今週の読書は統計研究会からちょうだいした経済学の学術書を含めて計6冊!
今週の読書は、先週の土曜日が雨がちだったので自転車で出かけられず、経済書が不足するかと心配しましたが、何と、統計研究会の設立70周年記念シンポジウムに招待されて聴講に行ったところ、記念品として統計に関する学術書を2冊もちょうだいしてしまいました。感謝感激です。以下の最初の2冊がそうです。本来であれば、ご寄贈書は別格で取り上げるべきなんでしょうが、まあ、私のほかの200人近いシンポジウム出席者にも記念品が渡っていたようですので、週末の読書感想文のブログに合わせて取り上げておきます。
まず、福田慎一[編]『金融システムの制度設計』(有斐閣) です。編者は東京大学経済学部の研究者であり、マクロ経済分析の第一人者といっていいと思います。ですから、というわけでもないんですが、本書はほぼほぼ純粋な学術書と考えるべきです。もちろん、出版社のセールストークではビジネスマンも読者として想定しているような宣伝文句を使うことでしょうが、せめて、経済学部の学部上級生か、ひょっとしたら、大学院課程の院生レベルの理解力を必要とする読書になることは覚悟すべきです。という前置きをしつつ、2008年のリーマン・ショック前後の金融危機とそれに続く景気後退のショックを考慮しつつ、金融システムのあり方を一線の研究者がチャプターごとに考察を加えています。本書でも明らかにされているように、金融機関の自由をある意味で制限する規制を強化すれば、その裏側で経営の自由度が制限され、グローバル化の流れの中で環境変化に対応が難しくなる可能性が高まる一方で、規制を緩和して自由化を進め過ぎると金融危機などのショックに対して脆弱性を増す結果ともなりかねません。規制と自由化のトレードオフのはざまで、昭和初期の金融恐慌までも研究対象に加えつつ、定量分析と理論的なモデル分析を用いて、分析を加えています。私が知らなかっただけかもしれませんが、戦前期の金融はホントに自由というか、ほとんど規制のない世界で、銀行が保護されているわけでもないので、そもそも、銀行に預金するという行為自体がリスクを伴う経済活動だった、というのは知りませんでした。確かに、次の労働市場もそうですが、金融にしても、戦前期は規制のない自由な市場であり、その意味で、アングロ・サクソン的な資金調達市場で、株式購入も銀行預金も、同等ではないでしょうが、どちらもそれなりのリスクがあったわけですから、そういった歴史的な経路依存性ある中で、戦後の日本人がいまだに預金が大好きで、投資には及び腰、というのも、なかなか理解が進まないところです。最後に、私には第6章のバブルの理論的解明がとても面白く読めました。
次に、川口大司[編]『日本の労働市場』(有斐閣) です。コチラの編者も東京大学経済学部の研究者であり、労働経済学の専門家です。本書も学術書であり、我が国の労働市場を中心として幅広い労働経済学のトピックについて一線の研究者がチャプターごとに執筆しています。特に、最後の第Ⅲ部の労働経済分析のフロンティアは類書に例がなく、ノーベル経済学賞を授賞されたサーチ理論から、実験経済学の手法を用いた労働経済学まで、なかなかヨソではお目にかかれない内容かもしれません。労働経済学については、私はいくつか思うところがあり、ポジティブな評価とネガティブな印象とどちらもありますが、まず、ポジティブな方から上げて行くと、やっぱり、経済学の中でデータがもっとも利用しやすい分野だという気がします。逆にいえば、私も雇用を重視するエコノミストなんですが、雇用と労働、それに賃金などは国民生活に直結しており、国民の関心が高く、それだけに各種の調査やデータ蒐集がなされているんだろうと思います。そして、経済学「中華思想」の中でも、特に労働経済学は中華思想的な広がりを持っている分野だという気がします。私なんぞの古い考えでは、労働経済学は野党側の企業とう雇われる側の労働者・雇用者の間で賃金をはじめとする労働条件をめぐって意思決定がなされるマイクロな経済学である、という印象を持っていましたが、生産性や失業率や賃金のマークアップに伴うインフレ率との関係などからマクロkウィ在学の中心課題に連なる一方で、格差・不平等や貧困はもちろん、地域経済問題まで幅広く取り扱える懐の深さを持っています。物理学に大統一理論というのがあって、何種類かの力を統一的に理解する努力がなされているようですが、経済学の大統一理論がもしできるとすれば、その中心は労働経済学かもしれません。ただ、ネガティブな印象がないわけでもなく、それはデータの利用可能性と裏腹の関係もあって、私も労働経済学分野でミンサー型賃金関数の論文を書きましたが、賃金センサスの個票を推計の元データとして利用しています。私レベルのエコノミストでもやっているくらいですので、労働経済学分析では統計の個票を用いる場合が少なくないんですが、そうなると、データへのアクセスがどこまで許容されるか、あるいは、データの利用可能性とともに科学としての再現可能性が担保されるか、といった問題があるような気がします。小保方さんのSTAP細胞と同じです。私の知る限り、論文で用いたデータと分析プログラムをwebサイトで公開して、化学的な再現性、というか、インチキをしていないという証明として用いているエコノミストは少なくないんですが、限られた研究者しか利用可能性のない個票データを分析に用いると、インチキが発生す林泉てぃぶがいくぶんなりとも高まる恐れがあるような気がします。ただ、最後になってしまいましたが、エビデンスに基づく経済政策を考える場合、労働経済学で多用されているようなデータや手法は不可欠であり、今後もこういった方面の経済学研究が進むんだろうとは思いますし、それはそれで評価されるべきとも受け止めています。
