともうひとりの主人公の将棋名人の対戦で幕を閉じます。勝敗は明らかにされません。ということで、エンタメ小説として、それほど完成度は高くありませんが、なかなかおもしろかったりします。もちろん、この作家の得意分野の災害パニック小説と同じで、ほぼほぼあり得ない設定なんですが、そうはいいつつも、ネコ型の子守りロボットが未来からタイムマシンでやって来て四次元ポケットからいろんな不思議な道具を取り出すのは、まったくあり得ないわけですから、年末年始休みに時間潰しで読むようなエンタメ小説としてはなかなかいい出来ではなかったか、という気がします。
次に、米澤穂信『いまさら翼といわれても』(角川書店) です。古典部シリーズ第6巻最新刊であり、『野性時代』と『文芸カドカワ』に掲載された表題作他5編を収録した短編集です。主人公の折木奉太郎、古典部部長の千反田える、そして、古典部部員である福部里志と伊原摩耶花の4人が通っている神山高校古典部を主たる舞台にした青春小説でもあり、ちょっとした謎解きのミステリだったりもします。収録作品は「箱の中の欠落」、「鏡には映らない」、「連峰は晴れているか」、「わたしたちの伝説の一冊」、「長い休日」、「いまさら翼といわれても」となっていて、4人が高校2年生に進級してからその夏休みくらいまでの時間軸のお話しとなっています。長編では欠落していたいくつかの重要なパーツがあきらかにされます。すなわち、摩耶花がどうして漫画研究会をやめたのか、また、奉太郎のモットーが「やらなくていいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に。」となったのか理由を小学生のころにさかのぼって述懐する、といったものです。今回、私は古典部シリーズ既刊の5冊を読み返してしまいました。そのうち、『氷菓』、『愚者のエンドロール』、『クドリャフカの順番』の3冊は明らかに読んでいた記憶があります。しかし、短編集の『遠まわりする雛』と直前の長編の『ふたりの距離の概算』は未読でした。ただ、『遠まわりする雛』の中の校内放送からケメルマンの「9マイルは遠すぎる」のように紙幣贋造事件を導き出す短編だけは、何かのアンソロジーで読んだ記憶がありました。この短編集もそれなりに面白いんですが、最初の『氷菓』からしてそうだったんですが、話が重いです。表題作の「いまさら翼といわれても」なんぞは、私のような人間には想像もできない重さだろうという気がします。同じ作者の作品で同じようように高校生を主人公にした小市民シリーズも明らかな犯罪行為に足を踏み入れますので、それはそれで重い気がしたんですが、このシリーズも犯罪行為ほどではないとしても、かなり重いテーマを扱っていますので、私のような年齢の読者であればともかく、ホントに主人公と同じような高校生くらいが軽く読み飛ばす小説ではないような気がします。
次に、柚月裕子『あしたの君へ』(文藝春秋) です。作者はミステリ作家であり、佐方検事シリーズの短編が私は好きで、ドラマ化されていたり、あるいは、いくつか文学賞も受賞していると思いますが、この作品も短編集ながら、家庭裁判所調査官補を主人公にした少年少女の触法行為や両親の離婚などを扱っています。収録作品は「背負う者」、「抱かれる者」、「縋る者」、「責める者」、「迷う者」の6話ですが、最初の「背負う者」は『先週の読書感想部mで取り上げた『悪意の迷路』に収録されていました。これも短編集ながら、家庭裁判所の調査官補が主人公ですからテーマが重いです。実は、私事ながら、私が高校生の時に進路を考えて、当時は頭のいい高校生は、理系では医学部を志望して、当然ながら医者を目指し、文系では法学部から弁護士や裁判官などの法曹界を目指す、というのが見かけられたんですが、私の場合は医者にしても、法曹界にしても、当時の田舎の高校生からすれば、どうも人生の暗い面を見るような気がして、結局、経済学部を志望したという経験があります。まさにちょうど、そういった人生の暗い面を小説に起こしているような気もします。もちろん、大切で重要な事項であり、未成年が触法行為というか、犯罪を犯したり、夫婦が離婚したり、という人生の暗い面の背景を鋭くえぐるタイプの小説です。脳天気に笑って読み進めるような小説ではありませんが、謎解きめいて人生の暗い面の背景に何があるのかが鮮やかに示されたりもします。その意味ではそれなりの上質のミステリかも知れません。検事ほどエラくない調査官補が主人公ですから、その分は親しみやすいストーリーになっているかもしれません。同じシリーズの続編が出版されたりしたら、たぶん、私は読みたくなるんだろうという気がします。なお、同じ作者の最新刊が『慈雨』と題してすでに出版されています。警察官を定年で退官した男性を主人公とする長編ミステリのようで、私はまだ図書館の予約の順番が回って来ていません。
