今週の読書は、ペースダウンの予定だったのですが、もっとも近い区立図書館が10月いっぱい休館らしく、何の関係もないものの、ついつい読み過ぎてしまいました。来週は後半が忙しくなる予定で、一応、暑い中を図書館回りを終えて数冊借りて来たんですが、さすがに、2~3冊に減るんではないかという気もします。今週の読書は小説2冊も含めて、以下の計8冊です。
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まず、中野剛志『奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ) です。同じ著者によるシリーズ前編【基礎知識編】は8月24日付けの読書感想文で取り上げています。【基礎知識編】では、現代貨幣理論(MMT)に基づくマクロ経済学を展開していて、【戦略編】となる本書の冒頭では簡単にそのおさらいをしてから、MMT理論を普及させるための戦略、また、どうしてMMTが現時点でそれほど受け入れられていないのか、といった議論が展開されています。本書の議論は私はどちらもとてもよく理解できるような気がします。ここで、「どちらも」というのは、MMT理論そのものとMMT理論が学界や政策当局に受け入れられないその両方を指しています。というのは、私はかなりの程度にMMTは正しいと本能的に感じている一方で、どこか頭の中で「怪しげ」と感じる部分もあるからです。今夏にレイ教授によるテキストである『MMT現代貨幣理論入門』の邦訳書が東洋経済から出版されていながら、諸般の事情によりまだ読めていません。本書で引用されているラガルド女史によれば、主流派経済学のように数式をきれいに展開していて、それなりの説得力ある理論である、とのことで、私も直感的かつ本能的ながら、MMTは理論的には十分成り立っているんだろうと理解しています。自国通貨建ての国債であれば、いくら積み上がってもデフォルトに陥るおそれはなく、財政政策をインフレ率で判断するというのは、従来からもある考えです。少なくとも、日銀が物価目標を掲げる前に、旧来理論でハイパーインフレに言及していたようなエコノミストの主張はもうなくなりましたし、岩石理論もご同様です。ただ、現在の日銀の量的緩和と同じで、出口に一抹の不安が残るのも事実です。本書では、インフレ率が一定の水準に達した段階で前年度と同じ財政赤字にすればいい、という主張なんですが、ホントにそれで済むのか、これも私の直感ではそれでOKのように受け止めているんですが、不勉強が原因となって不安を覚えているだけのような気がします。ただ、私が主張したいのは、MMTはインフレというマクロのアグリゲートされたターゲットには有効なんですが、逆から見て、量的なターゲットだけでなく、質的、あるいは、分配面からの格差是正などについて目が行き渡っていないような気がします。すなわち、インフレ、というか、デフレからの脱却については、ある意味、本書で展開するMMT理論で十分なんですが、MMTが政策的に採用されないうちにでも分配政策によって格差や格差に一部ながら起因する成長促進などの課題の改善は可能ではないか、という気がする次第です。本書の議論を否定しようとはまったく思いませんが、MMTの実践だけが解決策ではないという点も忘れるべきではありません。
次に、山口周『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社) です。著者は、コンサル出身の著述家で、講演などでも見かける方ではないかと思います。本書は、習慣ダイヤモンドで連載されていたコラムを取りまとめて単行本化したもので、ダイヤモンド・オンラインのサイトでも読むことが出来ます。もちろん、本書のタイトルはガンダムのアムロ・レイなどのニュータイプと似てはいますが、少し違います。すなわち、商品生産やサービス供給が十分人々の欲望を満たす水準にまで達し、消費に飽和感がある中で、いくつかの古い思考や行動の様式を新しくする方向について議論しています。例えば、問題がいっぱいあった従来の社会では、その問題の解決方法を探るのが主要な課題であり、オールドタイプのエリートは解決策の提示ができる人だったわけで、実は、本書の著者もその一種ではないかという気がしないでもないんですが、ニュータイプはビジョンを持って望ましい状態と現状との差を「問題」として捉え、その問題発見ができる人、ということになります。