次に、ジェームス K. ガルブレイス『不平等』(明石書店) です。著者はテキサス大学の研究者であり、かの有名なガルブレイスのご子息です。そうある名前ではないので、容易に想像はつくと思います。英語の原題は INEQUALITY であり、2014年の出版です。邦訳タイトルはそのままの直訳です。ということで、経済書なんですが、不平等についていろいろと取りとめもなくエッセイを書き散らしている印象です。真ん中くらいには不平等の測度に関するエッセイもありますし、不平等の解消に向けた政策についても論評を加えていますが、私の印象からすればまとまりなく、相互に矛盾を来しているような部分もあるように感じてしまいました。私にとって少しショックだったのは、ピケティ教授の不平等論に関して穏やかながら反論を加えている点です。特に、資産課税についての見解の不一致は、左派リベラルの中でも学術的な動向によっては格差や不平等に対する考え方がやや違うのは理解できるとしても、明確にこのような形で不平等是正に関する考えが分裂を来す可能性を見せつけられると、新自由主義的な経済学がまだまだ根強く生き残っている中で、少し不安を感じたりするのは私だけでしょうか。最後の方で、ロビー活動や政治献金などによって富が権力に転嫁するという主張が、極めて正しくも、なされているだけに、加えて、賃金や所得の不平等が資産の不平等に蓄積される前に何らかの対策が必要と考えられるだけに、なんとか不平等の是正を早期に政策として結実させていくという大団結の必要性を感じるのは私だけではないような気がします。さらに、拡張クズネッツ曲線を持ち出して、逆U字方ではなくさらにキュービックにN字方に再度反転する可能性を示しつつ、2000年代初めの10年間で不平等が縮小した点については、まだデータが不足するとしても、もう少し分析を加えて欲しかった気がします。内容的に、レベルからして、高校生や大学入学準備の年代、あるいは、大学初学年くらいの理解度で十分に読み解ける内容ですし、それなりの知識は身につくと思いますが、逆に、経験を積んだビジネスマンなどには物足りない印象かもしれません。でも、次へのステップという意味では意味ある読書のような気がします。
次に、太田康夫『ギガマネー』(日本経済新聞出版社) です。著者は日本経済新聞のジャーナリストです。ということは軽く想像されますが、本書のサブタイトルは『富の支配者たちを狙え』となっており、これを見ても何の本かよく判りません。でも、要するに、世界の大富豪を対象にしたウェルス・マネージメントとか、プライベート・バンキングとか呼ばれるビジネスについて取材した結果が本書で明らかにされています。また、本書にもクレディ・スイスのリポートから引用されているように、いわゆるミリオネアと呼ばれる個人資産100万ドル超の富豪は世界に3000万人あまりいて、この階層が世界の全資産の半分近くを占めています。でも、マネーの世界は少し前まで日本のメガバンクのように、「メガ」の世界だったんですが、今では本書のタイトルのごとく「ギガ」の世界に入りつつあり、ミリオネアからビリオネアを対象とするビジネスの世界ではいっぱいあるようです。逆に、日本の銀行のように大富豪を相手にする資産運用の分野に競争力なく、ミリオネアから1桁ランクダウンした10万ドルくらいの準富豪層を相手のビジネスもあるようです。これくらいであれば、日本のサラリーマンも何とか相手にしてもらえるかもしれません。本書では、プライベート・バンクというか、そもそも銀行の先がけとなった業態を十字軍の留守を守るイタリアに求め、また、スイスや英国の伝統的なプライベート・バンクのビジネスを紹介しつつ、米国で独自に発達したプライベート・バンク、あるいは、米国発で世界に広まったヘッジファンドのビジネスの考察などなど、私のような薄給の公務員には手の届かない大富豪や超大富豪相手の資産運用ビジネスを明らかにしています。もちろん、パナマ文書で世間の目にもさらされたいくつかのビジネス、ないし、犯罪行為の実態も取り上げており、大富豪の資産を取り込むビジネスと、課税対象にしようと試みたり、あるいは、テロを始めとする犯罪行為を取り締まろうと奮闘する政府当局のせめぎあいなども興味深いところです。なお、日本の銀行でこういった富裕層の資産運用のビジネスが伸びないのは、マネーロンダリングなどの取締りを行う警察や課税当局などの「お上」に対して、銀行があまりに素直に情報開示に応じてしまうために、富裕層から信用されないのも一因、との本書の指摘には笑ってしまいました。どうしても統計的な把握は難しいでしょうから、こういった形で多角的に取材した結果を利用するしかないんですが、なかなかうまく取りまとめている気がします。
