今週の読書は経済書や教養書・専門書から話題の小説まで計6冊!!!
今週も、経済書2冊をはじめとして、中国史などに関する教養書・専門書から流行作家の小説まで、以下のとおり6冊ほどの読書なんですが、決して読書感想文で明らかにできない本も読んだりしています。なお、すでに自転車で図書館回りを終えており、来週の読書も数冊に上る予定ですが、「読書の秋」を終えたくらいの段階で、そろそろペースダウンも考えないでもありません。
まず、ジョセフ F. カフリン『人生100年時代の経済』(NTT出版) です。著者は、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者であり、エイジラボ(高齢化研究所)の所長を務めています。英語の原題は The Longevity Economy であり、2017年の出版です。邦訳タイトルは長寿ないし高齢を意味する longevity を人生100年時代としていますが、かなりの程度に直訳に近い雰囲気です。ということで、タイトルから理解できるように、あくまで「経済」であって「経済学」ではありませんから、製品開発なども含めた広い意味での高齢化社会への対応を解説しようと試みています。どちらかといえば、マーケティング的な視点を感じ取る読者が多そうな気もします。もちろん、その前提として、高齢化社会、ないし、人生100年時代の経済社会の特徴を明らかにしています。ただし、米国の研究者らしく、政府による政策や制度的な対応はほぼほぼ抜け落ちています。日本でしたら、医療・年金・介護などの政府に頼り切った議論が展開されそうなところですが、そういった視点はほぼほぼありません。まず、高齢者とは従来のイメージでは、働けなくなった、ないし、引退した世代の人々であり、従って、収入が乏しいという意味で経済的には貧しく、もちろん、肉体的にも不健康であり、これらが相まって、不機嫌な傾向も大いにある、ということになります。本書ではもちろん登場しませんが、その昔の我が国のテレビ番組で「意地悪ばあさん」というのがあり、私はそれを思い出してしまいました。しかし、本書で著者が主張するのは、従来の意味での高齢者像は人生100年時代に大きく変化している、という点です。ただ、統計的な評価ではなく、アクネドータルにトピックを紹介している部分が多いんですが、うまくいった商品、ダメだった商品の例などは単なるケーススタディにとどまらず、大きな経済社会的な方向感をつかむことができるかと思います。なお、注釈にもありますが、著者は「商品」という言葉ではなく、「プロダクト」を独特の用法で多用します。本論に戻ると、単に高齢者のニーズが従来から変化した、というだけでなく、年齢を重ねても元気で生活や消費だけでなく、あるいは、労働の継続まで含めて、高齢者の生活の中身そのものが従来とは異なる、という点が重要なのではないかと私は考えています。
次に、タイラー・コーエン『大分断』(NTT出版) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の経済学の研究者であり、マルカタス・センターの所長を務めています。「マルカタスト」とはマーケット=市場という意味らしく、市場原理主義者ではありませんが、リバタリアンと解説されています。英語の原題は The Complacent Class であり、2017年の出版です。同じ著者の出版で『大停滞』と『大格差』も話題を呼んだと記憶しています。ということで、著者のいう「現状満足階級」とは、著者自身は NIMBY = Not in My Backyard と解説していますが、同じことかもしれないものの、私が理解した限りで、いわゆる総論賛成各論反対の典型であり、経済社会の改革や変革を望みながら、自分自身の生活や仕事の変化は望まない、という人たちであり、これも私が本書を読んだ限りでは、著者は、大きな変革が生じにくくなっていることは強調している一方で、これが「現状満足階級」に起因している、ことはそれほどキチンとした証明とまでいわないまでも、あまり言及すらしていないような気がしました。まあ、私が読み逃しているだけかもしれません。他方で、デジタル経済の下で格差が広がっている点については、いわゆる「スーパースター経済」が進んでいるわけですから、これについては、いろんな論点がほぼ出尽くしている気がします。経済については、開発経済学の見方を援用すれば、要するに、先進各国ともルイス転換点を越えたわけですから、大きな変革は生じようがありません。他方で、新興国途上国やはルイス転換点に向かっていますから、かつての日本のような高成長が可能になっています。