何となく、3連休が続いたりして読書が進んでいるようで、今週の読書は経済書、というか、未来書や教養書・専門書に加えて小説まで含めて以下の計7冊です。東野作品と宮部作品は、いずれも早大生協で買って読みました。買ったうちで未読なのは伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』を残すのみとなりました。消費税率が10月から引き上げられると、しばらく本は買わなさそうな気がしないでもありません。
まず、
ジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』(SBクリエイティブ) です。著者は、私の知る限りエコノミストで未来学者なのかもしれませんが、もうそろそろ80歳ですし、技術関係がこんなに詳しいとは知りませんでした。大昔の米国レーガン政権期にサプライサイド経済学としてもてはやされたころ、『富と資本』を読んだ記憶があります。たぶん、まだ我が家の本棚にあると思います。ということで、本書では、実に大胆にも、今を時めくグーグルが近い将来にブロックチェーンの技術を基に開発された「ブロックスタック」に打倒され、世界の主役が交代すると予言しています。どうしてそうなるかといえば、一言で、無料サービスにこだわるグーグルは希少資源としての時間消費との矛盾を生じるから凋落するということで、要するに、無料サービスは我々の希少資源であり、万人に共通して1日24時間しかない時間の浪費を促進するから、ということのようです。すなわち、お金を出してなにか買うんではなく、時間を提供しているから、そんな資源の浪費は出来ない、といわけです。逆に、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、私にはよく理解できませんでしたが、要するに、リバタリアン的な理由のように感じました。すなわち、情報が分散処理されており何らかの中央処理機関のようなものが存在せず、他方、すべての参加者が共通の台帳を閲覧し、管理し、記録できる、わけで、何らかの情報処理センターを持っているグーグルとは異なります。ただ、このあたりの立論は強引な気がします。もっとも、私の読解力が不足しているのかもしれません。最後に、私の知る限り、本書は米国などではなかなかのベストセラーになっていますが、我が国での評判とはやや落差があります。テクノロジー関係の馴染みないカタカナ用語がいっぱい並んでいる点を別としても、問題の大きな部分は邦訳の文章が悪い、ということになるのかもしれませんが、私が感じたもうひとつは、400ページあまりのボリュームの中で、半分くらいがビットコインとかイーサリアムなど暗号通貨とそれを可能とするブロックチェーンの説明に費やされているのが読みにくい理由ではないかと思います。私の解釈では、グーグルが凋落するのは、無料サービスと希少な時間の浪費という矛盾を基にする理論武装で、多くのエコノミストの合意を得そうな気もしますが、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、ほとんど理由になっておらず、かなりムリな立論に頼っているために、やたらと事実関係をいっぱい引用して補強する必要性を著者が感じてしまったからではないか、という気がします。タイトル的に、グーグルが落日を迎えるという1点に絞って議論を展開して、グーグルに代わって勃興するグループについては別論とした方がよかったような気もします。読みにくいのを承知の上で、また、凋落するグーグルに対して勃興する勢力の理論付けにかなりムリあるのを承知の上で、それなりの覚悟を持って読み進む必要がありそうです。
次に、
ヤン=ヴェルナー・ミュラー『試される民主主義』上下(岩波書店) です。著者はドイツ生まれで、英国のオックスフォード大学で博士号を取得し、現在は米国のプリンストン大学の研究者です。専門分野は青磁思想史・政治理論となっています。私はこの著者の本としては、2年余り前に同じ出版社から出た『ポピュリズムとは何か』を読んで、2017年6月17日付けで読書感想文をアップしています。英語の原題は
