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2021年4月10日 (土)

今週の読書は経済書2冊と新書2冊の計4冊!!!

今週の読書は、ネット経済の中で巨大な独占企業を形成しているGAFA、特に、インターネット広告の過半を両社で独占しているGoogleとFacebookなどの経済活動について批判した経済書と、まったく逆に、大企業の経済活動を徹頭徹尾擁護したリバタリアンで脳天気な経済書、ほかに、新書を2冊の計4冊です。ほかに、新刊書ではないのでここでは取り上げませんが、柳美里『JR上野公園口』(河出文庫)を読みました。ご案内の通り。英訳版 Tokyo Ueno Station が、TIME 誌の2020年の必読書100選に選ばれ、米国の文学賞である全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞しています。なお、今年に入ってからの読書は、新刊書読書としてブログにポストした分で1~3月に56冊、4月には今日の分までで8冊、計64冊となっています。新刊書読書以外の分は除外しています。

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まず、マシュー・ハインドマン『デジタルエコノミーの罠』(NTT出版) です。著者は、訳者解説によれば、米国ジョージ・ワシントン大学の研究者であり、インターネットの政治学を専門としています。英語の原題は The Internet Trap であり、2018年の出版です。著者は、冒頭で本書は関心経済=アテンション・エコノミーの本であると宣言し、次のコーエン教授の大企業擁護本と違って、インターネットやデジタルの世界では規模の経済が大きいために独占や企業から顧客への支配が生まれやすいと結論しています。ですから、インターネット上の広告収入はGoogleとFacebookでほぼ⅓を占めています。加えて、スイッチする切り替えコストが大きいためにロックインが生じ、その分、非効率となってしまう可能性が高くなります。逆から見れば、インターネット普及の初期に期待されたように、参入障壁が低いことから大手メディアの独占を崩して、ブログやSNSの個人でも参入できる零細なメディアが多数生まれて、発信者がすべて平等という意味で、経済学でいえばスミスの完全競争市場のようなメディアの選択肢の拡大が生まれる、との希望的観測は幻想に過ぎなかった、ということになります。現実に、GAFAが超巨大企業となり、本書では取り上げられていませんが、こういったシリコンバレーなどのIT企業が米国を始めとする政府や議会に大規模なロビー活動を行っていることも事実です。ある意味で、政府や議会の決定に影響を及ぼしているわけです。メディアの世界では、関心=アテンションはごく少数のサイトに集中してしまい、個人サイトどころか地方メディアのサイトすら関心を引きつけられないという現実が明らかにされています。最終第8章では、最後にある第8章に、次のような一節がある。「つまり、「インターネット」について述べるときの問題は、インターネットが1つではなく、2つあるということだ。最初のものは、実際に存在して私たちのほとんどが日々、いや途切れなく使い続けているものだ。第2のものは、ここでは空想のインターネットと呼ぼう - 理想化され、フィクション化され、現実的なものとして扱われるインターネットで、通信と経済生活を民主化していると「だれもが知っている」存在だ。」(p.252)として、民主的で発信者が平等なインターネットの世界というのは、結局のところ、幻想に過ぎなかったと結論しています。そして、これを商用に大規模に利用して巨大な利益を上げているのがGoogleとFacebookであり、政治的なプロパガンダに利用したのがケンブリッジ・アナリティカとトランプ全米国大統領、といえるのではないかと私は考えています。経済や市場が歪められるのと同じように、政治や民主主義が歪められる可能性を十分に警戒すべきである、という警告を発する書といえます。

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次に、タイラー・コーエン『BIG BUSINESS』(NTT出版) です。著者は、米国ジョージ・メイソン大学の経済学研究者です。英語の原題は邦訳タイトルそのままであり、2019年の出版です。ということで、前書の冒頭にも書いたように、本書はインターネット企業を含めて、世間で悪者視されている大企業を擁護する目的を持っています。ビジネスの生産性が高くて、大量の従業員を高給で雇用し、場合によっては、日本でもそうですが、健康保険などの政府が担うべきインフラも肩代わりする存在として大企業を描き出そうと試みています。加えて、大企業CEOの報酬が高いのは、そういったマネジメント能力を持つ人材が希少なためであり、決して問題とはならない、とか、シリコンバレーの巨大IT企業、GAFAなどの独占力は潜在的な参入企業の存在があってコンテスタブルであり、問題となならず、積極的なイノベーションにも取り組んでいる、とか、金融産業は重要な貢献をしているとか、大企業が政治や行政に対する影響力を強めているわけではないとか、かなり眉唾な論点をことごとく企業サイドの見方で反論しています。ただ、おそらく、本書の中に、本書を再反論する根拠が示されています。すなわち、企業と個人のどちらが悪質かという議論の中で、具体的にはp.35に履歴書の少なくとも40%には露骨な嘘が含まれており、76%は事実を飾り立てていて、59%は重要な情報をあえて書かない、と指摘しています。本書は、この中の多数派に入っていそうな直感的な感触を持つ読者は、私以外にも少なくなさそうな気がします。私は良識あるエコノミストとして、多数の苦しんでいる人々の方に味方したいと直感的に考えています。すなわち、ミャンマーのクー・デタについては、詳細な事実を私は把握していませんが、重火器を含めて武装し訓練され、かつ、お給料も払われている軍隊よりも、丸腰で報酬をもらわずに民主化を訴えるデモに参加する多数の国民のサイドを支持したいと思います。加えて、そう考える人が日本人の中で少なくないことを願っています。本書の大企業批判に戻ると、おそらく、専門外なので、あくまでおそらく、なんですが、大企業に対する厳しい見方は、商業的・金銭的に成功する前後の芸術家などに典型的に見られる心情が参考になるのではないか、という気もします。例えば、セザンヌやゴッホは生ある間はまったく評価されなかったわけですが、死後に高い評価を受けています。音楽家ではそういう例は決して多くないのですが、ままあったりします。極めて少数のファンにしか理解できない例えながら、赤い鳥で「竹田の子守唄」を歌っていた時の山本潤子(旧姓新居潤子)と、その後、ハイ・ファイ・セットでヒットを飛ばして紅白歌合戦にも出た山本潤子の芸術性は、私はまったく変わりないと思うのですが、前者の方を尊ぶ感性は理解できなくもありません。といったことではないでしょうか。

