今週の読書はいろいろ読んで計6冊!!!
今週の読書は、時期が近づいてきたから、というわけではないものの、お中元に関するマーケティング論、また、衆議院調査部の役割を歴代主要内閣別に見た本、話題の小説を2冊に、さらに、認知と決定に関するブルーバックスも2冊の計6冊、以下の通りです。なお、今年に入ってからの読書は、新刊書読書としてブログにポストした分に限定して、1~3月に56冊、4月は今日の分までで18冊、計74冊となっています。ほかに、40年ほど前の出版のジェフリー・アーチャー『ロスノフスキー家の娘』上下(新潮文庫)の感想文をFacebookでシェアしておきました。ゴールデンウィークは行くところもないので、読書と自転車で過ごしたいと思います。そのうちの読書については、私の所属学会のひとつである基礎経済科学研究所の編集になる『時代はさらに資本論』という本をもらっています。基本的に私の専門性ない分野なのですが、『人新世の「資本論」』も読んで批判的に取り上げたこともありますので、ムリのない範囲で少し紐解いてみようかと考えています。
まず、島永嵩子『「お中元」の文化とマーケティング』(同文館出版) です。著者は、神戸大学の研究者です。本書は、著者の20年前の博士学位請求論文を元にしている部分、チャプターがあり、やや時代にアップトゥーデイトでない部分も散見されますが、極めて大雑把にいって、夏のお中元に関する文化をいかにマーケティングでさらに掘り起こすか、という論文です。「お中元」だけが日本特有の視点で掘り起こされる一方で、「お歳暮」はどうなった、といぶかる向きがあるかもしれませんが、年末の贈答という習慣であれば、クリスマスの贈り物が一般に世界で見られ、ここは「お歳暮」が日本独特という文化ではないという見方には私も再生します。第2章で取り上げられていますが、贈答品と自家消費品は、やっぱり、差があると考えるべきなんでしょう。さらに詳しく、儀礼的・義務的な贈答品と自発的な贈答品も少し違う気がします。その上で、「お中元」に限らないものと考えるべきですが、贈答品は、特に、その儀礼度や義務度が上がればスーパーではなく百貨店の比重が高くなるものといえます。ですから、第3章では百貨店に関する研究がサーベイされていて、第4章では百貨店の代表として三越のPR誌から見た中元文化が分析されています。今でいう商品券に当たる商品切手が登場し、現金と同じで汎用性高く、もっとも推奨されていますが、20世紀の明治末年から大正期にかけて、三越らしい服飾品から始まって、石鹸やマッチに至るまで、価格帯別の掲載品がp.81のテーブルに取り上げられており、第4省の結論にあるように、明治期から大正期にかけてはまだ明確には確立されていなかった中元ギフト市場が百貨店によって大いなる誘導が行われたという見方は、私もその通りだという気がします。こういったマーケティング活動を通じて庶民の間に中元贈答文化が広まったのは歴史的な事実なんだろうと思います。ただ、一般的なマーケティング論にある初期のアダプターや遅れたアダプターなどの分類ではなく、本書の著者は、何と、グラムシのヘゲモニー論を援用し、消費者の言説を支配的な位置にある消費者、折衝的な位置、対抗的な位置の3分類を取っており、少しびっくりしました。イタリア共産党の革命家のヘゲモニー論がマーケティングに応用されているとは知りませんでした。ただ、いつもの観点ながら、経済学と違って経営学の場合、景気循環などの客観的な景気の状況よりもマーケティングのほうが重要と見なさんばかりの分析は少し違う気がします。例えば、p.99の広告商品価格の25%トリム平均値を戦後直後の1949年から21世紀初頭の2008年までプロットしたグラフを見るにつけ、1980年代後半のバブル経済期とその後のバブル経済崩壊後から1990年代広範にデフレに入った時期とで、経済状況を勘案せずに価格を同列に論ずるのは、かなりムリがある気がします。でも、繰り返しになりますが、年末ではなく年央に贈答品をやり取りする「お中元」という日本独特の文化のマーケティング論的な視点からの解説は、それなりに面白かった気がします。ほとんど数学的な要素を含まない本なので、一般ビジネスパースンにも判りやすいのではないか、と受け止めました。
次に、平野貞夫『衆議院事務局』(白秋社) です。著者は、大学院卒業後に衆議院事務局に就職して、議長秘書や委員部部長などを経て退官してから参議院議員となり、自民党所属から新生党、新進党、さらに自由党の結党に参加し、最終的に、民主党に合流して引退しているようです。本書では、タイトル通りに衆議院事務局の仕事を単に裏方として議長を支えるだけでなく、憲法に則った国会運営を守るという立場を強調しています。昭和から平成にかけて、具体的には章別に、佐藤栄作内閣「健保国会」、田中角栄内閣「靖国神社法案」、三木武夫内閣「ロッキード事件」、中曽根康弘内閣「死んだふり解散」、竹下登内閣「リクルート事件」、海部俊樹内閣「湾岸戦争」、宮沢喜一内閣「PKO協力法案」と内閣ごとに大きな論争を呼び、それゆえに、国会運営も混乱を来していた舞台裏を明らかにしています。