次に、小泉和子『くらしの昭和史』(朝日新聞出版) です。著者は生活史の研究者だそうで、本書にもあるように、その昔の自宅を改造した昭和のくらし博物館の館長も務めていますが、私には実態は不明です。ということで、本書はくらしから見た昭和史と住まいから見た昭和史の2部構成となっていますが、第2部はほとんど著者自身の生活史ですので、あまり一般性のある昭和史ではないような気もします。というより、第1部もそれほど一般性があるわけではないものの、第2部になると、ほとんど著者の自伝になっています。第1部は衣食住のうち、住は第2部に譲られているので、衣食を中心に、病気や看護、それに少女や在日の人、さらに、しごとを中心に据えた構成となっています。ほとんど東京の山の手の生活史しかなく、地方の農村はいうに及ばず、東京の下町すらスコープに収めていないので、繰り返しになりますが、とても一般性ある歴史にはなっていないんですが、なかなか興味深い事実もいくつか盛り込まれています。家庭での食事が、個々人に供せられる箱善から、一家で囲むちゃぶ台になり、さらに、畳に座る生活からテーブルに食事を並べて椅子に座る生活に変化するのが昭和の時代ですから、かなり変化は激しいともいえます。もちろん、昭和の前の対象などと比べて長い時代であったともいえます。ですから、戦争に関するトピックがとてもたくさん出て来ます。判らなくもないんですが、やや「過ぎたるは及ばざるがごとし」を思い出してしまいました。戦争の生活史は「過ぎたる」の部分の代表であるとすれば、高度成長期の三種の神器、とか、3Cと称された生活家電の普及は「及ばざる」の典型例ではないかと思います。エコノミストとしては高度成長の中で、農村から都市部に雇用者として人々が移動し、ルイス的な二重経済が解消された点について、生活史の中でもっと追って欲しかった気もしますが、何といっても生活家電、すなわち、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、電話、掃除機、アイロン、ヘアドライヤ、などなど、パソコンはたぶん平成になってからですので、職場におけるお仕事よりも家庭における家事の方が、昭和の時代を通じて変化が激しかったんではないか、というのが私の感想ですから、そういった家事に大きな変化をもたらした生活家電に関して、もっと着目すべきではないでしょうか。
最後に、中川右介『江戸川乱歩と横溝正史』(集英社) です。著者は出版社の代表として音楽家や小説家の写真集やノンフィクションを手がけているようなんですが、不勉強にして私はよく知りません。ということで、タイトル通り、我が国の探偵小説ないし推理小説のいわゆる本格の黎明期の巨人2人、1900年をはさんで数歳違いのこの両巨頭を、盟友として、ライバルとして、お互い認め合い、時に対立しつつある不思議な友人関係も含めて取り上げています。そして、最後の方にはこの2人に、さらに横溝よりも数年遅い生まれの松本清張も絡んできます。特に、本書の表現で面白かったのは、同時代人ではない私には知り得なかった事実ですが、「江戸川乱歩と横溝正史 - 2人を太陽と月に喩えることができるかもしれない。乱歩が旺盛に書いている間、横溝は書かない。横溝が旺盛に書いていると、乱歩は沈黙する。天に太陽と月の両方が見える時間が短いのと同様に、二人がともに旺盛に探偵小説を書いている時期は、ごくごく短い」という一説です。私は知りませんでしたが、そうだったのかもしれません。推理小説、特に本格推理小説という点では、横溝正史の『本陣殺人事件』があまりに衝撃大きく印象的だったですし、私くらいの世代では本書にもある角川書店のメディアミクス、小説と映画のコラボが横溝作品を取り上げて大ヒットしたというのも事実ですが、私は江戸川乱歩の存在は我が国ミステリ界において揺るがないものと考えています。まず、デビューの短編「二銭銅貨」の暗号の謎解きの衝撃性がありますが、何といっても、乱歩のミステリ界への貢献は少年探偵団のシリーズです。私はこの年末年始くらいの読書はポプラ文庫から全26巻出ている少年探偵団のシリーズを読んでみようかと思っていますが、何といっても団塊の世代と、その10年後くらいの生まれの私なんぞの世代に対する乱歩は、この少年探偵団のシリーズの作家、という点に尽きます。その後の横溝正史のメディアミクスの成功も少年探偵団シリーズの読者に対する基礎があってのことではないでしょうか。今から考えれば、小学生の頃に読んだこのシリーズ、明智小五郎と小林少年が率いる少年探偵団に対するところの怪人20面相ないし40面相との対決は、ドラえもんの4次元ポケットから取り出される道具並みに荒唐無稽なシロモノでしたが、小学生や中学生に対する衝撃の大きさやその後の小説や読書に対する姿勢への影響力などから特筆すべきものと考えるべきです。各国のミステリ界に巨人は多くあれど、我が国ミステリ界で江戸川乱歩の地位を不動のものとし、彼をして独特の位置づけを得させているのは、横溝正史はじめほかの作家にはない少年探偵団のシリーズであったといえます。
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