今週の読書は経済史から小説まで計7冊!
今週も、経済書や経営書をはじめとして、化学や歴史に関する教養書に、朝日新聞に連載されていた小説など、計7冊、以下の通りです。今週もすでに図書館回りを終えており、来週の読書も充実した内容になるような気がします。
まず、ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』(人文書院) です。著者はベルリン自由大学をホームグラウンドとしていた歴史学の研究者であり、経済史にも通じているようです。ドイツ語原題は Geschichte des Kapitalismus であり、2017年の出版です。前近代のころから記述を始めた資本主義の通史なんですが、ボリューム的には極めてコンパクトです。したがって、というわけでもないんでしょうが、産業革命についてはほとんどスコープの対象外となっており、ポメランツの『大分岐』などをチラリといんよすしているだけで、私は少し不満に思っていたりします。マルクス主義的な経済史にも十分通じている印象です。私の考える資本主義とは基本的に近代と同義であり、政治的には個人の基本的人権や自由などを構成要素とする民主主義の定着を見つつ、経済的には奴隷制や農奴制から自由な市民が産業資本家が組織する商工業の企業で賃労働を行う、というものです。その前提としては、スミス的な協業に基づく分業が発達し、現代的な用語を使えば、サプライ・チェーンが高度に発達した中で、賃労働者が資本家の指揮権の下で労働を行い、生産物は商品として流通し貨幣が流通を媒介する中で、貨幣が蓄積された資本に転嫁する、というのが資本主義の語源となるわけです。資本主義の最大の問題点のひとつは景気循環の中での景気後退局面の過酷さであり、それを回避するためにケインズ的な政府の経済への介入が提案されたり、あるいは、もっと徹底して市場による資源配分を停止して生産手段を公有化した上で中央指令に基づく計画経済が志向されたりしてきたわけです。繰り返しになりますが、とてもコンパクトな経済史の通史を目指した本書の弱点のひとつは産業革命ないし工場制製造業の成立について、やや軽視しているように見える点と、さらに、資本主義の歴史を振り返って、その先に何が見えるのか、もはや旧ソビエト的な社会主義や共産主義を見出す経済史家はほとんどいないとは思いますが、いくつかのオプションでも示されていれば、とても大きな課題ながら、私のような読者にはさらによかったような気がしないでもありません。
次に、鈴木裕人・三ツ谷翔太『フラグメント化する世界』(日経BP社) です。著者は2人とも米国のコンサルティング・ファームであるアーサー D. リトルの日本法人のパートナーとなっています。本書では、経済というよりは経営的に国際標準に基づくグローバル資本主義から、それぞれの価値観を大事にするポスト・グローバル資本主義を本書のタイトルであるフラグメント化と捉え、その世界観の中では日本企業が大いに強みを発揮することができると考えられる、といった議論を展開しています。ですから、まず、本書のタイトルである「フラグメント化する世界」とは、コミュニティを基盤とした自律分散型の社会の実現として定義されており、グローバル資本主義の下で世界共通のスケーラブルな世界で大いに称賛されたGAFAではなく、地域や顧客ごとに固有の価値を重視するフラグメント化された世界では、繰り返しになりますが、日本的な経営が脚光を浴びる可能性があると指摘しています。ただ、2030年ころまで時間をかけた以降になる可能性も同時に示唆されています。ということで、その経営的な要素は第5章で展開されており、以下の6つの「脱」で表現されています。すなわち、①脱コミットメント経営、②脱選択と集中、③脱横並び経営、④脱標準化、⑤脱大艦巨砲主義、⑥脱中央集権主義、となります。③と④のように、かなり重複感のある項目もありますが、いかにもコンサル的というか、何というか、こういった概念的な整理とともに、我が国のリーディング産業である自動車と電機、家電と重電の両方を例に、ケーススタディも試みられています。パナソニックやソニーがサクセス・ストーリーを提供している一方で、東芝は半導体と原子力に「集中と選択」してしまい、挙句に粉飾決算に走った、といわんばかりで、私は少し疑問を感じました。電機メーカーの経営状態を見るにつけ、特に韓国勢との国際競争においては、為替の果たした役割がとても大きいように私は感じていますが、それでは経営コンサルの出番はないのかもしれません。私は経営学は専門外もはなはだしく、マクロ経済からいろんな解釈を試みようとする傾向があるのは自分でも理解していますが、少なくとも、経営方針がすべてではない一方で、マクロ経済の景気動向もすべてではない、ということなんでしょう。もちろん、長らくGEの経営者だったウェルチ氏の著書に見える "GE will be the locomotive pulling the GNP, not the caboose following it" くらいの気概は、日本の経営者にも大いに持っていただきたい、とは私も考えています。
