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2017年9月 3日 (日)

先週の読書はかなりオーバーペースで経済書など計8冊!

先週の読書は、米国雇用統計が土曜日に割って入って、読書日で1日多かった一方で、ケインズものが冒頭に2冊並んでいますが、やっぱりマクロ経済学や開発経済学などの専門かつ好きな分野の読書が多かったものですから、かなりオーバーペースで8冊に達しました。以下の通りです。今週はもう少しペースダウンしたいと思っています。でも、直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』とか、昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていた東大社研の大湾教授の『日本の人事を科学する』なんぞが借りられたりしたもんですから、やっぱり、かなりのボリュームを読んでしまうかもしれません。

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次に、大瀧雅之・加藤晋[編]『ケインズとその時代を読む』(東京学出版会) です。著者はチャプターごとに大量にいたりするんですが、大雑把に、東大社研と日本政策投資銀行設備投資研究所とのコラボとなっているように受け止めています。例えば、政策投資銀行のサイトでは本書が研究成果として取り上げられていたりします。4部構成を取っており、第Ⅰ部 第一次世界大戦の帰結と全体主義勃興の危機 では、J.M.ケインズ『平和の経済的帰結』、J.M.ケインズ『条約の改正』とケインズ自身の2冊の後、E.H.カー『危機の二十年』とF.A.ハイエク『隷従への道』が取り上げられています。ハイエクの著作については、ケインズと比較対照される形で注目される場合もあるんですが、本書では西欧リベラルの同じグループの中に属し、やや左派と右派の違いだけ、といったトーンで並べられています。ただ、ケインズに着目した本ですので、ハイエクが後景に退いている印象はあります。当然です。第Ⅱ部 理論の展開 では、T.B.ヴェブレン『企業の理論』、A.C.ピグー『厚生経済学』、L.ロビンズ『経済学の本質と意義』がケインズ『一般理論』前史として、そして、J.M.ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』から始まって、R.F.カーン『ケインズ「一般理論」の形成過程』、A.P.ラーナー『調整の経済学』、J.E.ミード『理性的急進主義者の経済政策』が『一般理論』と並んで紹介されています。『一般理論』前史のピグーについては、古典派経済学から脱して、何らかの経済的厚生を高めるための政府の介入に道を開いた、と評価されています。続く第Ⅲ部 1930年代の世界と日本 では世界的なファシズムの台頭と日本に着目し、J.M.ケインズ『世界恐慌と英米における諸政策1931~39年の諸活動』、高橋亀吉・森垣淑『昭和金融恐慌史』、石橋湛山『石橋湛山評論集』が取り上げられており、どうでもいいことながら、現在のリフレ派エコノミストの先達となった昭和初期の我が国エコノミストを取り上げながら、現在のリフレ派経済学を否定して、財政赤字削減をサラッと主張しているチャプターの著者もいて、少し笑ってしまいました。最後の第Ⅳ部 ケインズの同時代人 では、J.M.ケインズ『人物評伝』、フランク・ラムジーのいくつかの論文と著書、E.H.カーのソ連史研究が取り上げられています。ご本人のケインズを別にすれば、複数のチャプターで取り上げられているのはカーだけなんですが、リアリストの立場から国際政治における権力=パワーを軍事力、経済力、合意形成力の3要素から論じており、私のようなシロートにもなかなか参考になります。また、ソ連型の経済が崩壊した現時点からでは理解が進まないものの、中央集権的な指令型の計画経済という面ではなく、男女間を含めて平等の実現、自由と民主主義の新しい形、などなど、本来のマルクス主義的な社会主義の明るい未来に憧れていた20世紀前半期の西欧の雰囲気がよく伝わります。各チャプターの最後に参考文献が数冊明示されています。唯一疑問なのは、シュンペーターがまったく取り上げられていない点です。ハイエクも含めて、いわゆるブルームズベリー・グループやケンブリッジ・サーカス以外のエコノミスト・文化人も取り上げているんですが、なぜか、シュンペーターだけは無視されている印象です。ケインズと立派な同時代人だと思うんですが、理由はよく判りません。

