先週の読書は話題の経済書など計7冊!
先週の読書は、イングランド銀行の総裁を務め、サブプライム・バブルの崩壊を乗り切った中央銀行総裁のの1人であるマービン・キング卿の話題の書ほか、人工知能に関する日仏の学術書など、以下の通り計7冊です。キングの『錬金術の終わり』は、昨日の日経新聞の書評で取り上げられていました。米国雇用統計で1日営業日がズレて、やや多くなってしまいましたが、週5冊くらいにペースダウンしたいと希望しています。
まず、マーヴィン・キング『錬金術の終わり』(日本経済新聞出版社) です。著者はご存じの通り、2003年から2013年まで10年間イングランド銀行の総裁を務めたエコノミストです。学界からチーフエコノミストとしてイングランド銀行に入り、総裁まで勤め上げた人物です。リーマン・ショック後の混乱を収拾した中央銀行総裁の1人であり、著者のことを錬金術師と称した向きもありました。英語の原題は The Endo of Alchemy であり、邦訳はこのタイトルそのまま直訳のようです。昨年2016年の出版です。ということで、何度か繰り返して、著者は本書のことを回顧録ではないと言明しています。そして、タイトルの錬金術とは、預金者から調達した資金が長期投資のために使われ、新たな経済的価値を生み出すという、歴史的に続いてきた現代金融の仕組みについて名づけられており、ところが、この金融の錬金術は、ハイパーインフレから金融破綻や銀行危機まで、経済に大きな厄災も同時にもたらしてきたわけで、悪い意味での錬金術を終わらせて、健全な金融と経済を築くにはどうすればよいのか、について考察を進めています。そして、金融危機や銀行破綻のひとつの原因が、高レバレッジと将来の不確実性にあると指摘していますが、ナイト流のリスクではない不確実性については、私はどうしようもないんではないか、と諦めの心境です。高レバレッジ、というか、それを逆から見た薄い自己資本については、単にバーゼル規制をもって対処するのか、それとも、強烈に100パーセント準備を必要とする単なる決済機能の提供者たるナロー・バンキングに移行するのか、後者は現実的ではないような気もします。そして、中央銀行の役割として、「どんなときも頼りになる質店」を提唱しています。また、究極の問いとして、著者は、銀行は政府の延長なのか、それとも市場の延長なのか、と問うています。いろいろと知的好奇心を満足させる本ではありますが、ひとつだけ、銀行に対比させるに個人や家計の預金者を想定しているような書き振りがいくつか見受けられます。およそ規模が違うんですから、せめて企業一般、そして、可能な部分については金融機関を対比させてほしい気もしました。
次に、三橋貴明『生産性向上だけを考えれば日本経済は大復活する』(彩図社) です。作者はマーケット・エコノミスト系の活動をしてきた人だと思うんですが、私は余りよく知りません。あまりご著書を拝読したこともないような気がします。本書は、基本的に、著者なりに経済を解説しようと試みている気がするんですが、さすがに、『錬金術の終わり』に続けて読むと、ややキワモノっぽさが目立ってしまいました。通説を批判するという形で議論を始めながら、最終的には通説に収斂しているような気もしますし、中身でかなり矛盾も散見されます。例えば、期待についてはエラいエコノミストでも適応的期待、すなわち、合理的期待に近いフォワード・ルッキングな期待形成を否定して近い過去から現状の状態がこの先も続くという現状維持バイアスに近い見方を示したかと思えば、メディアの誤った見方をそのまま受け入れているかのごとき見方が示されていたりもします。何より、タイトルの生産性という言葉について、本書の冒頭では労働生産性、すなわち、労働者1人当たりのGDPで定義して、通説の供給サイドよりもむしろ需要により変動する部分が大きく、我が国の低生産性の原因がデフレにある点を指摘したりしている一方で、結局、供給サイドの議論に回帰したりしています。私は生産性については需要サイドの影響も決して無視できないと考えていて、デフレが低生産性の原因との見方も含めて、本書冒頭の見方に大いに賛成なんですが、著者の腰が定まらず、本書の議論では、結局、通説の供給サイドに立ち返ってしまいます。ただ、低生産性の原因がデフレである点を含めて、私と意見が合う部分もかなり多く、潜在成長率とは現実の成長率を大いに繁栄しているという点、完全雇用失業率は現在の3%前後ではなく、さらに低下して2%台前半であるとする点、などなどです。もっとも、タイトルに関する議論だけでページが埋まらなかったものと見え、第4章以下はタイトルとの関係に疑問が残ります。まあ、高齢の方のお話が長くなる原理を垣間見た気がします。要するに、お話しのトピックとは関係なく、自分の持論を延々と展開するということなのだと思います。
