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2020年2月 9日 (日)

先週の読書は話題の歴史書『スクエア・アンド・タワー』をはじめ計8冊!!!

先週は、図書館の予約本の巡りもあって、ついつい読み過ぎたようです。興味深い経済書や歴史書から、やや疑問符が大きい小説まで、以下の通りの計8冊です。

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まず、エリック A. ポズナー & E. グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』(東洋経済) です。著者は、法学の研究者ながら経済学の学術書も少なくないポズナー教授とワイル氏はマイクロソフトの主席研究員です。英語の原題は Radical Market であり、2018年の出版です。副題に「脱・私有財産の世紀」とあるように、財貨の私有と契約自由を基礎とする現在の資本主義的な生産様式に変更を加えようとする試論を展開しています。もちろん、議論はかなり雑であり、右派的な市場原理主義やネオリベ論者からすれば突っ込みどころがいっぱいあるんでしょうが、かなり先進的な議論を提供していることも事実です。副題は第1章のみを対象としているように私には見えますが、第1章では私有財産、第2章では民主主義、第3章では移民、第4章では株式会社制度、第5章ではデータ、のそれぞれについて論じています。ある意味で、もっともアディカルな私有財産への制限については、共同所有自己申告税(common ownership self-assessed tax=COST)の導入を提案しています。すなわち、私有財産は本質的に独占的なものであることから、私有財産については一定の制限を加える、というか、共同所有に移行する都市、具体的には、財産を自己申告で評価し、その自己申告評価に基づいて課税しつつ、もしも、その評価額を支払う意志ある者に対しては譲渡する義務を課す、というものです。課税額を低く抑えようとして財産を低く評価すると、その評価額を支払う意志ある人に強制的に売却しなければなりませんから、それなりに高く評価する必要がありますが、たほうで、高く評価すれば納税額も高くなる、という仕組みです。また、現行の投票制度では、多数者が大きな影響力を持ち、少数者の利益は守られないおそれがある一方で、イシューによって関心の強さは人それぞれでまちまちだが、その関心の強さを票に反映することは不可能になっているため、その投票権を関心の高い分野に集中して使えるようにする投票西土、ただし、平方根で減衰する投票権として2次の投票(Quadratic Vote=QV)を導入して、関心薄い分野の投票行動を回避して投票権を貯めておき、関心高い分野でその貯めておいた投票権を一気に使う、ただし、貯めておいた投票権はリニアで使えるのではなく平方根で減衰させる、という投票制度の導入を現行民主主義の修正として提案しています。これは、副題ではなく主タイトルの「ラディカル」を民主主義に当てはめたといえます。そして、第3章以下では、移民や移住者へのVISAの割当、機関投資家による株式会社のガバナンスの独占、巨大なプラットフォーム企業による個人情報の収集といったテーマを各章で取り上げています。そして、それらの解決策、というか、著者たちの提案の基礎となっているのがオークション理論です。おそらく、巻末の日本語版解説を寄せている安田准教授は、このオークション理論の観点から選ばれたんではないか、と私は想像するんですが、解説者ご本人の意向か、あるいは、依頼した編集者がすっかり忘れたのか、オークション理論についてはまったく取り上げられていません。最後に、繰り返しになりますが、反対の立場を取るエコノミストから見れば、穴だらけの議論だろうとは思うものの、私のような左派で格差是正も重視すべきと考えるエコノミストからすれば、議論の取っかかりとしては、まずまず評価できる内容を含んでいると考えています。

