今週の読書は経済書をはじめとしてミステリも含めて計5冊!!!
今週の読書は、経済書と教育に関する専門書、さらに、ミステリに新書まで含めて、以下の通りの計5冊です。大学の方の授業は今週で終わりましたが、まだまだ、次第では入試が始まったりして、時間的な余裕はできません。
まず、竹森俊平『WEAK LINK』(日本経済新聞出版) です。著者は、慶應義塾大学の経済学の研究者であり、政府の経済財政諮問会議の民間議員も務めるエコノミストです。タイトルから明らかな通り、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにさらされた世界、特に、経済について論じています。私は、当初、著者の専門分野が国際経済学ですから、グローバル・バリューチェン(GVC)の切断のお話かと想像していたんですが、それほど狭い分野に限定したわけではありません。すなわち、米国、欧州、中国、そしてもちろん日本も、それぞれの経済社会における切れやすい弱い輪=Weak Linkについて議論を展開しています。そして、それぞれ国や地域の弱い輪がCOVID-19パンデミックにつながっていると指摘しています。まず、序章で総括的な世界システムの概観をしてその想像と崩壊を見た後、第1章からは、スペイン風邪のパンデミックの歴史を振り返り、COVID-19との異同を論じるところからお話が始まります。事前予防のワクチンや事後治療の特効薬といった「決め手」がない中で、結局、ソーシャル・ディスタンシングに頼るしかない現状からの考察が始まります。本書ではないんですが、「ソーシャル・ディスタンシング」を単に1.5ないし2メートルの距離を保つという狭い意味ではなく、より広い意味で捉え、隔離やロックダウンも含めている文献がいくつかありました。本書もややそれに近い印象を私は受けました。そして、何より本書にいて、世界のCOVID-19対応の間違いの元ともいえる要因として、自信過剰(Hubric)が上げられます。もっとも、私のような唯物論者はこういった観念論はやや苦手だったりしますが、類書との差別化として判らなくもありません。そして、もうひとつの本書の特徴は中国が世界の「弱い輪」である可能性を示唆している点です。ただし、この「中国弱点論」は類書でもいっぱい見られます。例えば、パニック小説作家の高嶋哲夫の『「首都感染」後の日本』という宝島社新書を借りたんですが、タイトルに入っているパニック小説の『首都感染』で中心となる新型インフルエンザもFIFAワールドカップ開催中の中国の首都北京から世界に感染拡大する、という展開になっています。現在のCOVID-19の感染震源地が中国の重慶であることは広く報じられているとおりです。その上で、ソ連が崩壊して米国一強の世界が出現したことも、冷戦が終了したことも終章で否定しています。私はこの点は理解できませんからパスします。そして、本書が書かれた昨秋の時点では、山中先生の「Xファクター」ではありませんが、何らかの未知の要因で日本はCCOVID-19パンデミックにうまく対応していると考えられていたような気がしますが、本書では日本の対応についてかなり厳しい評価が下されています。いずれにせよ、私なんぞの凡庸なエコノミストは、経済外要因であるCOVID-19次第といいつつ、結局、先行き見通しに取り組むことを放棄しているんですが、さすがに一流エコノミストは先行きについて考えるべきヒントを与えてくれています。その点で、自信過剰(Hubric)という観念論を別にすれば、優れた論考であると私は受け止めています。
次に、川口俊明『全国学力テストはなぜ失敗したのか』(岩波書店) です。著者は、教員養成大学の研究者であり、まさに、教育学などが専門のようです。本書では、2007年度から始まった、というか、再開された全国学力テストが失敗であると結論し、その理由は学力調査の基本的な設計ミスであると指摘しています。すなわち、「指導のためのテスト」と「政策のためのテスト」は違うと指摘し、現状を正確に把握するという観点が欠けていることを理由に上げています。加えて、官僚機構に起因する遠因として、現状を正確に把握して欠点を改善するという発想がなく、無謬主義に陥っている可能性を示唆しています。教育者ながら、私自身は全国学力テストについては詳しくありません。全国学力テストは義務教育の生徒や児童を対象にしているわけですので、大学教員の私からすれば、やや縁遠い関係です。