次に、ジョン・アーリ『オフショア化する世界』(明石書店) です。著者は英国の社会学の研究者なんですが、すでに2016年3月に亡くなっています。私はこの著者の社会学の本は、『場所を消費する』と『モビリティーズ』を読んだ記憶があり、後者の読書感想文は2015年5月16日付けのブログでアップしてあります。本書の英語の原題は Ofshoring であり、2014年の出版です。ですから、監訳者のあとがきにもある通り、話題になった2016年公刊のパナマ文書などは取り上げられていません。ということで、私は数年前にこの著者の移動に関する本を読んだところでしたので、ついつい、モノやサービスに移動や輸送に引き付けて本書も理解しようとしてしまいました。また、同時に本書も経済学的な金融や生産などの狭義のオフショアリングと違って、レジャー、エネルギー、セキュリティ、から果ては廃棄物まで、とても幅広くオフショア化を展開しています。そして、最後は第10章ですべてをホームに戻す、という章タイトルでオフショア化の巻き戻しを論じています。オフショア化については、本書でも規定している通り、見えにくいところに移動させて税金などをごまかすための手段と狭い意味で考えられていますが、本書のように、地産地消という観点からすれば、私は交易の利得を否定しかねず、やや方向として疑問が残ります。よく知られている通り、体を鍛えて地産地消の質素な生活を送るというのは、実は、ヒトラー・ユーゲントに由来します。また、海外まで含めて遠い距離を移動することによるオフショアリングは、いわゆる海の帝国である英米の得意とするところであり、大陸欧州の独仏のような陸の帝国は、オフショアリングはやや苦手とする傾向があるのが一般的な理解です。こういった背景を考えつつ読み進むと、本書の観点はやや疑問とする部分もありますが、マルクス主義的な見方でなくても、オフショアリングが貧困層や一般家計に対する概念としての富裕層や国民や消費者に対応する概念としての企業に、いいように使われて一般国民から見て何の利益ももたらさない、というのも事実です。そのあたりのバランスを持った議論は必要だと思うんですが、本書は後者の一般国民からの議論を代表しているとの前提で読み進む必要あるかもしれません。
次に、佐藤健太郎『世界史を変えた新素材』(新潮選書) です。著者は医薬品メーカーの研究職も経験したサイエンス・ライターです。医薬や化学が専門分野ということなんだろうと思います。そして、その著者の専門知識が生かされたのが本書といえるかもしれません。しかしながら、化学ではなく経済ともっとも関連深い金から本書は始まります、現在まで世界で採掘された金はわずかにオリンピック・プール3杯分にしかならない、というのに驚きつつ、以下、12章に渡って、陶磁器、コラーゲン、鉄、紙(セルロース)、炭酸カルシウム、絹(フィブロイン)、ゴム(ポリイソプレン)、磁石、アルミニウム、プラスチック、シリコンの順で取り上げられています。金を別にすれば、金属でフォーカスされているのは鉄は当然としても、銀でも銅でも鉛でもなくアルミニウムとなっています。軽い金属ということで独特の位置を占めています。紙は記録のための活用が評価され、化合物としてはゴムは天然人工屋やビミョーなものの、プラスチックとシリコンが注目されています。章別タイトルだけを見ると、セメントは選から漏れているのか、と想像しがちなんですが、炭酸カルシウムのいちコンポーネントとしてちゃんと入っています。それにつけても、やっぱり、私のようなシロートから見て、鉄が素材・材料のチャンピオンなんだろうという気がします。本書ではそのカギは地球上に大量に存在することがポイントと解き明かしています。この週末の新聞報道で、世界鉄鋼協会の記者発表によれば、2018年の粗鋼生産量は世界で4.6%増となり、我が国はインドに抜かれて中国・インドに次ぐ世界第3位の粗鋼生産国となった、といった記事も見ました。それから、私はゴムとプラスチックとシリコンの区別が判然としませんでした。「シリコンゴム」というのもあって、実は、私は週末にはプールで3~4キロほど泳ぐのを習慣にしているんですが、我が家のある区立体育館プールのひとつのルールとして金属を身に着けず泳がねばならない、というのがあって、私は左手の薬指にシリコンゴムの指輪をして泳いでいます。本書では、「シリコンゴム」については、ケイ素=シリコンと炭素を人工的に結合させたものであると解説されています。私のような文系の表現でいえば、ケイ素も炭素もどちらも4つの手で結合できますから、人工的にその結合物を作るのはできそうです。耐熱温度も高そうな気がします。まあ、私のような用途からすれば50度もあれば十分だったりします。タイトルの前半、すなわち、世界史を変えた部分も、決して重点を置かれているわけではないながら、ちゃんと解説されており、それなりに楽しめる読書でした。
