先週の読書は経済書『グローバル・バリューチェーン』や教養書から小説までよく読んで計7冊!!!
昨日に米国雇用統計が入ってしまって、いつも土曜日の読書感想文が今日の日曜日にズレ込んでしまいました。『グローバル・バリューチェーン』や東京大学出版会の学術書といった経済書、さらに、教養書に加えて、道尾秀介の話題の小説まで、幅広く以下の通りの計7冊です。また、いつもの自転車に乗っての図書館回りもすでに終えており、今週の読書も数冊に上りそうな予感です。
まず、荒巻健二『日本経済長期低迷の構造』(東京大学出版会) です。著者は、その昔の大蔵省ご出身で東大教授に転出した研究者です。本来のご専門は国際金融らしいのですが、本書ではバブル経済崩壊以降の日本経済の低迷について分析を加えています。出版社から考えても、ほぼほぼ学術書と受け止めていますが、それほど難しい内容ではないかもしれません。というのは、著者はが冒頭に宣言しているように、特定のモデルを念頭にした分析ではなく、したがって、モデルを数式で記述する意図がサラサラなく、マクロ統計データを基にしたグラフでもって分析を進めようとしているからです。ですから、各ページの平均的な面積で計測したボリュームの⅓から半分近くが文字ではなくグラフのような気が、直感的にします。あくまで直感ですから、もちろん、それほどの正確性はありません。ということで、まったくエコノミスト的ではない方法論ながら、バブル崩壊後の日本経済の低迷について、国内要因と海外要因、あるいは、供給サイドと需要サイド、財政政策と金融政策、家計部門と企業部門、などなど、いくつかの切り口から原因と対応策を考えた上で、企業部門の過剰ストック、という、エコノミスト的な用語を用いればストック調整が極めて遅かった、ないし、うまく行かなかった、という結論に達しています。いくつかに期間を区切って分析を進めていますが、特に、停滞が激しくなったのは1997年の山一證券、三洋証券、拓銀などが破綻した金融危機からの時期であるとするのは、衆目の一致するところでしょう。しかし、結局、「マインドセット」という耳慣れない原因にたどり着きます。それまでの統計を並べた分析とは何の関係もなく、企業部門の行動パターンの停留にある毎度セットに原因を求める結論が導かれた印象です。あえて弁護するとすれば、あらゆる可能性を統計的には叙すれば「マインドセット」が残る、といいたいのかもしれません。でも、わけの判らない結論だけに制作的なインプリケーションがまったく出てきません。あえてムリにこじつけて、本書ではデフレ対策の意味も兼ねて、ストック調整を無理やりに進めて供給サイドのキャパを削減することを指摘しています。かつての nortorious MITI のように各社に設備廃棄を行政指導したりすることが念頭にあるとも思えず、苦笑してしまいました。確かに、私もかつてのリフレ派のように「金融政策一本槍でデフレ脱却」というのは、ここまで黒田日銀が異次元緩和を続けてもダメだったんですから、そろそろ考え直す時期に来ているというのは理解します。しかし、本書がその意味で役立つとはとても思えず、「やっぱり、現代貨幣理論(MMT)ですかね」という気分になってしまいました。ちゃんと勉強したいと思います。
次に、猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』(日本経済新聞出版社) です。著者はJETROアジア経済研究所のエコノミストです。途上国経済の分析や開発経済学の専門家が集まっているシンクタンクですが、実は、本書の副題も「新・南北問題へのまなざし」とされていて、単純にサプライチェーンを新たな呼び方で分析し直しているわけではありません。ただ、本書はほぼ学術書と考えるべきで、一般的なビジネスパーソンにも十分読みこなせるように配慮されていますが、それなりにリファレンスにも当たって読みこなす努力があれば、各段に理解が深まるように思います。もちろん、モデルを説明するのにはビジュアルな図表を用いて数式はほぼ現れない、という配慮はなされています。ということで、本書のタイトルではなく、一般名詞としてのグローバル・バリュー・チェーン(GVC)については、本書でも参照されているように、PwCのリポートでデジタル経済におけるサプライチェーンの特徴づけがなされていて、従来のような直線的な調達・生産・流通といったルートから顧客に届けるんではなく、それぞれの段階に応じてサプライチェーンを管理する必要性が指摘されています。ただ、本書はそういったマネジメントや経営学的なサプライチェーンではなく、もっと純粋経済学的な理論と実証の面からGVCを分析しています。その観点はいくつかありますが、第1に、産業連関表というマクロ経済の鳥観図の観点からの分析です。