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次に、根井雅弘『ケインズを読み直す』(白水社) です。著者は私の母校である京都大学経済学部の研究者であり、入門書をはじめとして何冊かの著作があると記憶しています。私の在学中は木崎先生が教えていた経済学史の担当ではないかと思います。ご出身大学が早大ですので、若田部先生と同じコースかもしれません。ということで、タイトル通りに、ケインズの足跡をたどったケインズ経済学の入門書です。通常の理解の通りに、ケインズ卿については卓越した経済理論家であるとともに、同時に政治的なアジテータでもあり、また、国内外を問わずに国際金融などの制度論に立脚した実務にも精通していた、ということになります。ケインズ卿については最初に取り上げられるべき『平和の経済的帰結』が第1次世界大戦後のドイツ賠償問題ですから、ケンブリッジ大学卒業後のキャリアはインド省で始めたとしても、エコノミストとしての活動は割合と地味なドイツ経済の分析から賠償能力を積み上げ、それを英国内外にパンフレットとして明らかにする、という活動でした。同時に、金本位制への復帰に際しての平価の設定、さらに、その後、第2次世界大戦では英国の戦費調達のために米国を説き伏せたり、戦後は現在IMFと世銀で結実した国際金融体制の整備に努力しましたが、実際には英国のケインズ案は、ことごとく米国のホワイト案に凌駕されつつも、重要な骨格はいくつか残した、という結論ではないでしょうか。その後、実際にケインズ経済学が実践され花開いたのはケインズの死後であり、国としても1960年代のケネディ政権以降の米国なんですが、この実務的なケインズ革命について本書では終章で「『未完』に終わった」と結論しています。すなわち、1970年代に入ってのインフレ高進からケインズ経済学への不審が高まり、特に、決定的だったのは、ノーベル経済学賞も受賞したシカゴ大学のルーカス教授によるケインズ反革命であり、貨幣数量説の装いを新たにしたマネタリズムなどとともに、先進国の経済政策のシーンからケインズ経済学をかなりの程度に駆逐した、との印象かもしれません。しかし、私の印象ながら、今はもう死語となった「混合経済」、すなわち、古典派的な自由放任経済を終えて、経済政策が積極的に雇用の拡大、完全雇用を目指す体制を整え、戦後の社会福祉を重視して国民の経済厚生を政府が積極的に支援するような経済政策運営に舵を切ったのは、何といってもケインズ経済学の功績です。ケインズ卿の意図したような政策運営にはならず、右派的・古典派的な経済学の巻き返しに何度も遭遇したという意味では、確かに、ケインズ革命は未完かもしれませんが、私のような官庁エコノミストの目から見て、政府が何とか経済成長を加速し雇用を増大させるという方向で国民の経済的厚生の向上に努めるようになったのはケインズ経済学を基礎とする政策論の功績であると考えます。

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次に、森田朗[監修]/国立社会保障・人口問題研究所[編]『日本の人口動向とこれからの社会』(東京大学出版会) です。著者人はまさに国立社会保障・人口問題研究所の研究者で固めていて、専門家がズラリと並んでいます。出版社から判断しても、学術書と考えるべきですが、最後の方の第12章のシミュレーションなどの方法論のごく一部を除いて、人口問題ですから少子高齢化以外の何物でもなく、それなりに理解ははかどりやすいんではないかと思います。ただし、研究所の攻勢からして、社会保障や財政との関係をホンの少しだけチラリと論じているほかは、ほぼほぼ人口問題をそれ単独でユニラテラルに論じていますので、逆に判りにくい気もします。フランスのアナール派やジャレド・ダイアモンド教授のように病原菌と論じてみたり、あるいは、地理学と関連付けたりといった工夫は見られません。ひたすら過去のトレンドから投影された未来を垣間見ようと努力している様子がうかがえます。経済はかなりの程度に循環するんですが、人口動態はかなりの程度にトレンドに沿って動きます。もっとも、第Ⅱ部のライフコースの議論では、ヒトの個体たる人口だけでなく、社会的な構成要素のもっとも小さい単位である家族のあり方、さらに、人口高齢化に従って高齢者に有利な政策選択が行われがちなバイアス、などなどについても取り上げていますし、第Ⅲ部では日本に限らずシンガポールや韓国、台湾などのアジア諸国における猛烈な高齢化の進展についても解き明かそうと試みています。まあ、私の個人的な感想では、マルサス的な人口問題は人口と農地や耕地の比率が人口を養う上でやや厳しいアジアにこそ当てはまる可能性が高いんではないか、という気がしますし、従って、中国の一人っ子政策をはじめとして、シンガポールなどでも厳しい人口抑制作を採用していた歴史があるのも理解できるところです。日本もそうかもしれません。そういったアジアからの移民が欧米で黄禍論を引き起こしたりしたわけなのかもしれません。ただ、日本の場合はマクロとしての人口の総数ではなく、子供や若年者に厳しく、高齢者に甘い政策を意図的に取り続けてきましたので、中国やシンガポールなどとともに、明らかに政策的に人口の高齢化、さらに、人口減少がもたらされている点は見逃すべきではありません。せも、そういった議論を国立の研究所が展開するのも難しい、という点についても、公務員として理解していたりします。最後に、私も大学教員として出向中に書いた紀要論文「子ども手当に関するノート: 世代間格差是正の視点から」でも引用した Lutz et. al. (2006) による Low-Fertility Trap Hypothesis に関する論文が複数のチャプターで引用されていました。私は紀要論文で p.175 の Chart 1 を引用した記憶があります。