また、その実現の一つの形式であるイノベーションについても、こういった解決すべき課題=問題なしにイノベーションそのものにこだわっていると本末転倒である、と指摘し、解決すべき問題がないのに技術的に凝った乗り物を作ってしまったセグウェイの失敗例を引いていたりします。実に、私も感心してしまいました。他方で、私のように、現在の資本制的な生産や分配のシステムをもっと柔軟に改革して、あるいは、もっと過激に資本主義から社会主義に革命を起こす、という方向性は否定されています。私自身はこの方向性をアプリオリに否定するものではありません。ケース・バイ・ケースで考えるべきだと思います。本書のp.28にあるオールドタイプとニュータイプの新旧対照表を、ダイヤモンド・オンラインのサイトから引用すると以下の通りです。私は下の5項目、すなわち、ルールに従う⇨自らの道徳観に従う、一つの組織に留まる⇨組織間を越境する、綿密に計画し実行する⇨とりあえず試す、奪い、独占する⇨与え、共有する、経験に頼る⇨学習能力に頼る、はこの通りだと思います。
次に、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社) です。著者についてはよく判りません。本書では、差別について、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)との関係で、いろんな考察や分析を進めています。ポリコレ的には差別はいけないわけですが、実際にレイシストはいますし、ヘイトスピーチも後を絶ちません。そのあたりの周辺事情、というか、現実的な実態解明と対応につき考えています。特に、本書では、足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない、というフレーズが繰り返し引用され、差別されたサイドの痛みの理解についても思いをいたしている気がします。ポリコレに関してはあまり実践も応用もないように見受けるんですが、私が2016年の米国大統領選挙について、たぶん、このブログの場だと思うんですが、ポリティカル・コレクトネスが行きつくところまで行って、米国に黒人大統領が誕生したのが当時のオバマ米国大統領であり、その振り子が反対側に振れた、との感想を持ちました。ポリティカル・コレクトネスなんて、行きつくところまで行けば反転する可能性もあると私は考えていますし、何よりも、1990年代にいわゆる米ソの冷戦が明確に終了して、ソ連的な共産主義が大きく後退し、中国やベトナムなどに極めて市場経済的な社会主義は残るものの、冷戦が終了した段階で国内的な意思統一が不要になって、いろんな意見が飛び出し始めている、というのも事実です。冷戦時代にソ連に負けないためには、米国内でもそれなりの意思統一が図られて、いわば、一致団結してソ連に対峙する必要があったものの、その必要がなくなったわけです。いまだに、この冷戦型の国内世論統一を図ろうとしているのが韓国の文政権といえます。民主主義が未成熟としか私の目には見えません。まあ、韓国は別としても、実は、米国でもそれほど民主主義が成熟していなかったわけで、対外的な仮想敵国がいなくなった途端に国内で清掃が始まってしまった、と私は解釈しています。加えて米国では、2001年のテロから国内的な統一が一時的に強化されましたが、それも20年近くを経過してテロの実行例も少なくなり、外国に対する緊張感が弛緩して、国内での政争に目が移った、ということなんだろうと思います。欧州もご同様です。本書では、カール・シュミットにならって、アイデンティティを基礎とする民主主義とシチズンシップを基礎とする自由主義を対比して、差別やハラスメントの原因をアイデンティティがシティズンシップをオーバーテイクしたことに求めようと試みていますが、私の目には成功しているとは思えません。