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次に、中山智香子『経済学の堕落を撃つ』(講談社現代新書) です。なかなかすごいタイトルです。著者は、東京外国語大学の研究者であり、社会思想史が専門です。専門的にいうと、経済学の歴史を自由と公正の観点からひもといて、最後は、ポランニーからウォーラーステインの世界システム分析にたどり着き、p.192で示されているような3段階論、すなわち、物質文明・日常世界を土台とし、その上に市場経済が成立し、最上層に資本主義が君臨するわけです。ですから、利益を上げる資本主義の世界よりも、日常的に「食べること」を重視する経済学を取り戻そう、というのが本書の趣旨ではないかと想像していますが、私自身の読解力が貧困なために、それほどの自信がありません。逆にいって、かなりアチコチにお話が飛んでいて、そうそうスンナリと読める読者は少なそうな気がします。タイトルもややエゲツない気がします。ただ、私は貿易なんかで「自由貿易」と「公正な貿易」について、誰かの書評で書いたことがあり、少なくとも無条件な自由貿易を支持するリスクがあり、むしろ、公正な貿易のほうが好ましい、と結論したこともあったような気がします。ただ、本書では著者がことさらに世界システム分析の中心と周辺の概念をかなり広範に応用して、資本主義と社会主義・共産主義、帝国と植民地、などなど、対立的な構図に説得力を持たせようとしていますが、私は逆に、書評を書いた時に、公正な自由貿易というものは私も無条件に支持する、と明記して、少なくとも貿易活動においては自由と公正が対立するものではなく、自由かつ公正な貿易というものがあり得る、と示唆しています。しっかりとバックグラウンドで研究を進めてきたというのは引用の豊富さから理解できますし、それなりに共感できる内容ではありますが、もう少しSDGsをはじめとして地球環境問題とか、あるいは、もっと不平等を掘り下げるとか、正義や公正以外の何らかの計測可能な観点が欲しかった気がします。単に、概念的な正義や公正だけであれば、従来から独裁者の得意とするところですし、現在でもミャンマーの軍部は正義を強く主張していそうな気がします。話の最初から正義という観念論で始めているのが敗因だったかもしれません。そういった商業的・金銭的な成功に対する心理的な反感から大企業批判が形成される可能性があるのではないか、という気がするわけです。判りにくい例えで失礼します。

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最後に、八木正自『古典籍の世界を旅する』(平凡社新書) です。著者は、古書店主であり、今もやっているのかどうか、TV番組の鑑定団で鑑定をしていたことがある、あるいは、今もしているようです。本書は古典籍を扱う古書店主の回想録であり、ですから、書画・骨董のうちの前者の書画の文化財的な価値について幅広く論じています。冒頭に、古本と古書と古典籍の違いが説明されてあり、古本はセカンドハンド、古書はオールド、古典籍はレアなのだそうです。私は長崎大学経済学部の図書館の武藤文庫に所蔵されているアダム・スミスの『国富論』の初版本をガラス越しに見学したことがあります。日本語ではいわゆる稀覯本なのですが、これあたりが古典籍に当たるんではないか、と考えつつ本書を読み進みました。ただ、冒頭にもあるように、日本では古典籍といえば明治期よりも前の本であり、手で書き写されたものも少なくありません。当然ながら、『源氏物語』の初版本は当時にはあったのかもしれませんが、今では利用可能ではありませんし、おそらく、多くは書き写されたものであろうと考えるべきです。その場合、コピーを取っているわけではありませんから、書き写す人の趣味によって修正が施される場合があるらしいです。たとえば、私の知る限りは、西洋世界では、それこそ、アレクサンドリアの図書館とか、中世の修道院とかでシステマティックに写本をしていた時代があり、日本でもお経はお寺でシステマティックに写経されているものが少なくありません。本書ではそういった文字の本だけでなく、書画ですから、壺や皿や焼き物は別にしても、絵画のたぐいはいくつか触れられています。もちろん、本ではなく、手紙といった媒体もありなんだろうと思います。本書では、著者が内外のオークションや定期市などで発見した古典籍、時代でいえば、奈良時代から明治時代にかけての写本や木版画、かわら版、直筆手紙といった、骨董的な価値の高い古典籍について紹介しています。ただ、それだけでは紙幅が保たなかったのだろうと想像しますが、著者の人生を振り返って影響を受けた古書店主やコレクターについても幅広く個人名を出して紹介されています。骨董品ですから、その内容が何か歴史の修正を迫るような学問的な価値があるかどうかは問題にされておらず、むしろ、美術品的な価値を主とした解説です。私は途中までしか読んでいませんが、ラノベやコミックの「京都寺町三条のホームズ」シリーズ、あるいは、そういった本やマンガが好きであれば、バックグラウンドの知識として読んでおく値打ちがあります。

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