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次に、マイケル・ルイス『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋) です。昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者はノンフィクション・ライターであり、特に売れたのは『マネー・ボール』ではないでしょうか。映画化もされましたし、私も読んでいたりします。本書の英語の原題は The Undoing Project であり、邦訳書の p.348 で「事実取り消しプロジェクト」と訳されています。2017年の出版です。ということで、その『マネー・ボール』に関する書評から行動経済学に関する関心が芽生えたようで、本書では主としてトヴェルスキー&カーネマンを中心に据えて行動経済学の歴史を、特に黎明期の歴史をひも解いています。記憶の不確かさ、あるいは、記憶の操作可能性から始まって、判断や意思決定の際の心理的アルゴリズムの解明、そして最後は有名なプロスペクト理論の発見のきっかけや平易な解説を展開しています。その前段として、トヴェルスキー教授も、カーネマン教授も、どちらもユダヤ人ですから、ナチスによるホロコーストにも触れていますし、中東戦争の記述もかなり生々しく感じられます。また、特にセンセーショナルな書き方ではなく、エコノミストであれば誰もが知っている一般的な事実ではありますが、トヴェルスキー教授の攻撃的だが水際立った知性とカーネマン教授の重厚だが慎重かつ少し進みの遅い知性を比較していて、さらに、愛煙家であり1日2箱の煙草を灰にしたカーネマン教授が生き残ってノーベル賞を授賞された一方で、嫌煙家であったトヴェルスキー教授が悪性腫瘍で早くに亡くなった事実も、それほど対比を鮮明にさせることなく淡々と跡付けています。そして、2人の心理学的な発見が、まず、医学に応用され、その次に経済学で注目され、結果的に、カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞したわけです。終章のタイトルが「そして行動経済学は生まれた」とされていて、ある米国ハーバード大学教授の言葉として、「心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者のことをばかだと思っている」というフレーズを引用しています。最後は、カーネマン教授にノーベル委員会からと思しき電話がかかる場面で終っていますので、セイラー教授らによるその後の行動経済学の発展は、それほど重視されていません。まあ、経済学史の本ではないんですから、そうなのかもしれません。私自身は何らかの理論や実証で功績あった経済学者の生まれや育ちや性格などについては、それほど大きな興味あるわけではありませんが、映画にもなった『ビューティフル・マインド』のナッシュ教授の生涯などとともに、経済学に多くの人々の関心を引きつける効果がある、という意味で、こういった本の効用も十分評価しているつもりです。

