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2020年10月10日 (土)

今週の読書は話題の『メイドの手帖』をはじめ計5冊!!!

今週の読書は、話題の『メイドの手帖』をはじめ、意識的に読んでいる新書も含め以下の通りの計5冊です。

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まず、安宅和人『シン・ニホン』(News Picks パブリッシング) です。著者は、慶応大学の研究者ということになていますが、本書を読む限りは、ヤフーのCSOとか、マッキンゼーのコンサルの経験が大きいような気がします。本書の基本は、類書と同じであり、上の表紙画像にあるように、AI✕データ時代を見据えて素早く対応し先行者利益をゲットする点を重視していますが、そのためにいろいろとコンサル的な解決方法を示しています。その際に何度か、「妄想」という言葉が出てきますが、それなりの重要性を持つキーワードです。もちろん、妄想するだけではなく、「カタチにする」重要性も忘れられているわけではありません。ということで、AI✕データ時代は、その昔からいわれている重厚長大産業からの脱皮が真の意味で必要となります。というのも、従来からの大企業がデンと居座って産業界を支配する一方で、米国のGAFAが典型的なように、情報系企業の企業価値が大企業に上回る現象がよく起こるようになっています。その上で、日本のみならず、世界的にも、売上や利益といった従来からの企業指標がそのまま企業価値につながるわけではなくなっています。そして、本書が優れているのは、類書になく、研究を重視し、そのためのリソースを充実させるべきと考えている点です。もちろん、この研究資金拡充だけであれば、研究系の類書との大きな違いはないんですが、AI✕データ時代を見据えて素早く対応し先行者利益のゲットを主眼とするたぐいの書物として、研究リソース充実を打ち出すのはめずらしいく、もっぱら、ブチブチと政府や大学に文句をいう本が多い気がします。研究リソース充実の重要性を主張しているという点で、私も大いに共感するところがあります。加えて、今回の菅内閣による日本学術会議人事への加入を著者がどのように考えるかにも興味あります。ただ、最後のナウシカ張りの「風の国」については、高齢者の都会への移住を進めるという以外は、私はまったく興味ありません。最後の最後に、本書のいくつかの興味深い図表は財務省のサイトでみた記憶があります。ただし、「不許複製」ということのようです。著作権法に基づく引用ならいいのでしょうか。よく私には判りません。

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次に、ステファニー・ランド『メイドの手帖』(双葉社) です。著者はシングルマザーで作家になる夢を持っていて、その第一歩となる大学入学までを綴ったエッセイ、というか、ノンフィクションの作品です。英語の原題は MAID であり、2019年の出版です。オバマ米国前大統領の目に止まり、前大統領の2019年夏の読書リストと年間推薦図書にも選出されています。ということで、ほぼほぼ最低賃金で清掃の仕事に就いたシングルマザーの半生を対象にしています。ただ、私はどこまでフィクションで、どこまでノンフィクションなのかは判断できません。著者が予期せぬ妊娠とDVのパートナーとの別離によって陥った貧困はかなりのもので、小さい子を連れてスーパーのレジに並ぶ際に、所持金の計算をせねばならないほどの貧困状態です。日本でいえば、幼稚園児くらいの子どもにマクドナルドのハッピーセットを与えるのが贅沢と受け止めています。もちろん、日米の差はかなり大きく、著者が都会ではなく、米国でもかなり不便な地方住まいである点も考慮しなければなりません。ですから、自動車への執着やガソリン代の認識は日本人には理解できない可能性があります。ただ、日本でも、エコノミストの視点では、貧困は高齢、母子家庭、疾病が3大原因と見なされており、米国でも同じなのかもしれません。クリーニング・レディとしての清掃という仕事にも日本人としては理解が及ばない可能性があるものの、私は2度の外国生活でメイドを雇った経験があり、日本人くらいの所得レベルであればメイドを雇って、まあ、トリックル・ダウンに協力せねばならないという雰囲気は感じました。ジャカルタでは、結局、1人しかメイドを雇わなかったのですが、いくつかの日本人家庭では2人雇って、調理中心のコキさんと、掃除や選択中心のチュチさんがいて、前者の方がお給料は高い、というのも聞いたことがあります。400ページを超えるボリュームですし、私が2日かけた読書ですから、それなりの覚悟は必要ですが、多くの人が手に取って読むことを私も願っています。