次に、河内将芳『信長と京都』(淡交社) です。著者は奈良大学などで研究をしていた歴史家です。上の表紙画像にも見られる通り、「宿所の変遷」をキーワードに織田信長と京都について歴史をひも解いています。冒頭は有名な歴史的事実で始まります。すなわち、織田信長は本能寺の変により京都で死んだ、ということです。本書でも、相国寺や妙覚寺などの宿所が紹介されており、また、もともとの織田家の本拠である岐阜から、ジワリと京都に近づいて安土に城を築いたのは有名な歴史的事実ですが、亡くなるまで織田信長は京都に屋敷、というか、本拠地を持たなかったというのは、改めて、いわれれば、そうかもしれないと気づかされます。京都南部の洛外ながら伏見城を築いたり、醍醐に聚楽第を設営した豊臣秀吉とはかなり違います。江戸期の徳川氏に至っては二条城を京都の本拠としています。加えて、本書でも強調されている通り、織田信長は洛外と上京を焼き討ちしており、京都市民、という表現がこの時代に適当かどうかは別にして、公家や京都市民から織田信長の上洛は恐怖を持って迎えられていたのは、そう難しくなく想像できます。そういった、極めてビミョーな織田信長と集合名詞としての京都との関係が、本書ではかの有名な『言継卿記』などの古文書から明らかにしようと試みられています。ただし、先ほどは、公家と京都市民と書きましたが、朝廷は公家のコンポーネントと見なして、神社仏閣や僧侶などを別にしても、京都にはもうひとつ重要なコンポーネントがあり、それは室町幕府です。織田信長は永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛し、その後、天正元年(1573年)にその足利義昭を追放して、実質的に室町幕府が滅亡したというのが、私のようなシロートの理解ですから、室町幕府については考慮する必要はない、ということなのかもしれません。ただ、織田信長の宿所について、相国寺や妙覚寺などをどのような基準で選び、あるいは、変更したのか、ほとんど史料のない世界かもしれませんが、何らかの仮説なりとも立てて欲しかった気もします。いずれにせよ、織田信長と京都とのビミョーな関係につき、なかなか興味深い読書でした。
最後に、吉田修一『国宝』上下(朝日新聞出版社) です。作者は、ご存じ、我が国でも売れっ子の小説家であり、純文学も大衆エンタメ小説も全方位でこなす作家です。私も大好きな小説家であり、青春物語の『横道世之介』が私のマイベストです。ということで、この作品は、我が家でも購読している朝日新聞に連載されていた小説です。作者の出身地である長崎の興行師のヤクザの倅が大阪に出て歌舞伎の女形になり、もちろん、その後に東京にも進出して、波乱万丈の人生で芸を極めつつ、最後は人間国宝になる、という長崎人の一代記です。繰り返しになりますが、歌舞伎のいわゆる梨園に生きた女形の一代記であり、中学生のころから60代までの50年を有に超える極めて長い期間を小説に取りまとめており、しかも、小説の視点がドラマのナレーションのような「神の視点」で、ストーリーとして触れられすに飛ばされた部分はナレーションで補う、という、この作者には今までなかったのではないかという手法が取られています。このナレーション方式というのは、部分的には、私のような一般ピープルで歌舞伎などの伝統芸能の世界に馴染みのない読者に歌舞伎や梨園の仕来りなどを解説するには、とてもいい手法かもしれませんが、他方で、ややくどい印象もあります。それから、この作品に私は深みを感じなかったんですが、その大きな要因は登場人物が梨園に極めて近い人物に限られているからではないかと考えます。例えば、文中でとても影響力ある早大教授の劇評論家の評価が語られますが、その人物は決して登場しません。主人公とその早大教授が言葉を交わしたり、あるいは、主人公が1人の文化人として歌舞伎と関係ない世界の他の文化人と交流を持ったりすれば、この作品ももっと深みが感じられたんではないかという気がします。その意味で、とてもボリューム豊かな作品ながら、深みや広がりが感じられませんでした。一部に、この作者の最高傑作とする意見も聞きますが、好きな作家さんの作品であり残念ながら、私はそうは思いません。
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