今週の読書は経済書と歴史書を計7冊!!!
今週の読書は、経済書と歴史書、その中間の経済史の本など、以下の通りの計7冊です。今週の読書のうちでは、特に、中身はともかく、『ナチス破壊の経済』がとてもボリューム豊かでした。私は経済史が大学時代の専門でしたので、それなりにていねいに読んだつもりですが、読書に時間をかける人の場合、上下巻2冊で1週間では読み切れない可能性もあります。
まず、小林大州介『スマートフォンは誰を豊かにしたのか』(現代書館) です。著者は、北海道大学の研究者であり、シュンペーターの学説史がご専門で、本書の副題も「シュンペーター『経済発展の理論』を読み直す」となっていて、実は、スマートフォンを題材にしたシュンペーター的なイノベーションの解説となっています。そして、タイトルの問いに対する回答は本書の最後にあって、あまりにもありきたりですが、関係者すべてを豊かにした、と結論されています。私は少し前にシュンペーターの『経済発展の理論』を読んだ記憶がありますが、本書でも指摘しているように、極めて難解です。もちろん、私も読解力の問題もあるんでしょうが、何がいいたいのか、半分も理解できなかった気がしますので、こういった入門書は必要かもしれません。ということで、シュンペーター的なイノベーションは、基本的に経済動学的に理解されるべきと私は考えているんですが、企業経営においても極めて重視されていることは広く知られている通りです。ですから、私がイノベーションを経済動学的に理解するというのは、逆に、企業経営を知らない公務員を長らく経験してきたなのかもしれない、と考えないでもありません。シュンペーターは、本書でも指摘するように、イノベーションに基づく開発者の独占的な利益を容認し、企業家がその利潤を目指してイノベーションを競い合う経済社会を想定していたんだろうと私は考えていますが、もちろん、テクノロジー的なイノベーションだけでなく経営管理や経営プロパーのイノベーションもある一方で、テクノロジー的なイノベーションが枯渇しつつあるんではないか、特に、1970年代を境にして低いところにあって入手しやすい果実は取り尽くしたんではないか、という考えがいわゆる長期停滞論のひとつの根拠になっていることも事実です。そして、本書の第4章でも注目されているように、スマートフォンが格差拡大につながるかどうか、あるいは、イノベーション一般が格差にどのような影響を及ぼすかも現在の経済社会を考えれば、ひとつの焦点となる可能性もあります。本書でも、シュンペーターはケインズとともに、マルクスとも対比されており、イノベーションが格差拡大や経済社会の不安定性につながりかねない恐れも指摘しています。末期のシュンペーターは、かなり確度高く資本主義から社会主義に移行する可能性を認識していたのは事実ではないでしょうか。ただ、現実にはソ連が崩壊したわけですし、マルクス主義的な理論に基づいて、発達した資本主義国である欧米や日本などが社会主義に移行する兆しすら見られないもの、さらに確たる事実です。やや異なる観点ながら、クズネッツに批判されたよいう「イノベーションの群生」についても本書では議論を回避しているように見受けられます。総合的に考えて、場合によっては高校生から大学新入生くらいに対するシュンペーター的なイノベーションの解説書としてはいいような気もしますが、ビジネスパーソン向けかどうかはやや疑問で、読者のレベルによっては少し物足りない点があるような気もします。
次に、アダム・トゥーズ『ナチス破壊の経済』上下(みすず書房) です。著者は、英国出身で現在は米国プリンストン大学の歴史学の研究者です。本書は、副題で「1923-1945」となっているように、シュトレーゼマン政権下の1923年、すなわち、ナチスが政権に就く10年前から終戦までの四半世紀近い期間を対象としたドイツの戦時経済史となっています。すなあち、経済をナチスのヒトラー政権の中心に据えてドイツ紙を見直す、というものです。実は、私は出版社の宣伝文句にひかれて、ナチスの経済政策はケインズ政策を先取りしたものであり、アウトバーンなどのインフラ建設をはじめとした財政支出による完全雇用を達成した、とするのは誤り、といった趣旨の宣伝文句だったような気がするんですが、そこまであからさまではありません。ただ、ケインズ政策による完全雇用の達成とはかけ離れて、ドイツ国民のみならず、ユダヤ人はいうに及ばず、占領下のポーランド人やろ愛亜人などの捕虜も含めて、劣悪な労働環境の下で軍需生産に強制的に就労させ、また、英国と比較しても女性労働の徴用が大きかったり、石油の資源確保が不足していたりといったナチスの戦時経済の実態を明らかにしています。そして、結論としては、我が国戦時経済の分析でもよく見かけるので、かなりありきたりな気もしますが、短期に戦争を終結していればドイツに勝機あったかもしれないものの、長期戦となって圧倒的な工業生産力を有する米国の参戦により、経済的生産力の基礎から考えた戦争の帰趨は明らかであった、ということになります。日本の場合も同じで、本書のスコープ外でしょうが、大和魂や何のといっても、戦争遂行能力の基礎は工業力である、ということになります。逆にいえば、最近の中国製造業の興隆に至るまでの時期、例えば、1980年くらいまでは基礎的な工業生産力から考えれば、米国サイドが常に戦勝国となる、ということになります。とすれば、1960~70年代のベトナム戦争の結果はなぜなのか、という疑問も生じますが、これまた、本書のスコープを大きく外れた問いだ、ということになります。冒頭にも記しましたが、本書は読書にかなりの時間を要します。定評ある山形浩生さんの翻訳ですから訳は悪くないんでしょうが、小さい字でページ数のボリュームもあります。それなりの覚悟をもって読み始める必要あると考えた方がよさそうです。