付加価値ベースで、どの国でどの産業の製品をアウトプットとして製造しているか、そのためにどの産業の製品をインプットとして用いているか、関連して雇用なども把握できる分析ツールが産業連関表であり、本書では世界経済レベルの連結した国際産業連関表をベースにした議論がなされています。第2に、最新の貿易理論の視点です。古典的ないし新古典派的な経済学では、リカードの比較生産費説に始まって、サムエルソン教授らが精緻化を図りましたが、本書でも指摘されているように、モデルのいくつかの前提を緩めて現実に近づけていく中で、クルーグマン教授らの新貿易理論、さらに、メリッツ教授らの新・新貿易理論に到達し、さらに、GVCの分析から新・新・新貿易理論まで展望しています。第3に、途上国や新興国の経済開発に関する視点です。従来は、直接投資などで外資を受け入れ、垂直的な向上生産を丸ごと途上国や新興国に資本や技術を移転するという観点でしたが、GVCでは生産の部分的な貢献により先進国から技術やマネジメントの導入が可能となり、比較優位がさらに細かくなった印象を私は持ちました。その昔、リカードは英国とポルトガルで綿織物とブドウ酒の例で比較優位に基づく生産の特化をモデル化しましたが、すでに、1990年代には半導体の前工程と後工程の分割など、生産の細分化により世界中で幅広く生産を分散化するという例が見られています。本書冒頭では、アップルのiPhpneが米国カリフォルニアでデザインされ、中国で生産された、という、それはそれで、少しややこしい生産ラインについて言及していますが、いろんなパーツを持ち寄ってアッセンブルするという生産が決して例外ではなくなっています。そして、最後に、そういった生産工程の一部なりとも自国に取り込むことにより、工学的なテクノロジーや経営的なマネジメントなどの導入を通じて途上国や新興国の経済開発に寄与する道が開かれたわけです。こういった幅広い観点からGVCの理論的・定量的な分析が本書では進められています。ただ、その前提として自由で公正な貿易システムが不可欠です。現状の米中間の貿易摩擦はいうに及ばず、世界的に自国ファーストで政治的・経済的な分断が進む方向はエコノミストとして、特に、私のように自国の経済はもとより、途上国や新興国の経済発展にも目を配る必要を感じているエコノミストには、とても疑問が大きいと考えています。
次に、本川裕『なぜ、男子は突然、草食化したのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、統計の専門家で「統計探偵」を自称し、財団だか社団だかのご勤務の傍ら、ネット上の統計グラフ・サイト「社会実情データ図録」を主宰しているんですが、私の記憶が正しければ、役所からはアクセスできなかったです。理由はよく判りません。その昔は、マンキュー教授の Greg Mankiw's Blog にもアクセスできませんでしたから、私が文句をいって見られるようになったこともありました。どうでもいいことながら、私が役所に入った際に上司の局長さんは「景気探偵」を自称し、シャーロッキアンだったりしました。今年亡くなられたところだったりします。ということで、前置きが長くなったのは、本書の中身にやや疑問がないわけではないためで、特に、タイトルにひかれて社会生態学的な若者論を期待した向きには残念な結果となりそうで、本書はひたすら統計をグラフにして楽しんでいる本です。ただ、統計のグラフからその原因を探ろうとしているところが「探偵」を自称するゆえんなんだろうと思いますが、因果関係にはほとんど無頓着なようで、タイトルになった「草食化」についてはいくつか統計的なグラフを示した後、その原因は統計やグラフとは何の関係もなく世間のうわさ話や著者ご自身の思い込みから類推していたりします。しかも、著者の主張する「草食化」の原因たるや、原因か結果かが極めて怪しいものだったりします。2つのグラフを書いて見て時期が一致いているから、というのが理由のようです。もちろん、経済学の分野ではグレンジャー因果という概念があって、先行する事象をもって原因と見なす計量分析手法が一定の地保を占めていて、実は私の査読論文もこれを使ったりしているんですが、それならそれで明記すべきですし、時系列の単位根検定などもあった方がいいような気もします。また、エンゲル係数の動きの解釈なんか、私から見ればムリがあるような気がしないでもありません。加えて、統計以外のトピックから持って来るとすれば、高齢者就業率なんかはいわゆる団塊の世代の特異な動向にも言及する必要があるような気がするんですが、そのあたりはスコープにないのかもしれません。ですから、何かの経済社会的な現象についての原因を探るよりは、その経済社会的な現象そのものが世間の見方とは少し違う、という点を強調するしかないようで、世間一般の見方、すなわち、常識と少し違うという主張が本書の主たる内容であると考えるべきです。