« 消費税率の引上げにもかかわらず伸び悩む消費者物価(CPI)上昇率! | トップページ | 専修大学の国民経済計算研究会にてシェアリング・エコノミーの研究発表!!! »

2019年11月23日 (土)

今週の読書感想文は経済書なしながら小説2冊で計6冊!!!

今週の読書は、とうとう経済書を読みませんでした。先々週に、現代貨幣理論の入門書に加えて、バルファキス教授の『わたしたちを救う経済学』、さらに、総務省統計局で消費統計担当の課長をしていた経験から大好きな消費者選択に関する野村総研の『日本の消費者は何を考えているのか?』を読んだ後、先週の読書感想文では、マルクス主義に立脚する『戦争と資本』などを無理やりに経済書に分類しましたが、自分自身でも純粋の経済書は読んでいないような気がしていました。今週はどんな角度から考えても、6冊読んだにもかかわらず、その中に経済書はありませんでした。私はこの読書感想文では書名のカラーで一応の分類をしているつもりで、赤は経済書、青は経済以外の専門書や教養書やドキュメンタリー、緑が小説やエッセイなど、そして、中身というよりも出版形態ということで、ライムが小説を中心とする文庫本、ピンクはドキュメンタリーっぽい新書、としています。赤の経済書がないのは、どれくらいさかのぼってしまうんでしょうか、それとも、初めてかもしれない、と思っています。

photo

まず、雨宮処凛[編著]『この国の不寛容の果てに』(大月書店) です。編著者は、ご存じの通り、貧困・格差の問題に取り組むエッセイストです。本書の副題が『相模原事件と私たちの時代』とされているように、相模原の障害者施設である津久井やまゆり園に元職員の男が侵入し入所者19人を刺殺した事件を切り口として、編著者とジャーナリスト、研究者、精神科医、ソーシャルワーカーなどとの対談集として取りまとめられています。障害者に対する選別ないし疎外意識をタイトルの「不寛容」と表現しているわけです。私が不勉強なだけかもしれませんが、財政赤字が膨大なるがゆえに命の選別が行われていることに、エコノミストとして愕然としました。同じコンテクストで、LGBTQを「生産性」で選別したり、ある意味でナチス的な優生学に基づく選別したりする傾向は、ひょっとしたら、多くの国民が多かれ少なかれ持っている可能性は私も否定できませんが、それが、財政赤字との関連で選別につながるとは、まったく想像の外でしかありませんでした。私は財政赤字にはノホホンと寛容で、反緊縮の立場から財政拡大を主張する左派エコノミストですが、法人税を減税する一方で消費税率を引き上げ、緊縮財政の下で国民の基本的人権まで否定しかねないような現状は極めて異常といわざるを得ません。私が常に主張している点ですが、失業や不本意な非正規就業はマクロ経済政策も含めた経済状況によるものであり、個人の自己責任を問えるものではありません。主流派経済学でも、不況期に卒業・就職を迎えたクタスターは、我が国においては明らかに生涯賃金が低く、経済的に不利な状況にあることは明確に実証されていますし、実に、これは我が国にかなり特徴的な現象であり、米国などでは就職時が不況期であっても数年のうちにその低賃金状態は解消するのですが、我が国ではかなり長期に低賃金の状態を引きずるという実証結果が示されています。ただ、この不寛容はわが国だけに特徴的なものであるかといえば、必ずしもそうではなく、米国におけるトランプ大統領の当選や英国の反移民の観点からのBREXIT、あるいは、大陸欧州でのポピュリスト政党の得票拡大なども、基本的には同じ政治経済の現象ではないかと考えられます。もちろん、本書で指摘されているように、長く続いた戦後民主主義の政治的正しさ = political correctness に対する反発とか苛立ちもあるでしょうし、順番待ちしていて列に並んでいる自分の前を移民などが割り込んでくるという被害者意識もあるでしょう。でも、本書では障害者をフォーカスしていますが、ひょっとしたら、根本にあるのは経済的な格差の拡大や貧困の蔓延かもしれない、と私は考えざるを得ません。何らかの経済的貧しさから心理的な剥奪観を持ち、その原因となっているように見える「敵」を見つけようとしているような気もします。戦後の高度成長がルイス転換点に向かう1回限りの特異な成長であったことを考えると、経済が均衡に向かう中での高成長をもう一度はムリなわけであり、国民生活を豊かにしていくためには何らかの政策的なサポートが必要であると痛感します。