ただ、本書で上げているように、テストには何種類かあるんですが、「指導のためのテスト」と「政策のためのテスト」のほかに、「選抜のためのテスト」があります。まさに先週末の大学入学共通テストをはじめとする受験のためのテストであり、20年ほど昔に私は公務員試験委員に併任されて、当時の国家公務員Ⅰ種経済職試験委員として、公務員試験を作成したことがあり、こういった「選抜のためのテスト」は一部の医大で男女間の不正操作があったとはいえ、国民の間でかなりの信頼を得ていると私は考えています。ただ、本書で取り上げている全国学力テストについては、経済協力開発機構(OECD)が主催するPISAのようなしっかりした設計がなされておらず、どのような能力=学力を計測しているのかがサッパリ判らない、という点につきます。ただ、直感的に判りやすい表現を本書から取ると、「指導のためのテスト」であれば、テスト結果だけでもって判断でき、全員が満点に近ければそれで十分なのですが、「政策のためのテスト」であればテスト結果だけでなく、親の学歴をはじめとする社会的属性といった生徒や児童の学力の背景にある要因を把握する必要があり、しかも、全員が満点であれば困ったことになり、適度に散らばった結果が好ましいといえます。ちなみに、私の経験した「選抜のためのテスト」であれば、学力の背景は不要で、テスト結果だけが重視されるべきなのですが、他方で、全員が満点だと選抜に困るので適度な散らばりがあるように設計する、という中間的なものとなります。いずれにせよ、全国学力テストは本来の目的である教育政策の改善にはまったく役立たず、むしろ、得点競争をあおって、例えば、大阪のようにこの得点を持って学校や教員を評価する、という誤った使われ方をしている弊害の方が大きい、との議論が余すところなく展開されています。
次に、千田理緒『五色の殺人者』(東京創元社) です。著者は、新進のミステリ作家であり、この作品で本格ミステリの第30回鮎川哲也賞を受賞しデビューしています。ということで、高齢者介護施設のあずき荘が殺人の舞台となり、あずき荘で働く20歳代半ばの女性が主人公です。タイトル通りに、目撃者が逃走する犯人の着衣を赤・緑・白・黒・青のバラバラの5通りの色で証言し、その謎解きから始まります。しかも、凶器が見つかりません。高齢者介護施設ですので、当然のことながら、認知症患者も証言者に含まれており、警察の事情聴取も進みませんし、なかなか犯人探しは難航します。そこで、主人公ともうひとりの同じ年代の女性の介護職員が協力して犯人探しに取り組み、もちろん、最終的には謎が解き明かされる、というストーリーになります。ただし、5色の違いが一般的な方法で解消されたといえるかどうかは、ややビミョーなところです。東野圭吾のガリレオのシリーズほどではないものの、やや高齢者の色の見え方に関する専門的な知識が必要とされるような気がします。その点で、ノックスの十戒をクリアしているかどうかはビミョーですが、詳しく解説していますので、あるいは、OKなのかもしれません。色の誤任に加えて、人の誤任も少し反則のような気がします。これは色の誤任よりも反則度が大きいのですが、詳しく展開することは控えます。菅総理の答弁を控えると違って、ミステリですのでネタバレを避けたいと思います。もうひとつは、キャラの設定はそれなりに立っているわけで、まあ、高齢者ですから、ここまでワガママなことをいう人もいるのだろうとは想像しますが、謎解きに関連することがバレバレな場合もあって、その点は未熟な描写ともいえます。ただ、謎解きに関するキャラとそうではないキャラを、うまくごまかしながら設定するのであれば、ミスリードにはうってつけかもしれません。いずれにせよ、色の誤任も、人の誤任も、言葉のトリックである点は同じで、うまくミスリードされたと感じる読者がどこまでいるかは不明です。おそらく、言葉のトリックに対しては、作品の評価低くなる可能性の方が高そうな気もします。第2作が期待できるかどうかについては、ぞうも、私は次回作はパスするのではないか、と思います。
