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2019年11月30日 (土)

今週の読書はまたまたマルクス主義の経済書など計7冊!!!

今週の読書は、マルクス主義経済学に立脚するものを含めて経済書から教養書、さらに、私の好きな純文学小説の作家である青山奈々枝の小説、また、ブルーバックスで復刻された古典的な数学書まで、以下の通りの計7冊です。冬晴れのいいお天気の下、すでに図書館周回も済んでおり、来週も数冊の読書になる見込みです。

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まず、デヴィッド・ハーヴェイ『経済的理性の狂気』(作品社) です。著者は、ジョンズ・ホプキンス大学やオックスフォード大学を経て、現在はニューヨーク市立大学の研究者をしており、専門分野は経済地理学です。マルクス主義経済学に立脚する研究者です。本書の英語の原題は Marx, Capital, and the Madness of Economic Reason であり、2017年の出版です。上の表紙画像に見えるように、副題は「グローバル経済の行方を<資本論>で読み解く」となっています。ということで、資本主義には強い過剰生産恐慌の傾向があるわけですが、本書では19世紀半ばの経済恐慌を取り上げ、説得的な議論を展開しています。本書では、特に、恐慌に関して価値と反価値から特徴付けようと試みています。特に、反価値として負債に基づく経済発展を措定し、当然ながら、資本主義的な過剰生産により利潤最大化が達成されず、恐慌に陥る歴史的必然が導かれます。経済地理を専門とする研究者らしく、時系列的な流れと空間的な広がりを同時に議論の基礎として展開し、例えば、グローバル資本主義の展開については、利潤確保のための安価な労働力の確保を動機としていることは明らかです。ですから、本書では登場しませんが、いわゆる雁行形態発展理論などが成立するわけです。アジアでは日本が先頭に立って、いわゆるNIESが日本に続き、さらにASEAN、さらに中国、またまたインドシナ半島の国々などが続くわけで、その先にはアフリカ諸国が控えているのかもしれません。そして、空間的に地球上で帝国主義的な進出も含めて、グローバル資本主義が行き渡ってしまえば、利潤追求のための拡大再生産が大きな壁に突き当たり、恐慌を引き起こし、ひいては資本主義の死滅に至るわけです。典型的な唯物史観に基づく生産関係と生産力の間の矛盾による階級闘争なわけですが、現実んの歴史はマルクス主義的な歴史観のように進んでいないことも確かです。他方で、価値と反価値の弁証法については、私が不勉強にして知らないだけか、マルクスの文献に典拠があったりするんでしょうか。また、本書のテーマとどこまで関係するかは自信ありませんが、気候変動に関する分析も秀逸です。全体的に、ポストケインジアンなハイマン・ミンスキー教授らの分析に類似性あるようにも思えますが、剰余価値の生産の限界と資本主義的生産の地理的な広がりに関しては、このハーヴェイ教授のマルクス主義的な分析に軍配が上がるような気がします。