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次に、ショーン B. キャロル『セレンゲティ・ルール』(紀伊國屋書店) です。著者はウィスコンシン大学マディソン校の進化生物学の研究者ですが、本書は進化生物学の本ではなく、むしろ、生物多様性に関する食物連鎖・栄養カスケードに関する理論と実践に関して、ポピュラー・サイエンスとして取りまとめられています。舞台はアフリカはタンザニアにあるセレンゲティ国立公園です。タンザニアの北部、ケニアとの国境に近い地域で、従って、ビクトリア湖のすぐそばに位置する哺乳類の多様性に富む地域です。世界遺産に指定されています。そして、本書の第Ⅲ部第6-7章において、本書のタイトルであるセレンゲティ・ルールを6点に渡って取りまとめて提示しています。専門外のシロートである私なりの解釈なんですが、一般的に食物連鎖と呼ばれている流れを本書では栄養カスケードと称していて、要するに、ネコ科の肉食獣がシカなどの草食獣を捕食し、そして、草食獣は草木を食べる、という構造です。そして、本書では二重否定の構造を持ち込みます。すなわち、イエローストーンでヘラジカが増えすぎた場合、日本でもよくありますが、シカやイノシシが増えて農作物が被害にあうケースでは、日本ではヒトが猟銃をもってイノシシなどを直接に駆除する一方で、イエローストーンではシカを捕食するオオカミを放った、という例が紹介されていて、そうすると、当然に、オオカミはヘラジカの一種であるエルクを捕食しますから、エルクそのものが個体数を減少させる一方で、エルクが食べつくしていたポプラの成長が促進される、という2段階目の効果が発現します。これを本書では二重否定と呼んでいます。そして、本書のもうひとつの特徴は、こういったオオカミエルクとポプラといったマクロの連鎖、もちろん、地球規模のマクロではないにしても、日本でいえば都道府県くらいの大きさの地域のマクロの栄養カスケードや生態系に見られる現象を、何と、マイクロのレベルのガンになぞらえている点です。物理学などでマクロの宇宙論とマイクロの原子や分子に関する理論に類似点を見出す方法論も見かけたりしますし、生物学でも生物の集団であるマクロとマイクロな個体にそういった類似点を例示しることもあり得るんでしょうし、何よりも、それなりにポピュラー・サイエンスとして私のようなシロートの一般大衆の理解を促進もするんでしょうが、私の目から見て、少なくともマクロの生態系の攪乱をマイクロな生物個体や遺伝子レベルのガンに例えるのは、ややムリがあるような気もします。少なくとも、エコノミストの世界では合成の誤謬があり、マイクロな世界を足し上げて行ってもマクロな世界にはなりません、というか、ならない場合があります。たっだ、エコノミストの目から見て興味深かったのは、マルサス的な『人口論』の世界が密度依存調整により否定されていることです。p.204 あたりです。マルサス的なくらい将来像は技術革新により克服される、というのが私のような平凡なエコノミストの一般的理解ですが、そもそも、個体密度が増加すれば個体数の増加率はマイナスに転化する、というのは、それはそれとしてあり得ることですし、生物学的に明らかにされていることは、とても参考になりました。

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次に、又吉直樹『劇場』(新潮社) です。話題の作者の芥川賞受賞後第2作目の小説です。東京を舞台に演劇人である主人公の永田と、永田の恋人の沙希、さらに、中学のころから永田とともに演劇を続けてきた野原、さらに、永田・野原の劇団からスピンアウトしてライターとしても一定の成功を収めた青山という女性、さらにさらにで、別の注目劇団を主宰する小峰などなど、かなり限られた登場人物なんですが、永田と沙希の愛の行方がストーリーの中心となります。なお、永田・野原のコンビは関西人で、この作者の前作「火花」と同じで関西弁でしゃべります。そして、主人公である永田の行動のターニング・ポイントとなる感情は嫉妬です。嫉妬が怒りに転じて、そして人間関係が壊れて行くような気がします。「本音と建前」という言葉がありますが、決して本音を隠してうわべだけの建前で人間関係を築いて、大人の付き合いを進めるのが上品だとは決して思いませんが、本音をさらけ出して人間性の底の底まで理解し合えないというのも、少し問題ではなかろうかという気もします。その意味で、本書の主人公の男女関係、劇団や演劇関係者との人間関係については、私も理解できる部分と理解を超えている部分があります。ただ、前作と違って嫉妬というテーマがかなり露骨に現れていて、その分、決して上品ではない可能性もあるものの、作者の魂の叫び、とまではいわないまでも、誠に正直に書き綴っている気もします。何かのメディアで報じられていましたが、「火花」よりもこの作品の方を先に書き始めていた、という情報もあり、ある意味で、作者の第1作のようでもあり、言葉は悪いかもしれませんが、第1作目のつたなさのようなものが感じられるかもしれません。また、純文学ですから、文体や表現力はかなり上質といえますが、ストーリーを追うものではありません。主人公である20代の男女間の恋愛の進行はかなりつまらない、と感じる読者も多そうな気がします。