ただし、そのためには、いわゆる「中所得国の罠」に陥ることなく成長を続ける必要があり、中国やかつてのマレーシアなどが、私の目から見てかなりの程度に「中所得国の罠」に陥ったのは、あるいは、本書で指摘するような「現状満足階級」が何らかの影響を及ぼしている可能性はあります。でも、先進国ではそういったことはないような気がします。ですから、私は本書の主張が先進国の中の先進国である米国に当てはまるとは考えないんですが、逆の方向から見て、第8章の政治や民主主義の点が典型的なんですが、政治や社会的な動向への影響については考えさせられるものがありました。「現状満足階級」が、カギカッコ付きの「社会的安定」に寄与している一方で、最終章で著者が主張するように、「現状満足階級」が崩壊するとすれば、新しいタイプのアヘンであるSNSが廃れて、再び米国で暴動が発生するようになったりするんでしょうか。著者は何ら気にかけていなさそうですが、背景には直線的な歴史観と循環的な歴史観の相克があるような気がします。
次に、岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル) です。著者は、専修大学法学部の政治学の研究者であると同時に、学生運動から入った政治活動家であり、バリバリの左翼リベラルのようです。ただし、社会党系であって、共産党系ではないような印象を受けました。ということで、どうしてリベラルが敗け続けるかというと、p.28でいきなり回答が一言で与えられており、「ちゃんと政治をやってこなかった」ということのようです。この一言を本書の残り200ページあまりで延々と展開・議論しているわけです。私の歴史観は確信的なマルクス主義に則った唯物史観で、その他の経済学や政治的なものの見方まですべてがマルクス主義的というつもりはありませんが、基本的には、経済的な下部構造が政治や文化などの上部構造を規定して歴史が進む部分が大きいと考えています。そして、下部構造の経済とは生産構造と生産力です。生産構造は原始共産制から始まって、古典古代の奴隷制、中世の農奴制、そして近代資本主義、願わくは、社会主義・共産主義と進み、生産力は生産構造の桎梏を超えるかのように向上し続けます。脱線しましたが、著者は、どうもこの経済の下部構造に関して考えを及ばせることなく、反与党での野党統一しか頭にないように私には読めました。1930年代の反ファシズムの1点だけによる統一戦線戦略、まさに、スペインで成功するかと思われたコミンテルンのディミトロフ理論に基づく統一戦線の結成は、私も現在の日本でもあり得ることとは思いますが、その前に経済的な観点が左派やリベラルには必要です。ですから、第7章のように、「ゼニカネ」の話で政治を進めることが重要なのですが、実は、そこに目は行っていないようにカンジます。私も定年を超えて、かつてのような公務員としての強固な雇用保障もなく、パートタイム的な働き方をしているとよく判りますが、特に年齢の若い層では安定した仕事も収入もなく、ややブラックな職場で結婚もできず将来も見通せないような生活を余儀なくされて、憲法や自衛隊や、ましてや、北朝鮮のことなどには目が届かず、毎日の生活に追われている国民は決して少なくありません。特に若年層のこういった不安定な生活の克服こそ政治が目指すべきものではないんでしょうか。もちろん、自由と民主主義が確保されてこその生活の安定ですから、自由と民主主義が保証されなくなるともっとひどい収奪に遭遇する可能性があるわけですから、集団自衛権や特定秘密保護などはどうでもいいとは決して思いませんが、リベラルや左派が往々にして無視ないし軽視している経済や生活といったテーマを本書の第7章で取り上げておきながら、第8章以降ではまたまた国民目線を離れて、安定した職と収入あるエリートの見方に戻っています。3月末で定年退職する前は、私も公務員というお仕事柄、総理大臣官邸近くを通ることもありましたし、デモや何らかの意思表示を国会や議員会館や総理官邸周辺で見かける機会は平均的な日本国民より多かったと考えていますが、左派リベラルの主張は、引退した年金世代が担っているという印象を持っています。安定した収入ある年齢層の人たちかもしれません。逆に、現在の安倍政権は世界標準からすれば、とても左派的でリベラルな経済政策を採用し、若年層の支持を集めている気がします。もちろん、本書で指摘しているような政治的な、あるいは、制度的なカラクリがバックグラウンドにあって政権を維持しているのは否定のしようもありませんが、リベラルが敗け続けるのは経済を軽視しているからであると私は声を大にして主張したいと思います。途中で田中角栄元総理のお話が出てきますが、かなり示唆に富んでいると私は受け止めました。最後に、AERAか週刊朝日か忘れましたが、「憲法や安保などに固執し、ゼニカネの問題を忘れたオールド左翼を叱る本」といった趣旨の書評がありました。ホントにそうであればいいと私は思います。強く思います。