photo

次に、伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学』(青弓社) です。著者は、ネット企業で2ちゃんねるの書き込みなどをフォローしたりしていた後、現在は社会学の研究者となっています。本書の副題から、時間的なスコープは、1990年から2010年くらいまでであり、本書では、少なくとも2012年末に現在の安倍政権が発足してから、ネット右派の活動は大きく減退したような観察結果を記しています。ということで、従来の伝統的な右派が街宣車や街頭演説などの行動する右翼であったのに対して、まさに、「ネトウヨ」と呼ばれるネット右派は街に出て行動するのではなく、ネット上の言論活動を主たる舞台としてると特徴づけています。もっとも、1990年以前にさかのぼって、左派リベラルについて、都会、高学歴、高収入などの特徴を列記し、右派はその反対、というように分析していたりします。中曽根元総理からの引用である「魚屋さん、大工さん」といったところです。ただ、右派のひとつの特徴である排外主義的な主張については、ほぼほぼ排外されるのは韓国であり、尖閣諸島問題などの中国は、特段の言及ないように受け止めました。このあたりは、私には少し疑問を持ったりもしています。少し戻ると、左派リベラルの象徴として、朝日新聞がやり玉にあがることが多いわけですが、ともかく、膨大なネット情報を駆使して、いろんな特徴づけを展開しています。しかし、今年に入ってからの韓国の徴用工判決を起点とする日韓関係の悪化にまでは目が届いていません。まあ、書籍メディアの不利な点かもしれません。それはそれとして、私も関西出身ですから、首都圏とは在日コリアンの数や比率がかなり濃い地方性であり、その昔のコリアン観を知らないでもないんですが、現在の嫌韓感情とはかなり違っていたような記憶があります。すなわち、私の父もそうだった気がしますが、いわゆる統計的な差別はあった気がします。例えば、単位人口当たりの犯罪率とかです。ただ、これは、大学のランキングで東大・京大・阪大の順番と同じで、在日コリアンの人格的な問題ではなかったような気もします。ですから、とても考えにくいかもしれないものの、在日コリアンの方の犯罪率が下がればそれでいいわけで、その根底にある人格的あるいは民族的な蔑視は、まったくなかったわけではないとしても、現在よりもかなり小さかった気がします。エコノミスト的な見方であれば、分業の中の一部を担っているわけで、それはそれなりに有り難い、とまではいわないまでも、カギカッコ付きの「必要悪」に近い認識ではなかったか、と勝手に想像しています。でも、今の嫌韓右派はまさに排外主義であって、分業の余地すらなく、ひたすら排除したがっているような気がしてなりません。私の見方が正しいかどうか、専門外ですのではなはだ自信はありませんが、先に取り上げた『この国の不寛容の果てに』と同じで、格差の拡大や貧困が根本的な原因のひとつとなっている気がしてなりません。