次に、松田雄馬『人工知能の哲学』(東海大学出版部) です。著者はNECのキャリアが長いエンジニアで、決して哲学者ではありません。東北大学とのブレインウェア(脳型コンピュータ)の共同研究プロジェクトを経験し、その経験が本書にも活かされている気がします。そして、出版社からも理解される通り、本書は純粋に学術書であり、一般向けの判りやすい解説書ではありません。例えば、第4章なんぞは難解な数式が頻出します。ただ、現時点での話題の的である人工知能に関する哲学ですので、私のような専門外のエコノミストでもそれなりの一般的な基礎知識が蓄積されつつありますので、それなりに判りやすく読めました。そして、論点は、人工知能の前半の人工は問題ないとしても、人口でない神の作り賜いし生命とは何か、そして、その生命の持つ知能とは何か、に関する哲学的な議論を進めています。そして、本書の結論として、神の作り賜いし生命が発揮する知能とは、そういった用語は用いていませんが、私なりの理解として、合目的的な行動を支えるものであり、その目的の設定は人工知能には出来ない可能性が高い、ということなんだろうと受け止めました。さらに、2045年のシンギュラリティを主張しているカーツワイルが基礎としているムーアの法則が今後も継続される可能性も低い、と予想しています。まず、後者について、私は指数関数的な成長については、今後も継続する可能性の方が強いと思っていますが、伸び率が低下する可能性は否定しません。前者に戻ると、目的設定については、これが明らかな将棋や囲碁については、何の問題もなく人工知能が人間を上回ったのは、広く知られている通りです。そして、本書の著者は羽生三冠の言葉を引用して、人間が勝てなくなれば桂馬が横に跳ぶとか、ルールを変更すればいい、として、まさに人間の知能が人工知能を上回る点を明らかにしています。もちろん、目的が設定され、情報を処理しつつ評価関数がアップグレードされる段階になれば、人工知能の方に分があります。そういう意味では、目標を設定する人間の知能とそれを最適に遂行する方法を見出す人工知能という組み合わせで歴史は進むのかもしれません。錯覚を並べた第2章の観念論的な見方、脳が世界を主観的に作り出している、という見方に少し違和感を覚えますが、全体としてとても参考になるいい本だという気がします。
次に、ジャン=ガブリエル・ガナシア『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(早川書房) です。著者はパリ第6大学の哲学者であり、コンピュータ・サイエンスを専門と知る教授を務めています。フランス語の原題は Le Mythe de la Singulatité ですから、シンギュラリティを神話として、疑いの目で見ているカンジでしょうか。2017年今年の出版です。ただ、この直前で取り上げた『人工知能の哲学』と並べて読むと、かなり見劣りがします。訳者あとがきで、シンギュラリティについては楽観派と悲観派と中立派の3者があるとしていますが、本書は4番目の否定派です。私も基本的にはシンギュラリティは、少なくとも2045年までにはやって来ない確率が高いと考えていますが、何分、専門外のエコノミストですので。シンギュラリティが来ないと思いつつも、来たら何が困るかを考え、やっぱり、人工知能やロボットの導入に伴う失業問題だろうということで、それならベーシック・インカムを導入する、という論理構成になるんですが、本書ではホーキングやビル・ゲイツなどの悲観派の論調を否定派で押し通している印象です。ただ、コンピュータの演算能力と知性については直接の関係はない、というか、別物であるとの主張は私も同意します。ただ、情けないと私が感じたのは、コンピュータの能力の量的な向上が質的な変化をもたらす可能性、まさに、ヘーゲルの弁証法的な量的変化が質的変化に転化する、を理解していない点です。先の『人工知能の哲学』でも取り上げられていた中国語の部屋のエピソードについては、チューリング・テストとの関係で正しく論じて欲しかった気がします。本書と先の『人工知能の哲学』の評価の違いはアマゾンのレビューでもうかがえます。『人工知能の哲学』の評価が星5ツがとっても多いのに対して、本書の評価は星5ツ星1ツの両極端に分けれています。最後に、コンピュータや人工知能の進歩の末にある恐怖は、本書が否定するような人工知能の自律的な人類への反逆ではなく、どこかのマッド・サイエンティストが発達して人類の能力を超えかねない人工知能やロボットの能力を悪用することだと私は考えています。その点については、まだマジメに考えている科学者は少ないのだろうと思います。
次に、ジョシュア・ハマー『アルカイダから古文書を守った図書館員』(紀伊國屋書店) です。著者は「ニューズウィーク」などで活躍してきたジャーナリストです。そして、邦訳タイトルだけからでは判りにくいんですが、英語の原題は The Bad-Ass Librarian of Timbuktu であり、アフリカ西部のマリを舞台にしたノンフィクションです。原書は2016年の出版です。内容は邦訳タイトルそのままで、トンブクトゥの古文書をマリの内戦で蜂起したアルカイダからいかに守ったかをリポートしています。上の表紙画像で古文書を手にしているのは、本書の主人公とでもいうべき図書館員ハイダラ氏です。時期としては、2012-13年にかけてであり、まさに、訳者あとがきにある通り、2013年1月にアルジェリア東部の天然ガス精製プラントをイスラム過激派が襲撃し、日揮から派遣されていたエンジニアなど日本人10人を含む外国人37人が犠牲になった事件と大雑把に流れを同じくするアフリカにおけるイスラム過激派のテロの動向を背景にしています。