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2019年10月26日 (土)

今週の読書は共感できる移民に関する開発経済学の経済書から話題の芥川賞受賞作品まで計6冊!!!

今週の読書は専門分野に近い開発経済学の経済書をはじめとして、以下の通りの計6冊です。ちょうど1週間前の先週土曜日の段階では、4冊かせいぜい5冊くらいと予定していたんですが、今村夏子の芥川賞受賞直前作の『父と私の桜尾通り商店街』をムリに入れたりして、6冊に増えてしまいました。なお、来週の読書については、すでに図書館回りを終えており、借りてきたのはかなり多数に上るんですが、今月から来月にかけては、勉強会などでお近くの大学などに行く機会が多くて、読書家ではなくエコノミストとして週末を過ごすパターンが増えそうで、今までのように、借りられた本から手当たり次第に乱読するのではなく、少し計画的な読書を心がけようかと考えています。

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まず、ポール・コリアー『エクソダス』(みすず書房) です。著者は、英国オックスフォード大学の開発経済学の研究者であり、本書は著者が展開するもっとも貧しい社会、すなわち、「最底辺の10億人」に関する研究の一環であり、英語の原題は EXODUS です。2013年の出版です。本書では移民をテーマに取り上げており、結論を先取りすると、リベラルなエコノミストの主流をなす見解を批判するものとなっており、「移住がよいか悪か」という問いは間違っており、緩やかな移民=移住は利益をもたらし、逆に、大量移民=移住は損失をもたらす可能性が高く、重要なのは「どのくらいが最適か」を問うことである、ということになります。過大な移民=移住が不利益となる大きな理由は、国民的アイデンティティの喪失、あるいは、社会が脱国家的になる、というものです。ただ、このこりあー教授の見方には強力な反論もあります。私が知る限りでは、世銀ブログ Worldbank Blog "Reckless Recommendations" がもっとも目につきます。この世銀ブログの批判では、コリアー教授の移民=移住の出し手国が国民すべてを先進国である移住=移民の受入れ国に移住させて、国が空になる可能性を指摘しているのは非現実的であり、コリアー教授が大きな価値を置いている国民的アイデンティティはナショナリスト的な暴力や戦争をもたらす可能性もある、と指摘しています。従来からこのブログでも指摘している通り、私は圧倒的にコリアー教授の見方を支持します。すなわち、移民=移住は無制限に認めるべきものではなく、経済学によくある見方ですが、逆U字型の効用関数をしており、何らかの最適点があると考えています。特に、我が国の場合は海を挟んで隣国に人口大国が控えており、我が国の人口であり1億人強に匹敵する人数を送り込むことすら可能な人口規模を持っているからです。ですから、1億人を我が国に向けて送り出したところで、コリアー教授が懸念する送り手国の国民的アイデンティティはほとんど何の影響も受けない一方で、我が国の人口が2億人になって日本人は半分しかいない、というのでは、控えめにいっても、我が国の国民的アイデンティティが大きく変容する可能性が大きいといわざるを得ません。繰り返しになりますが、コリアー教授の国民的アイデンティティの議論は、大雑把な感触として、例えば、カリブの小国から北米への移住=移民により、送り出し国が空になる可能性であるのに対して、私の懸念はまったく逆であり、日本が人口大国の隣国から余りに大量の移住=移民を受け入れると、受け入れ国である日本の国民的アイデンティティが、場合によっては、よろしくない方向に変化する可能性がある、というものです。もちろん、世銀ブログの反論を紹介したように、そもそも、国民的アイデンティティに価値を置く議論を疑問視する向きもあるかもしれませんが、そこは価値判断だろうという気がします。