photo

次に、田中里尚『リクルートスーツの社会史』(青土社) です。著者は、大学卒業後に暮しの手帖社などで編集の仕事に携わりながら、比較文明学の博士号を取得した後、今は文化学園大学服装学部の研究者をしています。本書はタイトルがそのままズバリであり、学生服ないし制服での就活から敷くルートスーツの着用に移行した後、さらに、そのリクルートスーツが初期から現在の真っ黒に至るまで、どのように社会的な変遷をたどったか、しかも、私が高く評価するところでは、スーツの歴史だけを取り出したのではなく、バックグラウンドの経済社会的な変化と合わせて論じています。しかも、男女のジェンダー別に詳細に論じていますので、500ページを軽く超えるボリュームに仕上がっています。ということで、私は今年61歳になりましたので、1980年代初頭に就活をしているハズなんですが、さすがにほとんど記憶にありません。1990年代のバブル崩壊後の氷河期や超氷河期と呼ばれる時代背景でもなく、まあ、京都大学経済学部ですから就職には恵まれていたといえます。少なくとも、制服のない高校を卒業していますので、詰襟の学生服で就活をしたハズはありません。たぶん、何らかのスーツだった気もするんですが、他方で、私は革靴というものを持っていた記憶がなく、大学卒業の際にアルバイト先から靴券なるものをもらって、生涯で初めて革靴を買ったと感激した記憶があります。ひょっとしたら、スニーカーのままでスーツを着ていたのかもしれません。それから、私が就活をしていたころの標準的なリクルートスーツは、今の真っ黒と違って、紺=ネイビーの三つ揃えだったと本書では指摘しています。これまた、私の記憶では、私は61歳になる現在まで三つ揃えのスーツは買ったことがありません。オッドベストの共布ではなく、ジャケットやズボンとは違う色調のニットならざるベストは着用したことは何度もありますが、ジャケット・ズボン・ベストがすべて同じ友布の標準的な三つ揃えは買ったことも着たこともありません。それから、いつからかはこれまた記憶にありませんが、私のオフィス着のワイシャツは長らくボタンダウンです。普段着でレギュラーカラーのシャツを着ることはいくらでもありますし、勤め始めたごく初期はレギュラーカラーだったような気がしないでもありませんが、長らくボタンダウンしか着用していません。本書ではレギュラーカラーのワイシャツがリクルートスーツに合わせる基本と指摘しています。また、本書で指摘するように、陸ルーツスーツの変化のバックグラウンドに、経済要因があることはいうまでもありませんが、不況のごとに敷くルートスーツのスタイルが大きく変化するというのは、エコノミストから見てもびっくりしました。そうなのかもしれません。ただ、黒一色の陸ルーツスーツに真っ白でレギュラーカラーのワイシャツといった個性がないというか、画一的な服装の大きな原因は、やっぱり、新卒一括採用であるという本書の指摘については私もまったく同意します。ただ、我が国社会の減点主義的な面もいくぶんなりとも一因ではないかと考えており、新卒一括採用がなくなれば、一定のラグはあるものの、リクルートスーツがバラエティに富むようになる、というのはやや疑問な気もします。ボリュームの割には読みやすく、歴史の好きな私にはいい読書でした。

photo

次に、川上未映子『夏物語』(文藝春秋) です。著者は芥川賞作家であり、受賞作は11年前の「乳と卵」です。そして、本書はその続編といえますが、第1部は受賞作のおさらいをしてくれています。すなわち、アラサーで東京在住の主人公の10歳近い姉が主人公の姪っ子といっしょに大阪から上京してきて、豊胸手術のカウンセリングを受ける第1部が置かれています。そして、第2部では、その8年後に舞台を改め、アラフォーになり小説が出版された主人公が、私のような凡庸な男には理解が及ばない「自分の子どもに会いたい」との思いに突き動かされ、パートナーなしで第3者からの精子提供による人工授精(AID)での出産を目指す、という内容です。前作の「乳と卵」では極論すれば登場人物は縁戚関係にある3人、すなわち、主人公とその姉と姪っ子の3人だけといってよく、母親や祖母については回想の中で登場するのが主だったんですが、この作品では、同じ女性作家の仲間のシングルマザー、編集者、AIDに関してやや否定的な傾向ある活動をする団体の男女、などなど、長編小説らしく多彩な人物が登場します。子供を持った、あるいは、持とうとするならば生活する能力、というか、ハッキリいえば、消費生活の基礎となる金銭を稼得する能力というのは不可欠であり、主人公の貯金額まで明らかにするというのは、ある意味で大阪出身の作家らしいという気もしますが、作品にリアリティを持たせる上で、私はとてもよかった気がします。主人公は、子供のころから決して恵まれた家庭環境にあったわけではありませんが、子供を持とうと決意する過程が少し雑な気がします。前作の「乳と卵」では、テーマが主人公の姉の豊胸手術ですから、命の重みに話が及ぶわけではありませんが、本書では命や人生というものの重みが決定的に違いますし、話が重くなります。大阪弁の流暢なおしゃべりで進むだけではないわけです。その意味で、もう少していねいに主人公が子供を持とうと思うようになった心情の変化を追って欲しかった気もします。もちろん、私の読解力の問題があり、子供を産まない男の読み方が浅いのかもしれませんが、もしもそうであれば、もっと私のような鈍感な男性読者にも思いをいたして欲しかった気がします。別の見方をすれば、こういった重いテーマを書き切る筆力には、著者はまだ欠けているのかもしれません。ただ、私が従来から主張しているように、親子や家族のつながりというのは、決して、血やDNAや遺伝子に基づくものだけではなく、いっしょに暮した記憶の方がより重要な要素になるわけで、その点では私と同じ見方に立っている気がしました。三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』のシリーズと同じだと思います。その意味で、妊娠確率高いと称する精子提供者を断ったのも、決して遺伝子やDNAの観点ではないような気がして、私なりに判る気がします。

