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2020年11月21日 (土)

今週の読書は重厚な経済書のほか新書やファンタジー小説もあって計6冊!!!

今週の読書は、よく読んで以下の6冊でした。重厚な経済書から新書やファンタジーのボンコ本までさまざまなバリエーションです。なお、経済週刊誌から「今年のトップ経済書」のアンケートが来ていましたが、今週のうちに回答を投函しておきました。実は、私自身は先週の読書感想文で取り上げた吉川洋『マクロ経済学の再構築』を一番にあげようかと考えないでもなく、また、ようやく図書館の予約が回って来て今日にも取りに行こうかと考えている小林・森川[編著]『コロナ危機の経済学』も考えなくもなかったんですが、前者は候補リストになく、あまりに小難しい学術書と受け止められている可能性があり、また、後者もリストにない上にアンケート回答の締切に読書が間に合わないという勝手な事情もあり、回答には加えませんでした。私の職業柄からビジネス書ではなく、それなりの学術書っぽい経済書や教養書がよかろうと考えて、また、先週も書いたように、トップグループの経済書を選ぶのではなく、2番手か3番手の経済書を選んで、その上で、目立つような気の利いたコメントを付ける、という戦略を取っておきました。10年ほど前の長崎大学経済学部のころは首尾よく私のコメントが掲載されましたが、今回はいかに?

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まず、ポール・コリアー『新・資本主義論』(白水社) です。著者のコリアー教授、というか、ナイトの爵位を授与されていますのでポール卿というべきかもしれませんが、著者は英国オックスフォード大学の開発経済学や公共政策の重鎮です。ひょっとしたら、そのうちに、ノーベル経済学賞を授与されるかもしれません。もっとも、英国では、マーシャルやケインズなどの系譜からケンブリッジ大学の経済学が目立っています。本書の英語の原題は The Future of Capitalism であり、2018年の出版です。著者の出身であるシェフィールドの鉄鋼業の衰退などから説き起こして、戦後世界経済の黄金期であった1950-70年代への回帰を強くにじませつつ、行き過ぎた市場原理主義た利益に走る経営者などの個人を格差拡大の観点から批判しつつ、倫理観ある経済社会を目指した経済書です。しかも、私には理解できないながら、強く共同体主義(コミュニタリアニズム)に基づく社会民主主義を推奨し、ナショナリストあるいはポピュリストを批判するとともに、逆に、共産主義も排除しています。前者のポピュリズムの方は英国のBREXITや米国のトランプ大統領、あるいはフランスのルペン党首などが念頭にあるのは容易に理解できるものの、後者の共産主義への嫌悪感は私にはよく理解できません。スターリン的なソ連型の共産主義や毛沢東型の中国が念頭にあるのかもしれませんが、大陸欧州のイタリア、フランス、スペインなどのユーロ・コミュニズムは、私の印象ではかなり社会民主主義に近い印象がある一方で、コミュニタリアニズムとはかなり違っているという受け止めなのかもしれません。ただ、さすがに、私だけでなく、多くのエコノミストや社会科学者はヘーゲルによる弁証法的な歴史の発展を念頭に置きますので、1950-70年代の戦後世界経済の黄金期への単純な回帰ではお話になりません。そこで、著者は、経済人 economic man から社会人 social man への転換とともに、経済的父権主義から社会的母権主義への転換も主張しています。これは私の理解を超えている第1点です。私の理解できない第2点は、格差の発生と拡大を高学歴者の高スキル職業の獲得とその内輪での結婚や家族構成などに起因すると見ている点です。もしそうであれば、社会の中のかなり幅広い層が当てはまることとなり、実際に、本書でもどこかに社会の半分が高所得に該当するやの表現がありましたが、実際には所得階層の上位1%、あるいは、0.1%への集中が見られるのが格差問題の本質のひとつであり、それがいわゆる「オキュパイ運動」で現れたのではないか、と私は考えています。第3の点は、社会民主主義をど真ん中の中道と主張する点で、これは左右の両翼への拒否からむしろ分断を深めることになりはしないかと不安すら覚えます。ということで、著者がやや専門外でがんばり過ぎて、アサッテの方向に行ってしまった感はあります。その上、せめて昨年のコロナ前に邦訳が出版されていたらよかった気がします。もちろん、米国大統領選挙で結果が出た後に読んだ私も悪いのかもしれませんが、出版のタイミングも遅きに失した感があります。ややビミョーな読書でした。なお、詳細な記事が朝日新聞の読書サイトで著者本人のインタビューなどとともに掲載されています。ただ、私は本書は「ど真ん中」の社会科学の本だと思うんですが、なぜか「じんぶん堂」というコーナーで取り上げられています。謎です。