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次に、田辺俊介[編著]『日本人は右傾化したのか』(勁草書房) です。編著者は、早稲田大学の社会学の研究者であり、チャプターごとに社会学関係の著者が執筆を分担して担当しています。なお、ビジネスパーソンにも判りやすく表現されてはいますが、基本的には学術書と考えて、それなりの覚悟を持って本書の読書に取り組むべきです。ということで、印象論としては、自公連立の安倍政権がこれだけ継続していて、その背景にはもちろん選挙で連戦連勝という事実があるわけですから、政治的に、というか、投票行動として日本人が右傾化しているのは、動かしようのない事実だと私自身は考えていますが、他方で、このブログでも何度か主張しているように、現在の政権の経済政策は極めてリベラルで左派的な景気拡張的政策を実行しているのも事実です。ですから、財政的にこの10月1日から消費税率の引き上げを実施し、かなり緊縮的な運営になったわけですが、それでも、米中貿易摩擦に起因する世界経済の減速がなければ、かなり日本経済は順調であった可能性が高いと私は判断しています。ですから、改憲を目指す側面を支持する投票行動なのか、あるいは、景気拡大的な経済政策を支持する投票行動なのか、私には判断が難しいと感じていたところです。ただ、メディアなどで報道される限り、露骨なヘイトスピーチに至らないまでも嫌韓や嫌中の雰囲気は盛り上がっていますし、その昔にはなかったような「日本スゴイ」系のテレビ番組をよく見かけるのも事実です。そういった問題意識もあって、本書では、ナショナリズムとその下位概念である純化主義、愛国主義、排外主義などの観点から、2009年、2013年、2017年に実施された社会調査のデータを用いて定量的な分析を試みています。私が特に興味を持ったのは、いわゆる世代論であり、本書では第10章の若者論に当たります。半年余り前までキャリアの国家公務員として霞が関や永田町近辺に勤務し、総理大臣官邸や国会議事堂の周辺における意見表明活動を目の前で見ている限り、あくまで私の実感からではありますが、団塊の世代とかの引退高齢世代が左派的で、より若い世代が右派的、という印象を持っていました。本書の結論ではそれは否定されている、というか、半分否定されており、ナショナリズムに関しては今でも年長者ほど右派的・保守的であり、平成生まれなどの若者世代は決して右派的とか保守的というのではなく、権威に従属的な権威主義である、と本書では分析されており、「右傾化なき保守化」とか、「イデオロギーなき保守化」などと表言しています。加えて、私自身は手厚すぎる高齢者への社会保障給付にも一因あると考えている世代間の格差について、ナショナリズムや権威によって隠蔽されている可能性を示唆しており、さすがに、学術書のレベルの高さを見た気がします。

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次に、石川九楊『石川九楊自伝図録』(左右社) です。著者は書家であり、私の母校京都大学の卒業生でもあります。私自身も、20世紀まではピアノや書道のたしなみあったんですが、前世紀末に男の子2人が相次いで誕生した後、痕跡に入ってからまったく手が伸びなくなりました。特に、著者はかなり前衛的な書家であり、私の書道の先生とはかなり違った考えであったような気がします。もっとも、私の書道の先生はすでに亡くなっているので確認しようはありませんが、基本的に読売展への出展でしたから伝統派であり、前衛派の毎日展とは距離があったような気がします。本書で著者は、文として書道に取り組んでいて、細かな点や撥ねなどに重きを置かない理由を展開していますが、私の書道の先生は逆で文字に重きを置いていて、私が今でも記憶いているところでは、「大」と「太」と「犬」は点があるかないか、あるいは、どこにあるか、に従って異なる文字であり、その文字として識別されないと意味がない、とのご意見でした。このご意見は数回聞いた記憶があり、別件ながら、ドイツに日本文化紹介で訪問した際の現地市長からの感謝状はドイツ語がほとんど理解できないながらも10回近く拝見した記憶があります。そういった私の書道の先生の目から見れば、「デザイン的」と自称されている本書の著者の作品はカギカッコ付きながら「水墨画」に近い印象ではなかったか、という気がしないでもありません。例えば、上の表紙画像には著者の氏名が見えますが、かろうじて漢字として読めはするものの、本書に収録された120点余りの作品は、誠に残念ながら、私には読みこなせません。ただ、私が感銘したのは、著者の文を書くという姿勢とともに、何を書くかによって自らの初の作品を分類しているのは目を開かせるものがありました。本書の目次を拝見して、古典への回帰、とか、時代を書く、とかあるのは、読む前はもっぱら書法のことだと勘違いし、現代的な前衛的書法と古典的な書法だと思っていましたが、よくよく考えれば、私のつたない記憶でも、著者が古典的な草書や楷書や隷書や行書などで書いた書の作品は見たことがなく、題材が古典だったり、時代を反映したものだったり、ということだと理解し直しました。書道とは筆蝕の芸術という著者の見方は理解できないわけではないものの、単なる言葉遊びに堕していないのは著者の書家としての実力のなせるところであり、文字や文字の集合体としての文として認識されない場合、その筆蝕とは何なんだろうか、という気もします。王義之を持ち出すまでもなく、1000年を経てまだ評価され続けるのが書という芸術ではないかと私は考えています。1000年先まで生を永らえさせることが出来ないのはとても残念です。

