今週の読書は左派リベラルの経済書や新書も含めて計4冊!!!
今週の読書は、テミン教授の米国の二重構造をルイス・モデルというややトリッキーな方法論で解明を試みた経済書、社会学でオリンピックと戦後の東京を論じた教養書、いろいろ読んで以下の4冊です。どうも、この週4冊というのがボリューム的に定着したような気がするのですが、以前の東京のころから冊数としては減っています。この季節は、野球観戦と教科書で時間が取られているのかもしれません。でも、できるだけ新書は読むようにしています。
まず、ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、御存知の通り、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)で長らく経済史の教授を務めたエコノミストであり、極めてリベラルないし左派の立場をとっていることでも知られています。本書の英語の原題は The Vanishing Middle Class であり、2017年の出版です。ただし、現行が入稿されたのは2016年9月だそうで、米国大統領選挙の直前のようです。邦訳タイトルはほぼほぼ直訳のように見えます。慶應義塾大学出版会からの刊行ですから、学術論文に近い印象ですが、中身はそれほどの高い難易度ではないように私には見受けられました。著者は、私も参照したことのある二重経済をモデル化したルイス・モデルを米国の階層分化に応用しています。私はびっくりしました。経済学的にはルイス・モデルの二重経済を基礎にし、政治学的にはファーガソン教授の「政治への投資理論」investment theory of party competition、すなわち、政治資金と得票数には正の相関関係があるとする理論、を用いて、米国における不平等の拡大やフタコブラクダのような所得分配などを解明しようと試みています。政治学的な方面はともかく、経済学的なルイス・モデルの応用については、私は疑問を感じないわけではありませんが、まあ、考えられないわけでもないんだろうと受け止めています。ルイス・モデルについては本書にも簡単な説明がありますが、高所得の資本家部門と低所得の生存部門があり、生存部門から資本家部門に労働が移動することにより生産性が上昇し、成長が促されるとするものです。詳しくは、英語論文ながら、私がジャカルタで書いたディスカッションペーパーがあります。それはともかく、現代米国において、金融・技術・電子部門=FTE部門を高所得部門と設定し、ただし、低所得部門から高所得部門に移行するのはかなり難しい、と分析しています。米国では世代間の移動可能性も欧州よりも低くなっているくらいですから、そうかもしれません。また、所得階層を上げるための大学進学も学費の観点から低所得家庭の子弟が大学に進学する困難さも分析されています。ただ、やや物足りなかったのは、FTE部門がどうして小さな政府を要求するか、についてもう少し詳細な分析が欲しかった気がします。単に、FTE部門税金を払いたくないから、だけでは、特に日本ではみんな税金を払いたくないでしょうから、説明になっていないような気がします。この政府の大きさも含めて、低所得部門の分析は豊富なのですが、高所得のFTEbumonnnobunsekigaもう少し欲しかったと私は受け止めています。コーク兄弟だけでは少し物足りません。
次に、吉見俊哉『五輪と戦後』(河出書房新社) です。著者は、東大教授であり、社会学・文化研究・メディア研究を専門としています。おそらく、著書は多数あるんだろうと思いますが、私は初めて読んだかもしれません。タイトルから想像されるように、本来、今年2020年に開催される予定だった東京オリンピックを念頭に置きつつ、実は、1964年の東京オリンピックを論じています。第Ⅰ章でオリンピックの舞台となる東京という都市を舞台として取り上げ、第Ⅱ章でオリンピックを盛り上げる演出について、主として聖火リレーに着目して、それほど大きな注目を集めていなかったオリンピックの注目度が以下にして上がったか、を考察し、第Ⅲ章ではそういった舞台や演出に基づいて、いかに演技が演じられたか、マラソンの円谷と女子バレーを題材に議論され、最後の第Ⅳ章では東京に続くソウルや北京と行ったアジア都市でのオリンピックの開催を再演として捉えています。私は専門外なのでよく理解していないながら、ドラマトゥルギーという概念から上演論的なアプローチが取られています。戦前の東京というのは、帝都というよりも、軍隊が広く展開された軍都であったと指摘し、戦後はそこに米軍が進駐し、そういった軍事施設をスポーツをはじめとする文化に対して転用ないし開放するという発想からオリンピックが考えられ、当然ながら、戦後1950年代あたりからの高度成長を背景に、戦後日本の平和国家としてのアピールの場となったわけです。