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次に、橘木俊詔『日本の経済学史』(法律文化社) です。江戸期からの我が国における経済学史をかなり独特の、というか、いわゆる経済学史的な視点ではないまとめをしています。ノーベル経済学賞の受賞者を出すための英文論文の必要性については、まったくその通りなんですが、skレは経済学に限らず物理学などの自然科学についても同じではないかという気がします。世界的には英語での普及が絶対条件であり、学問的な完成度よりも語学的な普及の容易さ、というものが重要なのでしょう。ノーベル賞に限定すれば、文学賞でスペイン語がやや有利、という気もします。例えば、私が南米はチリにある日本大使館に勤務していたのは1990粘弾前半の3年間であり、1995年度のノーベル文学賞に大江健三郎が選出される前でしたので、我が国のノーベル文学賞受賞者はたったの1人でした。しかし、人工的には我が国の10%くらいの小国であるにもかかわらず、チリにはその時点で2人のノーベル文学賞受賞者がいました。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと左派詩人のパブロ・ネルーダです。国連公用語にもなっているスペイン語の有利なところを見た気がしました。本書では、その昔の我が国の東大・京大などの帝大におけるマルクス主義経済学の隆盛と一橋大などの高商における現代経済学を対比させていますが、私も旧制帝国大学卒業生ですから、少なくとも、東大や京大であれば何の経済学を勉強したのかは就職には関係ないといえます。ですから、私の視点は逆であり、我が国の経済学の研究レベルが低い、というよりは、欧米、特に米国の経済学のレベルが高すぎるのではないか、と考えています。加えて、良し悪しは別にして、我が国では経済学だけでなく超絶的なトップエリートの育成システムが存在しないような気がします。さらに加えて、60歳近傍の私くらいの年代までは、工学や理学系については大学院に進学しても修士課程・博士前期課程で終わって、普通に就職するという道がありました。企業でも工学的な研究職は採用します。でも、経済学部の場合、大学院に上がるということは、そのまま博士後期課程まで進み、アカデミックな研究者を目指す、ということだったような気もします。役所や日銀などのごく特殊な組織でなければ経済学の研究はなされておらず、国際機関への就職などはスコープ外でした。逆にいえば、東大や京大の経済学部卒業生の就職が極めてスムーズであったともいえます。いずれにせよ、いわゆるマル経と近経の派閥抗争的な見方には、私はやや違和感を覚えます。

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次に、稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』(講談社選書メチエ) です。著者は明治学院大学の経済研究者であり、本書ではスミス的な古典派経済学やマルクス主義経済学も含めて、経済学の考えから労働について哲学しています。すなわち、経済学的には労働は美徳として単純な勤労観で支えられているだけでなく、出来れば避けたいコスト感も併せ持っています。ですから、時間の配分については、労働によって得られる賃金と機会費用のレジャーの効用を比較して労働供給が決定されるという定式化となっています。そういった労働観に対して、実際の経済の歴史は一貫して機械による人間労働の置換を進めてきたわけで、基本的には、AIを生産現場に活用することはこの延長上にあるともいえます。ですから、AIによる労働の置換に対して、歴史上のラッダイト運動が参照されるのもアリなわけです。そして、もうひとつの古典派経済学やマルクス主義経済学、あるいは、現代経済学においても、生産要素は土地と資本と労働であり、私が『資本論』を読んだところでは、第3巻は土地から地代を得る地主、資本から利潤を得る資本家、労働から賃金を得る労働者の3大階級で締めくくられています。もちろん、エンゲルスの編集にして正しければ、という前提ですが、今までの経済学者でこのエンゲルスの編集に目立った異議を唱えた人はいなかったと私は認識しています。何がいいたいかというと、本書の指摘にある通り、AIは資本なのか、労働なのか、ということを問題にすべきとは私は思いません。すなわち、AIとは資本であって労働ではないことはほぼほぼ確実です。なぜ「ほぼほぼ」というかといえば、まだAIが完成形として人間労働に置き換わったシンギュラリティに達していないからです。ただ、この場合、「シンギュラリティ」はAIが人間からのインプットを必要とせず、高度に自律的な判断を下し、同時に、同じ意味で自律的に行動することになる、という段階と考えておきたいと思います。加えて、AIが意思決定するプロセズが「ブラックボックス」で恐怖ないし違和感を持つ人もあったりするんでしょうが、本書の著者は、そもそも資本主義的な生産・分配、また、市場における価格決定などは、すべてブラックボックスで処理されているに等しい、と指摘しています。これもその通りです。いままで、オックスフォード大学のグループのように単純労働だけでなく、医師や弁護士などの労働もAIによって置き換えられる可能性がある、といった論調が多かった分野ですが、とても新鮮で理解しやすい議論が展開されています。200ページほどのコンパクトなボリュームながら、今週の読書の中で一番だと思います。