トンブクトゥは12世紀から16世紀くらいまで、交通の要衝としてアフリカにおけるイスラム宗教文化の中心として栄えた文化都市、学問の都であり、盛んに写本が作成され、写本の記述された中身も宗教以外にも天文学や医学や幾何学など広範な分野に渡るだけでなく、金箔の装丁など一級の美術品としても価値もある古文書が数多く残されているらしいです。そして、本書の主人公は、一族・一家に伝わる古文書を基に私設図書館を設立したり、その前は、古文書の研究機関・図書館に勤務して古文書を収集したりしていたことがあり、先ほどの2012-13年のアルカイダ系のイスラム過激派の武装蜂起でトンブクトゥの古文書が焼失の危険にさらされることを見抜き、3万冊余りの古文書をより安全なマリの首都バマコに運び込んだ物語です。前半は、主人公が父親から一家や一族に伝わる古文書を受け取り、決して売ったり譲渡したりしてはならないと今わの際に言い置かれ、古文書の研究機関兼図書館に勤務して多数の古文書の蒐集に当たったり、あるいは、この研究機関兼図書館から独立して、父親から引き継いだ古文書を基に私設図書館を開設する、といった、それはそれで興味深いストーリーなんですが、何といっても本書のハイライトは終盤にあり、アルカイダから逃れ、政府軍からも追われ、そして、当時のオランド大統領の決断により介入したフランス軍にも足止めを食らいながら、大量の古文書を運送するところです。もちろん、私のような開発経済学を専門とするエコノミストから見れば、トンブクトゥの人々にとっては、古文書は先進国からの援助を引き出すための、いわば「メシのタネ」なわけで、あだやおろそかにはできないんですが、文化の香りも手伝って、とてもいい物語に仕上がっています。映画化されれば、私はたぶん見に行くと思います。
次に、マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(インターシフト) です。著者はサイエンス・ライターということのようです。ポーランド人でフランス在住らしいです。ほとんど肉食をしないベジタリアンのようです。英語の原題は Meathood ですから、接尾時の -hood については、いろんな意味があるんでしょうが、brotherhood と同じと考えて、直訳すれば「肉への愛情」くらいのカンジかもしれません。ということで、1か月ほど前の7月9日付けで取り上げたウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』によれば、食べるということは、本能ではなく、ましてや文化でもなく、学習の結果だということだったんですが、結論を先取りしていえば、本書では食事は文化だということになります。そして、肉食は権力、成功富、男らしさ、などなどを象徴していると著者は考えています。ただし、最近時点では、肉食に反対する一定の勢力が台頭し、大雑把に、健康の観点から肉食に反対するベジタリアン、そして、動物を殺すという倫理的観点からのベジタリアンです。後者は前者をやや軽蔑しているかのような記述も本書にはあります。また、当然ながら、宗教的観点から何らかの肉食を禁じる場合もあります。イスラム教やユダヤ教の豚は忌み嫌われて食べませんし、逆に、ヒンドゥー教の牛は神聖な生き物であり、やっぱり食べません。また、明治の近代世界に入る前の日本などでは、仏教的な観点から殺生を禁じて肉食は極めて稀だったといわれています。本書でも、日本では動物の肉をさくら、もみじ、ぼたんなどと呼んで、肉食っぽくなく感じさせる技を紹介しています。英語でも牛肉をビーフ、豚肉をポークと読んだりして、肉は生きている動物から切り離された名詞で呼ばれています。誠についでながら、私は関西人ですから、東京に出て来て宗教由来の言葉が少ないと感じた記憶があります。関西では「そら殺生でっせ」とか、「往生しましたわ」といった表現は日常的に使いますが、東京では聞いたことがありません。でも、肉食は関西の方が盛んな気もします。気ままに書き連ねましたが、私の年齢とともに肉食が減った気がします。
最後に、阿川大樹『終電の神様』(実業之日本社文庫) です。著者は私よりさらに年長くらいな小説家なんですが、誠に不勉強にして、私はこの作者の作品を読んだことはありません。この作品は、かなり独立性の高い短編から編まれた連作短編集です。必ずしもタイトル通りの終電に限らないんですが、ある駅の近くで電車が人身事故や何らかのトラブルでしばらく止まることから生じる関係者の人生の変化を追っています。収録された7編の短編すべてが心温まるハッピーエンドではありませんが、何らかの人生に対するヒントは得られそうですし、読後感は悪くありません。女装の男性がキーワードになっている気がします。ただ、いくつか弱点もあります。作者の年齢から派生するような気もしますが、現在ではその昔ほど電車が止まる機会も少なくなりましたし、実感がどこまで読者と共有できるかは不安があります。それから、最後の短編などはとても話を作り過ぎてあざとい気もします。
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