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次に、伊藤真利子『郵政民営化の政治経済学』(名古屋大学出版会) です。著者は、平成国際大学の研究者であり、ご専門は歴史ないし経済史のように私は受け止めました。出版社からしても、かなりの程度に学術書の色彩が強いとの覚悟の上に読み進むべきです。本書は著者の博士論文をリライトしたようですが、タイトルはやや誇大な表現となっており、本書がフォーカスするのは郵政民営化の中でも、郵便貯金に的を絞っています。ということで、戦後の郵便貯金の歴史を解き起こすところから始まって、田中角栄元総理という極めて特異な政治家の庇護により拡大した後、記憶に新しい小泉政権で民営化の大きな節目を迎えた、という歴史を跡付けています。何よりも特徴的な郵便貯金の歴史として、本書の著者は「銀行の支店展開が行政指導により制限を受ける中で、郵便事業の展開とともに貯金も扱う郵便局が銀行支店を上回るペースで拡大し、しかも、金利が自由化される前の段階で金利先高観とともに郵便貯金に資金が流れ込む仕組みを「郵貯増強メカニズム」と名付け、郵貯に集めた資金をもって当時の大蔵省の資金運用部資金を通じて公庫公団の財政投融資制度などから先進国に遅れを取っていた社会インフラの整備へ充当され、国土開発や国民生活の環境整備などをサポートした歴史が明らかにされる前段を受けて、後段では、当然ながら小泉政権における郵政民営化がメインになりますが、その前の橋本政権下での行財政改革のパーツとしての郵政公社化や資金運用部への預託義務の廃止から始まって、2005年の郵政解散がピークとなります。その意味で、タイトルからすれば、やや前段が長すぎる気もしますが、第6章が本書の読ませどころと考えるべきです。もちろん、そのバックグラウンドとして、政府財政が均衡主義を放棄し国債市場がそれなりの厚みをもって形成されたことも忘れるべきではありません。最後に、私が国家公務員として政府に奉職していたこととは必ずしも関係なく、本書の著者は優勢に対する田中角栄元総理の並々ならぬ貢献については、とてもよく目が行き届いている気がするんですが、国政選挙などにおける郵便局ネットワークの果たした役割については、少し目配りが足りておらず、さらに、小泉政権の「古い自民党をぶっ壊す」というスローガンについては、「古い自民党」=旧田中派という事実に関しては、まったく見落としているように見受けられます。学術的な分析の対象にはなりにくい気もしますが、郵政民営化が自民党内の旧田中派への強力な弱体化攻勢であった点は、どこかで何らかの視点からか取り上げて欲しかったと思わないでもありません。ただ、学術書としては難しい面があるのも、判らないでもありません。

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次に、松岡真宏『時間資本主義の時代』(日本経済新聞出版社) です。著者は、野村総研ご出身で、今は共同代表を務めるコンサルタント会社を立ち上げた経営者です。本書では、時間の使い方を切り口に、時間の希少性をいかに使うかを問うています。といえば、聞こえはいいのかもしれませんが、私には何を訴えたいのかがイマイチ理解できませんでした。本書冒頭で、すきま時間を効率的に活用しよう=スマホを電車でいじろう、という内容と早合点したんですが、そうではなく、すきま時間の効率化を手段として、効率化により節約された時間をかたまり時間としてうまく活用しよう、という主張だと理解して読み進みましたが、これはこれでその通りのいい主張ではあるものの、途中から大きくよれてしまいます。時間を基礎にして本書第2章のタイトルである時間の経済学を展開すれば、著者も気づいているように、経済学的には労働価値説になります。ただ、これは供給サイド、というか、時間をひとつの生産要素と考える場合です。他方で、本書ではすっかりスコープの外に置かれていますが、時間をうまく消費するビジネスも展開されていますし、本書でも、著者が明示的には気づいていないうちに取り上げたりもしてます。例えば、本書では、時間の効率化と時間の快適化を2つの軸に据えていますが、前者の時間の効率化は機会費用の高い人が、その生産を高めるために生産以外の時間を節約しようとするものである一方で、後者の時間の快適化は多少コストをかけても快適な時間を過ごすわけですから、時間消費型のビジネスということも出来ます。そして、p.179 の時間とお金と人材のマトリクスが典型なんですが、やっぱり、機会費用が高い高収入層が何らかの時間節約も可能となるという意味で、時間とお金はおそらく賦存条件において正の相関にあるんではないか、と私は想像します。でも、そうなら、このようなマトリクスを分析する意味はありません。時間価値という言葉も、生産性に近い印象なんですが、著者は否定しています。で、結局のところ、時間価値とは稼ぐ力の機会費用、としか私には見えません。そうであれば、特に目新しさもなく、1日24時間、1年365日がすべての人に平等に行き渡っている以上、何らかの経済的な格差が生じるのは、主として、時間単価の違いに依存します。もちろん、私のように短時間で切り上げたいタイプと、長時間働く人との違いがあって、時間単価ではなく労働時間の差が格差を生み出すともいえますが、労働時間の差はせいぜい2~3倍までであり、それ以上の格差が観察される現状は時間単価の差でしかあり得ません。ですから、時間を節約するよりも、時間価値、というか、伝統的な経済学でいうところの時間単価を高める必要があるんですが、本書ではこういった価格で測った質的な時間単価ではなく、量的な時間の方に目が行っているようです。ただ、1点だけ、スマホの普及により公私混同が激しくなった、という分析には目から鱗が落ちた気がします。私自身については、職務専念義務ある国家公務員を定年退職するまでスマホは持ったことがなかったので、こういった公私混同は経験ありませんが、今はひょっとしたらそうなのかもしれません。