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次に、西村淸彦・山澤成康・肥後雅博『統計 危機と改革』(日本経済新聞出版) です。すべて元職ながら、著者は、統計委員会委員長、統計委員会担当室長、統計委員会担当室次長の3人です。西村先生と山澤先生は大学の研究者、肥後さんは日銀です。私は本書の中で展開されている統計改革のごく一部のお仕事に関わったことがあり、役所勤務のころに研究成果も出していますし、著者3人ともお会いしたことがあります。もっとも、面識あるとまではいえないかもしれません。本書の中身は、一般のビジネスパーソン2対ステはあまりにも技術的な内容に過ぎる気がしますが、政府や地方公共団体などの役所に勤務する公務員向けなのか、という気もします。というのは、「犯罪白書」だか、「警察白書」だかが、警察官昇進試験向けに警察官に愛読されているようなものだ、と仄聞したことがありますが、本書も同じような印象があります。ですから、同時期に経済統計に関わった私などからすれば、行政改革担当大臣の下で議論された統計改革に携わった東大名誉教授のことがまったく出てこないのは、何となく理解できますし、逆に、もっと大きな問題についても、やや等閑視されている印象すらあります。大きな問題というのは、私が考える限り、SNA統計≒GDP統計中心主義がこれでいいのか、という点と、統計作成上の個人や企業のプライバシーをどう考えるのか、という2点です。私は現時点では、本書で当然の前提のように考えられているSNA統計中心主義、別の表現をすれば、その他の統計はすべからくより正確なGDPの算出のために設計・実施されるべきである、というのは、十分理由のあることなのだと考えています。ただ、内輪にいれば理解できるものの、一般の学生・院生やビジネスパーソンにはもう少していねいな解説が必要かもしれません。そして、ホントに景気動向を把握するための統計でGDPがピカイチかといえば、まったく疑問がないわけでもありません。ただし、例えば、同じ内閣府で作成している景気動向指数についてもSNA統計と同じ加工統計であって、1次統計から作成されるわけですから、景気動向指数をSNA統計に代替して中心に据えたところで、大きな変化はありません。ですから、国連主体でマニュアルが作成され国際的な比較が可能なGDPを中心に据えた統計システムを構築するのは、現時点で、十分理由があると理解はしていますが、まったく新たな景気統計を日本主導で世界に示すのも視野に入れるべきではないか、という壮大な展望も示すことも意味あるかもしれません。第2のプライバシーの問題については、そこまで単純ではないながらも、実に単純にアッサリと示すと、もしも統計が重要な公共財であるなら、マーケットとの取引についてはプライバシーを制限する、あるいは、極端には認めない、という方向も国民から理解を得られる可能性があります。ただ、他方で、マーケットを相手にしないベッドルームのプライバシーは断固として守られるべきです。その点は忘れるべきではありません。ひとつ戻って、マーケットとの取引については、典型的には消費や投資なわけですが、何を売り買いしたかはプライバシーに関わりなく記録されているのが実情です。ただ、現状では、現金決済がまだ後半に見られるため、支払った方の「誰が」が不明の場合が多くありそうな気もします。しかし、キャッシュレス決済、これはスマホのQRコード決済だけでなく、クレジットカードや電子マネーも含めてのキャッシュレス決済であれば、支払った方の記録も残ります。誰が何を売り買いしたのかはプライバシーと今は考えられていますが、拳銃やポルノやその他の倫理的な問題ある買い物は、逆に、プライバシー保護が緩和されれば、ひょっとしったら、好ましい方向に向かう可能性すらあります。ですから、悪い見方をすれば、統計作成のための便宜とはいえ、ある意味で、買い物を政府に監視されるわけですから、気持ち悪いのは当然ですが、それ以上の公共の福祉への貢献があるかどうかがポイントになります。信号のある交差点で好きに進めないのは公共の福祉の観点から受け入れられているわけですから、あるいは、国民や企業のお買い物の中身を政府に情報として、あくまで統計作成のための情報として提供することは、ひょっとしたら、受け入れられる可能性もあります。伊藤計劃の代表作で『ハーモニー』がありますが、健康状態に関する情報開示をお買い物に関する情報提供に置き換えることが出来るなら、ああいった世界かもしれません。

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次に、繁田信一『平安朝の事件簿』(文春文庫) です。著者は、歴史の研究者です。本書は、治安を司る検非違使の長である別当を務めた藤原公任の残した「三条家本北山抄裏文書」、すなわち、『北山抄』のバックグラウンドとなる公文書を基に、我が国の古典古代末期の平安朝の中期、色んな意味で色んなものが緩み始めたころ、その時代の庶民ではないとしても、貴族社会の最下層に生きる人々のリアルな生活、というか、凶悪事件を含むさまざまな違法事案を取り上げています。ほかにも、当時の生活をしのばせるいろんな情報があり、「侍」とは武士と同じ意味で使われるんですが、実は、その後の用人のような存在であり、主の入浴と排泄と部屋の掃除が欠かせない役目、などといった文書が明らかにされています。どこかの時代小説に「用人は藩主の尻拭い」といった旨の表現がありましたが、その通りかもしれません。他にも、他人の水田の稲を刈り盗る狼藉者の侍とか、根拠となる証文ないにも関わらず高利貸の横暴な取り立てに苦しむ未亡人とか、海運業者なんだか難破船を襲撃する海賊だかわからない瀬戸内の船首とか、壁が朽ちているとかの刑務所の設備が劣悪なことが原因で拘留していた犯罪者を逃がした責任を問われる刑務所長が連名で施設の改善を要求したりとか、広く一般的には、上位の貴族に根拠ない無理難題を突きつけられる下級貴族の苦悩とか、などなどが広く収録されています。繰り返しになりますが、決して私のような一般庶民ではなく、下級貴族の世界、すなわち、その昔に日本史で習った「かみ・すけ・じょう・さかん」の中の下2つくらいの位階の下級貴族の世界をしのぶことができます。私は電車やバスの中なんかで読書していて、平気で笑い出したりする「ヘンなジーサン」なんですが、当のご本人たちは大真面目ながら、後世の我々の読書では笑える部分も決して少なくありませんでした。

