今週の読書はパフォーマンス測定に否定的な『測りすぎ』をはじめ計6冊!!!
今週の読書は、経済書らしきものをはじめとして、小説まで含めて、以下の通りの計6冊です。ただ、最初の『世界統計年鑑』は通して読むようなものではなく、パラオラとページをめくっただけです。今日はすでに図書館回りを終えていて、来週の読書の分の本も借りてきたんですが、来週も数冊の充実した読書になりそうな予感です。
まず、英エコノミスト誌『The Economist 世界統計年鑑 2019』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。英国のエコノミスト誌の編集部による「世界統計年鑑」です。英語の原題は Pocket World in Figures 2019 であり、1991年度の初版発行以来27年間、毎年データのアップデートと収録項目の見直しを経て発行され続けているそうです。どうでもいいことですが、私は数年前に英語の原書を利用したことがあり、ハードカバーだったと記憶していますが、この2019年度版の邦訳書はペーパーバックでした。今は英語の原書もペーパーバックになっているのかもしれません。前半第1部が世界ランキングであり、国土面積や人口などの世界各国のランキングが示されており、後半第2部が国別の統計となっています。有人宇宙飛行の歴史とかのごく一部の例外を除いて、いわゆるクロスセクションの統計であり、タイムシリーズで示されているものはほとんどありません。まあ、私のように図書館で借りてパラパラとページをめくるよりは、購入して座右に置いて必要に応じて参照する、という使い方が正当なのかもしれない、と思わないでもありません。なお、邦訳の2019年度版は東京23区の区立図書館の中でも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館と文京区立図書館と墨田区立図書館と世田谷区立図書館の5館しか蔵書しておらず、しかも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館では禁帯出となっていますから、借り出せるのは極めてわずかとなっています。ある意味で、希少価値が高い、といえるかもしれません。
次に、エイミー・ゴールドスタイン『ジェインズヴィルの悲劇』(創元社) です。400ページを超える大作であり、著者は、ワシントンポスト紙で30年のキャリアを持つジャーナリストです。英語の原題はズバリ Janeseville であり、2017年の出版です。タイトルの街は米国ウィスコンシン州の南部に位置しています。本書のpp.426-27に地図があります。本書にも紹介されている通り、GMの大きなプラントがあった企業城下町であり、パーカー万年筆の発祥の地でもあります。そして、サブプライム・バブル崩壊後の2008年12月にGMが工場を閉鎖した前後から物語が始まります。かつては、工場のブルーカラーとして三交代の勤務で時給28ドルを稼いでいた熟練工の正規雇用された労働者が、非正規で半分の時給の仕事しかなくなって、一方でGMの工場再開や別の企業の工場誘致に希望をかけて、町おこしや企業へのインセンティブ付与を進めようとするグループがあり、他方で、新しい雇用・労働市場に対応するべく職業訓練や能力開発のために地域のブラックホーク技術大学に通い始める人々、あるいは、家計を支えるためにアルバイトを始める高校生などなど、著者は現地インタビューはもちろん、かなり膨大な情報を収集した跡がうかがわれます。そのうち、統計情報が補遺1で「ロック郡における調査の説明および結果」と補遺2で「職業再訓練に対する分析の説明および結果」とそれぞれ題して巻末に収録されています。そして、著者も私も不思議なのが、ブrックホーク技術大学、2年制だそうですから、おそらく、米国的なコミュニティ・カレッジに近い教育機関だと思いますが、こういった大学での学び直しや職業訓練・能力開発を受けた場合、かえって、再就職率が低かったり、再就職できても時間当たり賃金が少なかったりする、という統計的に分析された事実です。通常の理解とは逆に見えます。サンプルがそう大きくもないでしょうから、きわめて大きなバイアスが母集団にかかっている可能性は否定できません、例えば、もともと再就職率が困難だったり、高賃金が望めなかったりするグループが、こういった大学での学び直しや能力開発を受けた可能性はあるものの、本書のこの結論、というか、分析結果については議論を呼びそうな気もします。左派は能力開発が中途半端で不足している可能性を指摘して、一層の施策の充実を提案しそうな一方で、右派は能力開発が効果的でない可能性を議論して、こういった施策の廃止ないし縮小を求めそうな気がします。でも、全体として、暗い雰囲気のリポートながらも、将来に向けた明るさも感じられる内容でした。