半年ほど前の今年2019年3月30日付けの読書感想文で、ゲアリー・スミス『データは騙る』を取り上げましたが、本書で解説されているうちのいくつかが該当しそうな気すらします。マーク・トウェインの有名な言葉に、「ウソには3種類ある。ウソ、真っ赤なウソ、そして、統計である」という趣旨の格言がありますが、ひょっとしたら、ホントかもしれない、と思わせるものがありました。少なくとも、今はポストトゥルースの時代ですし、平気で情報操作がなされるわけですから、世間一般に解釈されている内容と別の事実が統計から浮かび上がってくるのであれば、まず、それを健全なる常識に照らし合わせて疑ってみるべきです。もう少し、通説とか、一般教養とか、健全なる常識というものをしっかりと持った上で、統計的あるいは計量的にそれを裏付ける努力をすべきであり、悪質な改ざんや意図的なごまかしとは違う次元で、本書はそれなりに問題を含んでいる可能性があることを指摘しておきたいと思います。私の学生時代にブルーバックスから出た古い古い本で『統計でウソをつく法』というのをしっかり勉強する必要があるのかもしれません。少なくとも、統計から得られる事実を、自分の思い込みや世間のうわさ話で解釈するのはムリがあるような気がします。その典型が「草食化」なのかもしれません。
次に、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』(弘文堂) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の研究者であり、米英における白人労働者階級の研究が専門のようです。英語の原題は The New Minority であり、2016年の出版です。邦訳書のタイトルはかなり直訳に近い印象です。ということで、訳者あとがきにもあるように、原書が出版された2016年とは英米で2つの国民投票におけるポピュリズム的な結果が世界を驚かせた年でした。英国のEU離脱、いわゆるBREXITと米国の大統領選挙でのトランプ候補の勝利です。これらの投票結果を支えたのが、本書でいうところの白人労働者階級であり、民族的にも人種的にも、かつては英米で多数を占めていたにもかかわらず、現在では新しい少数派になっている一方で、少なくとも2016年の英米における国民投票では大きな影響力を発揮した、ということになります。その英米両国における白人労働者階級について、英国の首都ロンドン東部と米国のオハイオ州においてフィールドワークを行い、計120人、うち約3割の35人はエリート層から選ばれた対象にインタビューを実施するとともに、定量的な分析も実施しつつ、いろんな面からの英米両国における白人労働者階級の実態を明らかにしようと試みています。ですから、というわけでもありませんが、本書はほぼほぼ完全な学術書です。第2章ではかなり広範囲な既存研究のサーベイがなされていて私もびっくりしましたし、フィールドワークのインタビューでも、定量分析でもバックグラウンドにあるモデルがよく理解できます。というか、少なくとも私には理解できました。そして、これらの白人労働者階級をアンタッチャブルで剥奪感大きなクラスとして見事に描き出しています。ポピュリズムの分析で、特に、英米の白人労働者階級にスポットを当てたものとして、この私のブログの読書感想文でも数多くの文献を取り上げていますし、訳者あとがきにも取り上げられていますが、本書は遅れて邦訳されたとはいえ、第一級の内容を含んでいて、通俗的ともいえるナラティブで一般読者を納得させる上に、きちんとモデルを背景に持った学術的な分析も十分に含んでいます。最後に、本書からやや離れるかもしれないものの、私が従来から強く思うに、こういった白人労働者階級は、かつてミドルクラスであり、特に英米両国に限らず欧米各国では広くマジョリティであったわけですが、その階層分解の過程で、20世紀初頭のロシアにおける農民層分解と同じように、何らかの左派のリベラル勢力がスポットを当てて、白人労働者階級の利益を代表して政策を打ち出すことが出来ていれば、ひょっとしたら、右派的なポピュリズムとは逆の目が出ていた可能性があるんではないか、という気がします。繰り返しになりますが、強くします。現在の英国労働党におけるコービン党首の打ち出している方向とか、米国民主党のサンダース上院議員の政策が、それを示唆しているように私は受け止めています。金融政策では為替動向を見据えつつ緩和を推進するとともに、財政政策では反緊縮でしょうし、企業の法人税を引き下げるのではなく、国民の雇用を確保して所得増を目指す方向です。