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次に、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』上下(東洋経済) です。著者は、英国出身で現在は米国のスタンフォード大学やハーヴァード大学の研究者であり、テレビなどでも人気の歴史家です。英語の原題は The Square and the Tower であり、2017年の出版です。どうでもいいことながら、いつものクセで、表紙画像を縦に並べてしまいましたが、デザイン的には横に並べた方がいいのかもしれません。ということで、最後の著者によるあとがきや訳者あとがきでは、英語の原題は「広場と塔」と訳されています。前者の広場は横に広がるネットワークの象徴であり、後者の塔は縦に構成される階層制組織の象徴とされているようです。階層制組織は、比喩的に日本語では「ピラミッド型」と呼ばれることがあるヒエラルキーであり、今でも、政府、特に、軍隊などで幅広く見られる組織原理である一方で、特に情報通信技術、ITCの発達によりフラットなネットワークの重要性も認識されていることはその通りです。特に、本書ではネットワークを人的なつながりで、また、階層制については組織原理として、それぞれ歴史を通じてどのように作用してきたかを概観しようと試みています。歴史的なスコープとしては、あくまでヒストリアンの著作ですので、中世末期、というか、いわゆるルネサンス期からネットワーク形成に際する活版印刷の果たした役割あたりから始まって、宗教改革、科学革命、産業革命、ロシア革命、ダヴォス会議、アメリカ同時多発テロからリーマン・ショックまで、幅広いトピックが取り上げられますし、人的ネットワークという観点では、本書の書き出しはイルミナティだったりします。もちろん、フリーメイソンについても詳述されています。私も大学時代は経済史を選考していたりしたんですが、通常、歴史家というのは階層制の組織の変遷を跡づける場合が多く、人的なネットワークについては軽視してきたような気がします。まあ、どうしても、歴史研究は階層制組織の最たるものである国家が残したドキュメントに多くを依存しますし、こういったドキュメントを作成するのは、ウェーバー的な広い意味での官僚制の得意とするところです。例えば、中国でいえば、漢や唐や、あるいは、モンゴルによる元、漢民族の明から満州族の清、といった王朝の変遷を追う歴史研究が多いわけです。他方で、劉備・関羽・張飛の3人が桃園の誓いにて義兄弟となる人的ネットワークについては、どちらかといえば、天下国家の歴史の大きな要素ながら、大衆的な小説や演劇の世界になってしまうわけです。ただ、これは私の勝手な例示であり、本書の著者によれば、近代的なネットワークは先述の通り活版印刷によりもたらされた、ということのようです。もちろん、階層とネットワークは明確に分類できるとも思えませんし、時に混ざり合ったりもするような気がしますが、歴史家の常として、著者は膨大な事実関係を提示し、それらを基に、著者自身で理論的な組み立てをするとともに、それなりの教養ある読者を想定したのか、かなり読者の読み方次第、という部分も少なくないような気がします。例えば、現代に近づくに従って、情報の重要性が高まってきていることが行間に織り込まれていて、しかも、その情報伝達の速度の重要性が高まっている点は、おそらく、現代人が強く感じているところでしょうが、それを肌で感じることが出来る人がより本書について深い理解が得られるような気がします。ただし、従来の階層制組織から解き明かす歴史に対して、ネットワークから解明を試みる歴史観というのは、いわゆるグローバル・ヒストリーですでに着手されており、本書が何も初めて、というわけでもなければ、本書が大きな画期的な歴史書、というわけでもない、ということは忘れるべきではありません。著者が著者だけに、本書を過大評価する向きもあるかもしれませんが、私は本書を高く評価しつつも過大評価は慎みたいと思います。