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次に、タンクレード・ヴォワチュリエ『貧困の発明』(早川書房) です。私はよく知らないんですが、作者はフランスのエコノミストであり、小説家だそうです。私はフランス語には決して詳しくないんですが、スペルは Voituriez であり、もしも、最後が z で Voiturier であれば、英語でいえば Valet Parking の意味であり、私はフランスはパリしか知りませんが、パリ市内でも何度か見たことがあります。ということは別にして、本書はあくまでフィクションの長編小説であり、ピケティ教授が「今までに読んだいちばん可笑しな小説」と評価したと出版社のサイトでは紹介されています。フランス語の原題は L'Invention de la Pauvreté であり、邦訳タイトルはそのまま直訳されています。タイトル通りに貧困をテーマにしていますが、先進国内の貧困ではなく、途上国の貧困、あるいは、経済開発を主題にしています。主人公は世銀チーフエコノミストにして、国連事務総長の特別顧問でもあるプリンストン大学教授のロドニーです。誠に僭越ながら、私と専門を同じくする開発経済学者です。ここまでの肩書からは、ノーベル経済学賞も受賞したスティグリッツ教授が強く連想されるんですが、そうでもないようです。フィクションのフィクションたるところです。でも、国連事務総長ドン・リーは韓国人の設定で、そのモデルは、明らかに、前国連事務総長の潘基文ではないでしょうか。そのほか、国連、世銀、国際通貨基金(IMF)、また、組織ではなく会議名ですが、ABCDE会議など、ほぼほぼ実在の名称をそのまま流用している印象です。エロ・グロ・ナンセンスの部分は別にして、開発経済学を専門分野のひとつとする私から見ても、確かに開発経済学にはいくつかの考え方があり、『エコノミスト 南の貧困と闘う』の著者であるイースタリー教授のように市場メカニズムを活用して、途上国の国民のインセンティブに基づく行動に期待するエコノミストもいれば、サックス教授に代表されるように、先進国からの開発援助などを活用しつつ、公的部門も関与した形でのビッグ・プッシュを重視する開発経済学者もいっぱいいます。実は、私は後者の考え方に近かったりします。冒頭のバレー・パーキングは別にしても、開発経済学のいくつかの考え方を背景知識として持って読めば、さらにこの小説が楽しめるかもしれません。あるいは、私のように、少しだけ不愉快さが増すかもしれません。

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最後に、水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書) です。著者は証券会社のエコノミストから学会に入り、埼玉大学から法政大学教授に転じているようです。ということで、相変わらず、独特の長期的な歴史観を披露しているんですが、ヒストリアンとしてその歴史の底流に流れる法則性が感じられずに、私はいつも戸惑っています。従来と同じように、1970年代のルイス的な二重経済の消滅と石油ショックなどにより、我が国を含めて戦後先進諸国の高度成長が終了し、1970年代からゆっくりと時間をかけて低成長と低金利に象徴されるように資本主義が終焉する、そして、中世的な停滞の定常状態の時代が来る、というのが著者の見立てです。ただ、資本主義の勃興については大航海時代のイノベーションにより、世界が広がり英蘭が覇権を掌握した、ということに本書でもなっているんですが、それがなぜなのか、そして、成長率や金利が低下して資本主義が終焉するのはなぜなのか、加えて、産業革命の位置づけについてもほとんど無視されており、私には疑問だらけです。資本主義が終焉して中世的な定常状態に戻る、という史観ですから、基本的には循環史観だと思うんですが、おそらく、著者の歴史学に関する素養からして、そういった歴史観の確立があるのかどうか疑問であり、歴史的な事実を跡付けて、室町幕府の後は戦国時代になって、全国統一を果たした織豊政権から徳川が江戸幕府を確立する、それはなぜなのか、よく判らないながら、そうなのだ、といっているに等しい気もします。蒐集=コレクションについては、その基礎となっている生産活動について何も見識がないので、どこかで湧き出た蒐集対象品を持ち出す、という以外の感触はありません。基本的に私の歴史観はマルクス主義に近いんですが、ほぼほぼ一直線に生産力が増加するという単純な歴史観で、その生産力の桎梏となる生産システムが革新される、場合によっては土地や生産手段=資本の所有制度の変更も歴史を動かす原動力になる、という意味で、ノース教授らの制度学派にも近いかもしれない、受け止めていますが、この著者の歴史観はまったく理解できません。その上、閉じたvs開いた、資本主義、帝国などの用語がかなり感覚的に、そして、キチンと定義されずに並べられていて、もう少し読者の理解を助ける工夫も欲しい気がします。

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