次に、高村薫『土の記』上下巻(新潮社) です。著者はもうベテランの域に達したミステリ作家なんですが、本書はミステリではないという位置づけになっています。ただし、というか何というか、私は最近ではこの作者の作品は、ほぼ合田雄一郎シリーズしか読んでいなかったりしますが、最近作の『太陽を曳く馬』とか、『冷血』とかの文体はこの作品と同じだと受止めています。ですから、扱っている内容が、警視庁の警部が犯罪行為の解明に当たるというミステリに対して、この作品では、70過ぎの平凡な男性が極めて淡々と奈良に在住してシャープを定年退職し農業にいそしむという小説に仕上がっているだけで、私には大きな違和感はなく読み進むことが出来ました。私は奈良の中学校・高校に通っていましたし、馴染みのある地名がいっぱい出て来ました。ちなみに、私の出身高校の名も出て来ますし、その高校の同級生の一家が代々経営する最中とか、そうめんの銘柄も出ています。ということで、主人公の勤務していたシャープという企業名を含めて、割と堂々と実在する学校や企業などの固有名詞を引き合いに出して、奈良在住の田舎の生活を活写しています。そして、亡くなった主人公の女房は70近くになっても浮気をしていたり、行方不明の大昔の人が大雨の後の土砂崩れで死体が出て来たりと、また、最後の行方不明者の記述なんかもミステリ、というか、ホラーじみた田舎生活を暗示しないでもないんですが、基本はミステリでもホラーでもないような気がします。そして、そういった主人公の農業を主体とする田舎生活に比べて、娘は東京で離婚してニューヨーク生活で新しくアイルランド系の獣医と再婚したり、その娘、すなわち、主人公の孫が夏休みに奈良に期てテニス三昧の生活を送ったりと、決して田舎生活の描写だけに終始した小説ではありません。まあ、好き嫌いはあると思いますし、繰り返しになりますが、合田雄一郎シリーズとの連続性は大いに感じられます。書評を読んで読むかどうかを決めるべき作品ではなかろうかという気がします。
次に、井上智洋『人工知能と経済の未来』(文春新書) です。著者は若手のマクロ経済学者です。早大大学院では若田部先生あたりを指導教員にしていたような雰囲気が、本書から私には読み取れました。ということで、新年早々ですが、ここ数年で一番の新書でした。かなり前に、大阪大学の堂目教授が書いた『アダム・スミス』という中公新書を読んで、2008年5月26日付けで読書感想文を書きましたが、それに匹敵する内容だった気がします。本書では、前半部分でAIの進歩などを概観しつつ、今世紀半ばにはほぼ90パーセントくらいの雇用が失われる可能性があるとし、その対策としてベーシック・インカムの導入を主張しています。要するに、ごく短く書くとそういうことです。もちろん、AIについても、現在かなりの程度に実用化されている特殊な用途に特化したAIと人間の知能に極めて近い全脳的なAIはまったく違うとか、経済についても平均年齢が上がって資産が増加すると成長に対する志向が衰退するとか、生産性の伸びに応じた貨幣を供給して需要不足を金融政策で創出する必要性とか、正確でありかつ、なかなか興味深い視点を提供しています。でも、何といっても労働が機械化されて雇用が激減する経済ではマルクス的な階級観からすれば労働者階級がいなくなって、資本家階級しか残らないということであり、その場合は、生活保護におけるミーンズ・テストで行政コストをかけるよりは、ベーシック・インカムで最低限の生活を保証する方が適切、という視点には驚きつつも、大いに同意してしまいました。特に、p.219にはベーシック・インカムの賛同するエコノミストが何人か上げられていて、私の尊敬する人が少なくないのには感激してしまいました。ただ、私自身はケインズ的にワークシェアリングで各個人の労働時間を劇的に減らすとか、マルクス的に中央集権指令経済にはしないまでも社会主義的な道も、国民の選択としてあり得るではないか、という気はします。大いにします。