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次に、有江大介『反・経済学入門』(創風社) です。著者は一線を退いたとはいえ経済学史を専門とする経済学の研究者です。本書は、著者自身による本書の前書きによれば、社会科学概論という授業のテキストとして企画されたもののようです。ですから、経済学をターゲットのひとつとしつつも、幅広く社会科学、あるいは、科学といったものを対象にしています。それも、古典古代から現代までの長いタイムスパンで論じています。そして、結論を先取りすれば、経済学が科学として生き残るのは、現実からの演繹を徹底して、「経済工学」Economic Engineering としての道ではないか、と本書の最後で記しています。本書は、基本的に、経済学に基礎を置きつつ、社会科学全般について論じた教養書という位置づけなのではないか、という気がします。ただ、私の社会科学や歴史観などと共通する部分も少なくなく、例えば、第Ⅰ部第7章では、歴史の進み方特にグローバル化については「止められない」という表現で、かなり一直線に進む歴史観を支持しているように見えます。ただ、これは西洋由来の学問としての経済学の影響も私は見てしまいます。すなわち、東洋的な、というか、中国的なといってもいい円環的ないし循環的歴史観に対して、西欧的ないし西洋的な歴史観は一直線だと私は受け止めています。そのひとつがマルクス主義的な唯物史観であって、原始共産制に始まって、古典古代の奴隷制、中世の封建制、近代の資本制から社会主義ないし共産主義が展望されていますが、まだ、本格的な社会主義的生産は実現されていません。やや脇道に逸れましたが、本書について私の感想は、基本的に賛成なのですが、マクロな次元における科学としての経済学は、本書の結論通り、経済工学的な側面を強め、その基礎としては実験経済学の知見が生かされる可能性が高いと私も思います。ただ、マイクロな選択の理論としての経済心理学的な方向もあるんではないか、という気がします。典型的にはツベルスキー=カーネマンの研究です。もっと進めば、神経経済学のような分野かも知れません。ここでもやや古い経済学的な合理性が前提とされず、限定合理性の下でのマイクロな選択が解明され、ひいては経済工学的なマクロな経済社会の方向性を議論することになるような気もしますが、それはそれで独立した分野と考えられる可能性もあります。でも、本書についても、経済書というよりも水準の高い教養書であり、私は図書館で借りましたが、残念ながら、東京都の公立図書館では区立図書館で新宿区や杉並区など数館、多摩地区の図書館では国立市しか蔵書してません。でも、1500円プラス税というお値段ならお買い得、という気もします。

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次に、メレディス・ブルサード『AIには何ができないか』(作品社) です。著者は、米国のデータジャーナリストであり、同時に、ニューヨーク大学アーサー・L・カーター・ジャーナリズム研究所の研究者でもあります。英語の原題は Artificial Unintelligence であり、2007年の出版です。ということで、本書では、AIに限らず、テクノロジーに対する懐疑論が展開されています。私はどちらかといえば、AI悲観論、というか、カーツワイルの指摘するような2045年というのでは二としても、人類の英知を超えるAIはいずれ出現し、人類はAIのペットになる、というものです。それに反して、本書では、AIは人類を越えられない、あるいは、AI以外の技術もそれほどのパワーはない、との議論を展開しています。私には正確なところは判りません。AIをはじめとする現在花盛りのテクノロジーは、かなりのパワーあるような気がしますが、何分、専門外で理解がはかどりません。単純な情報処理であれば、マシンは人類をとっくに超えていると思いますが、単純でない、まあ、どこまで単純でないかも問題ながら、例えば、ヒューリスティックな直感判断をマシンに求めるのは、確かに無理がありそうな気もします。ただし、ヒューリスティックな判断は間違いも多いわけで、時間が節約できるのと正確性は、当然、トレードオフの関係にあります。加えて、MicrosoftのTayがマシン学習の課程でナチスやヒトラーを礼賛し始め、ユダヤ人虐殺や差別を肯定したとして、開発を中止したというのも事実ではなかろうかといわれています。当然ながら、AIにも限界、というか、欠陥は考えられるわけです。少なくとも、AIや最新テクノロジーに関して、繰り返しになりますが、私はやや悲観バイアスに傾くんですが、悲観も楽観もせずに社会常識に従った良識的な対応が求められているんだろうと思います。本書のようなAIの限界を指摘する主張も、その意味で、バランスよく目を向けておく必要があると思います。私もAI悲観論から、少しずつですが本書のようなAI限界論に傾いて来た気もします。AIをもって神に措定する必要はまったくありません。