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次に、佐々木閑・小原克博『宗教は現代人を救えるのか』(平凡社新書) と釈徹宗『歎異抄救いのことば』(文春新書) です。前者は仏教研究者とキリスト教研究者の対話で構成されており、後者は仏教研究者の「歎異抄」解説です。2冊とも仏教研究者は浄土真宗が対象であり、3人とも京都ないし大阪の大学の研究者です。ということで、私も前々から理解していたのですが、2点ほど明らかになりました。すなわち、第1に、キリスト教が社会変革、というか、社会全体を救済しようとしているなかなか立派な宗教であるのに対して、我が浄土真宗は社会の救済なんて露ほども念頭になくて、ジコチューな宗教であることが、今やハッキリと理解できるようになりました。「駆け込み寺」という表現がありますが、仏教は本来的には社会に対峙するものではなく、社会には弾き出されたものを出家、あるいは、在家のままでも受け入れる寺、というか、より正しくはサンガを用意している宗教だということです。第2に、やっぱり、そうはいいつつも、浄土真宗とキリスト教は一神教という観点をはじめとして、かなりの似通った点がある、ということです。ただ、阿弥陀仏は天地創造をしたキリスト教の神様と違って、私のような凡人を極楽浄土に生まれ変わらせてくれるだけであり、その1点に特化した存在です。その意味で、私のようなズボラ者にはよくあっていると思います。その昔の聖徳太子のころは、仏教といえば中国や挑戦などの最新の文化とともに日本に入って来て、少し前の韓国におけるキリスト教のような受け止められ方だったんでしょうが、まあ、平南末期から鎌倉期にかけて新仏教で覚醒するまでは、かなり堕落していたような気もします。加えて、高校生のころから慣れ親しんだから、というわけでもないでしょうが、やっぱり、「歎異抄」の親鸞聖人のお言葉はとてもよく理解できます。人生の指針となる部分がいくつか含まれている気がします。ただ、この2冊に共通して私が疑問と考えたのは、特に、浄土真宗に限定するわけではありませんが、仏教の世界における末法思想について特段の言及がなかった点です。おそらく、仏教界全体で末法の世は認識されていたでしょうが、特に、浄土真宗や日蓮宗などは末法思想が強い一派であると私は考えています。その末法の世をいかに生きるかが焦点となっているわけで、ある意味では、キリスト教の最後の審判にも近い部分があるような気もしますし、何らかの言及あって欲しかった気がします。特に、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックを経験した後の世界をどのように末法と関連させるか、は私の興味あるところです。

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最後に、望月麻衣『満月珈琲店の星詠み』(文春文庫) です。著者は、北海道出身ながら、現在は京都の城陽市に在住らしく、京都本をよく書いています。実は、城陽市には10年ほど前まで私の祖母が住んでいました。祖母はさすがになくなりましたが、まだ、叔父夫婦は住んでいますし、木津川北岸の城陽市は我が父祖の地です。ただ、京都的な感覚からすれば、洛外もいいところです。ということで、作品としては、私も読んだことがあるのは、「京都寺町三条のホームズ」シリーズ、「京洛の森のアリス」シリーズ、「わが家は祇園の拝み屋さん」シリーズなどがあります。タイトルから容易に想像されるように、京都本です。私は最後のシリーズは読んだことがありませんが、前2シリーズは読んだことがあります。「京都寺町三条のホームズ」シリーズは女子高生-女子大生の真城葵と鑑定士の家頭清貴を主人公にした謎解きミステリです。20巻近くまで続いていると思います。「京洛の森のアリス」シリーズは3巻で終わってしまいましたが、ファンタジー小説です。そして、本書『満月珈琲店の星詠み』がこれからシリーズ化するかどうかは現時点では不明ながら、猫が喫茶店=満月珈琲店を店主として運営するというファンタジーです。しかも、キッチンカーらしくアチコチに出没します。そして、客の注文は聞かずに店側で飲み物や軽食を用意します。タイトルにあるように「星詠み」もします。ただホントは「星読み」なんだろうと私は考えています。決して、星を入れた歌を詠むわけではありません。星の動きを解説するわけです。ですから、猫ではなくケンタウロスの役目ではないか、と私は考えるんですが、ホグワーツ近くの禁じられた森ならケンタウロスもふさわしいかもしれませんが、京都の鴨川の河原であれば猫が適当であるという気分も私は理解します。ゆるく読めますので、時間潰しには最適です。

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