著者がながらく衆議院事務局の職務として前尾繁三郎議長秘書を務めていたことから、その当時の国会運営が詳細に取り上げられています。もちろん、著者の当時の国会運営がそれなりに常識に則ったものであるのに対して、先の安倍内閣や現在の菅内閣の下での国会運営が、まさに、一強時代と呼ばれるように強引を極めているのは、著者が最終的に民主党に属していたからだけではなさそうな気がします。でも、こういった水面下での舞台裏の事情もそれなりに重要性あるんでしょうが、本書にはまったく主権者である国民は現れません。メディアの記者はごく少数現れて政治家の間のメッセンジャーをしたりはしますが、節目の政治情勢がどのように報じられたか、あるいは、報道に対して国民世論がどのような反応を見せたのかは、まったく本書では触れられていません。私はここに大きな疑問を感じます。もちろん、国民の意見を反映するのは選挙を通じた政権交代なんでしょうが、選挙だけではなくメディアの報道を通じて、国民が何らかの反応を示す場合も少なくありません。特に安保法制以来、安倍内閣以来のここ数年の政権は、野党勢力だけでなく国民世論もまったく無視した政策運営を続けており、野党だけが反対勢力なのではありません。決して野党の見方だけでなく国民を視野に入れて、現政権の強引すぎる国会運営に対して批判を続けていかないと、ますます政権の暴走を許すだけになってしまいそうな気が私はしています。逆からいって、現在の政権の暴走を止めるのは野党勢力の責任もさることながら、最終的には何らかの国民のパワーなのではないか、と私は考えています。
次に、アネッテ・ヘス『レストラン「ドイツ亭」』(河出書房新社) です。著者は、ドイツの脚本家であり、この作品は著者の初めての小説だそうです。ドイツ語の原題は Deutsches Haus であり、2018年の出版です。アウシュビッツ裁判を主題にしており、その昔のベルンハルト・シュリンク『朗読者』を思わせます。我が国に当てはめれば、小説ではなく映像作品ですが、「私は貝になりたい」に通ずるものがあります。重いテーマであることは確かです。ということで、主人公は1939年生まれのドイツ人女性であり、小説の舞台が1963年のフランクフルトですので、小説の中では20代半ばということになります。やや下町っぽい地域のレストラン経営者の娘であり、会社経営のお金持ちとの婚約が整うあたりから始まります。このお金持ちとの出会いは主人公の職業と大きな関係があり、ポーランド語の通訳をしていて仕事で見初められたという設定です。なぜか、このフィアンセの父親、先代の社長は共産主義者だったりします。そして、舞台となる1963年にアウシュビッツ裁判が始まります。ドイツの戦犯の国際法廷はニュルンベルク裁判であり、戦勝国がドイツ人戦犯を裁いています。日本でいえば東京裁判になります。そして、本作品の大きなテーマであるアウシュビッツ裁判はドイツ人がアウシュビッツのナチを裁いています。このタイプの裁判は日本には歴史的になかったというべきで、実感を持って読み進むのが難しかったのも事実です。誌人工は、フィアンセや父親の反対意見を押し切ってポーランド人の証人、すなわち、アウシュビッツからの生還者の通訳を務めます。そして、アウシュビッツに旅行したりもします。そうしているうちに、自分の父親がアウシュビッツでコックをしていた記憶を取り戻して愕然とします。両親はアウシュビッツでナチの側にいて、ある意味で、ユダヤ人虐殺に間接的ながら、あるいは、意図しないまでも、加担していたとの思いに駆られます。他方で、アウシュビッツ裁判の初期には被告となっていたナチの加害者について同情的な意見が少なくなかった国内世論も、段々とナチの残虐行為が明らかになるにつれて、加害者としてのナチに対する嫌悪感が広がっていきます。ドイツ人はアウシュビッツ裁判でナチの過去の残虐行為を正当に裁き、過去と向き合ってナチの残党を克服した国である一方で、同じ敗戦国の日本をかえりみずにはおれません。確かに、いつまでも謝罪を要求し続けたり、国際法に反して日本に対する賠償を許容する判決が出たりと、いくつかネトウヨ連中の気に障る点があることも事実ですが、他方で、A級戦犯が総理大臣まで上り詰める国であることも事実です。私にはこの日独の違いをもたらす要因が不明なのですが、この作品を読んで考えるのも一考かもしれません。小説ですから、裁判の結果などを別にすればフィクションなのでしょうが、とても真に迫った緊迫感ある作品です。