次に、ジェリー Z. ミュラー『測りすぎ』(みすず書房) です。本書冒頭で著者自ら記しているように、著者は本来米国の歴史研究者です。ただ、資本主義に歴史や思想史についても研究しているようで、経済学とまったく関係ないともいえないようです。英語の原題は The Tyranny of Metrics であり、2018年の出版です。ここで経済学に関する小ネタですが、本書の英語の原書タイトルの元ネタがあるように私は感じています。というのも、ヤング教授による "The Tyranny of Numbers" という学術論文があり、1990年代前半までのアジア新興国・途上国の経済成長は資本や労働といった要素投入に支えられたものであり、全要素生産性(TFP)はそれほど伸びていない、という点を実証し、さらに、このヤング教授の論文を受けてクルーグマン教授が "The Myth of Asia's Miracle" を書いて、1997~98年のアジア通貨危機を「予言」した、とされています。何ら、ご参考まで。ということで、本書では定量的に把握、すなわち、計測できる点を重視した経営や政策運営などを鋭く批判しています。エコノミスト、特に右派のエコノミストにとっては、マイクロな市場における価格が絶対唯一の情報であって、価格に従った資源配分こそが効率性を保証する、と考えられており、この市場における価格に類似した指標をついつい求めてしまいがちな傾向を本書では戒めています。私が考えるに、何かを定量的に把握し、それを改善の指標とする場合、3つの間違いが生じる可能性があります。第1に本来のパフォーマンスの代理変数にならない指標を採用する間違いで、第2に計測のミス、第3に目的外の利用です。本書でも、第1のポイント、すなわち、学校や病院などのパフォーマンス指標として不適当な指標が取られている例が大量に指摘されています。例えば、患者の死亡率でもって病院のパフォーマンスを代理すれば、重篤な患者を受け入れない可能性が高まり、ホントにそれで病院の社会的使命が果たされるのか、という気がします。第2のポイントで、計測ミスはいっぱいあって、私の直感ながら、我が国のサービスの生産性は正しく計測されていない可能性があります。ここまで、「おもてなし」の精神でいっぱいの飲食店や宿泊の生産性が、他の先進国と比較して低いとはとても思えません。ほとんど事故なく正確極まりない運行を誇る新幹線の生産性が低いとはとても思えません。第3のポイントでは、学校の生徒のテスト結果を教師の評価と考えるのか、校長の評価と考えるのかでは、かなり受け止め方が異なるような気もします。最後に、第4の観点があり得るとすれば、評価すべきでないものを評価しようと試みている場合もありそうな気がします。総合的に、興味ある評価の計測に関する批判が本書には詰め込まれています。また、巻末のチェックリストも参考になりそうです。
次に、松本佐保『バチカンと国際政治』(千倉書房) です。上の表紙画像からはピンと来ないかもしれませんが、A5のかなり大きな版でページ数も300ページを上回り、ボリューム感は十分あります。著者は、国際関係史の研究者であり、タイトル通りに、19世紀くらいから直近のフランシスコ教皇まで、バチカンが国際政治にかかわった歴史をひも解こうと試みています。ただ、私なんぞは、おそらくバチカンに親近感を持っているであろう著者が、どこまでバイアスをかけていえるのかが判断しにくく、直感的ながら、国際政治におけるバチカンの影響力を過大に評価しているリスクはありそうに感じてしまいました。ただ、本書ではスコープ外のようですが、15すぃきまつのコロンブスによる新大陸発見の後、スペインとポルトガルの間で西半球の米州大陸を西経に沿って分割したトルデシリャス条約は、当時の強硬アレクサンデル6世が仲介していますし、本書でも言及されている通り、チリとアルゼンティンの長い長い国境紛争はしばしばバチカンによって仲裁されています。私が在チリ大使館に勤務していた時にも経験しました。ということで、影響力の大きさにはやや眉に唾つけて読むとしても、本書で著者が指摘する通り、国際政治の中でバチカンが旗幟鮮明だったことは確かです。特に、第1次世界大戦の戦中から戦後にかけては一貫してドイツ寄りの立場を示して戦勝国からは煙たがられましたし、第2次大戦後の東西冷戦の中では、一貫して西側や米国寄りの反共の立場を堅持しました。そして、やはり、フランシスコ教皇の下でバチカンもかなり大きく変化しようという兆しや雰囲気は私のような部外者も感じ取っています。教皇専用の豪華専用車を廃してバスや列車のような公共交通機関を利用して移動したり、飛行機ではエコノミークラスの登場したり、と本書で指摘されている事実に加えて、私はフランシスコ教皇がカバンをもって飛行機のタラップを上る写真を見てびっくりした記憶があります。国際的なさまざまなテーマは、時代が進むにつれて広がりを見せ、通商問題などの経済関係はさすがにまだ手が伸びていないようですが、戦争と平和の問題はもちろん、地球規模での環境問題など、通常の国民国家やその集合体である国連などの国際機関に加えて、バチカンのようなトランスナショナルなパワーが活躍する場が増え、必要とされるようになったように私も感じています。そのためにも、ひいき目やバイアスなしでバチカンの力量を評価できる研究が必要です。