次に、出川光『クラウドファンディングストーリーズ』(青幻舎) です。著者は、クラウドファンディングに関するディレクターを務めているそうで、リクルートコミュニケーションズを経て、クラウドファンディングのCAMPFIREの創設期にかかわっています。クラウドファンディングとは、いわゆるシェアリング・エコノミーの5つのカテゴリーの中のひとつで、ほかのカテゴリーではAirbnbなどが代表的で民泊と称されるスペースのシェア、また、日本では事業展開できていないものの世界的にはUberが有名なライド・シェア、逆に、日本でしか見られないフリマアプリのメルカリなどのモノのシェア、そして、家事やベビーシッターなどのスキルのシェア、となります。一応、官庁エコノミストとしての私の最後の研究成果はちょうど1年前の昨年2018年12月のシェアリング・エコノミーの研究だったりしますので、それなりに詳しいところです。そして、本書でも明らかにされているように、クラウドファンディングには3種類あり、寄付型と投資型と購入型で、本書では最後の購入型のみを取り上げています。おカネを集めて、何かを作ったりイベントを開催したりして、ファンディングに応じた出資者に対して、その制作物を贈ったり、イベントに招待したり、というリターンがあるわけです。もちろん、資本主義社会ですので、出資額に応じた差がつきます。これを格差というか合理的な違いと捉えるかは、まあ、それぞれかもしれませんが、出資した金額により得られるものが違うというのは自然な気もします。本書では成功した10のケースを取り上げていますが、私の知る限り、ちゃんとしたディレクターがついて目利きの力量があれば、購入型のクラウドファンディングはかなりの程度の成功確率があるんではないか、という気がします。そして、本書では株式会社の創設のような純粋な経済活動ではなく、クラウドファンディングはストーリーを必要とし、強化を基にしたつながりを生むものである、かのように描き出されています。私は半分くらいは希望的観測をもって賛同しますが、半分は懐疑的です。繰り返しになりますが、資本主義経済の下で出資額に応じたリターンがあり、そして、そのリターン品はそのうちにメルカリに出品されたりするんではないでしょうか。それなりに実体を知る者からすれば半信半疑で、やや眉に唾を付けて読むべき本かも知れません。また、どこかの新聞の書評でも見かけましたが、成功例ばかりで取りまとめてあり、それはそれで成功確率高いと知る私なりに理解するものの、失敗例もあれば深みが出たのは確かでしょう。
次に、リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』(岩波書店) です。著者は、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の歴史研究者の大先生です。私は2年ほど前に同じ岩波書店のエリオット『歴史ができるまで』を読みましたが、同じように、グローバル・ヒストリーを視野に入れつつ、歴史的な思考についてのリベラルな歴史学に関するエッセイがつづられています。基本的には、排外的あるいは歴史修正的な傾向を強く戒めています。本書冒頭で取り上げられているのは、ポストトゥルースの時代におけるフェイクニュースの類いであり、例えば、トランプ米国大統領がオバマ前米国大統領の出生に関する疑問、にとどまらず、明確な虚偽の情報を流している、といったものです。もちろん、近代史でその最たるものはナチスによるユダヤ人大量虐殺です。600万人という数字を過大だと指摘したり、あるいは、ホロコーストそのものを否定したりする論調は後を絶ちません。我が国の例でいえば、従軍慰安婦であったり、南京大虐殺であったりするのかもしれません。本書で著者は、近代歴史学の祖ともいえるランケに立ち返って、こういった歴史に対する修正というか、ハッキリいえば、ウソがまかり通るよになったのは、一面、歴史が民主化したことも寄与していると指摘します。エリートだけに許されていた歴史学が広く開放されたからだ、といわれればそうかもしれませんが、かつては一部の権力者や知識人から一般大衆に提示されていた歴史が、ある意味で「民主化」され、誰でもが語れるようになると、特にネット上などで改変や修正の憂き目にあうというのも国民の民度を象徴しているような気がします。逆に、そういった歴史の改編や修正を許さず正しい歴史を学ぶ機会を提供することこそが必要です。なぜ歴史を学ぶかといえば、現在ないし将来の問題を解決するためであると私は考えています。もちろん、ランケのいうように、「未来の世代に教訓を垂れるために過去を断罪する目的で歴史を書いているわけではない」というのは判り切っているんですが、それでも、現在の目の前にある問題を解決するヒントを求めて歴史を振り返るんではないでしょうか。視点を変えると、本書の後半は歴史とマイノリティというテーマが設定されています。著者自身が女性であることからジェンダー史なども視野に入れつつ、東洋と西洋、男性と女性、黒人と白人などのうちの歴史におけるマイノリティの分析にも心を砕いています。また、最後の訳者のあとがきにもあるように、かつては歴史学会で大きな勢力を誇ったフランス的なアナール派の歴史観、というか、歴史分析がかなり後景に退き、国としての歴史の浅い米国の歴史学が注目を集め出しているのも事実です。自然科学や社会科学で、例えば、ノーベル賞受賞者で大きな比重を占める米国の学術界ながら、歴史については欧州の後塵を配してきた感あるものの、異常なくらいのナショナリズムやポピュリズムにまったく意味不明の根拠を置いて恣意的な歴史の解釈や意図的な過去の忘却を目指そうという勢力に対し、リベラルな米国歴史学のあり方を垣間見たような気もします。