次に、岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(東洋経済) です。著者は京都府立大学の研究者であり、もちろん、専門は中国史です。本書では、いわゆるグローバル・ヒストリーのフレームワークで中国史を捉え、黄河文明の発生から中華思想の成立も含めて中国をしひも解き、現代中国理解の上でも大いに参考になるかもしれません。特に私の目を引いたのは、気候の変動が中国に及ぼした影響です。その昔のフランスのアナール派なんぞは病気や病原菌が歴史に及ぼした影響を探っていたような気がしますが、インカ帝国滅亡と天然痘のほかには、それほど適当な例を私は見いだせない一方で、本書では、地球規模での寒冷化が進んでゲルマン人がローマ帝国に侵入したり、遊牧民が中国のいっわゆる中元に南下したり、といった事象を説明しています。加えて、モンゴルの世界帝国は温暖化による産物、すなわち、気温の上昇によりいろいろな活動が盛んになり、移動などが容易になった結果であるとも指摘しています。そして、現在の共産党にすら受け継がれている中華思想については、明の時代に成立したと指摘しています。私もそうだろうと思います。というのは、実は、中国における漢民族の王朝はそれほど多くないからです。中国の古典古代に当たる秦ないし漢の後、隋と唐は漢民族国家であったかどうかやや疑わしく、むしろ、やや北方系ではなかったかと私は想像しています。ただ、北魏から隋・唐にかけて、本書では何の指摘もありませんが漢字の楷書が成立しています。本書の立場と少し異なるかもしれませんが、私自身のマルクス主義史観からすれば、原始共産制の下で生存ギリギリの生産力から脱して、特に農耕を開始した人類が余剰生産が可能となった段階で、その余剰物資の記録のために文字が誕生します。典型的には肥沃な三日月地帯であるメソポタミアにおける楔文字が上げられます。中国の亀甲文字も同じです。亀甲文字が草書・行書や隷書を経て楷書に至り王朝の正式文字として記録文書に用いられるようになったのが北魏ないし隋や唐の時代です。その後の短期の王朝は別として、宋は本書でも指摘している通り本格的な官僚制を採用した漢民族の王朝であり、その後、モンゴル人の征服王朝の元、そして再び漢民族の明が来て、またまた女真族の征服王朝の清が続き、孫文の中華民国から現在の共産党支配の中国へとつながるわけですので、漢民族の王朝は半分といえます。その中で、明王朝が鎖国的な朝貢貿易を用いつつ中華思想を確立したというのは、とても納得できます。高校生くらいなら読みこなせると思わないでもありませんし、あらゆる意味で、オススメできる中国史だった気がします。
次に、西平直『稽古の思想』(春秋社) です。著者は京都大学教育学部の研究者です。私はこの著者は、ライフサイクルの心理学で何か読んだ記憶があるんですが、本書の読後の感想では、宗教学か哲学の専門家ではないかという気もします。どうでもいいことながら、京都大学は私の母校なわけですが、私の在学のころ、いわゆる文系学部の1学年当たりの学生の定員は、法学部が300人余り、経済学部と文学部が200人で、教育学部が50~60人ではなかったかと記憶していて、文系学部の中では突出して希少価値があった気がします。ですから、在学していた当時の友人は別にして、京都大学教育学部の卒業生で私が知っている有名人も多くなく、ニッセイ基礎研の日本経済担当エコノミストと推理作家の綾辻行人くらいだったりします。ということで、本書は、やや言葉遊び的な面もあるものの、練習とは少し違った捉え方をされがちな稽古についてその思想的な背景とともに考察を加えています。同じような言葉で、修行や修練・鍛錬にもチラリと触れています。また、当然ながら、東洋的なのか、日本的なのか、道というものについても考えを巡らせています。すべてではありませんが、世阿弥の能の稽古と舞台の本番をひとつの典型として頭に置いているようです。私の目から見て、とても弁証法的なんですが、そうは明記されておらず、わざを習い、そして、わざから離れる、という形で、何かを得て、また離れて、といったプロセスを基本に考えています。