Contesting Democracy であり、2011年の出版です。上下巻ですが、歴史的な期間で区切られており、上巻では第2次世界大戦まで、下巻は戦後を対象にしています。ただ、上の表紙画像に見られる通り、副題は『20世紀ヨーロッパの政治思想』とされており、21世紀は対象外と考えるべきです。加えて、地理的なスコープは欧州に限られています。すなわち、我が国はもちろんのこと、米国すらも対象とされていません。ということで、上巻では、政治的には第1次世界大戦の結果としてソ連が成立し、経済的には米国を発端とする世界恐慌の結果、従来の地方名望家層に基礎を置く政治体制としての民主主義において、所得が十分あるブルジョワジーが政治に参加するとともに、製造業や商業を基盤とする資本主義的な経済が支配的な欧州において、資本主義と共産主義に対する第3の道としてのファシズム、中でもドイツのナチズムの成立がクローズアップされています。そして、下巻では同じく資本主義ながら、政府が積極的に市場に介入するというケインズ的な混合経済とベバリッジ的な福祉国家が1970年代の石油危機を発端とする大幅なインフレで疑問視され始め、この資本主義的な経済に対して、やっぱり、ソ連的な共産主義が対置されて、その第3の道としてのキリスト教民主主義ないし社会民主主義が模索される、というのが、大雑把なストーリーとなっています。どうしても、著者の出身からドイツが欧州の中心に据えられている気がします。ただ、戦前期から社会民主党が政権を担ってきたスウェーデンなどの北欧もありますし、もちろん、例外はいっぱいです。さらに、歴史的なスコープが20世紀で区切られているので、21世紀的なポピュリズムまでは、まあ、2011年の出版でもあり、BREXITや米国のトランプ大東慮y当選、さらに、大陸欧州でのポピュリズム政党の勢力台頭など、最近の出来事には目が届いていない恨みはあります。ただ、冷戦期からウェーバー的な官僚制が国家統治の主要なツールとなり、西側民主主義国政府だけでなく、むしろ、東側の共産主義国家の方でも官僚制がはびこっているとも指摘しており、今でもBREXITでの議論ではEU官僚が批判の矢面に立たされるなど、ポピュリズムの標的とされる場合すらあります。ただ、本書では著者は戦後欧州の民主主義や憲法秩序は、様々なチャレンジを乗り越えてその強靭さを示してきているということになりますが、無条件に自由と民主主義が侵犯されることはないとまではいえず、あくまで、自由と民主主義は「制度化された不確実性」である、ということになろうかと思います。すなわち、欧州においてすら初期設定が自由と民主主義であるわけではなく、主権者である国民自らがこれらを守ることに意図的に取り組む必要がある、ということなのだろうと私は解釈しています。
次に、
アンドレアス・ヴィルシング & ベルトルト・コーラー & ウルリヒ・ヴィルヘルム[編]『ナチズムは再来するのか?』(慶應義塾大学出版会) です。編者は、ドイツの研究者であり、チャプターごとの著者も同じくドイツの政治関係の研究者が主に執筆に当たっています。というか、ラジオ放送をオリジナルにして、新聞も含めてメディアミックス的に展開されたエッセイを取りまとめています。ドイツ語の原題は
Weimarer Verhältnisse? であり、直訳すれば「ヴァイマル状況」という意味だそうです。2018年のヴァイマル共和国建国100年を記念して出版されています。ということで、本編は7章から成っており、原書からの章の組み換えはあるようですが、邦訳書では、政治文化、政党システム、メディア、有権者、経済、国際環境、に加わエて、最後に、外国からのまなざし、となっています。邦訳書には、ヴァイマル共和国略史と訳者あとがきなどの解説が付加されています。邦訳書では第5章に当たる経済のパートの副題が「ヴァイマル共和国の真の墓掘人」と題されており、エコノミストの目から見ても、まったく同感です。というか、ハイパーインフレを招いた通貨発行と緊縮財政の恐るべき組み合わせもさることながら、ケインズ的なマクロ経済政策を先取りするかのような財政拡張的なナチ党の経済政策が大きく上回って、その結果として国民各層、企業経営者も労働者も含めて、有権者の大きな支持を得て政権交代が生じた、ということになろうかと思います。そして、邦訳書のタイトルに設定された問いに私なりに回答しようと試みると、可能性は小さい、ということになろうかという気がします。本書では、あるいは、類書でも、最近の大陸欧州の政治状況、特にポピュリズムの台頭に関して、フランス国民戦のルペン党首とともに、ドイツでは極右とされるドイツのための選択肢AfDが注目されていて、特に地方政府の州議会選挙での躍進が報じられたりして、本書でもAfDとナチ党をなぞらえたり、比較を試みたりする見方が示されています。