次に、佐伯智広『皇位継承の中世史』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、帝京大学の歴史研究者です。本書は、まさに、タイトル通りであり、特に、私なんかの専門外の歴史好きでも知っている中世における天皇継承のトピックとして、持明院統と大覚寺統のいわゆる両統迭立の問題を解き明かそうと試みています。私なんぞは、単純に鎌倉幕府の介入により、持明院統の後深草天皇と大覚寺統の亀山天皇に分かれて、それが室町初期の南北朝の源流となった、くらいの事実関係に関する知識しかないんわけで、セクションのタイトルに「元寇と両統迭立」なんてあったりすると、少しびっくりしたんですが、元寇はさすがに関係ない、との結論が示されています。ただ、本書を読んでもまだ私は得心行かず、両統迭立の結果を招いた原因も、また、北朝、というか、足利氏の幕府側が吉野の南朝を攻め切れなかった原因も、最後に、南朝が約束は反故にされると、後知恵ながら判り切っていたにもかかわらず、北朝に三種の神器という形で正当性を譲った理由も、イマイチよく判りませんでした。私の読解力の問題もありますが、事実関係を淡々と積み重ねていくだけでは歴史の因果関係は明確にならないことを実感しました。加えて、両統迭立から南北朝の分裂、さらに斎藤いるに至る過程が、それほど、というか、私が考える穂と単純ではないのだろうと想像しています。実に、マルクス主義的な唯物史観からすれば、生産力が伸びて生産関係のくびきを破壊するという、かなり一直線な西洋的な史観ですので、そこまで単純に適用できる歴史的な事象というのは、まさに、大雑把な歴史の流れ、というか、もっと超長期に渡る歴史の方向性であって、唯物史観は、個別の歴史的な事象の解明に役立つ手術用のメスではなく、大きな木を切り倒す斧や鉈なのだ、と実感した次第です。また、皇位をめぐる室町期の動向については、3代将軍足利義満による皇位簒奪について今谷明などが議論していますが、本書ではやんわりと否定されています。中世的ないわゆる「治天の君」である上皇による院政などに関しても、本書では豊富に実例を上げて論じており、私のような歴史の好きな人間には知的好奇心を満たしてくれるいい入門書であるという気がします。
最後に、今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、岡山大学の国史の研究者です。本書では、正倉院御物に残された現在の岐阜県の襲来の戸籍から、古典古代の律令制の奈良時代の家族像を解明しようと試みています。戸籍は、ある意味では、権力者の側から税を取り立てる単位として取りまとめられたものですから、本書でも明らかにされているように、現在の戸籍のように氏名や性別・生年だけでなく、古典古代においては租庸調の税を勘案して、身体的な特徴、例えば、障害の有無や程度などの課役負担の参考となる個人情報も記されています。まあ、現代的な個人情報保護なんて、何ら念頭にない権力者サイドの記録ですから当然かもしれません。こういった古典古代における戸籍に関する基礎的な知識を明らかにした後、定量的な歴史学が展開され、まず、著者は人口の推計を試みています。そもそも、本書でも指摘しているように、奈良時代とはいえ、日本という国の領域がビミョーに違っているわけで、時の大和政権の支配下にある地域が100年単位で見れば決して同じでないわけですし、加えて、口分田の配分で差別され、それゆえに税負担も異なる身分があり、良民と賤民の違いもあるわけですから、現代的な感覚で人口を見るわけにもいかず、加えて、それ相応の幅をもって見る必要あるものの、8世紀前半の我が国の人口はおよそ450万人とか、9世紀初頭の延暦年間の総人口は540~590万人、あるいは、奈良時代の初めから平安初期のおよそ100年間で100万人の人口増加があった、などの結果が示されています。さらに、出生時の平均余命、いわゆる平均寿命は28歳余りで30歳を下回っていたとか、合計特殊出生率は6.5人くらいとか、人口にまつわるトピックがいくつか推計方法とともに示されています。さらに、タイトル通りに、古典古代における婚姻、通常、日本では妻問い婚の形式が注目されますが、それらと家父長制との関係、また、再婚が決して稀ではなかった子人制度についても戸籍記録から明らかにしています。自然災害との関係では、飢饉と疫病の流行、さらに、飢饉の際に山に入って職を得る、などなど、興味深い古典古代の戸籍に関する話題がいろいろと取り上げられています。
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