わざというか、何かを得ながら、それに囚われることを嫌って、それを手放す、しかし、そのわざが身について自然と出来るようになるところまで稽古を進める、というのが根本思想と私は読み解きました。違っているかもしれませんが、本書では芸道と武道を基本としているようで、出来上がったモノがある茶道や華道と違って、そのプロセスにおける型の考察もなされていますし、英語の unlearn の邦訳としての「脱学習」という言葉でもって、わざを習い、それから離れ、最後に、自然と出来るようになるという意味で、わざが身につくプロセスを稽古の本道と見なしているようです。どうでもいいことながら、先に取り上げた『なぜリベラルは敗け続けるのか』でも unlearn が出て来ました。流行りなのか、偶然なのか、よく判りません。本題に戻って、確かに、本番の舞台ある能は典型でしょうし、武道では試合があります。その意味で、茶道や華道では稽古と本番の差が大きくないような気もします。茶道で考えると、日々のお教室は稽古で初釜が本番、というわけではないでしょう。稼働でも、何らかの展覧会だけが本番ではないような気がします。最後に、本書は大学での授業が上手く行ったかどうかを書き出しに置いています。私も短期間ながら大学教員の経験を持っていて少なからず事前準備はしましたが、大学での授業が道に達するとは思ったことはありません。修行が足りないのかもしれません。
最後に、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』(中央公論新社) です。作者は私なんぞから解説の必要ないくらいの流行ミステリ作家です。実は、本書は、今月初めの8月3日に読書感想文で取り上げた小説3冊、すなわち、澤田瞳子『月人壮士』、薬丸岳『蒼色の大地』、乾ルカ『コイコワレ』と同じで、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの一環として出版されています。本書はほぼ長編といってもいいくらいの長さの小説2編から成っており、出版タイトルと同じ1部めの「シーソーモンスター」はバブル経済華やかなりし昭和末期を、また、本書の後半をなす2部めの「スピンモンスター」は近未来を、それぞれ舞台にしています。ただ、後者の近未来とはいっても、自動車の自動運転とかAIのさらなる進歩、さらに、情報操作などの現時点からの継続的な社会の特徴だけでなく、そこはさすがの伊坂幸太郎ですから、「新東北新幹線」や「新仙台駅」などの固有名詞がさりげなく登場し、「ジュロク」という新音楽ジャンルが成立していたり、さらに、デジタル社会を超えてデジタルとアナログを融合した経済社会が誕生していたりと、私のような平凡な年寄りからは想像もできない社会を舞台にしています。もちろん、「螺旋」プロジェクトの一環ですから、青い瞳の海族と尖った大きい耳の山族の緊張関係やぶつかり合いがメインテーマとなっています。バブル期の「シーソーモンスター」では、嫁姑という非常に判りやすい対立が現れますし、それでも、主人公の亭主というか、倅を協力して救ったりもします。第2部の「スピンモンスター」はもっと複雑で重いストーリーになっています。すなわち、交通事故で家族を失った水戸と&6a9c;山が主人公であり、海族と山族になります。同じ著者の『ゴールデンスランバー』よろしく、前者が容疑者になって逃げて、後者が警官として追いかけます。もちろん、「シーソーモンスター」とつながっており、前編の嫁が絵本作家として登場し、水戸の逃亡を手助けしたりします。おそらく、伊坂幸太郎ファンからすれば前編の「シーソーモンスター」の方がいかにも伊坂幸太郎的な軽やかさもあって、その意味で楽しめるという気がしますが、後編の「スピンモンスター」については、とても重いストーリーな一方で、近未来、おそらく2050年くらいのイメージで、カーツワイル的なシンギュラリティの2045年を少し越えているあたりと私は想像していて、そのSF的な世界観に圧倒されます。決して、シンギュラリティを越えた時点のテクノロジーではなく、そういったテクノロジーが普通にある社会の世界観です。こういった世界観を小説で書ける作者は、そういないような気がします。その意味で両編ともにとてもオススメです。最後に、「螺旋」プロジェクトの作品はこれで終わりかな、という気がしますが、ひょっとしたら、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』は読むかもしれません。
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