次に、マーティン・プフナー『物語創世』(早川書房) です。著者は、米国ハーバード大学の演劇学や文学の研究者です。英語の原題は The Written World であり、2017年の出版です。地政学という言葉は人口に膾炙していますが、最近では経済地理学というのもありますし、本書はそういう意味では地理文学ないし地文学、ともいえる新しいジャンルを切り開こうとするものかもしれません。というのは、著者が著名な文学、ないし、英語の現タイトルのように書かれた記録に関する場所を訪れた経験を基に、その書かれた記録がひも解かれているからです。取り上げる対象は、聖書から始まって、「ハリー・ポッター」まで、本とか書物と呼ばれるモノなんですが、中身によって宗教書のようなものから、もちろん、小説がボリューム的には多くの部分を占めるんでしょうが、新聞やパンフレット、あるいは、宣言=マニフェストまで幅広く対象としています。それらの対象となる書物の中から、著者は「基盤テキスト」というものを主張し、これこそが世界に幅広くかつ強い影響力を及ぼす、と考えているようです。その典型例はいうまでもなく「聖書」であり、キリスト教政界にとどまらず、幅広い影響力を有しています。影響力が強すぎて、さすがに、地動説こそ広く受け入れられましたが、例えば、宇宙や世界の始まりに関するビッグバン、あるいは、ダーウィン的な進化論を否定するような非科学的な考え方すら一部に見受けられる場合もあったりします。これらの基盤テキストとして、本書では聖書に加えて、古典古代の『イリアス』や『オデュッセイア』。『ギルガメッシュ叙事詩』、さらに、やや宗教色を帯びたものも含めて、ブッダ、孔子、ソクラテス、『千夜一夜物語』、中世的な騎士道を体現しようとする『ドン・キホーテ』、などが解明され、我が国からは世界初の小説のひとつとして『源氏物語』が取り上げられています。異色な基盤テキストとしては「共産党宣言」が上げられます。これらの基盤テキストの著者に本書の著者のプフナー教授がインタビューした本書唯一の例が、第15章のポストコロニアル文学に登場するデレク・ウォルコットです。セントルシア出身の詩人であり、1992年にノーベル文学賞を授賞されています。ちょうど、私が在チリ日本大使館の経済アタッシェをしていて、ラテン・アメリカに在住していた時期であり、しかも、1992年とはコロンブスの新大陸発見からまさに500年を経た記念すべき年でしたので、私もよく記憶しています。当時、チリ人とついついノーベル文学賞の話題になった折り、「日本人でノーベル文学賞受賞者は何人いるか」という話題になり、1995年の大江健三郎の受賞前でしたから川端康成たった1人で悔しい思いをした記憶があります。というのは、その時点でチリ人のノーベル文学賞受賞者は2人いたからです。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと革命詩人のパブロ・ネルーダです。ウォルコットもそうですが、日本で的な短歌や俳句を別にすれば、我が国の詩人の詩が世界的に評価されることは少ないように私は感じています。詩に限らず小説も含めて、スペイン語や英語といった世界的に広く普及している国際言語を操るラテン・アメリカ人と違って、日本人や日本語のやや不利なところかもしれないと感じたりします。やや脱線しましたが、本題に戻って、小説や詩といった文学に限定せず、世界的に影響力大きい基盤テキストについて、地理的な要素を加味しつつ、それらが「書いたもの」として記録された意味を考える本書はなかなかに興味深い読書でした。今週一番です。
次に、須田慎太郎『金ピカ時代の日本人』(バジリコ) です。著者は報道写真家であり、本書の期間的なスコープである1981年から1991年の約10年間は、主として、我が国における写真週刊誌第1号として新潮社から1981年に発効された「フォーカス」の専属に近い写真家であったような印象を私は持ちました。我が国では、写真家の先達として、賞にもなっている木村伊兵衛と土門拳があまりにも有名ですが、本書の著者は報道写真ということですから、後者の流れをくんでいるのかもしれません。というのは、木村伊兵衛はどちらかといえば、ということなんですが、人物や風景などのポートレイトが多いような印象を私は持っているからです。現在では、写真の木村賞といえば、小説の芥川賞になぞらえられるように、写真家の登竜門として新人写真家に対して授与され、他方、土門賞といえば、小説の直木賞のように、報道も含めてベテランで大衆的な写真家に授与されるような傾向あるものと私は理解しています。なお、「フォーカス」のような写真雑誌としては、海外では Life などが有名ですし、我が国では考えられないんですが、社交誌のような雑誌も発行されていたりします。実は、私が1990年代前半に在チリ日本大使館に勤務していた折、当地の Cosas という社交誌にチリの上院議員とともに収まった写真が掲載されました。今でも記念に持っていたりします。さらに、著者は定年退職したばかりの私の1年年長であり、本書の時期的なスコープがほぼほぼ私の社会人スタートと重なっています。