次に、リチャード・ローズ『エネルギー400年史』(草思社) です。著者は米国のジャーナリスト・作家であり、ピュリツァー賞の受賞経験もあるようです。英語の原題は Energy: A Human History であり、2018年の出版です。動力、照明、新しき火の3部から構成され、軽く600ページを超えるボリュームですが、これも邦訳がいいのか、私の興味分野だからなのか、割合とスラスラと読み進むことが出来ました。でも、私にして読了するのに2日かかりましたので、それ相応に時間はかかると覚悟すべきです。ということで、邦訳タイトルにあるように、薪から始まった400年に及ぶエネルギーの歴史をひも解こうと試みています。ただし、エネルギーだけではなく、外国人ジャーナリストに多い傾向なんですが、周辺事情までていねいに情報を集めた上に、集めた情報はすべて本に詰め込まないと気が済まないようで、ややムダの多い本だという気もします。極めて大雑把にエネルギーの歴史を概観すると、まあ、誰にでも判るところで、薪から石炭に、石炭は石油に、石炭・石油は天然ガスに、さらに原子力に、そしてそして、今からは再生可能エネルギーに、その主役を次々と交代しています。そして、そのエネルギーの利用の目的も、かつては調理と暖房、せいぜいが灯りだったんですが、石炭以降からは大規模に産業や運送で利用されるようになっているのは周知の事実です。エネルギーを動力源として用いる場合、蒸気機関、内燃機関、発電機と歴史的な発展があり、輸送に使う場合は、蒸気車、蒸気機関車、自動車、電車、もちろん、その後の飛行機やロケット、場合によってはドローンまで上げることが出来ます。そのバックグラウンドにはそれぞれをアイデアとして思いつき、製品として世に送り出すために試行錯誤し、製品化した後には応用し普及させた有名無名の人物の存在があった点についても、とても幅広く様々な情報を取りまとめています。またエネルギー利用の普及は人びとの生活の質を上げ経済を活性化する一方で、公害をはじめとする新たな災厄や難題をももたらし、また、生産現場の過酷な労働も必要としました。こういった400年に及ぶエネルギーの歴史を振り返り、現在の地球規模の気候変動や地球温暖化、さらには、中国・インドやをはじめとする新興国・途上国の経済成長に伴って増加し続ける巨大な人口を支えるエネルギー需要への対応、などなど、今までにない難題への答えは、本書のように過去の歴史を詳細に検証することで見出せるのか、どうか。もちろん、ひょっとしたら、何ら解決できない可能性もなくはないながら、少なくとも、解決策を見出せるとすれば、科学に基づく技術革新だけである可能性が高いと考えるべきです。本書は、基本ラインがしっかりしているとともに、ムダとすら見える極めて多数の人々のドラマが盛り込まれており、それはそれでとてもいい読書だった気がします。
次に、マーク・モラノ『「地球温暖化」の不都合な真実』(日本評論社) です。著者は、米国のジャーナリストであり、英語の原題は The Politically Incorrect Guide to Climate Change であり、The Politically Incorrect Guide シリーズの1冊として2018年に出版されています。ということで、本書では人類による地球温暖化や気候変動について、押しとどめようとする「脅威派」と否定する「懐疑派」に分けた上で、本書は後者の懐疑派として人類に起因する気候変動や温暖化をデータを含めて、あるいは、脅威派の発言の矛盾を突いたりして、徹底的に人為的な気候変動を否定しようと試みています。ここで多くの読者が見逃しそうなポイントなんですが、著者は人的でない、すなわち、太陽活動の変動に伴う気候変動や温暖化を否定しているわけではない、という点を強調しておきたいと思います。著者の主張では温暖化はかなりの程度に観測誤差の範囲であると考えているようなんですが、太陽活動に伴う気候変動、典型的には氷河期と間氷期が交互に来たりするという意味での大きな気候変動は否定していません。ただ、現在の温暖化が人類の人的な行為、すなわち、CO2排出によるものであるかどうかは疑わしい、と主張しているわけです。これについて、私はシロクマが増えているかどうかは知りませんが、例えば、著者の指摘通り、1970年代には地球寒冷化による食料危機が真剣に論じられていたのは事実ですし、その気候変動が大きく逆転して、温暖化に取って代わられたわけです、医学的に健康にいいと悪いが大きく逆転するケースがいくつ私も見て来ましたが、まさに、同じことが気象科学でも生じたわけで、気候科学の信頼性が問われても不思議はないといえます。また、例のゴア元米国副大統領の邸宅が通常の20倍のをエネルギーを使っているとか、温暖化対策を叫ぶハリウッドのスターが自家用ジェット機で温暖化ガスを排出しながら移動しているとかの実態に疑問を感じるのもあり得ることです。もちろん、シロートの私の目から見ても、極めて限られた有識者しか温暖化や気候変動を否定しておらず、著者の主張が科学的に立証されたとはいいがたいと感じますし、十分に人々を納得させる根拠が示されているとはとても考えられませんが、他方で、研究費のために熱心に地球温暖化や気候変動の研究に取り組む科学者が多いだろうという点だけは判りやすいものの、その他の点で、こうした本が米国で一定の支持を得る可能性があり、日本でも出版されるという現実は、地球温暖化や気候変動に対して常識的な考えを持つ社会人として、それなりに反省を持って受け止めねばならないのではないかと考えます。