私は、ドイツ政治の実態を知らないので、何ともいえませんが、少なくとも私の理解する限り、ナチ党が政権に就いたひとつの要因に暴力による威嚇や脅威があったと考えています。すなわち、突撃隊SAや親衛隊SSというナチ党の私兵的な存在が警察や国防軍に入り込み、政府が集中管理する暴力に紛れてナチ党の暴力が国民の恐怖を引き起こして、決してドイツ国民の理性的な判断ではない投票結果をもたらした可能性があると私は考えています。これは、実は、スターリン政権下でのソ連も極めて類似しており、秘密警察が国家権力そのものであった違いだけであろうと思います。その意味で、現在のAfDがかつてのナチ党のSAやSSのような暴力装置をどこまで持っていて使用しているのか、私は知りませんが、21世紀の民主主義国家でSAやSSのような暴力装置が政権奪取にパワーを発揮するという政治状況は、控えめにいっても、あってはならないことだという気がします。
次に、
デイビッド・ウォルトナー=テーブズ『昆虫食と文明』(築地書館) です。著者は、カナダの疫学者、獣医学の研究者です。英語の原題は
Eat the Beetles! であり、音楽グループのビートルズ Beatles と甲虫をもじっています。2018年の出版です。ということで、本書のモチーフとなったのは、冒頭にも言及されている通り、2013年に報告された
FAO Edible insects: Future prospects for food and feed security のようです。近代から現代にかけて、人類がマルサス主義的な悲観論を克服したのは、アジアなどにおける「緑の革命」による食糧生産、中でも穀物生産の画期的な増加だったわけですが、我が国の明治期にも軍医としても森鴎外がカロリー摂取の点から白米の食事に全面的な信頼を置いていたのに対して、さすがに、21世紀に入れば主食の穀物だけでなく動物性タンパクが必要になりますから、こういった昆虫食のような発想が出るんだろうと思います。特に、本書でも何度も指摘している通り、欧州に起源をもつ人は昆虫食の文化がない一方で、日本の鮨が周辺~世界の中心的な食事になったことから、昆虫食についてもその可能性を秘めていると指摘しています。FAOの研究リポートや本書によれば、昆虫はウシ、ブタなどの家畜の肉に比べて高タンパクで、体によいとされる不飽和脂肪酸や鉄などの造血ミネラルも豊富に含んでおり、養殖するにしても他の家畜に比べて飼料効率が格段によく、発生する温暖化ガスや廃棄物は少なくて済み、その上に、養殖のためのインフラ整備にコストがかからない。とされており、いわゆるSDGsの観点からも人類は昆虫食から得るものが多い、と結論されています。昆虫を食用に用いないというのは、少なくとも宗教的な観点ではありません。広く知られている通り、ブタについてはユダヤ教やイスラム教ではタブーですし、ヒンズー教徒はウシを神聖視していたりもします。世界的にも、養殖の牛や豚などではなく自然の野生生物の食肉を用いたジビエがファッション的な観点からも注目されていますし、日本はもともとイナゴやハチノコなどの昆虫食があったりもします。しかしながら、そうはいっても、私自身は昆虫食をしたことがありませんし、抵抗感があるのも事実です。地球環境やSDGsの観点といわれても、ピンと来ないのも事実です。果たして、どこまで昆虫食が日本や欧米先進国で進むかは、大きな疑問ともいえます。本書でも、事前に私が想像したよりも、写真や図版がとても少ない気がしますが、そのあたりの配慮かもしれないと考えるのはよろしくないんでしょうか。
次に、
東野圭吾『希望の糸』(講談社) です。作者は売れっ子のミステリ作家であり、ガリレオのシリーズなどで有名ですが、本書は加賀恭一郎シリーズの作品で、でも、主役は加賀恭一郎の従弟の松宮脩平だったりします。内容は、2つの独立した家族関係、というか、イベントというか、静的には家族関係で、動的には殺人事件というイベント、ということになろうかという気がしますが、これらが同時並行的に謎として解決される、というミステリに仕上がっています。すなわち、一方は加賀や松宮が仕事として取り組む殺人事件であり、他方は松宮の個人的な出生の事実であり、いずれも謎解きの醍醐味が味わえます。この作者らしい切れ味鋭く、しかも、私の好きな徐々に真実が明らかにされる、という手法です。逆から見て、最後のどんでん返しはありません。ミステリですから、ここまでなんですが、タイトルについて少し考えておきたいと思います。