次に、エノ・シュミットほか『お金のために働く必要がなくなったら、何をしますか?』(光文社新書) です。基本的に、ベーシックインカム(BI)に関する本なんですが、ほとんど、というか、まったくのように経済学のお話は出てきません。一部に直接民主制を取るスイスに置いてベーシックインカムを求める国民投票が実施されましたが、著者代表で上に名前を上げたシュミット氏はその国民投票を実現させた1人であり、スイスのアーティストです。ということで、経済学的な意味ではなく、ベーシックインカムをどのように捉えているかというのが本書のタイトルとなっています。昨年暮れの2020年12月27日に、ご寄贈いただいた松尾匡『左翼の逆襲』(講談社現代新書) を取り上げましたが、その帯に「人は生きているだけで価値がある!」と記されており、かなり近い物があると私は受け止めています。ベーシックインカムについては単に左派だけでなく、政府介入のミニマイズという観点から、リバタリアンや右派からも支持があります。昨年、ツイッターで竹中平蔵教授がベーシックインカムに賛成するツイートをしたのを見た記憶が私にもあります。ただ、その直後に、共産党の志位委員長がベーシックインカム反対のツイートをしたのには失望させたれました。共産党の内部でどこまでベーシックインカムについて議論されているのか私はまったく知りませんが、委員長のツイートに忖度する党員はいっぱいいそうな気がして、やや心配です。それは別にして、「働かざる者食うべからず」という昔からの道徳律に反して、人間としての能力を全面的に開花させるための所得の基礎という意味で、私はベーシックインカムに賛成ですし、今までのいくつかの社会実験の結果からもベーシックインカムが勤労意欲を大きく損じることはないと証明されています。ただ、我が国では、というか、世界各国でも同じなんでしょうが、財政収支に関する誤った懸念から、財源問題を解決した上でないとベーシックインカムが実現できないと考える向きは少なくないものと想像しています。本書はその懸念に応えるものではなく、財源よりもベーシックインカムの効果の方に着目しているわけですが、広くベーシックインカムに関する議論が展開されることは私も大賛成です。願わくは、私のように財源論を無視してでもベーシックインカムを採用する見方も広がって欲しいものです。いずれにせよ、経済的な観点ならざるベーシックインカム論も、とても面白いと感じました。
最後に、スティーブン・グリーンブラット『暴君』(岩波新書) です。著者は、米国の大学のシェークスピア研究者であり、その分野における世界的権威であると紹介されています。英語の原題は Tyrant であり、2018年の出版です。邦訳タイトルはこの英語の原タイトルの直訳のようです。ということで、本書では、シェークスピアの暴君に関する疑問、すなわち、国民の利益ではなく私利私欲に走る暴君に、どうして多くの国民が屈服するのか、どうして、リチャード3世やマクベスのような暴君が王座に上るのか、という疑問です。もちろん、こういった暴君にまつわるシェークスピアの疑問が解き明かされるわけではありません。そうではなく、基本的人権とか、ましてや、言論の自由が確立されていない世界で、暴君に対する批判や避難は命を失うことにもなりかねない社会情勢の中で、シェークスピアがいかにシニカルかつ暗喩に満ちた劇作を続けてきたのか、という点に焦点が当てられています。直接に暴君を批判したり、避難したりすることができないというのは、日本でも同じことであった時代があるわけで、やっぱり、文学作品の中でも劇作に残されています。例えば、あまりにも有名な赤穂浪士の討ち入りは歌舞伎などの伝統劇で残っていますが、時代や登場人物をビミョーに現実とは異なるもので構成し、赤穂浪士の切腹という幕府の仕置きを避難するような雰囲気を漂わせつつ、赤穂浪士の義挙を称賛するような仕上げになっているわけです。他方、シェークスピアの劇もそうですし、赤穂浪士の劇もそうなんですが、本書が見落としているのは、そういった暴君をはじめとする権威筋への批判は、単に劇作家が持っていただけでなく、おそらく、世間一般、国民すべてではないまでも、それなりの影響力ある階層が権威への批判的な見方を支持していた可能性が高いと私は考えています。ですから、そういった暴君や権威筋への批判の雰囲気を持つ劇が大衆から支持され、客の入りもよかったんではないか、と私は想像します。シェークスピアの作品を作家のシェークスピアだけで完結させるのはムリがあります。その劇を楽しんだ客、たぶん、一般大衆ではなく、中間層から少し上のアパーミドルかもしれませんが、そういった芝居の客層も含めて、暴君や権威筋への批判や避難を考える必要があります。その意味で、少し物足りない論考だった気がします。
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