しかも、タイトルに「金ピカ時代」、たぶん、英語では Gilded Age と呼ばれ、特に米国では南北戦争終了後の1870~80年代の急速な発展期と目されていますし、本書でも1981~91年はバブル経済の直前とバブル経済の最盛期と見なしているようです。まあ、いろんな視点はあるわけで、日銀的に、その後のバブル崩壊のショックまで視野に入れて、バブル期を評価しようとする場合もあるんでしょうが、私のようにその時代を実体験として記憶している向きには、華やかでそれなりに思い出深い時期、と見る人も少なくないような気もします。その後、我が国のバブルは崩壊して、私も海外の大使館勤務で日本を離れたりします。しかも、本書では写真家が著者ですので、著述家や作家と違って、被写体がいるその場に臨場する必要があるわけですから、とても迫力があります。もちろん、バブル経済直前とその最盛期の日本ですから、本書でも言及されているロバート・キャパ、あるいは、マン・レイのように戦場の写真はまったくありません。日本人でも沢田教一のように戦場の写真を撮り、戦場で死んだ写真家もいましたが、まあ例外なのかという気はします。架空の写真家としては吉田修一の小説の主人公である横道世之介がいますが、写真家としての活躍はまだ小説にはなっていません。本書では、上の表紙画像に採用されているようなAV女優に囲まれる村西とおる監督とか、あるいは、当時のトップレス・ノーパン喫茶の取材などの際の写真、といったくだけたものから、政治家や財界人などの写真、あるいは、山口組3代目組長の妻や4代目組長の写真などなど、歴史的な背景の記述とともに写真も幅広く収録されています。ただ、私の目から見て、なんですが、経済は人が出て来ませんので写真になりにくい恨みはありますが、スポーツの写真がかなり少ない印象でした。報道写真としてはスポーツも必要で、特に本書のスコープの中には1985年の阪神タイガース日本一が含まれますので、やや残念な気はします。
最後に、道尾秀介『いけない』(文藝春秋) です。著者は、なかなか流行しているミステリ作家であり、私も大好きな作家の1人です。作品の8割方は読んでいると自負しています。この作品は、私の目から見て、「xxしてはいけない」という各賞タイトルが付いた3章の中編ないし短編集と考えています。連作短編集です。ただ、最後のエピローグも含めて4章構成の連作短編集とか、あるいは、全部ひっくるめて長編と考える向きがあるかもしれません。全体を通じて、この作家特有の、何ともいえない不気味さが漂い、ややホラー仕立てのミステリに仕上がっています。特に、第1章は倒叙ミステリではないかもしれませんが、実に巧みに読者をミスリードしています。そして、この第1章だけは蝦蟇倉市のシリーズとして、アンソロジーに収録されていて、私も読んだような記憶がかすかになくもなかったんですが、なにぶん、記憶容量のキャパが小さいもので、実に新鮮に読めたりしました。ただ、第2章以降も含めて、十王還命会なる宗教団体を中心に据えたミステリに仕上げた点については、疑問に思わないでもありません。もちろん、ホックの短編「サイモン・アーク」のシリーズと同じように、いかにも、近代科学では説明できない超常現象のように見えても、近代科学の枠を決して超えることはなく、その近代科学と論理の範囲内で謎が解ける、という点については高く評価するものの、宗教団体、特に、新興宗教というだけで、何やら胡散臭いものを感じる私のような読者もいることは忘れて欲しくない気もします。特に、本書の殺人事件は警察レベルではすべてが未解決に終わるんですが、その背後に宗教団体がいては興醒めではないでしょうか。ただ、読後感は決して悪くなく、上手く騙された、というか、何というか、各章最後の10ページほどで真実が明らかにされ、大きなどんでん返しが体験できます。私自身は、どちらかというと、ディヴァー的なものも含めて、ラストのどんでん返しよりも、タマネギの皮をむくように、徐々に真実が読者の前に明らかにされるようなミステリ、例えば、最近の作風では有栖川有栖の作品などが好きなんですが、こういったどんでん返しも、本書のように読後感よくて上手く騙された感がありますので、いいんではないかという気がします。実は、オフィスから帰宅の電車で読み始め、家に帰りついてから夕食も忘れて一気読みしました。250ページほどの分量というのも適当なボリュームだった気がします。なお、先週の読書のうち、本書だけは買い求めました。借りようとしても待ち行列があまりに長かったからで、加えて、来月から消費税率が引き上げられますので、小説ばかり何冊か買い求めたうちの1冊でした。本書を含めて5冊ほど早大生協で買い求めましたので、少しずつ読んでいこうと考えています。
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