著者は、オリンピックだけでなく、1970年の大阪万博まで視野に入れてこういった点を論じています。聖火リレーについては沖縄を走ったという点は私も記憶に残っているほどですから、国民にはとても印象的であったのだろうと軽く想像されます。ただ、記録映画の出来について、国会議員からは高速道路や新幹線、さらに、競技会場などのインフラやハコモノに重点を置くべしという意見があったのは知りませんでした。興味深い点でした。円谷と自衛隊の関係に焦点を当てていますが、私の記憶が正しければ、重量挙げの三宅も自衛隊ではなかったかという気がします。円谷と三宅の違いはどこから生まれたかについても論じて欲しかった気がします。でも、夏季も冬季も開発一点張りだった五輪開催が、少なくとも冬季については環境や自然保護の観点が入り始めるのは、とても時代の流れなんだろうという気がします。もっとも、それをいうなら、著者の指摘するアマチュアリズムからコマーシャリズム、というのも時代の流れのような気がします。
次に、日本推理作家協会[編]『沈黙の狂詩曲』(光文社) です。推理作家協会の選によるアンソロジーです。昨年の出版です。収録作品は、青崎有吾「三月四日、午後二時半の密室」、秋吉理香子「奇術師の鏡」、有栖川有栖「竹迷宮」、石持浅海「銀の指輪」、乾ルカ「妻の忘れ物」、大山誠一郎「事件をめぐる三つの対話」、織守きょうや「上代礼司は鈴の音を胸に抱く」、川崎草志「署長・田中健一の執念」、今野敏「不屈」、澤村伊智「などらきの首」、柴田よしき「迷蝶」、真藤順丈「蟻塚」、似鳥鶏「美しき余命」、葉真中顕「三角文書」、宮内悠介「ホテル・アースポート」の15作品で、作家の50音順に並べてあります。さすがに、私はすべて未読というわけでもなく、「事件をめぐる三つの対話」と「美しき余命」は別のアンソロジーで読んだ記憶があります。でも、複数のこういったアンソロジーに収録されているということは、それだけレベルの高い作品ということもできようかという気がします。加えて、私の場合はかなり乱読ですので、ミステリながら結末は忘れているケースも少なくなく、興味を持ち続けて読み進むことができました。ともかく、アンソロジーですから、必ずしも本格推理小説ばかりではなく、ユーモア作品や、本格ファンからすればミステリではないようなホラー超の作品まで、いっぱい収録されており、繰り返しになりますが、とても水準高い作品ばかりです。2段組で400ページを超えるボリュームですから、私でも読了には丸々2日かかりました。通常であれば、1週間かけて読んでもおかしくない分量です。あえて、私なりにベストは柴田よしき「迷蝶」を上げておきます。還暦前後の年齢の近い登場人物というのもありますが、小説らしく日常生活ではありえない偶然です。「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、「そんなことあり得ない」というくらいのフィクションを展開するのが小説だと私は考えています。
最後に、十川陽一『人事の古代史』(ちくま新書) です。著者は慶應義塾大学准教授で、我が国の古代史を専門分野とする歴史の研究者です。タイトル通りの内容で、我が国古代の人事をテーマにしています。もちろん、古典古代には今のような会社組織はあり得ませんから、律令制下の官人、すなわち、今風にいえば公務員の人事史ということになります。日本の場合、特に中国と比較しての特徴は、政権の交代はあっても王朝の交代はなく、まあ、私は決して好きな表現ではありませんが、いわゆる万世一系の天皇家が続いているという点と、もうひとつは、科挙のような一般公募の選抜試験ではなく世襲による官位・官職の継続がなされてきた点です。本書の著者も指摘しているように、世襲という言葉には北朝鮮的な好ましくない雰囲気があるんですが、学校教育も十分ではなく、ましてや、インターネットで手軽に情報を検索できるわけでもなかった古典古代の当時としては、家に蓄積された情報というのはとても重宝されたんだろうと想像できます。その上で、一位、二位といった官位と太政大臣や大納言といった官職との二重の官位官職制度のもとでの散位など知らないこともいっぱいでした。でも、人事のお話ですので、人事で職位職階が異動した際に、何が起こるのか、もちろん、摂政関白太政大臣なんて、位人臣を極めた大貴族のお話もさることながら、もっと一般庶民に近い下級貴族の精励恪勤振りも焦点を当てて欲しかった気がします。まったく出世しなかった公務員定年退職者のひがみかもしれません。最後に、私は大学で経済よりもむしろ歴史を勉強したかったんですが、就職のことを考えて妥協して経済史という分野を先行して、結局、今では経済史とは何の関係もなく教職にあるわけですが、日本の古代史は古文書の解読に明け暮れていると聞きましたが、もしそうだとすれば、私には適性がなかったかもしれません。
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