次に、西條奈加『心淋し川』(集英社) です。著者は、ファンタジー系から始まって、今は主として時代小説を中心に活躍する小説家であり、この作品はご存じ第164回直木賞受賞作です。私は時代小説は好きな方なのですが、記憶に間違いがなければ、この作家の作品は初めて読んだのではないかと思います。私がよく読む好きなタイプの時代小説というのは、『たそがれ清兵衛』や「居眠り磐音」のシリーズが典型なのですが、世襲の主君は幕府の介入を別途すれば、まったく安定な主君であるのに対して、家老以下の家臣がその安定的な主君を頭にいただきつつも政権争いを繰り広げ、場合によっては武士の表芸である剣術で決着をつける、というものです。本書についてはその類型には当てはまりません。ただ、さすがにとてもいい感触の読書でした。時代小説としてタイプは違うものの、登場人物のキャラはとてもよく描き出されており、最後の短編に至るまでのプロットもよく出来ています。江戸期の表舞台に立つ武士と違った町家の町人、それも、決して恵まれた境遇にあるわけではない下層の町人の屈折した心情もよく捉えられています。ということで、「心」という字を「うら」と読ませていて、この時代小説の舞台は江戸期の千駄木から根津にかけての心町であり、そこは淀んだ川に吹き溜まりのように建ち並ぶ長屋でいっぱいです。基本的に短編集なのですが、共通して茂十という大家=差配が登場します。何者かは、最後の短編「灰の男」で明らかになります。この最後の短編以外の収録短編は、タイトルと同じ「心淋し川」、「閨仏」、「はじめましょ」、「冬虫夏草」、「明けぬ里」となります。6つの短編は、貧しい心町に住む人々について、その屈折した心情や逼塞した生活とともに、個別バラバラに描いているように見えるのですが、実は最後の「灰の男」にすべてが集約されて、前の5編では名前が登場するだけで脇役を演じてきた差配の茂十が一気に中心人物になります。 です。未読の方はご注意下さい。心町に住み着いた楡爺は、ほぼ完全に、当時の用語でいえば耄碌しているのですが、茂十の嫡男を捕物の際に殺害した野盗である地虫の次郎吉である、と茂十は確信し、八丁堀の役人を隠居して心町の長屋の差配を務めて楡爺を見張っているわけです。しかし、楡爺こと次郎吉は捕物の中で次郎吉の倅を茂十の嫡男に殺されており、その仇をとって茂十の嫡男を殺害したことが茂十にも理解され、ともに、茂十と楡爺こと次郎吉は2人ともに倅を殺された仇を持つ者同士、というオチになります。
最後に、鈴木宏昭『認知バイアス』と川越敏司『「意思決定」の科学』(ブルーバックス) です。著者は、どちらも大学の研究者なんですが、教育学・心理学と経済学という専門の違いはあります。でも、ともに、トベルスキー=カーネマンの経済心理学、プロスペクト理論などを応用している部分があり、私はとても興味を持ちました。今週、私は留学生向けに5人ほどの教員がジョイントした大学院の授業の担当が回ってきて、貧困指標について長崎大学のころに書いた紀要論文を基に授業をしており、その冒頭で経済政策決定に関するいくつかのバイアスのお話をしています。特に、経済政策に限定しないのですが、少なくとも認知のバイアスと決定のバイアスがあります。これは一般にも理解しやすいのではないでしょうか。そして、前者の認知のバイアスがそのものズバリで『認知バイアス』から、後者の決定のバイアスは『「意思決定」の科学』で取り上げられています。例えば、確証バイアスというものがあり、ある人の服装について、何度か赤い服を来ているところを見かけると、その人が赤い服が好きだという確証バイアスが形成され、赤い服を着たその人の印象が強く残ってしまうわけです。そして、あまりあり得ないシテュエイションながら、洋服をプレゼントする際に赤い服を選ぶという決定を下しかねないわけです。通常、経済政策なんかの実務について考えると、EBPM=Evidence Based Policy Making (Management) が重視され、キチンとした根拠に基づく政策決定が必要なわけで、この決定の仕組みは、お硬い経済政策なんぞだけではなく、野球選手の選択についても『マネーボール』なんかで議論が展開されているところです。そして、多くのエコノミストは認知バイアスを避けるために、自分自身の観察結果ではなく統計を利用します。これは理解できるところでしょう。そして、決定のバイアスを避けるためには何らかの評価関数が必要となります。ただ、『「意思決定」の科学』の冒頭に明記してあるように、評価はその基本とする公理(axiom)に従って、公理の数だけ真理があるという困った現実があります。私の紀要論文も14の公理に従って6ある貧困指標を特徴つけていたりします。ですから、取りあえず、認知の問題は統計や何らかのアンケート調査などで、誤差は含むものの、個人的な認知バイアスはムリとしても社会や経済で考えるならば解決できなくもない一方で、決定に関しては公理を選択するという決定もありますので、私にはなんとも悩ましいところです。ですから、行動経済学というのは私には不可解な分野なのですが、逆に、実験経済学というのはデータを収集するだけでなく、マクロ経済のコンポーネントである企業や家計あるいは個人の行動や決定の基本となっている評価関数を知る上で有益ではないか、と考えなくもありません。
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