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次に、実重重実『生物に世界はどう見えるか』(新曜社) です。著者は、農林水産省の官僚出身で、局長を務めていますので、私なんぞよりもよっぽど出世しています。回文になっていて、何ともいえないお名前なんですが、実名なんでしょうか。よく判りません。ということで、「どう見えるか」となっていますが、実は、視覚に限定せずに、世界をどう認知しているか、に幅広く対応しています。例えば、第1章で取り上げるのはゾウリムシですし、第2章に至っては大腸菌、第3章でも植物ですから、これらの生物に世界がどう認識されるか、に着目しています。単細胞生物であるゾウリムシには視覚をつかさどる目はないですし、視覚情報を伝達する神経も処理する脳もないわけですから、モノが見えるわけではないと常識的には考えられますが、それでも、栄養になるものがあれば近づき、逆に、点滴のシオカメウズムシからは逃げようとするそうです。ミミズは簡単な2次元の内的地図が理解できるようですし、鳥類は人間的な意味での視力がいいのは高速で飛翔するので当然としても、哺乳類の中でも犬は視覚よりも嗅覚に依存した世界認識を持つというのも理解できる気がします。そして、私は本書の読書に事前には期待していなかった成果として、意識というものについて、あるいは、本書では用語としては用いられていないものの、心の働きについて、単細胞製粒や植物から始まって、ある意味で、情報処理能力としては人間を超える人工知能(AI)にどこまで本書の議論が適用できるか、も興味深いところです。何らかの事故の外にある世界を認識し、それを伝達して情報処理し、何をどうすれば「意識がある」といえるのか、本書の用語に即していえば、本能とか先天的に獲得済みの能力は「意識的」な行動を促すのか、あるいは、「無意識」の行動というべきなのか、興味あるところです。当然ながら、本能に従っていても、一般に「無意識的」な反応と表現されても、少なくとも外界からの情報に対して、三時からの個体の中で、あるいは、群れの集団で、何らかの処理を加えて、それを個体や群れの行動に活かすというのは、本書では「意識」と表現されそうな気がします。そうであれば、AIにも本書的な「意識」がある、といえそうな気がします。でも、別の「意識」の定義により、AIには「意識」がない、とする論説も多く見かけます。例えば、AIに意識を持たせようとする人工意識(AC)の研究も盛んですし、実際に、ACをビジネスとして展開するベンチャーもあります。少なくとも、私は本書に近い立場であり、事故から見た外界から何らかの情報を得て、それに対応した行動を取る能力をもって「意識」を定義すれば、本書でも言及されている記憶の長さにもよりますが、AIには「意識」がある、と見なさざるを得ません。

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次に、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』(フィルムアート社) です。著者は英国人であり、本書の本意に即していえば男性であり、やや古い男性の特徴あるものの、女装趣味=トランスヴェスタイトがあったりします。現代社会を風刺した、陶芸やタペストリー、彫刻、版画といったメディアの現代アート作品で知られるアーティストであり、テレビ司会者、作家でもあります。英語の原題は The Descente of Man であり、2016/17年の出版です。上の表紙画像は、p.026 に解説があり、英国におけるデフォルトマン、すなわち、白人・ミドルクラス・中年・ヘテロセクシュアル(異性愛であり、同性愛ではない)男性、ということです。ということで、私はすでに60歳に達して定年退職して、ほぼ、本書でいうところの男性ではなくなった気がしますが、いわゆる社会的な男性、別の表現をすれば、ジェンダーとしての男性の役割はまだ持っているかもしれません。ただ、例えば、朝の通勤時にものすごく速く歩いたりはしませんし、本書の著者の紹介にあるように、坂で他のサイクリストを全員追い越したい、なんぞとは決して思いません。性的な面とともに社会的に規範とされている男性性、本書でいうマスキュリニティというのは、背が高くて力も強く、やや乱暴なところがある、といったものかという気はしますが、私はラテンアメリカのマッチョの国で外交官をしていましたので、欧米諸国などにおける「レディ・ファースト」というのは、か弱き女性を保護せんとするマッチョな男性の男女差別の裏返しだと受け止めました。かといって、男尊女卑の我が国の亭主関白がいいとも思いません。男女の別をハッキリさせようとする試みは、私から見れば、男女交際に対して厳格たろうとする願望ではないか、という気がします。男女をいっしょにしておくと、いちゃついたりして、生産性が上がらない可能性が高い、ということなんではないかと勝手に想像しています。ただ、男性を男性たらしめていて、その呪縛から解き放つ最大の難敵はやっぱり男性なんだろうという本書の著者の分析には大いに同意します。逆から見て、男性が男性である最大の犠牲者も男性なんだろうと思います。少なくとも、本書で解き明かそうと試みている男性のひとつの特徴である「無謬性」については、これはお役所でもそうなんですから、何としても解放されたい気がします。他に、本書の著者は、男性の権利として認めてほしいものとして、傷ついていい権利、弱くなる権利、間違える権利、直感で動く権利、わからないと言える権利、気まぐれでいい権利、柔軟でいる権利、などを上げ、締めくくりとして、これらを恥ずかしがらない権利にも言及しています。権力や単なる力と訳されるパワー=powerを女性より多く有していて、それを基にした思考や行動の原理に従った存在として男性があるように私は受け止めていますが、そういった特性や特徴を descent するのに、本書が役立って欲しい気がします。特に、男女平等やフェミニズムを主張するのに、男女間で性差があるような気がするんですが、こういったやや風刺がきついながら男性性に関して考えようとする本が著名人から出版されるのは意義あるように受け止めています。もっとも、男子の草食化進む我が国はこの面で世界トップを走っているのかもしれません。ただ、ひとつだけ気がかりなのは、p.055 にもあるように、ジェンダーの平等はいわゆるウィン・ウィンではなく、ルーズ・ルーズになる可能性が高い、という点です。回避する方策はないものでしょうか?