次に、ジーヤ・メラリ『ユニバース2.0』(文藝春秋) です。著者は米国のジャーナリストなんですが、米国のアイビーリーグ校であるブラウン大学で、何と、ロバート・ブランデンバーガー教授に支持して宇宙論の博士号を取得している本格派です。英語の原題は A Big Bang in a Little Room であり、2017年の出版です。副題の「実験室で宇宙を創造する」に示されている通り、宇宙論の中でも宇宙の発生に関するベビー・ユニバースについてのリポートです。ざっと相対性理論をおさらいし、ビッグバンによる宇宙の生成からインフレーション理論による拡大宇宙論、そして、ブラックホールからワームホールを通って別の宇宙に行きつく、ということで、その別の宇宙を実験室で作れないか、という試みです。というか、実は、実験室で宇宙を創るために逆算的な思考で、さまざまな理論が紹介されています。私のようなシロートにはサッパリ判らない理論ばっかりなんですが、そこは科学者ではないジャーナリストによる本ですので、それなりに雰囲気が感じられるように工夫されています。でも、それなりの専門的な知識なければ十分な理解はできないと覚悟すべきです。特に、S極かN極しかない「磁気単極子」があれば、それを使って実験室でインフレーション宇宙が作れる、というのはまったく私の理解を越えていました。そしてその「磁気単極子問題」とともに宇宙論の3大問題とされる「平坦性問題」と「地平線問題」についても、私の理解は及びませんでした。宇宙が実験室で作れるとしても、本書に従えば、その人工宇宙と普通のブラックホールとを区別することは、ホーキング放射が観測できなければ、ムリなようですし、出来上がった人口宇宙を取り囲むブラックホールであるベニーユニバースと我々のいる時空を結ぶワームホールは極めて短い時間で消滅する、ということですし、いずれも、エコノミストの目から見て、とても夢のある宇宙なんですが、どれくらいのコストがかかるのかも気にならないわけでもありません。加えて、本書ではかなり片隅に追いやられている印象がありますが、ビッグバン宇宙論に髪を配置しようとするカトリック信者を私も知っていますし、宇宙の生成と神の関係をどう考えるか、そういった神学論争についても何らかの話題になる可能性もあります。エコノミスト的には神学論争はまったく興味なく、「できることはやったらいい」というのが私の感想なんですが、コストはともかく、いろんな視点から宇宙の発生・生成について考えさせられました。専門外の読者には特にオススメしません。
次に、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』(NHK出版) です。作者は、私が中途半端な解説を加えるまでもなく、売れっ子のミステリ作家です。この作品のタイトルは、まあ、何と申しましょうかで、この作品のラスボス的な存在である「ハシビロコウ」なる鳥ののラテン語の学術名の日本語訳です。ということで、それなりの規模のお菓子メーカーに勤めるサラリーマンである主人公の岸、作者の応援する楽天イーグルズのエース投手と同じ姓となっていますが、この岸を主人公に、都議会議員の池野内征爾と大人気のダンスグループのメンバーである小沢ヒジリの3人が奇妙な夢でつながって、戦士として社会的な大問題を解決したり、逆に、窮地に陥ったりする、というストーリーです。過去のトピックである金沢旅行の際の火事を3人は共有し、さらに、仙台近海の人工島でのコンサート後のパニック事件に岸と小沢が巻き込まれた際には池野内が救援に駆け付けたりします。そして、さらに、15年後の第2幕でも大事件が発生します。池野内は都議会議員から国会議員に当選して、さらに、有力ポストの大臣を務め、小沢はダンスグループから俳優になり、岸は会社で課長まで出世しています。