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次に、畑中三応子『<メイド・イン・ジャパン>の食文化史』(春秋社) です。著者は編集者・食文化研究家だそうで、私から見てジャーナリストと考えてよさそうです。もちろん、専門分野は食品や食文化なんだろうと思います。同じ著者の前著は『カリスマフード』で、同じ出版社から出ています。私も前著を読んだことがあり、2017年4月に読書感想文をポストしています。ということで、タイトルにあるように、食文化史なんですが、その昔の舶来信仰は食文化もそうだったわけで、明治期から続いてフランス料理を有り難がったり、バブル期にブームとなったイタリア料理=イタ飯などに代わって、最近では、国産品の方に価値を置くようになっている、と著者は指摘しています。例として、飲食店で見かける「当店はすべて国産米です」の表示とか、和食がUNESCOの世界文化遺産に登録されたりと、和食や国産食品が輸入食品や海外の食文化よりも「日本エライ」のような感じになっている、というあたりから始まります。もちろん、1996年の堺などでのO157による集団食中毒、また、今世紀に入ってからもBSE、あるいは、中国の毒餃子とか、食品の安全性に関する注目が高まるにつれて、国産食品への関心や信頼が高まった点を歴史的に解き明かしています。もちろん、食材だけでなく、家畜感染症対策、食料自給率の果てしない定価、はたまた、そういった事実を報ずるメディア事情まで、日本人の食文化や食にまつわる意識を幅広く取り上げて、しかも、とてもユーモラスな語り口で明らかにしていきます。もちろん、私たちの周囲には純粋な和食だけでなく、ラーメン、カレーをはじめとして、海外の食をとてもうまく取り込んだ食文化がいっぱいです。そういったものも含めて、「世界に類をみない国際性の豊かさ」とか、「情けなくも愛おしいメイド・イン・ジャパン」などと紹介されています。

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次に、木村昌人『渋沢栄一』(ちくま新書) です。著者は、公益財団法人渋沢栄一記念財団に長らく勤務された研究者であり、本書のタイトルにぴったりな研究者とお見受けしました。ということで、新1万円札の肖像画にまさにピッタリのはまり役ともいえる渋沢栄一についての評伝です。その作者がまた渋沢財団の研究部長だったというのですから、ここまで的確な人物はいなさそうですが、逆に、提灯持ちに終わるリスクもあります。江戸期に現在の埼玉県深谷市で生まれて、明記、対象、昭和の時代を90年あまリ生きた財界の大御所の一代記です。私は同じちくま新書から出版されている『論語と算盤』の現代語抄訳もも読んだ記憶があります。本書では、渋沢の経済活動、特に民間での財界活動のもっとも特徴を3点、すなわち、論語と算盤とカギカッコ付きの「民主化」と特徴づけています。最後の「民主化」はデモクラシーではなく、官尊民卑を脱して官ではなく民を主とする経済活動を提唱した、という意味でカギカッコを付してあります。そして、その最大の眼目は私利私欲を満たすことではなく、経済活動の倫理性に求められます。その基礎が論語なわけですが、本書が踏み込み不足と感じる最大の点がここにあります。すなわち、私は19世紀後半のアジアの状況からして、儒教よりもキリスト教的な博愛主義の方が先進的とみなされていたような気がします。韓国なんかが典型です。論者の中には、渋沢の野放図な女性関係に男尊女卑的な論語の背景を見る研究者もいますが、はっきりと間違いです。中国に発する論語に男尊女卑の観点はありません。男尊女卑が明確になるのは日本だけです。それはともかく、渋沢に関して、かなりいいとこ取りの研究書であることは間違いありません。新1万の肖像画の渋沢を知るいい機会だと思います。

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最後に、神代健彦『「生存競争」教育への反抗』(集英社新書) です。著者は、私の住まいからのほど近い京都教育大学の研究者です。専門は戦後日本の教育学史、ないし、道徳教育の理論だそうです。私も大学に教職にある身として、それなりの興味を持って読み進みました。ということで、すでに大方の識者によって否定された教育を「緩める」ことを目的に書かれていると、私は受け止めています。ただ、およそ、体系的でなくテキトーな論述ですので、それほど説得力はありません。ひょっとしたら、しゃべった内容をテープ起こししたのかもしれません。ただ、教育と学習と学校などのキーワードはそれなりにきちんと使い分けられています。著者がいいたいであろうことは、教育にそれほど期待してはいけないし、教育がすべてを解決できるものではない、ということで、私なりに解説すると、現在の教育の目指すものも実態もどちらもオーバースペックなのだ、といいたいのだろうと思います。ただ、本書でも言及されているように、2003年のPISAショックで「ゆとり教育」は完全に否定されているのも事実です。しかも、やや哀れにも、現在の教育の目指すものを否定した著者は、それに代替する教育のあるべき姿や目標を提示することに明らかに失敗しています。ですから、古典古代のエウダイモニアなどを持ち出したりしているわけですが、明らかに論旨がうねっています。現在の教育が、工業社会、それも初期の工業化社会の完全競争に近く、低品質で画一化されたスペックの大量生産に適応した人材を輩出することを目標にして成功していたのに対し、ポスト工業社会ではより多様な人材が必要になる一方で、教育がそれに対応できていないのも事実です。ここで、私は「多様な人材」とスラッと書きましたが、これは水平的な専門分野の多様化とともに、しばしば、特にネオリベな文脈では、低スキルから高スキルまでという意味での垂直的なカギカッコ付きの「多様化」が要求される場合もあります。私自身はこの「垂直的な多様化」に必ずしも賛成できず、出来る限り教育や教養を高めることが望ましいと考えていますが、それは別としても、少なくとも専門分野の水平的な多様化が必要とされていることは明らかです。そのために、家庭と学校でどのような分担意識を持って、どのような目標で進めるべきか、本書はそのために一致点を探す手がかりにはなっても、解決策の提示には明らかに失敗しています。

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