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最後に、額賀澪『競歩王』(光文社) です。誠に不勉強ながら、私はこの作者は知りませんでしたし、この作者の作品も読んだことはありません。ということで、この小説はメタな構造になっています。すなわち、主人公は小説家です。もっとも、天才高校生作家としてデビューしながら、その後はパッとせずに大学生をしていて、本書の最後の方では、モラトリアムの延長を目指して大学院に進んだりしています。そして、競歩の陸上選手を主人公に据えた、というか、大きくフィーチャーした小説を書こうとしています。そして、大きなポイントは、本書最後の献辞にもあるように、2017年ロンドン世界陸上50km競歩 銅メダリストの小林快選手をモデルとしていて、大学陸上部で長距離走者としては諦め、競歩に転向することを余儀なくされた経験からの成長を綴る青春小説となっています。小林選手ご自身は早稲田大学の出身ですが、もちろん、小説では架空の陸上競技部が名門である大学とされています。今年の東京オリンピック・パラリンピックを大いに意識した作品で、何かのテレビか新聞でチラリと見た記憶があり、ついつい、その気になって図書館で借りましたが、出来の方は期待はずれでした。私は『横道世之介』を始めとする青春小説は大好きで、それなりによく読んでいるつもりなんですが、本書はあまりにも平板で盛り上がりに欠け、主人公の達成感もやや規模が小さい気がします。少なくとも、キャラが立っているのが、大学新聞部の女子記者だけで、主人公の元天才高校生作家、主人公が小説の題材にしようと取材している競歩選手、国内トップクラスのほかの競歩選手、主人公と時折行動をともにする出版社の編集者、主人公とライバルあるいは仲間である若手小説家、少なくともキャラとしては、ほぼほぼすべてに決め手を欠きます。ややライバルに遅れを取っている作家と競歩選手が、何といっても青春小説ですから、それぞれ、成長していく、というのがストーリーなんですが、余りにも平板です。特に、長距離から競歩に転向するのは、目の前の起こったことではないのでいいとしても、20kmから50kmに変更する際の心の動きや人間関係などが描けていません。ただ、歴史書のようにひたすら事実関係が記述されているだけです。リオデジャネイロ・オリンピックから東京オリンピック直前のほぼほぼ4年間を対象としていますので、ここの事実関係が希薄化されるのは仕方ないとしても、ラストでなくてもいいので、盛り上がる場面は欲しい気がします。もちろん、スポーツにおいては結果の重視されるケースが少なくないことは理解しますが、それだけが盛り上げどころではないでしょうし、結果を取り上げるだけであれば、ジャーナリストの報道と何ら変わりありません。フィクションの小説として、時間を置いて出版するのであれば、単に事実関係をいっぱい加える量的な付加価値だけでなく、もっと質的な付加価値も欲しかった気がします。

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