次に、中野信子『サイコパス』(文春新書) です。著者は脳科学者で、医学博士の学位を持っています。本書は、タイトル通りというか、サイコパスに関する諸説を並べていますが、例えば、サイコパスは遺伝で先天的に受け継がれるのか、あるいは、後天的に社会や家族の中で形成されるのか、また、サイコパスを見抜くための身体的特徴などといわれると、大昔のロンブローゾ的な決めつけの失敗を思い出しかねないんですが、繰り返しになるものの、いろいろと心理学や脳科学の立場から諸説が展開されています。その中で、その昔にはエリートなんぞと呼ばれた社会的地位の高い人にサイコパス的な特報を見出す下りがあります。当然といえば当然なんですが、社会的な地位が高い、というか、出世した人は、まあ、よくない表現かもしれませんが、それなりに「腹黒い』要素を正確的に持っていなければならないような気もしますし、そうであれば、サイコパス的な要素をいくぶんなりとも持っているような気もします。ただし、私が大きな疑問とするのは、サイコパス、というか、ソシオパスは医学的ないし心理学的な脳科学の対象なのかどうか、という点です。すなわち、私自身はサイコパスというよりも、ソシオパスと表現すべきと考えており、すぐれて社会的な存在なんではないかと受け止めています。例えば、家畜を屠殺するのとペットを虐待するのは、社会的な位置づけの違い以外の何物でもありません。家畜でもなく愛玩動物でもないクジラを食べるかどうかを考えれば明らかです。ですから、医学的・心理学的に科学の装いを持ってロンブローゾ的にサイコパスを論じるのは少し私には危なっかしい議論に思えてなりません。十分な警戒心を持って読むべき本ではないかと思います。少なくとも、決して本書の内容を鵜呑みにすべきではないでしょう。
最後に、冷泉彰彦『トランプ大統領の衝撃』(幻冬舎新書) です。著者はジャーナリストのようです。割と早く、昨年の年内に読んだんですが、大いに期待外れでしたので、読書感想文としては最後に持って来ました。やや意外感を持って受け止められた昨年11月の米国大統領選挙のトランプ次期大統領の当選について、何らかのジャーナリストらしい分析や、事実の発見があるのかと思いましたが、何もありません。米国の共和党と民主党の両党の予備選挙から、11月の米国大統領選挙にかけて、著者が何らかの媒体に寄稿して来たコラムや記事の断片を、特に何の工夫もなく、ダラダラとクロノロジカルにつなぎ合わせただけの代物です。政策分析というよりは、選挙手法・選挙のやり方に関する論評はそれなりに含まれていますが、選挙システムが日米で大きく異なりますから、それほど印象的でもありませんし、だからどうなのか、トランプ次期大統領に何かが有利に働いたのか、といわれれば、とくにそういった分析もなされていません。まあ、便乗商法の一種で出版されたと考えるべきかもしれません。なお、本書を離れて、私の見方ですが、トランプ次期大統領の当選は、米国の民主党から黒人大統領が生まれ、さらに今回も女性の候補を出して来て、政治的なマイノリティの候補、あるいは、政治的な正確さ political correctiness がかなり極限までリベラル化された反動ではないか、少なくとも、ひとつの要因ではないか、と考えています。振り子が逆に振れたわけです。そして、世論調査の結果と少しズレがあったのはブラッドリー効果ではなかったのか、と受け止めています。いずれにせよ、もう、就任式まであとわずかですから、話題の閣僚や在日大使などの人事だけでなく、実際の政策動向に関する情報が欲しいところです。日本経済は再び相対的に米国と比べて小さくなり、その昔の「米国がくしゃみをすれば日本が風邪をひく」という状態になっていることを忘れるべきではありません。
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