そこで、猛毒性の鳥インフルエンザがパンデミックに近い広がりを見せ、3人がワクチンをいかに必要とする病人に届けるか、という点で一協力して解決に当たります。もちろん、ハッピーエンドで終わるんですが、さすがに伊坂作品らしく私のような一般ピープルが考え付かないような一筋縄ではいかなイラストが待っています。夢と現実を3人で、あるいは、それぞれ単独で行き来しながら、問題を解決したり、あるいは、大問題で窮地に陥ったりと、ある意味では、ファンタジー的な現実にはあり得ないシチュエーションが展開されるんですが、夢で戦うという点は現実でもあり得ることであり、その点で、少し前の作品である『フーガはユーガ』で双子が瞬間移動で入れ替わるような超常現象といい切るにも勇気が必要で、まあ、荒唐無稽な非現実的展開はない、ともいえます。加えて、3人はいろんな問題、というか、トラブルに遭遇するわけですが、かなり近いとはいえ、犯罪や組織的な陰謀とは違い、まあ、ギリギリあり得るかも、と思わせるものもあります。しかも、いかにもこの作者の作品らしく、いろんな伏線が密接に関連して後々にきれいに回収されます。私のように速いペースで読んだ挙句に、読み返さざるを得なくなる、といった読者も少なくなさそうな気がします。でも、それだけ面白い、ともいえそうです。最近の作品の中では傑作に近く、ひょっとしたら、読者によればこの作者の最高傑作に推す人がいるかもしれません。早大生協で消費生率引き上げ前に買った5冊のうちの最後の読書でした。
最後に、宮内悠介『遠い他国でひょんと死ぬるや』(祥伝社) です。著者は、私の好きなSF作家です。実は、本書の出版を知って図書館で予約したところ、前作の『偶然の聖地』を読んでいないことに気づいて、近くの図書館で借りて一気に1時間ほどで読んでしまいました。ひょっとしたら、この作者の作品はすべて読んでいるかもしれません。ということで、本書ではフィリピンを舞台に、元テレビ番組制作会社のディレクターが太平洋戦争で戦死したと考えられている詩人の竹内浩三のノートを求めて冒険を始める、というストーリーです。本書のタイトルも、竹内浩三が入営前に書いた詩「骨のうたう」が出典となっています。テレビのディレクターの職を辞してフィリピンに渡ってタガログ語をマスターし、竹内のノートの捜索に入りますが、そこに、山下財宝を狙っているトレジャーハンターを自称する女性とそのお付き、主人公と行動をともにするうちに距離が縮まっていく女性、さらに、その女性の元彼カレで、結婚を申し込んでいる超大金持ちのぼんぼん、さらにさらにで、休戦が成立したにもかかわらず、まだ、ミンダナオ島の分離独立のために戦うムスリムの青年などが急展開の冒険物語を構成します。最後は、かなり荒唐無稽に結婚式を破壊したりして、これが解決なのかどうかは疑わしいと私は考えたりもしましたが、著者の力量が垣間見える気もしました。単純に読めば、冒険譚とはいいつつも、単なる騒がしくて暴力的なドタバタ劇になりかねないところに、詩人である竹内浩三の存在を入り込ませ、その実像に迫ろうと試みるも、竹内の最期は実際のところ不明としかいいようがなく、竹内が実際に何を目にし何を感じ何を想ったのかは、主人公も含めてもはや誰にも判らなくなっているわけで、ただ、戦争の歴史を風化させるわけにはいかないと作品を作り続けてきた主人公だったんですが、ドタバタ劇が進む中で、そういった信念の根元には大したものは何もないことに気付かされていきます。他方で、じいさんの占いとか、旅の中である種のアジア的な神秘と接することによって、何らかの意味で、竹内と似た境地に達することができたのかもしれない、という気もします。基本的に、インドネシアの首都であるジャカルタしか私は住んだことがなく、タイやマレーシア、あるいは、シンガポールには旅行したものの、フィリピンには旅行ですら行ったこともありません。従って、どこまでフィリピン現地の雰囲気が再現されているか、フィリピン人の考えが反映されているか、は判りませんし、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールについても、私はよく知りませんが、少し前まで中央アジアのムスリム国家に着目していた作者が、本作品で東南アジアを舞台にした小説にチャレンジし、アジアの奥深さに気づいたのかもしれません。
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