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継に、青山七恵『私の家』(集英社) です。著者は、ご存じの通り芥川賞作家であり、純文学の担い手です。本書では、主人公の女性の祖母の法事に集まった親戚一同を見渡すところから物語が始まります。作者の青山七恵は、私の大好きな作家の1人なのですが、最近、フォローするのをサボっており、最後に読んだのは数年前の『ハッチとマーロウ』でしたので、パタパタとこの間に出版された『踊る星座』と『ブルーハワイ』の2冊の短編集も併せて読んだりした次第です。ということで、本書は連作短編集の体裁のように見えますが、私の解釈によれば長編であり、それほど複雑ではなく、通常の親戚付き合いの範囲で、3代に渡る女性に着目した構成になっています。ただ、3代に渡る家族史ですので、長編と考えれば、かなり長い期間を対象としている上に、章が時系列で並んでいるわけでもなく、逆に、時代がさかのぼったり、大きく飛んだりしますので、その意味では、読み進むのにやや読解力を必要とします。なお、日本語の「家」には英語のhomeとhouseがありますが、明らかに前者のhomeです。建物としての家についてはほとんで触れていません。家族を主として、親戚やご近所も含めた人間関係を抜群の表現力と構成力で描き出しています。3代の女性陣の最年長は法事の対象である祖母であり、まあ、男尊女卑の時代ですから、死ぬまで自分は損な役回りになっていると不満を持った人生のように描かれています。その祖母の子は3人いて、行方不明になっていた長男、主人公から見れば叔父に当たる男性はニュージーランド在住で、四十九日の法要には間に合いませんでしたが、一周忌には現地で結婚した妻や子とともに帰国します。まあ、男性は本書ではオマケかもしれません。主人公の母は、元体育教師という質実剛健な女性でありながら、祖父母の家に里子のような形で出された不遇な子供時代にこだわっています。姉妹は同棲していた男性に逃げられて、東京から北関東の実家に戻って来ています。大叔母は孤独を愛しながらも、異性の崇拝者に囲まれ波乱に富んだ老後を送っています。それぞれのキャラクターがとても明らかに設定されていて、繰り返しになりますが、作者の表現力と構成力が素晴らしいと感じました。また、この作者の作品を追いかけたいと思います。

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最後に、高木貞治『数の概念』(講談社ブルーバックス) です。著者は、我が国数学界の大御所という表現では不足し、巻末の秋山教授による解説によれば「日本の近代数学の祖」ともいえ、もちろん、すでに亡くなっています。没年である1960年がそもそも定年退職した私の生年に近いわけで、創設間もないフィールズ賞の第1回の選考委員も務めています。ドイツ留学でヒルベルトに師事しています。とんでもない大先生なわけです。なぜか私はこの大先生の『解析概論』(岩波書店) を持っていて、箱入りのハードカバーの大判本ですので、読みとおした記憶ないながら、本棚に飾ってあります。本書は、1949年に初版が、1970年に改訂版が、それぞれ岩波書店から出版されたものを新装改版しています。高木教授の最後の著作と見なされています。わずかに、新書判でも200ページ余り、秋山教授による解説を除けば140ページ足らずのボリュームにもかかわらず、誠に残念ながら、私は本書で展開されている議論をすべて理解するだけの数学的な能力はありません。でも、美しい数学の世界に触れただけでも幸福な気分になれる人は少なくないだろうと思います。混み合った通勤電車で本書を開くと、それなりの優越感を持てるかもしれません。もちろん、図書館から借りていますので、待ち行列に割り込んで、ほかの数学に専門性ある人の機会費用を上昇させているという意見もあるかもしれませんが、逆のケースもあり得るんでしょうから、お互いさまです。

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