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次に、今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版) とその前作の『父と私の桜尾通り商店街』(角川書店) です。作者は新々の純文学作家であり、『むらさきスカートの女』は第161回芥川賞受賞作です。私は『文藝春秋』9月号にて選評などとともに読みました。鮮烈なデビューを飾ってから、長らく芥川賞受賞が望まれていた、というか、私が望んでいただけに、さすがの水準の作品に仕上がっています。私はこの作者のデビュー作で三島由紀夫賞受賞の『こちらあみ子』、芥川賞候補となった「あひる」を収録した短篇集『あひる』は第5回河合隼雄物語賞受賞し、第3作の『星の子』でも芥川賞候補となり、第4作『父と私の桜尾通り商店街』も、今週バタバタと読みましたが、この第5作にして芥川賞受賞です。この作者の大きな魅力は、私はある意味での異常性だと考えています。「あひる」は子供達を引きつけるためにアヒルを取っかけ引っかけ飼い続ける物語ですし、芥川賞受賞の『むらさきのスカートの女』にいたっては、ストーカーとして破綻していく「黄色いカーディガンの女」とタイトルになっている「むらさきのスカートの女」との何ともいえない同一性と違和感が極めて超越的なバランスを保っています。最近では、まるっきりラノベのような非現実的な癒やしのストーリーが広く受け入れられているように、私には感じられるんですが、現実逃避的な癒やし系で明るく希望に満ちたラノベは。私にはものすごく物足りないように感じられていました。もっとキチンと事実を取材して表現も整理すると、まさに池井戸潤作品のような仕上がりになるわけですが、そうでなく表面的な上滑りの作品に終わっている例がいっぱいあります。そういった中身のないラノベ小説を読むくらいであれば、今村作品のような何ともいえない不気味さを内包した作品の方が私はインパクトを感じてしまいます。最後に、どうでもいいことながら、芥川賞の選評を読んでいて、古市憲寿作品「百の夜は跳ねて」と村友祐作「天空の絵描きたち」の関係に大いなる興味を感じました。剽窃や盗作ではなく、オマージュですらないといい切っているのは山田詠美だけで、川上弘美や吉田修一は明確に嫌悪感を表明しています。私はどちらも読んでいないので何ともいえませんが、とても野次馬的な興味をそそられます。

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最後に、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』(中央公論新社) です。小説すばる新人賞を受賞したデビュー作『桐島、部活やめるってよ』いら、人気小説家の道を歩んでいる著者ですが、私も直木賞受賞作の『何者』こそ読んでいませんが、デビュー作を含めて世間に遅れつつ何冊か読んでいます。それから、この作品は、このブログの読書感想文でもいくつか取り上げた中央公論新社創業130年記念の「螺旋」プロジェクトのうちの1冊となります。ですから、青い目の海族とそうでない山族の対立構造を基本としています。本書はシリーズ唯一の平成編となります。ほかに、このブログの読書感想文で取り上げた、ということは、私が読んだのは、以下順不同で、伊坂幸太郎による近未来編の『スピンモンスター』と昭和後期編の『シーソーモンスター』、薬丸岳による明治編の『蒼色の大地』、乾ルカによる昭和前期編の『コイコワレ』、澤田瞳子による古代編の『月人壮士』となっています。ということで、本書は平成時代の青春物語であり、海族の南水智也が頭を強く打って意識不明の植物状態となり、山族の友人である堀北雄介が入院先の病院を毎日見舞う、というスタートから一気にさかのぼって、小学生時代、中学校ないし高校時代、大学時代の、それぞれのころの南水智也と堀北雄介と関係する周囲の人物を主人公にした章立てでストーリーが進みます。タイトルほどアバンギャルドではありませんが、自分以外の人のためになる生きがいを持った人生、自分を対象にした生きがいある人生、そして、生きがいのない人生の3分類をモチーフとし、生きがいややりがいについて、せいぜい20歳前後の目から考える、ということになります。物静かな海族の南水智也に対して、競争や勝負を好む活動的な山族の堀北雄介を配し、札幌を中心的な舞台に物語は展開しますが、私の直感では、おそらく、若い世代は山族の堀北雄介の要素がかなりあり、私のような引退世代に近づくに従って海族の南水智也の要素が増えるような気がします。でも、人生最末期には、何ごとによらず自分の意図通りに出来ないことが増えるそうで、その意味で、イライラが募る、と聞いたこともあります。お題を与えられた制約のせいかもしれませんが、この作者の実力にしては、やや物足りない読後感でした。もう1冊最新刊の『どうしても生きてる』(幻冬舎) の予約をしています。これも楽しみです。

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