すなわち、タイトルの「希望の糸」とは要するに家族のつながりなんですが、私の目から見て、やや遺伝的、というか、DNAに偏重した家族観ではないかという気がしています。同じような家族のつながりについて、表立ってはいないかもしれませんが、ひとつのテーマとして含んだ小説はいっぱいあり、私の好きな作家の作品として一例をあげると、三浦しをんの「まほろ駅前」シリーズがあります。このシリーズで作者の三浦しをんは遺伝子やDNAよりも、圧倒的に家族として過ごした関係とか時間の長さなどに重きを置いた家族観を披露しています。典型的には、行天と三峯凪子の間の子であるはると行天の関係です。行天のパーソナリティという設定なのですが、遺伝的には正真正銘の親子であっても行天は小さい子供であるはるを受け付けません。逆に、第1作の『まほろ駅前多田便利軒』のラストでは、体格から新生児の取り違えを強く示唆する一家の幸せそうな姿も描かれています。私は、これは男だからという生物学的な要素もあるのかもしれませんが、圧倒的に三浦しをんの家族観を支持します。もちろん、遺伝的なつながりが家族の基礎にあることは決して否定しませんが、家族とは文明以前の生物学的な観点から子孫を残すために結成されたグループなのではなく、社会的な生活を営むためのグループではないか、と私は考えています。その意味で、この作品に少し不満が残らないでもないんですが、少なくとも、松宮の出生の秘密に対する松宮本人と松宮母の受け止めの違いを読者は感じ取ってほしい気がします。私のようにこの作者のファンであれば、読んでおくべきだという気がします。
最後に、
宮部みゆき『さよならの儀式』(河出書房新社) です。これまた、上の東野圭吾とともに売れっ子のミステリ作家であり、私からクドクドと説明する必要はないと思います。本書は、この作家の恐らく初めての本格的なSF短編集だと私は考えています。なぜに「本格的な」という形容詞を付けたのかというと、今作者の作品の中で、ゲームの原作的な作品や超能力をモチーフにした作品がいくつかあり、基本的には近未来や現代から時代小説でも超能力や『荒神』のような化け物のような非現実的な作品もあるんですが、あくまで「本格的」と形容されるSFは初めて、という気がするからです。この作者の作品はかなり数多く読んでいるつもりですが、読み逃しがあるかもしれませんが、私の知る範囲でそういうことになろうかという気がします。短編集ということで、8編の短編が収録されています。収録順に、「母の法律」、「戦闘員」、「わたしとワタシ」、表題作の「さよならの儀式」、「星に願いを」、「聖痕」、「海神の裔」、「保安官の明日」となります。「母の法律」では、児童虐待防止のためにマザー法が制定され、記憶消去だか、記憶沈殿だかの記憶の操作まで行われる社会での親子関係を描きます。「戦闘員」では、侵略者が監視カメラに化けて出没する中で、リタイアした老人がこの侵略者を破壊する戦闘員となって戦います。「わたしとワタシ」では、45歳のわたしの前に、中学生のワタシがタイムスリップして現れるというコミカルな短編です。表題作の「さよならの儀式」では、古くなり修理部品もままならない家事ロボットを廃棄する際の切ない感情を取り上げています。「星に願いを」では、宇宙人が乗り移って妹が体調を崩したり、駅前で無差別殺人が起こったりします。「聖痕」では、ある意味で神戸の「酒鬼薔薇事件」の犯人を示唆している「少年A」が黒き救世主となって児童虐待の復讐に現れ、鉄槌のユダまで登場します。なお、本編は『チヨ子』に収録されている同タイトルの短編との異同が不明でした。「海神の裔」では、ゾンビというか、フランケンシュタインのように死者をよみがえらせることが国家施策となっていた世界について老女がモノローグで語ります。最後に、「保安官の明日」では、人造擬体をキーワードに大富豪が人生の悲劇の原因を探るためにシミュレーションを行う世界を描き出しています。ということで、各短編作品のSF度はそれほど高くなくて、現在の社会とはホンの少しビミョーに違っているだけなんですが、作者の世界観がすごいと感じさせられました。同時に、マイノリティーや弱者に対する作者のやさしい眼差しが印象的です。宮部ワールドの新しい方向性かもしれません。現代日本を代表する女性小説家の1人の最新作ですから、私のようなファンでなくても読んでおくべきだという気がします。
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