次に、古澤拓郎『ホモ・サピエンスの15万年』(ミネルヴァ書房) です。著者は、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の研究者であり、本書は、自然科学的な内容は豊富ながら、基本的には、私は歴史書だと受け止めています。まず、上の表紙画像に見られるように、副題は「連続体の人類生態史」となっています。「連続体」とは、英語でスペクトラム、フランス語でスペクトル、であり、文字通り、人類史を連続で捉えようと試みています。しかも、伝統的な歴史学の観点ばかりではなく、生物学や医学に加えて、地理学や社会学、もちろん、人口動態学まで、さまざまな学問領域を横断的に駆使しつつ、人類の異文化体験や多様化について解明を志向しています。特に、男女の性別まで含めて、もちろん、人種や文化の違いなどについて対立的、というか、何らかのグループの特徴を区別する要素として用いるのではなく、人類15万年の歴史を連続で捉えようとする試みは、私はそれなりに歴史分野に詳しいつもりでしたが、かなり新鮮な視点・分析方法だったような気がします。もちろん、白人の優位と有色人種の劣等性はすでに否定されて久しいものの、どこぞの超大国の現職大統領のように、人種差別的な発言を繰り返す輩も少なくないですし、まだまだ、分断的に世界を捉える感覚は広く残っています。エコノミスト的な視点から、本書で注目したのは、経済学的な視点も入れつつ、格差を論じている点です。例えば、生物的な身長に個人間で3倍の差があることはまれでしょうし、体重は身長よりもう少し差が出来そうに感じないでもありませんが、本書では、代謝量なども含めて個人間の格差はせいぜい3~4倍と結論しています。そして、狩猟採集社会における生まれながらの格差は3倍程度であるのに対し、農耕社会では11倍、牧畜社会では20倍と算出した上で、現代社会における2桁も3桁もの大きさに及ぶ経済的な格差、例えば、所得や消費の金額や居宅の広さなどが、生物的に必要かどうか、社会経済的に許容できるかどうかを鋭く問うています。確かに、我と我が身を振り返れば、実用的な範囲では、例えば、自動車は標準的な家族に3台もあれば十分ですし、いかな大食漢も人の5倍を毎日のように食べ続けるのは、かえって苦痛の方が大きいように感じます。ルソー的な自然状態では格差3~4倍という本書の議論は、受け入れられる素地が十分にありそうな気がします。
最後に、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(東京創元社) です。著者は、2017年の前作『屍人荘の殺人』で第27回鮎川哲也賞を受賞しデビューした若手のミステリ作家です。前作はタイトルそのままに映画化され、主人公の剣崎比留子役は浜辺美波が務めるそうです。本作品が第2作になり、主人公というか、ワトソン役のストーリーテラーとホームズ役の謎解きに当たる探偵役は前作から共通しており、シリーズというか、前作の続編と考えるべきです。さらに、犯罪発生のシチュエーションも前作と同じで、ほぼほぼクローズド・サークルだったりします。超能力開発を目的とする斑目機関の謎に迫ろうと試みますが、一定の前進はあるものの、もちろん、解明には至りません。次回作に続きます。本作品では、デビュー作のようなゾンビ菌によるテロという非現実的な出来事ではなく、予言や予見といったオカルト的な要素はあるものの、あくまで現実の人間心理に基づく超常現象なしでの謎解きがなされます。そして、実に、論理的な犯人像の解明がなされますが、単独犯でなく協力者の存在がカギとなります。そして、最後に謎解きの本質には関係しませんが、大きなどんでん返しがあります。これはよく考えられたプロットだと感心してしまいました。ただ、このどんでん返しがあってもなくても殺人犯の解明には関係しないのは、少し残念な気がします。ミステリの謎解き、特に、長編ミステリの場合、好みにもよりますが、私はタマネギの皮を剥くように、少しずつ着実に謎が解明されていくようなプロセスが好きなんですが、この作品では、「名探偵、みなを集めて『さて』といい」のようなカンジで、最後の最後に一気に謎が解明されます。それはそれで、好きなミステリファンもいそうな気がします。相変わらず、地名や人名の固有名詞にセンスないんですが、それはそれとして、私は続編も読みたい気がします。
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