photo

次に、朝井リョウ『どうしても生きてる』(幻冬舎) です。この著者も直木賞作家です。短編集であり、収録されているのは6話です。すなわち、主人公が事故死などを報じられた死亡者のSNSアカウントを特定する「健やかな論理」、妻の妊娠を口実にマンガ原作創作の夢を諦めサギまがいの保険勧誘に邁進する男性の心情を描く「流転」、不安定な派遣、契約、アルバイトをはじめ、正社員などの人の雇用形態を想像してしまう主人公を描いた「七分二十四秒目へ」、エリートポストといいつつも人事異動の後、痩せていく夫への主人公の心配と苛立ちを描き出す「風が吹いたとて」、妻の収入が自分を上回ったとき、妻に対しては勃起できなくなった夫を主人公とする「そんなの痛いに決まってる」、胎児の出生前診断をめぐる夫婦の意見の相違と対立をテーマとする「籤」の6編です。このうち、2番めの「七分二十四秒目へ」は先々週の最後に取り上げた日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』にも収録されています。生と死という、これまた重いテーマにまつわる6編です。いままで、私が読んだこの作者の作品は青春物語のように、高校生や大学生とか、就職したばかりの若い年代の主人公が多かった気がしますが、本書に収録された短編では中年といえる年代の主人公もあり、作品の広がりを感じられました。ただ、繰り返しになりますがテーマが重く、今週の読書感想文はかなりの部分が「現代社会の生きにくさ」といったものを何らかの形で取り込んだ本に仕上がっている気がします。今までの若い世代を主人公にした作品では、主人公や主人公を取り巻く登場人物の意識、自意識が痛さや生きにくさの原因だった気がしますし、本書でもそれを踏襲している作品も少なくありませんが、いくつかの作品では登場人物の意識ではなく、社会のシステムが生きにくさの原因となっているものもあり、これも作品の幅が広がった気がします。この作者については、決して多くの作品を読んでフォローしておりわけではありませんが、私のような低レベルの読者に対しても、それなりに好ましい作品が多い気もします。

photo

最後に、フランソワ・デュボワ『作曲の科学』(講談社ブルーバックス) です。著者は、フランス出身のマリンバ奏者であり、作曲家でもあります。本書冒頭で、音楽一家に生まれ育ったと自己紹介しています。また、慶應義塾大学で作曲を教えるべく教壇に立った経験もあるそうです。ということで、西洋由来の音楽、特に、作曲についての科学を第1章の足し算と第2章の掛け算で始めて、作曲のボキャブラリーを増やすという意味でいろんな楽器を使う第3章に進み、第4章で結論、というか、作曲の極意、プロのテクニックを披露しています。私のすきなジャズ音楽家としては2人、いずれもピアニストのセロニアス・モンクとビル・エバンスが言及されています。ジャズの場合、モンクなどはかなり多くの名曲を残していますが、アドリブでの演奏そのものが作曲に類似しているといえなくもないと私は考えています。その意味で、ビル・エバンスについてはドビュッシー的な和音の転回を駆使したピアノ演奏をしているという指摘は、とても判りやすかったです。フランス人なのですが、作曲、というか、音楽の日本語用語は完璧です。もちろん、翻訳なんですが、カタカナ語としては、邦訳者がなぜか英語を基にしたカタカナ表記を選択しているような気がします。例えば、主音・主和音は「トニック」としていますが、在チリ大使館勤務時にスペイン語でピアノを習った経験ある私としては、女性名詞の「トニカ」でもいいんではないかと思わないでもありません。まあ、私もピアノを習ったのは日本語とスペイン語だけで、英語やフランス語で習ったことはありませんので、何ともいえません。それなりに音楽の知識や素養内と読みこなすのに不安あり、例えば、少なくとも五線譜に落とした楽譜に対する理解くらいは必要ですが、基礎的な知識あれば、決して音楽演奏や作曲の経験なくとも十分に楽しむことが出来る本だと思います。

|

« 消費税率の引上げにもかかわらず伸び悩む消費者物価(CPI)上昇率! | トップページ | 専修大学の国民経済計算研究会にてシェアリング・エコノミーの研究発表!!! »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 消費税率の引上げにもかかわらず伸び悩む消費者物価(CPI)上昇率! | トップページ | 専修大学の国民経済計算研究会にてシェアリング・エコノミーの研究発表!!! »